247 受け継がれる意志②
扉を開ける。まず感じたのは粘つくような油っこいような香ばしいような空気だった。
シトリーの用意した秘密のキッチンは今や完全に油揚げ工場と化していた。
まさかこんな事になるなんて……シトリーに頼んでキッチンを用意してもらったのは僕だが、予想外だ。
キッチンには木箱がうず高く積まれていた。最初の素材はシトリーが用意したが、明らかにそれよりも多い。
傍らのシトリーを見ると、首を横に振ってくる。
中身が全て油揚げの材料だとするのならば、ソラはもう材料の輸入元までこの短期間で見つけてきたらしい。
「なるほど……僕の周りは優秀な人ばっかりだな?」
ソラはもうそっちの方面に突き進むことを決めてしまったのだろうか?
残念ながら、僕は付き合ってはいられない。たまに手伝うくらいならいいけど、別に僕の好物が油揚げというわけでもないのだ。
弾けるような油の音。キッチンには、マスクをつけて必死にフライパンを振るソラと――空中で偉そうに脚を組んだ、狐面を被った僕がいた。
シトリーの表情が固まり、そっと僕を見上げる。
目を擦り、再度宙に浮く僕を凝視する。
僕だ。僕そのものだ。お面を被っただけでは僕の目は誤魔化せない。クラヒ・アンドリッヒよりも僕に近い。
ソラの視線がこちらに向き、ぎょっとしたように目を見開く。
僕に気づいた僕は狐面を外し、無駄に格好いいニヒルな笑みを浮かべた。
僕がよく通る格好いい声で言う。
「……これはこれは……何者か、などとは聞かないよ、僕の偽物。今まで好き勝手やってくれたね」
!?
思わず、両手を開き見下ろす。
「僕は………………偽物だった?」
「こっちが本物です! きゃーッ!」
シトリーちゃんが黄色い悲鳴を上げて抱きついてくる。
格好いい僕は目を見開きその光景をしばらく見ていたが、やがてふてくされたように膝を抱えた。
何がなんだか……わからない。
いや、でもよく考えて見ると――僕はこんなに格好良くないよ。
なんかよくわからないが、同じ格好なのに凄く強そうだ。クラヒも強そうだったがこっちの本物はなまじそっくりなだけあって違和感が強い。
なんか面倒くさそうだったのでそれ以上の追求を諦め、ソラの方に視線を移し、早速本題に入る。
「ソラ、あの仮面、ガフさんにあげちゃった」
「???? ……………………え!? ??? な、ど……え? なんでえ!?」
ソラが激しく混乱している。僕と膝を抱える僕を交互に見るその様子からは、状況が全く飲み込めていないことが窺える。
でも大丈夫、僕もさっぱりわかってない。
「欲しそうにしてたからさ。僕はもういらなかったし…………まあ、そんな感じで後はよろしくね」
「!? え……」
灯火たちが絶賛実施中の犯罪者狩りは…………まぁ、うまいこと収まるだろう。灯火たちは別に僕の部下ではないし、僕よりもよほど自立している。
間を取り持ったのは僕だがそれ以降の話については知るところではない。もしかしたら奇妙だが何かとスペックの高い狐面愛好会とコネができた分喜んでいるかもしれない。
僕がすべきは――うちの野生児たちを引き取る事だけだ。
と、そこで膝を抱えていた本物の僕が言った。
「………………私も、もう帰る」
「…………え!?!?」
瞬きしたその時には、本物の僕は妹狐の姿に変わっていた。
仮面の向こうから聞こえる小さな声。膝を抱える姿勢もあって、凄く怠そうだ。
なるほど……狐系の魔獣は人を化かす能力を持つというが、妹狐も同じように人に化けられるのか。だが、どうして僕に化けていたのだろうか?
ソラが頬をぴくぴく引きつらせ、素っ頓狂な声をあげる。
「え!? ちょっと、待って! ど、どうしてですか!?」
妹狐は、傍らのフライパンから油揚げをつまみ上げ、もぐもぐ口を動かし、しっかり飲み込んでから言った。
「………………飽きた」
「!? !? !? 飽き、た…………? 飽きたって!? こ、これから、わ、私は、どうすれば!?」
縋り付くような声に、妹狐は深々とため息をつく。
「空気が読めない。テンションが下がった。もう無理。観光して帰る。油揚げ、ご馳走様」
ここまでやらせて本当に責任感のないやつだ。
…………でも、たまに忘れそうになるけど、そもそもその狐っ娘、幻影だったね。
「そんな………………」
ソラが呆然と呟いた瞬間、妹狐はいなくなっていた。
じっと見ていたはずなのに、本当に不条理な恐ろしい力である。
だが、幻影というのは大抵不条理なものだ。
しかし狐に化かされるとは……本当に可哀想だな。後で兄の方にクレームを入れなくては。
だが、その前にソラには助けが必要だ。僕は妹狐のように何も考えずに投げ出したりはしない。
僕は状況をわかっているのかわかっていないのか、薄い笑みを浮かべているシトリーの頭を手の平で数度押し込み、言った。
「シトリー、後はよろしく」
「…………妻です妻です妻です」
…………味を占めるなよ。
§ § §
どうして私ばっかりこんな目に……。
狐神の巫女として一生を過ごすはずだったソラは、こともあろうにその組織のボスによって完全に追い詰められていた。
ボスの一人である少女は飽きたと言ってその場を去り、偽物だったはずのボスは事もあろうに持っていた仮面を上級構成員のガフにあげたなどとのたまう始末。
そもそも偽物が本物の知り合いだった時点で何がなんだかな状況なのだが、前者はともかく、後者は致命的である。
何しろそれは、本物の仮面持ちの構成員――ボスが一人増えてしまった事を意味している。
そして、仮面をくれた相手が偽物であるという事を、当のガフは知らないのである。そもそも、その仮面をくれた相手を本物だと断言したのはソラであった。
既に取り返しのつかない状況になっていた。
自分は間違えたことはしていないはずなのに、ボスの言葉を聞いていただけのはずなのに、窮地に陥っているのを感じる。
一体、どこで誤ったのだろうか? 《千変万化》が仮面を持っていたから? ソラが仮面を見ただけでボス判定をしてしまったから? ガフから問われた時に意固地になったから? それとも、途中で真実を明らかにしなかったせい?
答えは…………一つだ。
誰もいなくなったキッチンで、ソラは自分自身に言い聞かせるかのように叫んだ。
「私は、間違ってませんッ! 胸を張って、言えます! ボスたる白狐様から、油揚げを揚げろと命令を受けたから、油揚げを揚げたんですッ! ボスが、稲荷寿司弁当で世界を取ると言ったのならば、それに従うのは神官としての義務ッ! ボスの言葉は、絶対! 疑う事は、許されないのですッ! 私は、できることはやりましたッ!」
定期的に連絡を取っている本部も混乱しているのを感じる。
そもそも油揚げを揚げる作戦の時点で、これまでの組織の動きからは大きく外れている。
何かが起こっている。何か、どうしようもない、大きな運命のうねりを感じる。
ソラが見誤った(誤っていないが)のはただ変化に巻き込まれただけに過ぎない。
既に賽は投げられてしまった。狐神の巫女は聡明で誤らない神秘的な存在である義務がある。
ボスを見誤る巫女など用済みだ。だから、ソラは絶対に誤らないし、絶対に謝らない。
本物のボスも偽物のボスも、油揚げを揚げろと言った。その命令は撤回されていない。
ひたすらに油揚げを揚げ続けるのだ。それで世界を取れと言ったのだ。命令がどれほど馬鹿げたものであってもそこにどんな意図が潜んでいるのかわからない以上、従うしかないのだ。
だから、ソラの役割はシンプルだ。油揚げで世界を取る。そう、秘密ではない結社、『十尾の油揚げ』として――。
後はどうにでもなればいい。
ソラは、狐神の巫女というのは、ただの神に仕える神官であって、組織の運営に関わるリーダーではないのだ。
扉の向こうから足音が聞こえてくる。どことなく自信に満ちた足音だ。ソラはふっと鼻で笑った。
この足音はきっと、ガフだ。偽物のボスから本物の仮面を受け継いだ哀れなガフのものだ。
ある意味彼はソラ以上の被害者である。
だが、本物の仮面を手に入れた時点でガフはもうボスだ。ボスたる責任がある。この組織はそういう風にできているのだ。疑問を挟む余地はない。
扉が開く。狐面を身に着けたガフが入ってくる。
ソラは大きく深呼吸をすると、久しぶりに神官の本来の役割を遂行すべく膝をつくと、厳かに唇を開いた。
「白狐様。御命令の油揚げの生産体制の構築は着々と進んでおります。これから……如何致しましょう?」
白狐様は巫女の信仰の対象。許可なく面を上げるなど許されない。
そもそも油揚げの生産を急がせたのは、旧白狐様の命令でガフがやったことである。
顔を伏せるソラに、つい先程まで盗賊王だった白狐様はしばらく沈黙すると、重々しい声で言った。
「…………よくやった。今後の計画は理解しているな?」
「…………はい。白狐様の御命令、しかと心に刻んでおります。稲荷寿司弁当を作り、世界を支配すると」
「なんだと!? …………い、いや……なんでもない。その意図は理解しているな?」
「………………白狐様のお考えを理解するなど、到底、ただの一巫女には叶いません」
「ありえない」
どうやら新たな白狐様も何も聞かされていないらしい。
いや……白狐様は一人だ。旧も新もない。たまに分身する事もあるが、八面六臂の大活躍だが、分身同士で会議しているという噂もあるが、一人なのだ。
確かに、ガフだった時は命令の意図など知る必要なかったかもしれない。だが、今は違う。
しれっとなすりつけるソラにガフはしばらく沈黙した後に言った。
「……………………とりあえず、一度動かした計画を止めるわけにはいかないな?」
「…………全ては白狐様の御心のままに」
「俺は、白狐だ。全ての指揮権は俺にある」
「仰る通りです。その仮面は紛うことなき狐神の代行者の証、巫女として従います」
恐る恐る宣言する。だが、それを聞くガフの方も同じくらい戸惑っているのを感じる。
今、ソラと新たなるボスの心は一致していた。
「先日、白狐様は命令なさいました。新たな組織を作ると。表舞台に進出するその組織の名は――『十尾の油揚げ』」
「!? う、うーむ……」
かつて盗賊王と呼ばれた男も、大規模な盗賊団の頭目だった男も、このような状況には慣れていないらしい。
しばらく難しい顔で唸っていたが、やがて覚悟を決めたように言った。
「…………以前の作戦は斬新だ。組織内部でも受け入れられない者が――混乱が予想される」
「……仰るとおりかと」
「既に命令は出て……出している。本部も混乱している。状況次第では――内乱もありうる」
「…………」
内乱。不敬なので一巫女の立場としては頷く事はできないが、その通りである。
どうやって意思疎通しているのかはわからないが、トップが一人ではない以上、互いに争いになる可能性もゼロではない。
そしてその際に窮地に立たされるのはボスを受け継いだばかりの目の前の白狐様だ。沈みゆく船に乗り込みたいと思う者などいるわけがない。
そして、新白狐様は静かな、しかし力の篭もった声で言った。
「俺が、指針だ。近辺のありったけのメンバーに作戦への参加を命じろ。油揚げを、揚げさせろ! 更に仕事を急がせろ! 店舗を用意させろ! 流通経路を整備させろッ!」
「…………御心のままに」
その声は切羽詰まっていた。
逃さないつもりだ。自陣に組み込むつもりだ。狐は裏切り者を許さないし、信用しない。だから、ガフは全員巻き込むつもりなのだ。
まだ白狐の引き継ぎは誰にもバレていない。旧白狐としての信頼性が残っているうちに。
そしてそれは、奇しくもソラがやろうとしていた事と一致していた。
「逆らう者は、他に付く者は、命令に従わぬ者は、粛清するッ! 現在遂行中の作戦は全て中止だ! 途中で逃げられないように働かせろッ! 戦闘の準備をさせろ! 大々的に、白狐の名の下に、本部に指示を出せ。これは、極めて、重要度の高い、作戦だ。俺が――指針だ。誰にも邪魔はさせないッ! 引くな! 戦え! 大丈夫、俺達には狐神の加護があるッ!」
そもそも、一度出した命令はそう簡単に撤回できるものではない。リーダーにはリーダーとしての義務がある。
死ぬか進むかしか選択肢は存在しないのだ。
§ § §
武帝祭本番を三日後に控え、街はさらなる熱気に包まれていた。
ルーク達も絶好調のようだ(もっとも、彼らは絶好調じゃない事の方が少ない)。
宿でごろごろしていると、今日も(遊んで減ってしまった)宝具のチャージをしてくれていたルシアがふとおかしな事を言った。
「そう言えばリーダー、武帝祭の準備は大丈夫なんですか? 今回、随分宝具の数が少ないみたい」
「……はい?」
準備? ……応援の準備の事かな? そりゃもちろん、万全に決まっている。僕は応援する事においては他の追随を許さない男だよ。
笑みを浮かべる僕に、ルシアは呆れたようにため息をつき、豪華な装飾のなされたパンフレットを差し出してきた。
「兄さん、第一回戦ですよ。わかってるんですか?」
「ん?」
パンフレットに視線を落とす。ページに記載されていたのは武帝祭のトーナメント表だった。
白魚のような指の先に書かれた対戦カードを、目を瞬かせ、読み上げる。
「…………クラヒ・アンドリッヒ VS クライ・アンドリヒ?」
…………僕の同姓同名、一体何人いるんだよ。
活動報告にて、ストグリ通信(89)が投稿されています。
楽しい地底人回です。是非ご確認ください!(今週分はこれから)
/槻影
更新告知(作品の更新状況とか):
@ktsuki_novel(Twitter)
P.S.
書籍版五巻、コミカライズ三巻まで発売中です。
それぞれ大なり小なり加筆修正されている他、それぞれ巻末にWeb版では語られない短編が収録されております。Web版既読の方も楽しんで頂けるよう手を尽くしましたので、そちらもよろしくお願いします!