146 バカンスの終わり
旅館の自室。畳の上でごろごろと転がる。
ひんやりとした感覚と畳の独特な香りを感じながら、ただ呼吸をするだけの生き物になる。この間クランマスター室でもごろごろしていたが、あの時と違って畳は土足厳禁なので安心して転がれるのだ。
この瞬間、僕は世界と渾然一体となっていた。
あいにくリィズやシトリーは外にでており、部屋には僕一人しかいない。リィズは山へ温泉ドラゴン探しに、シトリーはゴーレムの配備をするとかで朝から意気揚々と行ってしまった。リィズ達はじっとしていられない性分なのだ。
外は雲一つない青空で、せっかく観光地にいるわけだし外を出歩きたい気分だったが、アーノルドを怒らせてしまった以上、そうするわけにはいかなかった。
トレジャーハンターという生き物は暴力的だ。そして、僕は運が悪いのでこういう時に外に出ると大体ひどい目に遭うのだ。
悪い予感がある時もない時もひどい目に遭う。なんかもう泣きそう。
アーノルドはいついなくなるのだろうか。リィズが戻ってきたら調べに行ってくれないか頼もう。
請求書はアーノルドに押し付けたが、あの男のせいで今回の僕のバカンスは台無しだ。一体僕に何の恨みがあるというのだろうか。
帝都に在住するハンターの中で一番人畜無害である自信があるよ、僕は。
身体を張り付け、ぼんやりしながら星の引力を存分に感じていると、扉が控えめにノックされた。返事をする前にティノが入ってくる。
長時間露天風呂にいる事が多いので合鍵を渡しておいたのである。
ティノは畳に転がる情けないますたぁを見ると、目を大きく見開いた。
「失礼します、ますたぁ…………何を、なされているんですか?」
「修行だよ。大地を感じているんだ」
「だ、大地を……?」
「精神修養の一種だよ。もうやる事もないし、世界を感じていたんだ。…………ルークは僕が考案したこの修業によって木刀で鉄の剣をへし折れるようになったんだよ」
「ルークお兄さまが!?」
なんでごろごろしているだけなのに攻撃力が上がってんだよ。ルークの奴、おかしいだろ。
そんなんで攻撃力が上がるならいつもごろごろしている僕の攻撃力は今頃やばい事になっているはずだ。才能って本当に意味がわからない。
僕の半分冗談、半分真実混じりの言葉に、ティノが衝撃を受けたように更に瞠目する。
僕の姿勢はどう贔屓目に見ても明らかにごろごろしているだけなのだが、常識外のお姉さまフィルターがかかっているティノの表情には、こちらを見下すような色も呆れているような色も存在しない。
ティノは相変わらずの浴衣姿だった。もう何日も滞在しているだけあって、着こなしも慣れてきたように見える。
僕はティノの艶姿を逆さに見上げながら、ふといいことを思いついた。
「そうだ、ティノ。悪いんだけど、アーノルド達の様子を――――」
見てきてもらおうか、と思ったが、冷静に考えてあの怒り狂うアーノルドに対して後輩を派遣するのは駄目、か。
アーノルドはティノの顔を知っているし、ティノの実力でレベル7認定を受けているアーノルドから逃げ切れるとも思えない。
何より、僕にだってティノに負担を掛けすぎている自覚はある。
「…………いや、やっぱりいいや」
「…………ますたぁ…………な、何なりと、この私にお申し付けくださいッ!」
ティノが相変わらずの忠誠を見せてくれるが、その言葉の勢いとは裏腹に表情には余り元気がなかった。
最近、さんざんな目に遭っているためだろう。だが、信じて欲しいのだが、僕はいつも、ティノをひどい目に遭わせようとして遭わせているわけではない。
僕は少しだけ考え、転がったまま右手を差し出した。
「ティノも一緒にごろごろ…………世界を感じる修行でもする? どうせ暇だろ? 身体を動かす訓練だけが訓練じゃないよ」
「え!? そ、それは……その、ますたぁと一緒に、ですか?」
ティノが一步後ろに下がり、僕を凝視する。その白い頬が仄かに朱に染まっている。
ティノの恥ずかしがるポイントがよくわからない。他意はなかったのだが、確かに年頃の女の子に一緒にごろごろしようなどというのは良くなかったかもしれない。
「その……私、今、浴衣ですし…………修行なのは、わかっていますが――い、いえいえ! もちろん、嫌ではないです、嫌ではないんです、ますたぁ。いつもの、格好なら――」
「いやいや、わざわざ着替える必要もないよ、良く似合ってるし――」
「あ――」
浴衣よりいつもの格好の方が露出高いと思うんだけどなぁ。
わたわたしているティノに笑いかけると、よいしょとばかりに起き上がった。
別に本当に修行をしていたわけでもないのだ。ちょうどシトリーとリィズも不在なわけで、僕も暇なわけで、久しぶりにティノと歓談でもしよう。
「え……そ、そんな――ますたぁの、修行が――」
素直かな? 横になるだけで修行になるのはルークだけだ。
ついこの間までは寝不足で目の下に隈ができていたティノだが、温泉のおかげで回復したのか今の血色は頗るいい。温泉ドラゴンとか色々あったが、ここでの休暇は、ティノにとってちゃんと湯治になったらしい。
さて、どうやってこの真面目な後輩を説得したものか……僕は少し考えると、顔を耳まで真っ赤にしている可愛いらしい後輩に言った。
「別に横になるだけが修行じゃないよ。起き上がってもできる。……そうだな……今外に出るわけにはいかないけど――あの修行をやろう! お茶と甘いお菓子を食べる修行」
「え……? お茶と甘いお菓子――そ、そんな修行があるんですか!? …………そ、その、ますたぁ。ますたぁのお言葉を疑っているわけではないのですが、それで、何を得られるんでしょう?」
何も得られる訳がない。長い間お茶と甘いお菓子を食べて出来上がったのが僕である。ただ、今の僕は甘いお菓子を食べながらお茶を飲みたいのである。
しかし、いつか悪い奴に騙されそうで凄く心配だ。半分妹のような物なので僕はなんとも思っていないが、ティノは贔屓目に見なくても可愛らしいし、スタイルもいい。
僕の言葉だからといって鵜呑みにせず、疑いを持って行動して欲しい。その気持ちを込めて、言う。
「強いて言うなら――至福の時間かな」
「……え?」
ティノが目を丸くする。ここに至ってもまだ僕の言葉を疑っていないようだ。
「まぁ、やってみればわかるよ。悪いけど、宿の人にお茶とお菓子貰ってきてもらえる? チョイスはティノに任せるよ。一緒にお菓子を食べてお茶を飲む修行をしよう」
「え……? は、はい。すぐに戻ってきます、しばらくお待ち下さいッ!」
「十分以内ね」
「はいッ!」
ティノが浴衣が乱れない程度の駆け足で、部屋を出ていく。戻ってきたらお菓子とお茶をやっつけながらお説教しよう。
僕は欠伸をしながらその背中を見送ると、再びその場で大の字に横たわった。
§ § §
「おっさん、もう行くのか……せっかく温泉街に来たんだから、もっといればいいのに」
「っせー、アーノルドさんは忙しいんだよッ! もともと、俺たちはここに来たばかりだからな。遊んでる暇なんてねえんだ」
ギルベルトの、最後まで遠慮を知らない言葉に、エイがいつも通りのツッコミを入れる。
一夜明け、すっかり元に戻ったアーノルドとエイ達は町を出るべく、街にたった一つ存在する、門の前に来ていた。
防衛能力をほとんど持たない幅広の門の近くの詰め所では、観光客なのか数人のハンターらしきグループが手続きを行っている。
《霧の雷竜》の姿はこの旅の間に大きく変わっていた。装備も馬車も激しい戦いを経て幾度となく取り替えられ、レベル7が率いるパーティとは思えない貧相なものになっている。
だがしかし、アーノルドを始め、メンバーの表情はそこまで暗くはない。
リーダーであり、二つ名持ちでもあるアーノルドが折れない限り《霧の雷竜》は不滅だ。《千変万化》という強大な存在を見て、未だ誰一人パーティから脱退する者がいない事もその事実を強く示している。
すっかり立ち直った《豪雷破閃》の姿に、見送りにきたカーマインもルーダも、感心したような顔をしていた。
トレジャーハンターは過酷な職だ。その戦いに次ぐ戦いの中で心が摩耗し、肉体は無事でも精神面の問題で二度と剣を持てなくなる者も少なくない。
強い輝きを放つ才能を見て自信を失いハンターを引退する者だっている。そして今回、クライ・アンドリヒの顔を見た瞬間に倒れたアーノルドの姿は、確かに十分それを予期させる物だった。
ルーダ達の視線を受け、アーノルドが眉を顰める。眉の下で細められた金の目はぎらぎらと輝いていた。
「無様を見せたな。だが……あの男の、やり口は、わかった」
「……まだ諦めてないのね」
「あったりめえだ、ルーダ。アーノルドさんがあっさり負けを認めるわけがないだろ。なにせ、俺たちの目的は――最強なんだからなあ。勝算だってある。いつか、《千変万化》も後悔するだろうよ。アーノルド・ヘイルという男に無意味な情けを掛けた事をなッ!」
呆れたようなルーダの言葉を、アーノルドに代わり、隣に立っていたエイが鼻で笑い飛ばした。
その声には強い確信があった。
《千変万化》は確かに噂に違わぬ異様な力を持っていた。だが、唯一、そこにはエイにもわかる弱点がある。
それは――余裕だ。あの男は、アーノルド・ヘイルを見くびっている。
たとえ、現段階で敵わなかったとしても、まだこの地の宝物殿をほとんど攻略していない《豪雷破閃》には伸びしろがあるのだ。
そして、エイ・ラリアーの知る《豪雷破閃》という男は自分で言った言葉を違えた事がない。
いずれ、必ずやアーノルド達はかの《千変万化》を打ち破ることになるだろう。相手が類まれな先見を持つのならば、それを凌駕する力を身につければいいだけだ。
「煽り文句を考えておかないといけないですね、アーノルドさん」
「……たわけがッ! 俺は……あの男とは、違うッ」
「す、すいませんッ!」
メンバーの一人の言葉に、アーノルドが一喝する。どうやら、相当腹に据えかねる揶揄を受けたらしい。
感情制御は高レベルハンターにとってほぼ必須の技能に近い。当然、それを高いレベルで習得しているアーノルドを本気で怒らせるとは、そう簡単にできることではない。
確かに、煽る能力だけはレベル8に相応しいのかもしれねえな……。
妙な感心をしつつ、エイはなんだかんだここまで行動を共にしてきたルーダと《炎の烈風》を見回した。
一人一人握手を交わし、別れの言葉をかける。
「じゃあ、また帝都でな。お前らも、ここに長く残るならあの男に気をつけろ」
「大丈夫よ。さすがのクライも…………こんな温泉街で何をするっていうの?」
「くっくっく、知らねえよ。俺たちはもう出るんだからな。だが、注意はしておくに越したことはねえ」
エイもこれまで様々なハンターを見てきたが、《千変万化》ほど掴みどころがない者はいない。
帝都に帰ったら改めて《千変万化》の情報を洗い直さなくてはならない。リーダーの行動を補佐するのが何があっても変わらないエイの役割だ。
空には雲ひとつなかった。出立するにはこの上ないタイミングだ。
大きく伸びをして、門を振り返る。
帝都ゼブルディアまでは馬車を使えば数日だ。《千変万化》の策謀から解放された状態での旅程は今までと違って安穏としたものになるだろう。
別れを済ませ、アーノルドを先頭に門に向かって歩き始める。
観光地だけあって、門は余り頑丈そうではなかった。詰めている衛兵の数も少なく、その実力も帝都を守っていた騎士とは比べるべくもない。
盗賊団の影響で観光客の数が減っているとは聞いていたが、状況が変わったのか、門には数組の観光客の姿があった。
やり直しだ。今回の旅の結果は、アーノルドだけではなく、《霧の雷竜》のメンバー全員に大きな影響をもたらす事だろう。
破損し失った装備やアイテムを揃え直し、高レベルの宝物殿を探索し研鑽する。アーノルドの破壊した温泉の弁済も含め、現段階で、ほぼパーティの資産は尽きているし、しばらくは休む暇もないかもしれない。
だが、全てをやり直したその時、アーノルド・ヘイルと《霧の雷竜》は一段高みにあるはずだ。
肉体的にはまだずっしり疲労が残っていたが、新たに見えた希望に晴れ晴れした気分だった。
スルスに来た時とは真逆だ。仲間達もどこか吹っ切れた表情をしている。
「……次は、負けんぞ、エイ」
「へい。それでこそアーノルドさんだ」
押し殺したようなアーノルドの声に、エイはいつも通り称賛の声をあげた。
その時、ちょうど街に入ってきたパーティの一つとすれ違う。男女混合で五人のパーティだ。
……湯治か? ハンターにしてはやけに軽装だな。
全員が軽装で徒歩。一応帯剣はしているが鎧兜のようなものは装備していない。外套を羽織っているので詳しい装備はわからないが馬車もつれておらず、この荷物で外を歩いていたのだとしたら余程実力に自信があるのか、あるいは貧乏なのか。
アーノルド達の馬車を見ると、集団の先頭に立っていた爽やかな雰囲気の男が、会釈をして道を空けてくれる。
「すまねえな」
ランクとしてはほぼ最低に近い馬車が、大きく振動しながら空けてくれた道を進む。
先頭を行くアーノルドが空けてくれた道を半ばまで進んだその時、エイの眼の前で、道を空けてくれた男が大きく回転した。
一瞬、エイの意識が空白になる。それは、まるで流れるような美しい動きだった。
男は会釈した時と同様、穏やかな笑みを浮かべていた。その一撃には、盗賊であるエイから見ても信じられないくらい、殺意も戦意も宿っていない。
手が自然な動きで腰の短剣を抜き、そのまま白刃が弧を描く。その磨き上げられた刃の先にあったのは、通り過ぎたばかりのリーダーの首元だった。