145 和解③
客のいない大浴場で優雅に平泳ぎを楽しんでいたら、いきなりアーノルドが現れた。
のんびりしていたので入ってきた事に全く気づかなかった。一瞬悪夢でも見たのかと思った。
部屋の露天風呂は狭すぎるし、泊まっている旅館の大浴場はまだ整備中なのでわざわざ別の温泉まで足を運んだのに、まさかそこでよりにもよってアーノルドと遭遇するなど、普通想像できるだろうか? 不運にも程がある。これもうストーカーだろ。
湯船の中で盛大に転び、慌てて顔をあげた僕の目に入ってきたのは、引きつった表情をするアーノルドの姿だった。
慌てて敵意のない事を示すため、笑みを浮かべ軽く手を振る。
明るい所で改めて確認するアーノルドの肉体は近接戦闘職に相応しく発達していた。
ハンターの成長の志向にはマナ・マテリアルが密接に関係している。簡単に言うと、筋力を求める者はより筋肉が発達するし、速度を求める者は細身になりやすい。女性ハンターの場合はリィズでもわかる通り、目に見えた筋肉の発達が見られない事が多い。これは彼女たちが強さと同時に美しさを求めているためだと考えられている。
《豪雷破閃》の肉体はあらゆる意味で僕よりも遥かに発達していた。その四肢に至っては僕の倍以上の太さがあるだろう。
鎧のような筋肉はたとえ無防備に僕の拳を受けたとしてもびくともしないに違いない。一般的に人族は魔物と比べて身体的能力に劣ると言われているが、目の前の男を見る限りではとても信じられない。
ほぼ反射的に指に嵌めた結界指に触れる。宝具を装備している僕よりも素手のアーノルドの方がずっと強いとは、世の中は本当に不公平だ。
もっとも、僕の運はやたら悪いのでこういったアクシデントに遭遇するのには慣れている。
《霧の雷竜》との確執は副リーダーとの話し合いで一応解消されているわけで、即座に襲いかかられる可能性は少ないだろう。
ここで怯えたら逆にアーノルドを刺激してしまうかもしれない。僕は何故かぷるぷる震えているアーノルドに対し、精一杯の虚勢を張った。
「ふ……こんな所で会うなんて奇遇だね…………」
「ッ……こ…………こ、ここ、こ――」
「…………こけこっこ?」
「こッ――こんな、奇遇、あってたまるかあああああああああああああああッ!! 貴様ッ! 何が狙いだああああああッ!?」
やってしまった。ついつい言ってみたい事を言ってしまうのは僕の悪い癖である。
アーノルドが顔を真っ赤にして地団駄を踏む。ただの足踏みで石造りの床に亀裂が走り、天井からはぱらぱらと石片が落ちてくる。
肌に張りついていた水滴が蒸発し白い靄になる。
エネルギーとは熱だ。リィズでも見たことがあるが、人間離れしたエネルギーを持つハンターでは、ままある現象だった。
僕はレベル8ハンターに相応しい毅然とした態度で叫ぶ。
「落ち着くんだ、アーノルドさん。先に温泉に入っていたのは僕で、後からやってきたのはそっちの方だ!」
「ッ……あぁッ!? 貴様は、これが偶然だと、そう言うのかッ!? 偶然、俺が入った温泉に、レベル8ハンターが平泳ぎしていた、とッ?」
アーノルドは壊れていた。無口なイメージがあったが、余程【万魔の城】での経験が堪えたのだろうか。
しかし、そう言葉で表現されると――狂ってるな。露天風呂でドラゴンがまったりしていた僕とどっちが衝撃的状況だろうか。
無言で顔を顰める僕にアーノルドが恫喝するような声で言う。
「なんだ? 貴様、この俺を笑いにきたのかッ!? 馬鹿にしてるのかッ!? からかってるのかッ!?」
「落ち着いて、ほら、深呼吸して! いいかい? 僕だって誰かが来るって知ってたら平泳ぎなんてやらなかったよ。確かに温泉で遊泳はマナー違反だろうけど誰もいない事は確認していたし、お湯を汚すような事もしていない! ただ、楽しく泳いでいただけなんだッ!」
「レベル8が、温泉で泳ぐなッ!!!」
アーノルドの叫び声が大浴場に反響する。
ごもっともである。エヴァに知られたら間違いなく叱られるだろう。世知辛い世の中だ、わざわざお金払って来てるんだから少しくらい大目に見て欲しい。
僕は半腰で後退りつつ、目を血走らせるアーノルドを説得にかかる事にした。下手をしたらこのまま殴りかかってきそうだ。
「そうだ、アーノルドさんは誤解してるんだ! 僕だってただ泳いでいたわけじゃないッ!」
「ッ……あぁ!? 何か納得できる理由があるって言うなら、言ってみろ!」
「………………修行?」
「あ……ああ…………あああああああああああああああああああああああッ!!」
アーノルドは咆哮すると、近くにあったお湯を吐いているドラゴンの像に頭をがんがん打ちつけはじめる。
ドラゴンの角が折れ、罅が入り、お湯が勢いよく吹き出す。レベル7ハンターの頭は石の像よりも硬いようだ。
怖い……情緒不安定過ぎる。が、僕は今まで何回か同じ光景を見たことがあるのですぐに我に返った。
頭を切ったのか、お湯に真紅の液体が混じり始める。だが、アーノルドは頭を打ち付けるのをやめない。
「わかった、わかったよッ! アーノルドさんは冷静さを失ってるだけだ。きっと、ちょっと疲れてるんだ。【万魔の城】に適正レベルに至ってないパーティを率いて行ったんだから無理もない。…………悩みがあるなら聞くよ?」
「あああああああああああああああああッ! き、貴様に、相談する、悩みなど、ないわッ!」
僕の厚意から来た言葉に、アーノルドは頭を打ち付けるのをやめると、両手で竜の像を引っこ抜いた。
瞠目する。何かがへし折れる音と共に、お湯が盛大に吹き上がる。予想外の展開に思わず下がる。
凄まじい光景だ。両腕で石像を持ち上げ仁王立ちになってこちらを睨みつけてくるアーノルドの姿はともすれば悪夢に見かねない程恐ろしい。
だが、僕は何度か似たような光景を見たことがあるので何とか正気を保っていた。今度からカメラを持ち歩いて衝撃的シーンを集めてアルバムでも作ったら借金を返す一助になるだろうか。
「はぁ、はぁ、認めん、認められるわけがないッ!! 《千変万化》ッ! 貴様にッ、負けて、ハンター引退など、末代までの恥だッ!」
「え? …………う、うんうん、そうだね……」
「やり直すッ! 絶対に、やり直してやるッ! 何度でもだッ! いつまでその余裕を保てるか……俺たちを、馬鹿にしたことを、後悔させてやるッ!」
どうして僕が馬鹿にしたみたいな話になっているんでしょうか。別にアーノルド達に興味などないが、恨みを買うのはまずい。
敵意のない事を示すために笑いかけようとするが、さすがの僕でも引きつった笑いにしかならなかった。
「ま、待った、馬鹿になんてしてないよ。そこだけは訂正させてもらうッ! これだけは覚えておいて欲しい。僕はアーノルドさん達には、凄く期待してるんだッ! 僕はアーノルドさん達の味方だよッ!」
返ってきたのは言葉ではなく、へし折られた石像だった。
凄まじい勢いで飛んできた石像が、結界指の結界に弾かれ盛大に湯船に落ちる。吹き出すお湯と飛沫で前髪が張り付き鬱陶しい。
これ以上投げられたらさすがの僕でも裸足で逃げ出すのだが、飛沫が収まり僕の目に映ったのは荒々しい足取りで出ていくアーノルドの背中だった。
怖い。慣れてはいるが、恐怖が消えるわけではない。これだから常に宝具を手放せないのだ。
恨みを買ってしまった。これが最後のチャンスだ、何か……何か、言わなくては。
「アーノルドさん!! 温泉入らなくてよかったの!?」
「…………」
「設備を破壊した請求書は、君たちにつけておくからッ!」
口から出てきたのは、ろくでもない言葉だった。
あー……もうだめだこれは。
返事はなかった。耳が痛くなるような轟音を上げ、扉が閉まる。
静寂が戻る。僕は半壊した温泉の湯船の中で膝を抱え、深々とため息をついた。
§ § §
脳内が煮えたぎるような熱を持っていた。どんな時でも冷静であることを心がけていたアーノルドにも耐え難い熱だ。
アーノルドの全力は日常生活で支障をきたすレベルで高い。そのため、常日頃から力をセーブして動いているのだが、今日ばかりは上手く力を抜くことができなかった。
床を踏み砕きかねない程の足音を立てて戻ってきたアーノルドに、部屋からエイが顔を覗かせる。
アーノルドの顔を見ると、大きく目を見開いた。恐らく、アーノルドの表情が部屋を出ていった時と一変していたためだろう。
歯が砕けんばかりに噛みしめ、剥き出しにすると、アーノルドは低い声で言った。
「エイッ! 鍛え直すぞ。あのフザけた男に、してやられたままでいられるかッ! 真の、本当の高レベルハンターを見せてやる。何が、平泳ぎで修行だッ! 何が、こけこっこだッ!! クソっ! 俺をチキン扱いかッ!?」
「え…………へ、へいッ! ……【万魔の城】には驚きましたが、アーノルドさんは戦えてたんだ。順番に宝物殿を攻略して全員が実力を高めりゃ、いつか必ず攻略できるようになるでしょう」
エイが慌てて返答する。部屋の中に屯していたパーティメンバー達も、アーノルドの荒々しい声を聞き、畏怖を浮かべると同時にどこか表情を明るくしていた。
拳を壁につき、アーノルドは先程までハンターをやめようか悩んでいた事を忘れ、叫んだ。
「当然、だッ! あんな男が、俺たちの上にいるなど、我慢ならんッ! 何が、僕はアーノルドさん達の味方だよ、だッ! この怒りは、奴を越えない限り、絶対に収まらんッ! こんな所で休んでいられるかッ! 明日にでも出立するぞ、準備しろッ!」
「明日ですか……また、短い湯治だ」
「違いねえ。そこまで長く湯治したりはしないとは思っていましたが、まさかたった一日とは」
「えぇ……俺、まだ温泉入ってないんですが」
エイの呆れたような言葉に、それまで黙っていたパーティメンバーが口々に文句を言い始めた。