137 ダメダメバカンス
眼の前に広がる光景に思わず息を呑み、目を輝かせる。
ティノは今まで帝都から離れたことがほとんどない。修行中の身だったし、これまで受けた依頼の多くは帝都から離れないものがほとんどだった。
だから、こんな本来トレジャーハンターが泊まる物ではない(そもそもハンターは宿よりも装備にお金をかけるものだ)旅館に入るのは初めてだったし、こんな大きな温泉に入るのも初めてだった。
帝都を出てから色々あったし負担も大きかったが、今のこの光景を見るとバカンスについてきてよかったと思う。
暖色系の明かりに照らされた広々とした脱衣所にすら気後れしてしまい、隣のシトリーお姉さまにずっと気になっていたことを恐る恐る尋ねた。
「あの……シトリーお姉さま……その……お金は……」
「あぁ、ティーちゃんは気にしなくていいから。遠慮しないで、私達の方がティーちゃんよりもずっと稼いでるんだから……逆にこんな所で遠慮されたら、それこそ私達を見くびっているって事でしょ?」
「あ、ありがとう、ございます」
シトリーの言葉は何気なかったが、有無を言わせぬ絶対の自信が含まれていた。
確かに、その通りだ。ティノもハンターとしては中堅だが、帝都でも名だたるパーティである《嘆きの亡霊》の稼ぎは百倍以上違っていてもおかしくはない。遠慮も過ぎれば無礼になるだろう。
お姉さまは温泉ドラゴンを探しに飛び出してしまったので、脱衣所にはシトリーとティノしかいない。
ある意味お姉さまよりも恐ろしいところがあるシトリーお姉さまにティノは少しだけ萎縮していたが、隣のシトリーは特に気負いもなく、帯をするすると解きながらティノに優しい言葉をかける。
「ティーちゃんも色々あって疲れただろうし、しっかり疲れを癒やして。いつ何が起こるかわからないんだから」
「は、はい」
ちらちらシトリーの方を気にしながら帯を解く。
お姉さまの前で服を脱いだことは何度かあったが、シトリーお姉さまに肌を晒すのは初めてだった。どことなく気恥ずかしさを感じつつ、わたわたとした手付きで脱衣するティノの前で、シトリーは躊躇いなく浴衣を脱いだ。
その姿に、ティノは思わず目を見開き、息を呑んだ。
シトリーお姉さま――綺麗。
リィズの裸は見たことがある。お姉さまは何事も大雑把で豪快な性格だったし、渓流で水浴びする時なども下着まで脱ぎ捨てるような人だ。
お姉さまの肉体も見事なものだった。全体的に引き締まった身体は無駄な肉がほとんどついておらず、日に焼けた裸身には野生の動物めいた美しさがあった。
だが、シトリーお姉さまの裸身は違う。いつも分厚いローブに包まれているためわからなかったが、ティノが予想していたよりもずっとスタイルがいい。
日にほとんど焼けていない肌は雪のように白くしみひとつなく、その肢体は靭やかだが女性的な丸みを帯びており、特に、唯一お姉さまに勝利していた胸部においてはティノよりも大きかった。
盗賊と錬金術師ではトレーニングも必要とされる能力も違うのだから、体つきも変わって当然なのだが、お姉さまに対して胸の大きさにだけは細やかな優越感を抱いていたティノにとってそれは衝撃だった。
「? どうしたの、ティーちゃん」
「い、いえ…………。…………お姉さま……着痩せするタイプだったんですね」
「………………くす」
シトリーが声を抑えるようにして笑う。
全てを見透かされているような視線に、ティノはあまりの恥ずかしさに穴があったら入りたい気分だった。
肌をタオルでできるだけ隠しながら、ロッカーの鍵をかける。その時、隣のシトリーの動作に気づき、ティノは目を瞬かせた。
「……あの……それ、なにを……」
シトリーが二の腕にポーションストック用のバンドを巻いていた。バンドに固定された密閉されたガラス瓶にはティノが探索時に使う物とは違った、様々な色の液体が揺れている。
右腕が終わったら次は左腕に。これから入浴するとは思えない入念な準備に目を丸くするティノに、シトリーは穏やかな笑みを浮かべた。
「お姉ちゃんだって『天に至る起源』はいつも装備してるの見てるでしょ? ハンターたるもの、常在戦場の心得で行かないと」
「えっと……温泉で、何が起こるんですか?」
「何か起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。備えってのは、そういう物なの」
「な、なるほど……」
わかるようなわからないような回答に、ティノは無理やり自分を納得させた。
ここまで備えをするハンターは見たことがないが、自分よりも遥かに頭のいいシトリーお姉さまの言う言葉に間違いがあるわけがない。突出したパーティというのはそういう物なのだろう、と。
それに、シトリーはティノと違って錬金術師――事前準備がなければまともに戦うこともできない職だ。備えをするのも仕方がないのかも知れない。
シトリーはしっかりと準備を終えると、蕩けるような笑顔で言った。
「お待たせ。さぁ、行きましょう? ティーちゃんとは……ゆっくりお話ししたかったの」
§
シトリーに続き、恐る恐る扉をくぐる。蒸気を含んだ、心地の良い熱気がティノを包み込んだ。
大浴場も旅館そのものと同様、ティノが今まで見たことのない見事なものだった。
床はなめらかな石材でできており、裸足で歩いているだけで心地よい。壁には目立たないが精緻な彫刻が施されており、何人も入れるような大きな湯船は透明感のあるお湯で満たされている。
浴場には入ってきたばかりのティノとシトリーを除いて人がおらず、お湯の流れる音だけが天井の高い空間に響き渡っており、不思議な開放感があった。
シトリーお姉さまの言葉もあるので、目を細めて露天風呂も確認するが、外にも中にも誰もいないようだ。
ハンターにとって旅の最中の衛生面は面倒な問題だ。大体の場合、旅中は水で濡らしたタオルで身体を拭いたり、泉などがあればそこで水浴することくらいしかできない。
ハンターはマナ・マテリアルの力でそこまで汚れないのだが、それでも、ストレスがたまらないわけではない。
山越えを経て少しばかり落ち着かなかったティノにとって眼の前に広がる光景は天国だった。
なんて……贅沢。これはますたぁの温情、慣れないように気をつけないと……。
自分を戒めながら洗い場に向かう。高級宿だけあって、洗い場には何種類ものいい匂いのする石鹸が並んでいた。恐らく、普段は貴族の令嬢や大商人の息女が使うようなものだろう。
椅子に座り、少しだけわくわくしながら一個一個持ち上げ匂いを確認していく。いつもティノが使っているのは、可能な限り身体の匂いを消すものだ。盗賊としては当然の行動だが、たまにはいい匂いのする石鹸を使うのもいいと思う。
椅子に腰を下ろし、慎重に選んだ石鹸の一つを泡立てようとしたその時、後ろから声がかかった。
細い腕がするりと伸び、ティノの眼の前に突きつけられる。白魚のような指が摘んでいたのは、薄紫色のポーションの入ったガラス瓶だった。
「ティーちゃん? 実はただの石鹸よりも、こっちの石鹸の方が――クライさんの好みの匂いなんだけど」
「……え?」
思わぬ言葉に、後ろを向く。シトリーが目を細くして、ティノを見下ろしていた。
シトリーお姉さまがますたぁに好意を抱いているのは見るに明らかである。もしかしたら恋心のようなものではないかもしれないが、その間に強い絆があるのは間違いない。
そんなシトリーお姉さまが、たかが一弟子であるティノに何の理由もなく手を差し伸べるなどありえるだろうか?
「どう? いつもわざわざ調合してるの。いらないなら――いいんだけど……」
それは悪魔の誘惑だった。なぜそんな物を調合したのかわからないが、シトリーお姉さまは癖が強い人間だが、頭がいいだけに恨みを買うような嘘をついたりしない。ポーションの効果の強さはクランメンバーのお墨付きだ。
いや、そもそも、いつも調合しているのならば、いつも使っているのではないだろうか。
頬を染め、身を縮める。いるのかいらないのかで言えば――欲しい。使ってみたい。
誰に褒められるよりもますたぁに褒められたいのだ。ますたぁがティノの事など意識するわけもないが、気を惹けるかもしれない物が目の前にあるのだ。
だが、言葉は出せなかった。焦げ付くような焦燥に、無言で下を向く。シトリーお姉さまはにんまりと笑うと、ティノの後ろに座った。
敵に背中を取られたわけでもないのに、何故か寒気を感じ、思わず身体を震わせる。シトリーは明るい声でゆっくりと言った。
「そうだ……疲れてるでしょ? 私がティーちゃんを……洗ってあげる。ティーちゃんは何も考えず力を抜いていればいいから……安心して、マッサージは得意なの。私の事だけ……考えて」
まずい。これはまずい。頭の中で警鐘が鳴り響いていた。シトリーお姉さまの指先が肩に触れ、そのくすぐったさに思わず小さく悲鳴が出る。
心臓が激しく打っている。逃げなくてはならない。だが、足が動かなかった。そもそも果たして、逃げてどうなるだろうか?
未だかつてない危機だった。自分は――選択肢を誤ったのだ。対面の鏡に映ったシトリーお姉さまの口元は笑っていたが、その瞳は、まるで術式を施す医者のように冷徹だった。
断るべきだった。(恐らくシトリーお姉さまが自分のために作った)石鹸など要らないと、何を言われたのかわからないとでも言うかのような表情で即座に断るべきだったのだ。
絡め手に長けたシトリーお姉さまの手管はお姉さまの暴力よりも恐ろしい。
立ち上がろうとするが、肩を抑えられていて動けない。シトリーお姉さまは右手だけで密閉されたガラス瓶の蓋を外す。とろりとした薄紫色の液体が揺れる。
それがシトリーの手の平にたっぷりと塗られ、その指先が震えるティノの背中に触れようとした瞬間、どこからともなく叫び声が聞こえた。
『しとりいいいいいいいいいいいい! ドラゴンだ! ドラゴンがいたぞおおおおおおおおおおッ!』
「ドラ……ゴン?」
絶体絶命。緊張の極致にあったティノにとって、救いの言葉だった。
意味は全くわからなかったが、シトリーの手がぴたりと止まり、その表情から笑みが消え、小さく嘆息する。
素早く手を洗い流すと、放心しているティノに言った。
「さぁ、何やってるの。あっちは男湯――でも、呼ばれたんだから、助けに行かないと――露天風呂からなら近いはずだから」
「え? はい。ええ?」
ドラゴンなどいるわけがない。最下級であっても、人間程度容易く屠れる強大な魔物だ。
常識的に考えれば、街に近づいただけで大騒ぎになるはずの魔物なのだ。
混乱しながらも、今のままいるよりはいいはずだと、立ち上がる。
既に駆け出していたシトリーお姉さまの後に続いて駆け出す。
露天風呂に出ると、シトリーが観察するような目で頑丈そうな高い塀を見上げる。
その時、ティノは大変な事に気づいた。
「シトリー、お姉さまッ! 私達、裸、ですッ!」
「だから何? ティーちゃんは襲撃時に裸だったら無抵抗なの?」
「それは――」
まったくもってその通りだ。
思わぬ正論に固まるティノの前で、シトリーはバンドからポーションの一本を抜くと、それを思い切り塀に叩きつけた。
§ § §
意味がわからない。さすがに温泉でドラゴンに襲われるのは、僕のハンター人生の中でもわけわからないランキング十位以内には入る。
しかも、ここは人里だ。露天風呂にドラゴンが侵入するとか一体この宿のセキュリティはどうなっているのだろうか?
僕をふっとばして満足しないものか、少しだけ期待するが、水色のドラゴンは露天風呂から立ち上がり、僕の方をしっかりと向いていた。威嚇でもしているのか、その背に生えた翼を大きく開く。
こうしてみると、小柄と言ってもドラゴンだ。翼を開くとかなりの威圧感がある。今思い返せば、ドラゴンを飼っている旅館などあるわけがない。露天風呂に入ろうとする前に気づくべきであった。温泉の魅力にやられていたらしい。
ドラゴンは二足歩行で露天風呂から上がると、僕を吹き飛ばして割ったガラスを踏み込え、内風呂に侵入してきた。
入浴と食事を同時に取るつもりなのか……なんて贅沢なドラゴンだ。旅館の人に感想を聞かれたら大浴場のガラスは強化ガラスにすべきだと進言することにしよう。生きて帰れたら。
ふらつく身体を叱咤し立ち上がると、じりじりとドラゴンから距離を取る。結界指はまだあるが、誰かが撃退してくれなければどうにもならない。『犬の鎖』が果敢に僕の前に立ってくれているが、彼は残念ながら攻撃力は皆無であった。
さっさと旅館の中に逃げ出すべきだ。理性はそう言っているが、僕が駆け出せばこの腹ペコなドラゴンは僕を追ってくるだろう。せっかくの旅館が台無しだし、僕も一応はハンターなのだ。一般人に被害が出るのも避けたい。どうせ逃げても逃げ切れないというのもある。
シトリーは呼んだ。きっと来てくれるはずだ。
じりじりと距離を詰めてくる水色ドラゴンに対し、僕は手の平を向けた。呼吸を落ち着け、時間稼ぎにかかる。
「落ち着け、見てわからないのか? 僕が装備している宝具が! …………食べてもきっと喉に引っかかって美味しくないよ……」
なんと情けない交渉だ。僕のハンター人生の中でも、情けない説得ランキングの十位以内には入るはずだ。
完全に現実感を失っている僕に、水色ドラゴンがあんぎゃあとばかりに顎を開く。口の中にはナイフのように鋭い牙がずらりと揃っていた。気持ちよさそうに温泉に浸かっていたくせにドラゴン的特徴は全て備えているらしい。ふざけんな。
周囲の状況を確認する。温泉なのだから、当然だが武器のような物は見つからない。まぁたとえ武器があってもろくに扱えないのだが、そこに存在するのはまだろくに楽しめていない温泉だけだ。
僕は仕方なく温泉に入った。
ドラゴンが如何にも不思議な物でも見たかのように首を傾げる。そのどこか人間めいた仕草に、僕は声を上げて笑った。
完全にやけくそだった。ドラゴンがゆっくりと獲物を追い詰めるように温泉に入ってくる。『犬の鎖』がその翼に巻き付くがまったく意に介していない。
ハンター多しと言えど、ドラゴンと混浴したハンターなど僕くらいだろう。クランハウスに帰ったら絶対自慢してやる。
そんな誰かが聞いたら鼻で笑うような思考を浮かべた瞬間、不意に外で光が瞬いた。
刹那の瞬間、視界が白で染まる。まだ僅かに残っていたガラスが衝撃で完全に吹き飛ばされ、音が脳を揺さぶる。
衝撃で温泉が波になり、頭から降りかかる。
顔を腕で拭い、目を開ける。ドラゴンがびくりと震え、背後を振り返る。
見る影もない露天風呂。完全に崩壊した塀を踏み越え、身体にタオルを巻いたシトリーとティノが入ってくる。
こちらを見つけいつも通り微笑むシトリーに、僕はうんうん、そうだねと微笑み返した。
もう嫌だ……何このバカンス。
スキップしませんでした。