149 バカンスの終わり④
血が凍る。命が抜けていく。霧の国でも滅多に感じない冷たさに、アーノルドは無理やり感情を昂ぶらせ眼の前の男を睨みつける。
バレル……だと!?
その名には聞き覚えがあった。ルーダ達が話していた、《千変万化》の指名依頼の相手だ。
バレル盗賊団。最近グラディス領を騒がせているという盗賊団だ。
だが、《霧の雷竜》を囲む男達は明らかに盗賊などという範疇にはない。
アーノルド達の故郷において、賊とは護衛をつけずに外を歩く命知らずな旅人や、商隊などの弱者を襲う犯罪者だった。
その多くはトレジャーハンターと比べればずっと弱く、強敵とされた盗賊団もハンターと比べればずっと格が落ちた。事実アーノルドも何度も相手をしたことがある。
だが、目の前のバレルは違う。
規模が違う。手腕が違う。強さが違う。訓練された老若男女、多数の仲間を送り込める組織力。かすり傷とは言え、アーノルドに一撃を入れ、あまつさえ毒まで塗っておく用心深さ。
対象が小さな農村ならばともかく、スルスの街の規模はかなりのものだ。確かに防衛能力は高くないが、そう軽々と襲えるような街ではない。
エイも予想外なのか、険しい表情で周囲の隙を窺っている。
「はぁ、はぁ……馬鹿、な。この、ゼブルディアの、盗賊は、そこまで、なのか」
レベル8に出された指名依頼が盗賊団の討伐だと聞いた時には何某かの意図があったのだろうと思いこんでいたが、この手際を見ればレベル8の依頼だというのも納得できる。
毒は高い耐性を持つはずのアーノルドの全身を蝕んでいた。心臓がずきりと痛み、一秒一秒時間が経つ毎に力が抜けていく。
かなり強い毒だ。即死しなかったのは僥倖だった。
息も絶え絶えに声を出したアーノルドに、男が心外そうに鼻を鳴らす。
「あぁ? 俺たちが、バレルが、つえーんだよ! その辺の盗賊団と一緒にしてもらっては困る。俺たちは、無敵だ! 完璧な作戦、完璧な統制、最強のリーダー、敗北はありえねえ! そして、帝都で名高い《千変万化》を潰せば、俺たちはさらに飛躍するッ!!」
チンケな盗賊が出すにしては高慢にすぎる言葉だった。
だが、男の表情には不安がない。まるで、絶対的強者のように、勝利を確信している。
「ッ……本当に、勝てると、思っているのかッ!?」
「勝てると、確信しなきゃ、バレルは動かねえッ! ……おいッ、お前ら、何やってる!? なるべく住民は殺すな、いざとなったら人質にすると、オヤジが言ってただろッ! 拘束だけにしておけッ、好きにするのは《千変万化》を殺した後だッ! どうせここを守ってる連中なんざ、大した事なかったろうがッ!」
男が、後方、門の近くの警備室に向かって怒鳴りつける。
人質。場合によっては有効な戦術だ。
トレジャーハンターは基本的に正義である。この帝都で広く名が知られる《千変万化》にとっては効果は絶大だろう。人質を無視して攻撃して撃退出来たとしても、誹りは免れ得ない。
その程度であの常に飄々としていた男が――揺らぐとも思えないが。
エイが視線を送ってくる。特にサインなどはないが、言いたいことはわかった。
今は逃げるしかない。敵の数が多すぎるし、その全てが毒武器持ちだとしたらまずい事になる。一度、引いて状況を確認し、態勢を立て直すべきだ。
相手がすぐに飛びかかってこないのは時間が相手の味方だからだろう。毒ナイフによる攻撃を仕掛けてきた男は傲慢だが、アーノルドの実力をよく理解していた。アーノルドが立っていられなくなったのを確認してから、本格的に円陣を縮めるつもりだ。
舐められたものだ。舌を強く噛み、柄に置いた手に力を込める。
指が、腕が震えた。まるで自分の身体ではなくなってしまったかのようだ。
だが――振れる。まだ、剣を振れる。ここで振れるからこそ、レベル7なのだ。
アーノルドは掠れる声で咆哮し、身体を支えるのに使っていた大剣を振り上げた。
「う、お、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
「何ッ!?」
男が目を見開き、驚愕を表情に浮かべ後退る。
雷竜の素材からなる剣――『豪雷破閃』は主の要請に応え、雷光を纏う。
一撃だ。一撃しか撃てない。一度下ろしたら二度と持ち上げる事はできまい。
弱り震える肉体を叱咤し、今の全力を込める。金の双眸が弱っているとは思えない剣呑な輝きを放つ。
そして――アーノルドは今の自分に撃てる最強の一撃を地面に叩きつけた。
衰弱した状態でも、アーノルドの一撃は相応の威力を発揮した。
轟音と共に敷き詰められていた石畳が激しく弾け飛び、周囲を満たした凄まじい閃光に、男が、周りを囲んでいた盗賊団の面々が数歩後退する。
その時には、エイがアーノルドの脇の下から腕を通し、身体を支えていた。
両手から力が抜け、大剣が地面を転がる。その時には、周囲にはアーノルドの仲間の魔導師が放った濃い霧が立ち込めている。一寸先も見えないレベルの濃霧だ、慣れない人間ではまともに動くことはできない。
もちろん、アーノルド達は霧の国でそういった状況に慣れている。
超一流のトレジャーハンターは逃走の手段の一つも持っているものだ。
濃い乳白色の霧の向こうから、慌てふためくような声が聞こえる。エイに引きずられるようにして移動する。
今は絶体絶命の事態だ。断腸の思いだが、愛剣は捨て置くしかない。
肩を担がれながら、息も絶え絶え、恫喝する。
「ッ……今に、見ていろ。後悔、させてやる」
「やれやれ、こんな状態になっても、アーノルドさんと来たら――さすがというか、なんというか――どこに向かいますか?」
周囲の様子はわからないが、間違いなく仲間はついてきているはずだ。方向感覚や霧の中での知覚能力において、ネブラヌベスの戦士に勝る者などいない。
呆れたような感心したような片腕の声に、アーノルドは迷うことなく答える。
「外は、まずい。口惜しい、が、《千変万化》の、あの男の下へ、行けッ……」
奴は先程、街から出さないのが流儀だと言っていた。ならば、あの場にいたメンバー以外にも監視のために人をおいているはずだ。
あれはただの盗賊団ではない。未だ《千変万化》への怒りは収まっていないが、状況を見誤ったりはしない。
敵の敵は……敵だ。
「へい。アーノルドさんなら、そう言うと思ってました」
エイはいつもどおり人を喰ったような笑みを浮かべると、アーノルドの巨体を軽々担ぎ直し、早足で歩き始めた。
§
呼吸を整える。思い通りにいかない状況に湧き上がる焦燥感を飲み込み、ティノは裂帛の気合を込めて流れるように斬撃を放つ。
戦線は想像以上に膠着していた。相手は格下だが、人数が多い。不利なのはティノの方で、特に相手に逃げに入られるとどうしても決め手にかける。
既にティノはせっかく整えた浴衣を脱ぎ捨てていた。どうせ浴衣の防御性能なんてたかが知れているし、足運びが邪魔されるのは致命的だ。周りが敵ばかりならば下着姿も恥ずかしくもない。
白い肌に、お姉さまと一緒に買い物に行ったさいに買ってもらった黒の下着のコントラストが鮮やかだった。一般平均と比較しやや慎ましやかな胸が激しい動きと共に揺れ、雪のような白い肌に汗の玉が滑り落ちる。
「やるわねッ!」
「ッ!」
ティノは答えない。
大きく踏み込み、振り上げるように放たれた短剣を、同じように浴衣を脱ぎ捨て、下に着ていた防刃ベスト姿の女が数歩下がり牽制する。地面には既に近接戦闘を挑んできた男が三人伸びていたが、まだ残りは七人もいる。
既に十分などとうの昔に経過していた。いや、開始してすぐに十分で倒しきれない事を、ティノは理解していた。
時間稼ぎをされている。おそらく、ティノを倒すには被害が出ると理解し、切り替えたのだろう。
相手の戦い方は、数の利を活かす戦い方だった。自分たちよりも強い者と戦う事に慣れているのだ。更に正確に言うのならば、あらゆる手を使って勝つ事に慣れている。
その事実に、唇を噛みつつ動きは止めない。撤退はできない。
背中を向けるわけにはいかなかった。既にティノは広く包囲されている。
背中を向ければ、ナイフが飛んでくる。威力はともかく精度は確かだ。毒が塗られている可能性も高い。絶対に受けるわけにはいかなかった。
ティノは包囲している誰よりも強いが、《絶影》程の速さを持っているわけではない。
だが、ティノにだって援軍はいる。お姉さまとシトリーお姉さまだ。
眼の前の襲撃者はおそらく、大規模な組織の一員だ。お姉さまとシトリーお姉さまが異変に気づけば、まず真っ先にますたぁを助けに来るはずだ。眼の前の女は《嘆きの亡霊》の二人を捕らえたなどと言っていたが、ティノなどとは比べ物にならないくらい熟達したお姉さま達が負けるわけがない。ますたぁは言わずもがなだ。
右から飛来したナイフを、その刃に触れないよう注意して短剣で叩き落とし、避けにくい左側から放たれたナイフを身をかがめて滑るように回避する。
お姉さまのスパルタ教育は対遠距離攻撃にも及んでいる。回復役のアンセムお兄さまがいる時にしか行われないが、ティノは何度もナイフで全身をずたずたにされていた。そして、《絶影》の投擲速度は目の前の襲撃者の比ではない。
地獄のような鍛錬と比べれば、目の前の動きなど止まっているような物だ。
回避技術には自信がある。そしてそれは、ソロで戦う上での必須技能でもあった。
「さすが、音に聞く《嘆きの亡霊》、と言ったところかしら」
「ッ……舐めるなッ!」
「化物みたいな、スタミナね」
冷静さは失わない。押されれば押されるほど集中力は研ぎ澄まされていく。
これまで、ずっとぼこぼこにされてきたのだ。殺されると思ったことだって少なくないのだ。
眼の前の女の動きは鈍りつつあった。ティノと違い毎日倒れるまで走らされた事がないのだろう。マナ・マテリアルは危機的状況にこそ吸収されるとか言われ、宝物殿で、捕まったら半殺しにされる地獄のリアル鬼ごっこをさせられたこともないに違いない。
身体が仮面を被っていた時の動きを覚えていた。だが、足りない。力が足りない。
あの時のティノは一撃の重さが段違いだった。仮面の能力が潜在能力を引き出すことだというのならば、ティノにはまだ先があるはずだ。
一切動きの鈍らないティノに、余裕ぶっていた女の表情に焦りが混じり始める。蹴りがその腹部をかすめ、ティノの拳による突きを無駄に大きく後退り回避する。ティノはその動きに怖れを感じ取った。
これまでの全てが――お姉さまの、ますたぁの教えの全てが、ティノに力を与えている。
いける。流れるように踏み込み、畳み掛ける。
仲間から牽制に放たれたナイフは完全にティノの死角をついていたが、風切音だけでそれを回避する。蹴りが黒いベストに包まれた腹を貫き、閃いた短剣の先が女の肩を浅く傷つける。
痛みに女の表情に一瞬動揺が走る。白い肌に赤黒い血が垂れる。
「全員武器を捨て、降参するなら、命までは取らない」
「ッ……なんて、甘い事を――」
勝てる。甘いと言われればそうだが、ティノはまだお姉さま達程人殺しには慣れていない。
もちろん、躊躇うつもりはない。魔物も人も、同じ命だ。だが、殺さずに済むのならばそれに越したことはない。
睨みつけるティノに、女が気圧されたように唇を噛む。その時、背後から不意に声がした。
「おい、ずらかるぞッ! 《千変万化》を捕らえたッ!」
「ッ!?」
予想外の声だった。動揺は一瞬だった。
振り向いた瞬間、女から体当たりを受け、床に倒れ込む。
刺されたのか、腹部に強い熱が走る。だが、ティノはそんな事気にする余裕もなく、頭をあげた。
ティノの視界に入ってきたのは、両手を縛られ、布袋を被せられ、五人の男に連れられた痩身の男の姿だった。猿ぐつわをされているのか、声を出そうとするが何も出せていない。
ここにいる以外にも、仲間が……いた? 増援は予想していたが、よもや旅館の中を既に探索しているとは――。
とっさに立ち上がるが、腹部に走る鋭い痛みに視界が明滅する。刺された経験は数限りなくあるが、いつもと痛みが違う。予想通り毒が塗られていたのか。
油断した。とてもじゃないが先程までの動きはできない。
肩を押さえた女が訝しげな表情で言う。
「そんなあっさり――本当に、《千変万化》なの?」
「部屋は全部確認した。客は他にいねえ。間違いねえ!」
「よくやった! 悪いわね。あんたたちのリーダーは、頂いたわ」
女が目を見開き、獰猛な笑みを浮かべる。
撤退は出現と同様に迅速だった。まるで波が引くように女たちがエントランスを出ていく。
ティノはそれを呆然と見送る事しかできなかった。
§ § §
「クランハウスにも露天風呂、作ろうかな……エヴァに怒られるかな……ルシアに叱られるか」
僕はお湯の中でぷかぷか浮かびながら、大きく欠伸をして目を擦った。




