302 予言⑤
三つの呪いが追ってくる。一番強力な精霊人の呪い。マリンの慟哭に、突然現れたという由来不明の闇の騎士。混じりあった瘴気は黒雲となり、帝都の空を侵食していた。
宝物殿には実体のない幻影なども存在するが、ティノはそういったものと戦ったことがほとんどなかった。もうちょっと…………いや、もうかなり弱かったらいい経験だと言えたところなのだが、今回は許容をめちゃくちゃにオーバーしていた。
ますたぁ、私を買い被り過ぎでは? 私はちっぽけな塵芥のような存在で――というか、あのエセイケメンで倒せないものを私がどうにかできるわけがないでしょう、ますたぁ!
必死にカーくんをコントロールしながら、ぶらぶらしているマスターを見る。
マスターはこんな時にも余裕の態度を崩していなかった。
何かティノには想像もつかない策でもあるのだろうか? いつだって、そうなのだ。死にそうな目に遭って、ぎりぎりでどうにかなっている。だが、わかっていても怖いものは怖いのだ。死線というのはそう頻繁にさまようものではないと、ティノは思う。
アーク達がなんとか彼らを倒してくれるのではと一縷の望みを抱いていたが、どうやらさすがの勇者でも不可能なようだ。そもそも、耐久の高い、結界も効かない、脇目も振らずにマスターを執拗に追い続ける相手など、どうしようもないだろう。
「人気者は辛いよ」
「ますたぁ、また……姿がッ!」
教会の門。その上から黒い固まりが見えた。固まりがぐにゃぐにゃと蠢き、また形が大きく変わる。
精霊人は森の守護者の異名を持っている。人間では滅多に立ち入れるような所ではないが、大森林の奥にある精霊人の街では精霊人は様々な動植物と友誼を結び、その力を借りて森を守護しているらしい。
精霊人は余り自分達の事を話さないが、伝承によると優れた森の守護者は魔物からすら力を借り侵入者を撃退すると言う。もしかしたら、力を借りるというのは魔法で変身する事を指していたのかもしれない。
呪いが新たに形作ったのは――竜だった。漆黒の竜。刃を思わせる黒い翼を持った、闇の竜。
大きさは先程の猿よりは二周り程小さいが、何の救いにもならないだろう。あのフォルムは――空を飛ぶフォルムだ。上には黒騎士とマリンの慟哭を乗せている。あんなもの初めて見た。
「竜です。竜ですよッ!」
「…………飛びそう?」
そりゃ飛ぶだろう。竜なんだから――しかも、呪いが変形した姿ではあるが、温泉ドラゴンのようなふざけた竜ではない。
瘴気が呼んだ暗雲の中、闇の竜が大きく翼を広げ空を飛ぶ。まるで世界の終わりを想起させる光景に、帝都中から悲鳴が上がる。これ、もしも仮に無事、騒ぎを収めたとしても取り返しがつかないのでは……。
帝都を守る騎士達の姿も見えるが、どうしてだろうか、明らかにいつもよりも数が少なかった。そもそも地上からの攻撃であれを落とすのは難しそうだが――。
もしも仮にマスターが目論んでいる神算鬼謀が失敗してマスターがやられたとしても、あれの怒りは決して収まらないだろう。帝都の命運は今、間違いなくマスターが握っていた。
ティノもできることをやらなければ――。
「ますたぁ、どこにお届けしますか!? 絶対に、私が、ますたぁを運びます」
「お? あれ、シトリーじゃない?」
「え!? あ――」
マスターの指差す方を見る。ちょうど、大通りから外れた場所にある無骨で大きな建物からシトリーお姉さまが出てくるところだった。
頭がすっぽり入るような無骨なガスマスクをつけているので分かりづらいが、間違いない。一緒にいるのは同じプリムス魔導科学院の錬金術師だろう。
掴んだ手でカーくんを操作しながら記憶を漁る。
あれは何の建物だったか……そうだ。確か、あそこにあるのは、帝都地下下水道への入り口のはずだ。
迷路のように張り巡らされているという恐ろしい下水道の入り口で、魔物なども生息していて定期的に事故が起こっているらしく、ティノも子どもの頃はとても怖かったのを覚えている。
滅多に立ち入る者のいない場所だ。一体シトリーお姉さまは何の用事であんな所に……。
ともあれ、マスターの指示に従い、カーくんを側につける。
突然絨毯に乗って現れたティノとマスターにシトリーお姉さまは一瞬目を見開いたが、ガスマスクを外すと、すぐに花開くような笑顔で言った。
「クライさん、ちょうど良かったッ! 今、地下下水道の生態と水質の調査をしていた所なんですッ! そこで素晴らしい発見があって――ストロベリー・ブレイズの実験もしたいんですが……」
「ふん…………色々、言いたい事はあるが、後にしてやろう。今は支配薬の効果確認が先だ」
汗まみれで絨毯に乗ってきたティノと、ぶらさがってやってきたマスターを見てこの態度。何かに熱中すると我を忘れるのは、錬金術師全員の特性なのだろうか?
すぐに呪い三点セットがやってくるというのに――。
「お、おう?」
突然のシトリーお姉さまの大歓迎に、マスターも目を丸くして言葉を失っている。
さぁ、ますたぁ。言ってください、シトリーお姉さまに、あの呪いをなんとかして欲しいって!
シトリーお姉さまは一瞬ジト目でティノを見ると、こんな状況でも緊張感のないマスターの腕を抱きしめた。どうやらティノがマスターと一緒にやってきたのが気に入らなかったらしい。だが、あの必死なティノとぶらぶらしているマスターを見てデートに見えるならシトリーお姉さまの目は節穴だ。
そして、シトリーお姉さまは満面の笑みを浮かべて言った。
「予想通り、ポーションの方は希釈されて効果を失ってしまったんですが、都市伝説を、発見したんです! きっとクライさんも気にいると思います。地下下水道に、ドラゴンがいたんですよ、下水ドラゴンです! ストロベリー・ブレイズの効き目が本当なら、クライさんの言うことを聞くはず――」
げす……下水……ドラ……ゴン???
後ろから呪いの咆哮が上がり、初めてシトリーお姉さまが空を見上げる。後ろからは死を形にした漆黒の竜が迫ってくる。
聞き慣れない単語に凍りつくティノの目の前で、マスターが何か思いついたようにぽんと手を叩いた。
………………本気ですか、ますたぁ……。
§ § §
その余りにも愚かな考えに、失笑よりも先に苛立ちがきた。
この精霊人に対して別種の呪いをぶつけようとは、本当に、遥か昔から、想像を絶する程、人間は愚かだ。だが、特にあの男はその人間共の中でも特に愚鈍のようだった。
そもそも、男が解放してけしかけようとした二体の呪念は強力だが、真っ向から戦ったとしても、ソレには敵わない。
その二体の呪いは明らかに力を減じていた。ソレの見立てでは、恐らく、その呪いはごく最近までもっと強力な念だったはずだ。
二つの呪いが共にまとまった結果、怨嗟が、失われかけているのだ。
騎士が女の前に立ち守っていた事からもそれは明らかだった。呪いというものは基本的に、念を向ける対象がなくなれば、悔いがなくなれば、力を失うものだ。それは、呪いの浄化のアプローチの一つでもある。
殺さずに仲間に引き入れたのは、呪いがソレにとっての攻撃の対象ではなかったからというのもあるし、ここに至って未だほとんど恐怖している様子もないあの男に己の愚かな策の結果を見せつけるためでもあった。
そして、それは半分成功し、半分失敗した。男は驚いていたが、恐怖してはいなかった。
あまつさえ、仲間がいる教会から絨毯で飛び去っていった時にはソレもさすがに動揺して一瞬足を止めてしまった。
まだこの教会での方が勝算はあったろうに、勝負を捨てたのかあるいは何かまだ策でもあるのか。
有象無象の相手は後だ。確実に、滅ぼす。逃しはしない。
あの男より余程手こずりそうな者も大勢いたが、今は相手をしている暇はない。
絨毯に乗って高速で飛ぶ男を、こちらも翼持つ者に姿を変え、新たに従えた呪い二体と共に追いかける。
女の方の呪いはどうやらあの男を殺すことには気乗りしなさそうだった。
相手に余りにも覇気や戦意がないためか、あるいは憐れまれでもしたのか。
凡庸だ。余りに凡庸な精神だが、一切の無抵抗を貫くのが、呪いに対する最善の策である事も、ままある。
だが、そんな事はどうでもいい。咆哮をあげる。
あの男に、破滅を、その人生に呪いあれ、と。
この苛立ちは間違いなく指輪の力の一部だろうが、そもそも精霊人の生み出した指輪を人間の男がしている時点で断じて許される事ではない。
男が、無骨で古びた建物の中に駆け込む。愚かだ。余りにも、愚かだ。人間そのものだ。
教会の結界すら無意味なソレに対してその程度の家屋で身を守ろうとは――一息で吹き飛ばそうとしたその時、不意にソレは地下から集まってくる無数の生命の気配に気づいた。
大きいものもあり、小さいものもある。虫、小動物。それらの気配に混じって――大きな命の輝きも。
不意に、建物が震え、金属製の門が弾け飛ぶ。
門をくぐり現れたのは――汚らしい灰色の肌を持った、一匹の竜だった。汚水で鍛え上げられた体皮に、棘のついた背。その目は長い間闇の中にいたのか劣化し、光を捉えていない。
後ろには森でもよく見かけたネズミやコウモリ、子鬼など、無数の生き物が続いている。
地下か。地下に住み着いた動物や魔物を、操っているのか。一体如何なる術で――。
「いっけええええええええッ! 下水ドラゴン!」
建物の中から、男が叫ぶ。叫んでいるのに、その声にはまるで戦意がない。
一体何のつもりなのか。戦いになど、なるわけがない。だが、その目論見に乗ってやるのも気に食わない。
魔物や動植物との対話は精霊人の十八番だ。
ソレは大きく身を翻すと、姿を元の生前の姿に戻す。足場を失った二種の呪いが地面に着地する。
本能で力量差を感じ取ったのか、ソレと二人の仲間を見て、汚水に塗れた竜は圧されたように一歩後退った。




