290 マリンの慟哭③
場内にはぴりぴりと緊迫した空気が漂っていた。
敷かれた奇妙な魔法陣に、それを中心に取り囲んだハンターや騎士、神官達。見積もりを大きく超える戦力を集めたにも拘らず、その表情に油断はない。
先程まで下できゃーきゃー言っていたクリュスも既にラピス達と共に魔法陣に向き直っている。
何を警戒しているのかはわからないが、皆の真剣度合いがこの浄化計画の危険性を示していた。その様子を高い飾りの上で足をぶらぶらしながら眺めつつ、ハードボイルドな笑みを浮かべる。
僕がわざわざルシアに頼んで門の飾りの上に乗せて貰ったのは文字通り高見の見物を決め込んだというのもあるが、ここが一番目立たないからだ。地上は流れ弾がくるかもしれないし、ルシア達の近くにいて浄化の邪魔するのも気が引ける。
積層結界魔法陣は地面に描かれた平面魔法陣とそれを囲む十三本の柱により成っていた。
どうやら柱に術式を刻む事によって立体構造を成しているらしい。柱は一抱えもある太いものでそう簡単に崩れたりはしないだろう。隙間はアンセムが通れるくらい広いものの、俯瞰してみるとその魔法陣は牢屋のようにも見えた。
「大それた儀式だなぁ……」
よきかなよきかな。そう言えばアンセムやアークの戦闘風景を見るのは久しぶりかもしれない。
神父さんの指揮の下、魔法陣の真ん中に鎖でぐるぐる巻きにされた物々しい箱が配置される。
僕はスマホを取り出すと、その光景をぱしゃりと一枚撮影し、妹狐に送りつけた。
呪物なう、と……。
「それではこれより、『マリンの慟哭』の浄化に入ります。皆様、手はずの通りに」
不意に魔法陣の前に立つ神父さんがこちらを向き、目と目が合う。僕は意味ありげに意味のない笑みを浮かべ、アンセムがいつもお世話になっていますの気持ちを込めてこくりと頷いた。
神父さんが目を丸くする。柱の回りを取り囲んだ神官の皆さんが揃った動きで腕を上げる。
その時、僕は確かにその魔法陣を中心に迸る力の波動を感じ取った。
魔法陣を構成する柱同士が雷の縄で接続され、奇妙な模様が宙に浮き上がる。魔法陣とは言わば文字を使った魔法だ。それはこんな状況でなければ見入ってしまいそうなくらい神秘的な光景だった。
魔法陣の外では、アンセムがまるで岩のように身じろぎ一つせずに待機していた。
下ろされたヘルム。その視線の先にあるのは、魔法陣の中央でがたがたと震える箱だ。
まるで痛みに悶え苦しむかのように、箱に巻きつけられた鎖ががちゃがちゃと音を立てていた。まだ封印は解けていないはずなのに――その異様な光景に、フランツさんが騎士達に号令をかける。
「総員、構え!」
騎士達が火器を構える。周囲を取り囲む神官たちがまるで合唱するかのように呪文を唱え、ハンター組がいつでも戦闘に入れるように態勢を整える。
既に一触即発の空気。態勢を整えていないのは僕だけだ。
そして、ハードボイルドな笑みを保つ僕の前で、神父さんがロッドを振り上げ、よく通る声で叫んだ。
「『封印解放』」
まるでそれを合図にするかのように、箱を封印していた鎖が一気に弾け飛んだ。
場に立ち込めた清廉な空気が一瞬で侵食された。心臓も凍りつくような女性の断末魔の叫びにも似た悲鳴と共に箱の蓋が開く。
俯瞰していた僕には箱から血まみれの何かが現れるのが見え――るか見えないかというところで、周囲を取り囲む神官達が一斉に祈りの声をあげた。
箱が金色の炎に包まれ、天高く燃え上がる。先程とは比べ物にならない声にならない絶叫が場を揺るがした。
その清廉な炎の輝きに、勢いに、騎士達が、ハンター達が後退る。
計画だと、最初は魔法陣で相手を縛り弱らせた後に本格的な浄化に入ると聞いていたが…………縛る??
その呪いは事前に話を聞いていた通り、女性に似た姿をしていた。似たという表現になってしまったのが目も鼻も顔も髪も身体も全てが黒ずみ崩れかけていたからだ。まさに亡霊のイメージそのものなのだが、僕にはその姿がもともとのものなのか、それともこの炎に焼かれたからなのかさっぱりわからない。
焼かれながらも、具現化した呪いが炎の外に頭を出す。それを見計らったように、アークが剣を向ける。
世界が一瞬確かに止まった。音が、振動が、確かに一瞬消えた。
呪文の詠唱すら聞こえなかった。剣の先から放たれた青白い雷が『マリンの慟哭』を貫く。口蓋が大きく裂け、その長い両腕が苦痛に悶えるように動き、柱同士を結んだ縄に弾かれる。
効果が強すぎる。アンセムが手を下す前に浄化されそうな勢いだ。入念に準備をして張った結界も破られる気配はない。
どうやら戦力過剰だったらしい。クリュスなんて顔をしかめ耳を塞いでいる。
だが、そこでフランツさんが雷の鳴る音に勝るとも劣らない怒鳴り声をあげた。
「油断するなッ! 撃てええええええええッ!」
「殺意高いなあ……」
フランツさんの命令を受け、騎士達が一斉に射撃を開始する。先程のアークの雷撃とは異なる暴力的な轟音が空気を震わせる。
銃声などハンターをやっていてもなかなか聞くものではない。プリムス魔導科学院が生み出したらしい火器から放たれる銀の弾丸はまるで嵐のようだった。
秒間五十発の弾丸を放つ火器は相応に反動があるようで、銃口も僅かにブレているがこれだけしこたまぶち込めば精密性など関係ない。
マズルフラッシュと余りに騎士らしからぬ戦いっぷりに目を覆う僕に、フランツさんが何故かめちゃくちゃ楽しそうに叫ぶ。
「ふははははははははははッ! どうだ、《千変万化》ッ! これがゼブルディアの騎士の力だッ!」
いやいや、騎士の力とは呼べないでしょう、これは……。
一応、柱は避けるように放っているらしい。弾丸の嵐がマリンの慟哭をその燃え上がっている箱ごと貫く。
炎に包まれた半透明の身体が弾丸を受け、大きく跳ねる。実体がないので弾丸は完全にすり抜けているが、どうやらダメージはあるらしい。
黒く変色した容貌が苦痛に歪み、全身が露わになる。
その姿は僕の想像とは異なり、完全に人間の女の子のものだった。マリンの慟哭の源となったのがマリンという女の子だという話は聞いていたが、なるほど呪いというのはその源の形を取るらしい。
一見華奢なのに何千何万の人を蝕み幾つもの街を滅ぼしたというのだから、本当に恐ろしい話だ。
てか、やっぱりオーバーキルじゃない?
「弱いものいじめしてるみたいでなんか嫌だな」
「…………リーダー、あれは呪いですよ!?」
まだ手を出していない妹が僕の独り言を聞きつけ、こちらをきっと睨みつける。さすが泣く子も黙る高レベルハンターだ。
近くにいたラピス達も、マリンの慟哭を見てその端正な眉を顰めていた。
「なるほど…………な。人の生み出したものにしてはかなりの強度だ。相当外道な真似をしたと見える」
「……教会がここまで備えるわけだな、です」
ラピスはともかく、甘々なクリュスまでその判断とは……弱いものいじめとか言ってる僕が馬鹿みたいではないか。
そういえば、幻影の中には弱者に擬態して隙をついて来る者もいると聞く。見た目に騙されてはハンターは務まらないのかもしれない。
「へぇ……あれってそんなに凄いの!?」
「………………そうからかうな。貴様程ではない」
ラピスがぞっとするような冷たい眼差しで言う。
…………もしかして今、褒められた?
くだらない事を言っている間に、浄化作業は順調に、余りに無残に進んでいた。
猛攻に晒されたマリンの慟哭がまるでゴムまりのように魔法陣の内部を跳ね回り、結界に弾かれる。
長い時間をかけ、柱までわざわざ運び込んで刻んだだけあって効果は確からしい。これならば用意したあの鎖は使わずに済みそうだな。
「弱っているッ! 効いているぞ、あと少しだッ!」
ハンター部隊の近くにいたガークさんが叫ぶ。騎士と神官の殺意が高すぎてハンター部隊はまだアークしか働けていない。
なんかもう余裕そうだな。そうだ、ここで逆張りしておけば《千変万化》の神算鬼謀の評価に泥を塗れるのでは?
今日の僕は――冴えている。
「ふっ…………それはどうかな?」
「!? ヨワニンゲン、お前いい加減にしろよ、ですッ!」
「いやいや、意外と面白いものを見られるかもしれないよ……?」
「ッ!! このダメニンゲンッ!」
そういえば、まだ《嘆きの亡霊》のリーダーとしての役目を果たそうとしていた頃はよくこんな感じで格好をつけていたっけ。もちろん、格好をつけていただけでその頃も何もかもダメダメだった事は言うまでもないが――。
マリンの慟哭が頭を掻きむしり、その名の如く慟哭の声をあげる。
「――ッ! ――――ッ!」
あらゆる負の感情の凝縮。叫びは音もなく、意味もなく、しかし感情は、殺意だけははっきりと伝わってくる。
その濃度は結界越しでも心胆寒からしめる強さを誇っていた。もしも結界がなければ睨まれただけで心臓が止まっていたかもしれない。
その細身の肉体から漆黒の炎が吹き出す。炎は金色の炎を侵食し、雷を弾き、弾丸を焼き尽くす。
――しかし、数千数万の命を飲み込んだ呪殺兵器も教会の技術の結晶には敵わなかった。
マリンの慟哭が炎を纏いながらもまるで壁でも叩くかのように結界の境界をばんばんと叩く。柱がびりびりと震え、その足元がじわじわと黒く変色していく。だが、黒の炎は積層結界魔法陣から一片も漏れなかった。
これまでの記録から呪物の力を推測したと言っていたが、完璧な計算だ。
黒の炎の勢いが少しずつ弱まっていく。教会の計算通り、長きに亘る封印でただでさえ弱っていたところに追加で攻撃を受け、衰弱しているのだろう。
結界か雷か銃弾か、どれが効いたのかはわからないがこれだけやれば竜だって死ぬ。
十分弱らせたと判断したのか、アンセムの隣で戦況を観察していた神父さんがアンセムに何事か話しかける。浄化の時が来たのだろう。
弱らせるだけならばともかく、呪物を完全消滅させるのはかなり難しいらしい。特にマリンの慟哭程のレベルになると、光霊教会のメンバーが有する奇跡の中でもかなり上位の技が必要になるのだとか。
『マリンの慟哭』の浄化という大役の術者としてアンセムが選ばれた事実を、僕は幼馴染として誇りに思うべきだろう。
アンセムが神父さんに大きく頷き、封印が解放されてから誰も立ち入らなかった結界内部に、初めて足を踏み入れる。
《不動不変》のアンセム・スマートは帝都で最強とされる聖騎士だ。《嘆きの亡霊》は僕以外のそれぞれのメンバーに誰にも負けない強みがあるが、彼の強みはその圧倒的な耐久力にあると言えるだろう。
巨体からくる怪力にタフネス。光霊の力を借り癒しと守りの術を使いこなし、マナ・マテリアルを吸収した彼はあらゆる攻撃を寄せ付けない《不動不変》となった。
その耐久力は純粋な物理攻撃は当然として、魔法も環境の変化も、毒や麻痺などの薬物や病、呪いに至るまで、全てに対して発揮される。
シトリーの毒やルシアの魔法、ルークの剣、リィズのわがまま、エリザのマイペース、僕の雷に鍛えられてきた彼に死角など存在しない。
最凶の呪いを前にしても、アンセムの足取りには一切の迷いも恐怖もなかった。堂々と踏み込んだアンセムに、狂乱していたマリンの慟哭が顔を向ける。
その身を焦がす漆黒の炎が広がりアンセムを襲う。だが、その殺意を形にしたような炎を身に受けてもアンセムは微塵も揺るがない。
呪念を身に受けながらも一歩前に進むアンセムに対して、マリンの慟哭が初めて後退った。
その身に宿る膨大な力を察知したのか。怨嗟をただ振りまき続ける呪殺兵器にも意思は残っていたのか?
だが、終わりだ。積層魔法陣の内部は逃げられる程広くない。
すぐにマリンの慟哭の背後は結界の壁に阻まれる。後退の道を絶たれ一際大きな絶叫をあげるマリンの慟哭に、アンセムが大きな腕を伸ばす。
呪物は十分以上に消耗した。後は教会の奇跡により、この人の醜悪な性によって生み出された哀れな呪殺兵器を浄化するだけだ。
――だけな、はずだった。
アンセムの肩が震え、その伸ばしかけた腕がぴたりと止まる。周囲を取り囲んでいた光霊教会の神官達が目を見開き、息を呑む。
腕を組み意気揚々と指揮を取っていたフランツさんが状況の変化に気づき、目を限界まで見開く。
「ば、ばかな……あれは――一体。いや……いつの間にッ!?」
「…………」
いつの間にか、アンセムとマリンの慟哭の間に、奇妙な物体が蹲っていた。
色は黒。一見ただの固まりのようなそれがゆっくりと解れ身を起こし、ようやくそれが人型である事を認識する。
それは――騎士だった。手も足も身体も頭も影のような黒で出来たシルエットの騎士。
光を吸い込む漆黒はまるで世界に空いた穴のように異様で、未だ光溢れる魔法陣内部で酷く目立つ。
恐らく一番戸惑っているのはターゲット――マリンの慟哭その人だろう。
ただのシルエットだったそれが瞬く間に質感を、凹凸を得ていく。瞬き一つした時にはただの影だったそれは禍々しい黒騎士に変わっていた。
騎士がまるでマリンの慟哭を守るかのように前に立ち、腰から剣を抜く。
積層結界魔法陣を構成した柱が急速に黒で染まる。そこで、神父さんが慌てて叫ぶ。
「未知の力かッ!? 攻撃をッ!」
「撃てッ! 殺せええええええええッ!」
浄化のために停止していた攻撃が再開し、白銀の弾丸が魔法陣内部を薙ぎ払う。
作戦執行にあたり、教会は様々なイレギュラーを想定していた。マリンの慟哭の力が予想外だったパターンや、アンセムが不調で動けないパターン。だが、増援の出現はさすがに想定していない。
そもそも長い間封印されている呪物に味方などいるわけがないし、外部からの侵入者についてはフランツさんの要請で騎士団のメンバーが対策している。
アンセムの巨体はさながら壁のようだ。地上からでは何が起こっているのかは分かりづらいだろう。
だが、奇しくも正門の飾りの上からはアンセムの様子がよく見えた。
神父さんは未知の力とか言っているが、そうじゃない。僕は確かに見たのだ。思わず目を擦る。
あの騎士…………シトリーが持ってきたペンダントから出てきたぞ? …………悪夢かな?
騎士が剣を地面に突き刺す。突き刺した剣の中心から血のような黒い液体が勢いよく吹き上がり、カーテンを作る。
いかなる摂理か、左右から放たれた白銀の弾丸が吹き上がった液体に弾かれる。
フランツさんがぽかんと間の抜けた表情を晒す。そこで、アンセムが咆哮と共に踏み込み、拳を大きく振りかぶった。




