255 武帝祭⑦
何が起こったのか、正確に把握していた者はほとんどいなかった。
武を競う大会に相応しい眼を見張るような試合からの想定外の展開に、武帝祭の場は騒然としている。
毎回武帝祭では大番狂わせが起こるものだし、恨みを持った犯罪組織が出場者を襲うというのはままある事だったが、会場まで侵入してきたケースはない。
武帝祭に出場するのは職や種族こそ多様なれど、一騎当千の英雄ばかり。それらが集う中に現れるとはどれほどの傲岸不遜か。
観客席の外周。試合が行われる場から最も遠く、そして最も高い位置に存在する貴賓席の一つで試合の推移を見ていたラドリック・アトルム・ゼブルディアは状況を正しく認識している内の一人だった。
「狐…………現れたか。よもや、これほどの人数の前に現れるとは――何たる不敵な」
「まさか試合会場に割り込んでくるとは……」
隣で立っていた、《千変万化》が押されていた時は少し嬉しそうにしていた近衛団長、フランツ・アーグマンが真剣な表情で呻く。
『九尾の影狐』は極めて厚い秘密主義が敷かれた犯罪組織だ。昨今は少しずつその実態が知られているが、まだ存在自体を知らない者も大勢いる。
ゼブルディアはそういう意味でかなり情報を掴んでいる方だった。たった二人だが、その手の者の襲撃も回避しているし、調査も内々に進んでいる。
襲撃者の被っている面に、ラドリックが呟く。
「あの男の狐の仮面――あの宝物殿で見かけたものと同じだな」
「やはり、かの宝物殿に縁があるという噂は真実なのでしょう」
前回の会談の道中に遭遇した【迷い宿】は神秘的で、そして本能から恐怖を感じさせる宝物殿だった。
古今東西、神の名を騙る組織は決して少なくない。ゼブルディアがここまでの大国になった理由の一つも、現在、首都を置いている場所にかつて存在していた宝物殿【星神殿】を破壊した事から端を発しているのだ。
狐の名を冠したその組織が迷い宿と何か関連性があるというのは、十分ありえる話だった。
フランツ他、護衛としてついている騎士達の間に緊張が走っていた。同じく隣で観戦していたミュリーナも蒼白の表情で見入っている。
「しかし、あれほどの雷を受けて無傷とは――かなりの腕利きだな」
「何か絡繰があるのでしょう」
場内は砂煙がひどく視界も悪かったが、貴賓席からはある程度状況を窺う事ができた。
クラヒ・アンドリッヒの雷の攻撃は確かにあの狐面にも命中していた。
雷の魔法は英雄の魔法。習得はかなり難しいがそれだけの威力を持っている。クラヒ・アンドリッヒなどという何かの冗談のような名前をしていたが、その実力は確かにこの武帝祭にふさわしい。
そして、しかしその攻撃を受け――狐面は平然としていた。衣装は少々焦げているが、その佇まいからはダメージが見受けられない。
同じく絶対防御を誇ると言われる《千変万化》をも吹き飛ばした攻撃を平然と受け切るとは、それはその実力がレベル8ハンターをも超えている証左と言えるだろう。
「し、しかし、《千変万化》も無傷の様子――」
フランツが反論する。その声には、散々からかってきた《千変万化》に対する感情と、犯罪組織に遅れを取るわけにはいかないという感情が入り混じっていた。
だが、確かに、その言葉ももっともだ。
あの金色の槍を受け一度は倒れ伏した《千変万化》はしかし今、無傷で狐面の前に立っている。
一瞬、クラヒ・アンドリッヒに敗北したと思ったがアレは何だったのか? 狐面の前に立つ瞬間についても、全く見えなかった。
どちらにせよ、今、戦場では手口不明、人間離れした実力者二人が向かいあっていた。
勝ちを譲ったのは策の一環だったのだろう。
クラヒにはすぐさま攻撃を仕掛けた狐面は今、警戒したようにクライを見ている。
「絶対防御VS超回復と言ったところか」
狐面の攻撃は不可視だった。雷でも、炎でもない。砂埃が立ち込めていたおかげで空気の流れで力の一端が垣間見えたが、何もなければ攻撃を察知することすらできなかっただろう。
クラヒはその攻撃に巻き込まれ、クライの後ろに倒れていた。まだその手は杖を握っているし意識も残っているが、手足があらぬ方向に曲がっている。もう戦闘は難しいだろう。
――長い戦いになるな。
その時、警備の一人から報告を受け取っていたフランツが言う。
「陛下、警備の出動を要請しました。が、やはり――人手はそこまでいない、と」
「クリートめ。出し渋ったな」
最初から武帝祭の運営は狐の介入に懐疑的だった。相手の手口があまりにも巧妙だという事もあるし、まだそこまで公に存在が知られていない組織という事もある。帝国とて、今回の襲撃の作戦の全てを把握しているわけではない。
警備の増員も事前に進言したが、どうやら受け入れられなかったらしい。
元々、武帝祭は危険な祭りであり、それなりの兵が動員されていたという事もある。
誰もまだ戦場に割って入っていないのは、クラヒとのあまりにも激しい戦いを目の当たりにしているからだ。
武帝祭に出場を許されるクラスの者は、数を揃えれば勝てるような単純な相手ではない。現に、もしも雷を操るクラヒを取り押さえようとすれば相当な人数の兵が死傷するだろう。
ましてや、相手の手口がわかっていれば対策の取りようもあるが、狐面の攻撃手法は全くの謎だ。
ここがゼブルディアだったら被害を覚悟で兵を用意することもできるが、大国の皇帝とて、他国では連れていける兵の数は限られている。
「連れてきた兵を会場の各所に配置しました。絶対に、逃しません」
「…………よい」
フランツの表情も少し悔しげだ。空から落ちてきたという事は、あの男は空を飛べるのだろう。それを追跡するのはかなり難しい。
連れてきた兵は精鋭揃いだが、あの狐面相手には分が悪いだろう。
「出場者にも協力を要請しました。どこまで動くかはわかりませんが……」
あの狐面を捕らえられるかどうかは、《千変万化》と、出場者達の力にかかっていると言ってもよかった。
高位のハンターはとかく攻撃が大規模になりがちだ。安易に参戦すると邪魔になる可能性すらある。
いつも共に行動をしているパーティメンバーならばコンビネーションも問題ないだろうが、不思議な事に《始まりの足跡》の席にいるメンバー達は静観しているようだった。
その面持ちには不安は一欠片も見えず、リーダーに対して絶対の信頼を持っているのがわかる。
あるいは、迂闊に入ると策が崩れるなどあるのだろうか?
狐面が重々しい声で言う。
「なるほど……不自然だとは、思って、いた。宣戦布告の、イメージとは、違って、いた。お前が、『本物』、か」
「…………」
「だが、手間が、一つ、増えただけに、過ぎない」
《千変万化》は何も言わなかった。ただ、ニヤリと笑みを浮かべる。
構えることもなく、その目はまっすぐに狐面を見ていた。狐面とはまた違った、傲岸不遜な態度。
そして、《千変万化》が初めて口を開く。
「まずは――謝罪させてもらおう。まさか、こんな事になるとは思わなかったんだ」
その目はしっかりと狐面を見ていたが、その言葉は恐らくクラヒにかけられたものだろう。
神算鬼謀でもわからない事があったのか……だが、雷を完全に支配していたクラヒを見れば、勝てると思っても不思議ではない。
「一人でも、二人でも、変わらん。歯向かったことを、悔やみ、死ね」
狐面の声は静かで、しかし底しれぬ憎悪を秘めていた。
《千変万化》はその言葉にしばらく目を瞬かせたが、やがて呆れたような声で言った。
「……そんなに怒らないでよ。僕も悪かった。僕も確かにふざけすぎたけど、言わせてもらうが――そっちの組織体制にも問題はあったと思うよ?」
「!? な……に……ッ!?」
狐面が絶句する。そして――天が瞬いた。
巨大な雷が降ってくる。
空気を揺るがす音。光。規模こそこれまでの雷と同等だったが、その一撃には確かに魂が込められていた。
雷は狐面――ではなく、《千変万化》を貫いた。
予想外の光景に思わず息を呑む。フランツも目を大きく見開いている。
その衝撃に、狐面が一歩後ろに下がる。
だが、《千変万化》は真上からの落ちてきた神の裁きのような雷を身に受け、光の中、平然としていた。
大きく上げられたクラヒの腕が力尽きたように落ちる。
《千変万化》はしばらく沈黙していたが、やがて申し訳無さそうに言った。
「謝るから……許してくれないかな?」
「なる、ほど……偽物とは、確かに、違うようだ。だが――これを見ても、平静でいられるか!?」
狐面の男が、腰から一振りの剣を抜く。その造形に、隣で固まっていたフランツが震え声を上げた。
「馬鹿な……大地の鍵!? あれは――《千変万化》が、持っていたはず」
嘗て国を、文明をいくつも崩壊させたという破壊兵器――『大地の鍵』。文献によるとその威力は大地を、海を、天を割り、既存のあらゆる武具を凌駕するという。
その莫大な必要魔力量故に逆に安全だった宝具はしかし今、《千変万化》によってチャージされているはずだった。
「ッ! フランツ、魔導師に防御魔法の用意をさせろッ!」
とっさに立ち上がり、指示を出す。どうしてあの宝具が敵の手に渡っているのかは不明だが、今考えるべきはそこではない。
あの宝具が狐面の手に渡っている以上、既に避難は無意味だ。誰も状況をわかっていないが、対処が遅れれば全員が死ぬ。
いや、死ななかったとしても、その宝具が効果を発揮すればクリートやゼブルディアはもちろん、この大陸の文明は滅ぶだろう。
このパターンも想定し防御魔法に長けた魔導師も用意してあるが、果たして防ぎきれるかどうか――。
と、その時、会場警備に出していた近衛の一人が息を切らせ、貴賓席に駆け込んできた。
「団長、襲撃です! 狐面を被った者達が――ミュリーナ殿下を!」
「なんだと!?」
フランツが険しい顔で報告を受け、だがすぐにミュリーナの方を見る。
ミュリーナも不安げに目を瞬かせる。近くの貴賓席に座っていた他国の貴族が何事かとゼブルディアの貴賓席を見ている。
そして、近衛は大きく深呼吸をすると、正確に報告をあげた。
「……その………………ニセミュリーナ殿下と交戦中です」




