300 予言③
滅ぼさねば。ソレの根幹にあるのはその使命を果たす事、唯一つだけだった。
意識はある。かつて生きていた頃の記憶も。だが、それは現象となるほど強大な感情を前に、路傍の石のようなものだ。
重要な事はただ一つ。精霊人の女王が古くから持つ責務を果たす事。
太古から精霊人の住む大森林。そこに、敬意も信条もなく土足で踏み込んでくる侵入者から同胞を守り、人間を撃退する。
それは紛れもなく人間との生存競争だ。敗北すれば種は滅亡するか、人の奴隷となるだろう。精霊人の女王が持つ大いなる力はそれを回避するためにある。
長き静寂の時を経て目覚めたその時、そこは敵対種に溢れる信じられないくらい巨大な街だった。ソレの知覚の許す限りどこまでも、巨大な家屋が立ち並び、数え切れない程の生命がいる。
その総数たるやソレが治めていた森の精霊人達を十倍しても足元にも及ばない。
だが、相手が喩えどれだけ強大でも、どれだけ数がいても、ソレのやる事は変わらない。これまでの記憶が呼び起こされ、殺意に、呪いに火を付ける。
戦いの中で、何人もの同胞が倒れ、何人もの敵対種を下した。幾つもの悲劇が生まれ、幾つもの誓いが生まれた。
一人でも多くの敵を殺し、一人でも多くの仲間を救う。血で血を洗い、悲劇を悲劇で埋める。恐怖は恐怖を生み、怨嗟は連鎖する。長い年月の間、繰り返したように。もはやその事実に心を痛めるような余裕は存在していない。
いつも通り、肉体には収まらない怨嗟と殺意で街を押し流そうとしたその時、ふいにソレは『意識』を取り戻した。
本来ならば、長い戦いの歴史の中、同胞を数え切れないくらい殺した敵対種の殲滅に勝る事など存在しない。だが、とても『癇に障る』何かが、強制的にソレの思考を引きつけた。
初めての経験に、それまで滅ぼす事のみに割かれていた思考に理性が戻る。
極めて効率的に殺すために変化した形から元の姿に戻されたそれの目に入ってきたのは――ぱっとしない男の姿だった。
何の変哲もない青年期の人間だ。その立ち振舞は戦士からは程遠く、本来、ソレが意識して見るような相手ではない。
虫けらのように踏み潰して、踏み潰した事にすら気づかない。そんな相手のはずなのに――何故だろうか、それを見ると無性に苛立ちが湧いてきた。
誰よりも先に滅ぼさねばならないと、ソレの奥底に燃え盛る殺意が囁いていた。
目の前の青年を殺す事は百万一千万の人間の死に匹敵する、と。理性ではそんなわけがないとわかっているはずなのに、優先度は街を滅ぼすことであるとわかっているはずなのに――襲わずにはいられない。
いや――これは、この感情は、指輪の力だ。こうも感情を掻き立てられる原因は、その指輪だ。かつてソレの仲間もつけていた、『呪い』を制するための道具。
どうしてここにあるのかわからないが、理由はわかった。完全に理解した。わかった。全て把握した。ソレは安心した。
本能のままに放たれた攻撃が、その青年の目の前で弾かれる。
理解した。だが――関係ない。対処を考えるなど、迷うなど、我慢するなど、まどろっこしい事をソレはしない。
連続で攻撃をしかけようとしたソレに対して、青年が逃げ出す。奇妙な絨毯にぎりぎりで引っかかりぶらぶらひらひら揺れるその男は、まるで餌のようだった。
絨毯からぶらぶらしながら青年が高速でソレから遠ざかっていく。無数の人間が、殺すべき存在が、全く状況がわかっていない様子でそれを見上げている。
いい。この街を滅ぼすのは、後だ。
理性が己を罵っている。ああ、何ということだ、精霊人の女王。誇り高き精霊人の守護者があのような道具に騙されるとは。しかも、全てわかっているのに――余りにも愚かだ。
頭ががんがん痛み、燃え盛る殺意が肉体を変質させる。そして、ソレは呪いとなって以来、久しぶりに言語を出した。
「うぅ…………コ、コロスッ! ニガサナイッ! ゼッタイニッ!」
§ § §
もはやティノの精神は風前の灯だった。連続で発生する予想外と無茶振りは、いくら『千の試練』を経て成長しても慣れる事がない。
アレは間違いなくこれまで皆に課された千の試練の中でも最悪だ。立ち向かう気にすらなれない、災害だ。
いくら強くなったとしても人間には人間の領分がある。あの力はその範囲を軽々と越えていた。
最後に見せた悍ましくも美しいビジョン。精霊人の証である耳。恐らくあれはかの有名な、精霊人の女王が生み出したという人を殺す呪いだろう。
マスターは半端な試練を課したりはしない。ティノは、その時、その瞬間、その事をはっきりと思い出した。
手を引かれたり攻撃からかばわれたり色々したが、今回ばかりは喜んでいる余裕などなかった。あれはティノを眼中においていない。それはつまり、ティノなど掠っただけでも死ぬという事だ。
右手で絨毯を掴み、左手でマスターの手を握る。訓練が功を奏した。
いや――きっと、これは確認だ。マスターが何も考えずにラウンジから飛び降りたりするわけがないから、ティノがちゃんと落ちるマスターをキャッチできるか試したのだ。紛れもなく鬼である。
ティノは余裕があったらしくしく泣きたかった。だが、余裕がないので、必死に呼吸をして、止まりそうになっている心臓を働かせる。
絨毯は軽々と空高く飛ぶが、全く安心できなかった。ぶらぶらぶら下がりながら、マスターが下から声をかけてくる。いつも頼もしい余裕の表情が今は少しだけ憎い。
「ティノ、大丈夫? 重くない?」
「え? な、何言ってるんですか、これくらい重いはずないでしょう、ますたぁッ!!」
「え……あ……うんうん、そうだね」
ティノはお姉さまに鍛えられているのだ。マスターならば後十人くらいいても余裕である。だから試練はもういいんですよ、ますたぁ……。
絨毯が高速で空を飛ぶ。残念ながら上に乗せてもらう余裕はないようだった。なくて、いい。それであれから逃げられるのならば。
ぶらぶらしながら高速で飛ぶティノとマスターを、街の人々は興味深げに見上げていた。そんな事するよりも避難するべきだと、ティノは思う。
あの呪いが見せた憎悪は並大抵のレベルではなかった。マナ・マテリアルを吸収したティノでも相手にならないのだから、一般市民などそれこそ蟻のように踏み潰されるだろう。だが、どうしようもない。今ティノができるのはマスターがそういう人ではないと信じる事だけだ。
ますたぁがほっとしたのか、大きく息を吐きのんびりと言う。
「光霊教会にお願い。なるはやで」
…………なるはやでアレをなんとかしてください、ますたぁ……というか、なんとかなるんですか!? なんとかなるんですよね!?
そもそも、ティノとしては、光霊教会でも流石にあれは無理な気がするのだが……あれをどうにかできたらきっとレベル10だ。
今日はマスターとデートの予定だったのに、とんだデートになってしまった。一緒におでかけしても賊に誘拐される程度で済んでいた昔が懐かしい。
「撒いた?」
マスターがリラックスした表情で短く聞いてくる。高速飛行しながら空中でぶらぶらしているのに偉い余裕だ。
というか、ますたぁ……私の手、握ってなくないですか? 私しか力を入れていないような……。
口に出そうになった言葉を飲み込み、遥か向こう、クランハウスを確認する。カーくんの速度はかなりのようで、もうクランハウスは尖塔しか見えて……見えて――。
「…………へ、変身してます。追ってきますよ、ますたぁ!?」
「へ!?」
手足の長い、黒い猿のようなものがクランハウスをよじ登っていた。
全長は尖塔のサイズから比較して数十メートル。爛々と輝く大きな瞳は騒いでいる市民達には興味すら示さず、絨毯にぶら下がり高速移動しているティノ達をじっと捉えている。
いや、ティノ達ではない。ティノは、視線を感じていない。
きっとアレが見ているのは――マスターだけだ。今思えば、クランマスター室でもアレが攻撃をしてきたのはマスターだけだった。
もしやあれの狙いはますたぁなのでは……? 私はあの場で放置されていてもきっと襲われていないはずで――いやいやいや!
首をぶんぶん振り、信仰心を取り戻す。
そもそもマスターが襲われているのは、ティノがあげた指輪のせいなのだ。マスターは全て想定通りとか言っていたが、想定通りだったとしてもティノがきっかけとなっているのには違いない。吐きそうです、ますたぁ……。
「変身!? なんで!?」
「ただ、ただ魔が差しただけなんです……ますたぁ」
「魔が!? 魔が差すと変身するの!?」
確かに、ティノも魔が差して仮面を被ったりすると変身を……いやいや、そういう話じゃない。
視線を戻すと、巨大な猿はその両手両足を使って屋根を飛び移りこちらに向かってくるところだった。帝都の町並みを足場に凄い速度でこちらに向かってきている。見た目程重くはないのか、踏み台にされた建物も全く崩れていない。
身軽に移動する怪物に気づいた市民の悲鳴が波のように押し寄せてくる。だが、屋根を足場にしている限り人々が踏み潰される心配はないだろう。問題はティノ達を許してくれそうにない事だけだ。
その目には強い憎しみがあった。あの箱から吹き出した煙にも殺意は見えたが、まるで広範囲に広がっていたそれら全てが濃縮されているかのようだ。
慌ててカーくんにリクエストする。
「もっと速く飛んで、カーくん! 光霊教会へ!」
「ティノ、カーくんは人の言うことなんか――」
カーくんの速度が更に加速した。まるで風になったかのようだ。マスターと一緒にカーくんに乗って帝都を観光できたらさぞ楽しかったに違いない。
だが、猿の動きは更に速かった。目測だが、少しずつ距離が縮まってきている。
基礎性能が違いすぎるのだ。空を飛んでこないだけマシだと思うしかない。
遠距離から反撃なりなんなりして足止めしたいが、ティノには遠距離攻撃の手段はない。マスターに早口で伺いを立てる。
「駄目です、マスターッ! 加速しても追いつかれますッ!」
「そ、そう……………………で、でも、大丈夫だよ」
マスターは何故か少し意気消沈していたようだが、顔をあげると絶望的な状況を忘れさせるような、悪く言えばティノを不安にさせるような、そんな笑みを浮かべた。
「もう光霊教会に着く。全て僕の作戦通りだ。後は……アンセムがなんとかしてくれる!」
そ、それは作戦とは言わないんじゃ――ア……アンセムお兄さま…………頑張ってください。
マスターの言葉通り、光霊教会の建物が見えてくる。アンセムお兄さまに合わせて建てられたという巨大な門に、城を思わせる白亜の壁。
光霊教会は癒しの専門家であると同時に、呪物の専門家でもある。聞いた話では、教会の多くは頑丈な建物になっているらしい。特に大きな教会だと持ち込まれた危険な呪物を幾つも抱えるため、その警備は本当の城並だと聞く。
ちょうど教会の前にいた光霊教会の神官達が絨毯で近づくティノを見て目を丸くし、続いて後から追ってくる明らかに呪いの産物である猿を見て顔色を変える。
慌てたように常駐の聖騎士が何人も表にわらわら出てくる。迅速な動きだったが、あの呪いを前にすると余りにも頼りない。
何しろ、大砲を打ち込んでもダメージはなさそうだ。
と、そこで門から甲を外した姿でアンセムお兄さまが出てきた。ぶら下がりながらマスターがぶんぶん手を振る。
「アンセム、後はよろしく!」
ティノはその時初めて、いつも泰然としているアンセムお兄さまの表情が僅かに引きつるのを見た。
彼我の差、十メートル程のところまで迫った猿が、大きく跳び上がる。カーくんが急上昇し、塀の上から教会の中庭に滑り込む。
話に聞いていた浄化待ち状態の『マリンの慟哭』の横を通り過ぎる。
そして、黒猿が大きく振り下ろした腕が、ティノ達が乗り越えた塀を易易と突き破った。




