136 にこにこバカンス④
大浴場の脱衣所には誰もいなかった。どうやら客がほとんど入っていないというのは本当らしい。
素晴らしい贅沢をしている気分だった。鼻歌を歌いながら立ち並ぶロッカーの前に行く。
歴戦のトレジャーハンターは備えを怠らない。その点だけは、歴戦でもなんでもない僕も気をつけていた。
僕は弱い。ただでさえ弱いが、宝具を外せばそこにいるのはただの人だ。だから僕は普段から自室以外で宝具を外さない。そしてそれはバカンスの時でも変わらない。
アクセサリーをじゃらじゃらさせながら温泉に入るのは気が引けるのだが、背に腹は変えられないのだ。
ルークやアンセムがいれば守ってくれるので数を抑える事もできるのだが、今回は僕一人しかいないので妥協することもできない。
「泥棒がいるかもしれないし……」
独り言で言い訳をしながら、服の上から装備していた宝具を外し、一旦服を脱ぐ。
腰に巻いていた『犬の鎖』は持ち歩くのも面倒なので起動していく。生き物のように起き上がり『おすわり』する鎖の首や尻尾に、指の数が足りず袋に入れて持ち歩いていた指輪を一個一個通してやる。半自動で動いてくれるタイプの宝具はこういう時に楽でいい。
腕輪にネックレス。ペンダント、サークレットと順番に『犬の鎖』に預け、続いて腰に下げていた鍵束を引っ掛けてあげる。ちなみに鍵束に下がっている鍵も全部宝具である。鍵型の宝具もかなりポピュラーなのだ。
と、ポケットを検めると中から金色の鍵が出てきた。一瞬、それがなんだかわからなかったが、すぐにクロさん達の首輪の鍵だと思い当たる。
少しだけ悩んだが、宝具と違ってこの鍵はマナ・マテリアル製じゃない。宝具は錆びないし滅多に周囲の影響を受けないが、金属製の鍵は錆びるかもしれないし、中にまで持ち込む必要はないだろう。
ロッカーの中にしまうと、タオルを持ってさっさと鎖の犬と一緒に大浴場の方に向かった。
普通の温泉はペットを連れては行けないが、『犬の鎖』はどちらかと言うと犬ではなく鎖なのでセーフなはずだ。そもそも、温泉に鎖を持ち込むのがセーフかどうかは怪しいかもしれないが……。
すりガラスの扉を開ける。濃い蒸気と温泉独特の匂いが押し寄せてきた。
大理石ばりの床をぺたぺたと歩き、中を確認する。犬の鎖が色々アクセサリーが引っ掛けられた尻尾をふりふりしながらついてくる。
高級旅館だけあって、大浴場は見事なものだった。広さはそこまででもないが、床から洗い場まで微に入り細を穿つ心遣いが感じられる。言葉での表現は難しいが、設備の種類から質まで、温泉マニアの僕が見ても非の打ち所がない。血を洗い流すためのスペースがないが、ハンター向けの宿ではないのでしょうがないのだろう。
浴場でも他の客の姿は見当たらなかった。洗い場にも浴槽にも人っ子一人いない。クライ・アンドリヒ、オンステージだ。
最低でもクロさん達は宿にいるはずなのだが、部屋で休んでいるのかもしれない。
僕は指輪を嵌めた手をわきわきさせながら、無意味に大浴場をぐるぐる歩き回る。どこも隠さずに歩き回っても気後れする必要がないというのは少しだけ気分がいい。
浴槽では竜を模した彫刻がお湯を吐き出していた。壁一面には芸術に何の興味もない僕には全く理解できないレリーフが施されている。
残念ながら温泉は泳げるほど広くなかったが、この歳にもなって誰も見ていないからって泳ぐのは子供っぽい気もするので別に構わない。
「完璧だな。露天風呂まであるじゃん」
よし、決めた。引退したらここに住もう。
ガラス張りの壁に近づき、無意味に露天風呂を覗く。
岩を削って作られた露天風呂では、明るい水色のドラゴンが水浴びをしていた。
「…………?」
目を擦り二度見するが、ドラゴンの姿は消えなかった。
全体的に丸っこくファンシーな形をした、どこかつぶらな瞳をしたドラゴンだ。大きさはドラゴンにしては小さいが、全長で三メートルはあるだろう。
ざばざばと浴槽からお湯が溢れている。気持ちよさそうに翼や尻尾を動かすたびに、ガラス越しに飛沫が飛んでくる。
犬の鎖が狂ったように僕の周りを駆け回っている。もしも彼に声帯があったのならば吠えていたかもしれない。
僕はしばらく呆然としていたが、見なかったことにして洗い場に行き、身体と頭をゆっくり時間を掛けて丁寧に洗った。
心臓がまだドキドキしている。先程、シトリーから胸を押し付けられた時に感じたドキドキとは違うドキドキだ。
露天風呂にドラゴンを漬けとくなんて、金持ちの趣味って本当にわからないな……。
全身をピカピカにした辺りで、恐る恐る遠くから露天風呂の様子を窺う。うっすらと水色の影が見える。やはりドラゴンは消えていない。
首を傾げながら温泉にゆっくりつかる。温泉の温度はやや高めだったが、それがまた気持ちがいい。全身の力が抜ける。身体の疲労がお湯に溶けていくかのようだった。犬の鎖が宝具てんこ盛りの状態で犬かきをしている。
だが、頭の中は露天風呂のドラゴンでいっぱいだ。せっかくの温泉なのに落ち着いて堪能できない。
これまで様々なドラゴンを見てきたが、あんなドラゴン見たことがない。
っていうか、常識的に考えてありえない。誰かに話しても、恐らく嘘だと思われるだろう。まだ自分の正気を疑った方がいい。
しばらくお湯に浸かりながらちらちら露天風呂を見るが、露天風呂はドラゴンに占領されたままだった。
困ったな……これじゃせっかくの露天風呂に入れないじゃないか。
いや……もしかして、一緒に入れてもらえるのだろうか?
冷静に考えて、この高級旅館の露天風呂に危険な生き物が入りに来るわけがない。内風呂でもドラゴンがお湯を吐いてるし、もしかしたらこの旅館の名物である可能性もある。
ドラゴン風呂、ドラゴン風呂、か……僕はただの風呂でいいんだけどなあ。
視線を向けると、ドラゴンはとても気持ちよさそうに首を外に出していた。僕にはドラゴンの表情なんてわからないが、恐らくリラックスしているのだろう。
ドラゴンはそこそこ大きいが、浴槽にはまだスペースがある。僕が入ろうと思えば十分入れるはずだ。これまでさんざんな目にあってきたが、さすがにドラゴンと混浴したことはない。もちろん、したいと思った事もないんだけど……。
……やめといたほうがいいかな。
相手はドラゴンだ。そして僕はマナ・マテリアルの抜けきった人畜無害。
ドラゴン側に悪気がなかったとしても、ちょっと身体を動かしてそれが偶然あたっただけでふっ飛ばされるだろう。
ずっとお湯に首まで浸かって考えていたせいか、頭がくらくらしてくる。サウナも行く予定だったのにすっかり忘れていた。
時間はない。お邪魔するべきか、せざるべきか……。していいものなのか。危険なのか危険ではないのか。
いや、向こうの立場になって考えてみよう。
僕はドラゴン。温泉に浸かってリラックスしていると外から人間がやってくる。
人間は弱い。大した力を持っていないし、ハンターのような化物とも違う。僕はドラゴンだ。被害を受ける可能性は万に一つもない。そんな状態でわざわざ攻撃をしかけるだろか?
応えは――否。
僕は意を決して立ち上がった。きっとあのドラゴンはこの旅館の名物だ。ペットなのだ。ならば恐れる必要はない。
なまじ怯えを見せたら問題かもしれない。僕は露天風呂への扉を開けると、ドラゴンの目の前で腕を組み何一つ隠す事なく堂々と仁王立ちをした。
そして、僕はドラゴンのなんとはなしの一撃で盛大にふっ飛ばされた。
ガラスをぶち破りながら大浴場に転がり込む。肌身離さずつけていた結界指が衝撃や欠けたガラスによるダメージを漏れなく防ぐ。
水色のドラゴンがそのつぶらな瞳から放たれたとは思えない眼光で無様に転がった僕を睨みつけている。『犬の鎖』がまるで僕を守ろうとしているかのように前に立つ。
僕は混乱しながらも、上ずった声で叫んだ。
「しとりいいいいいいいいいいいい! ドラゴンだ! ドラゴンがいたぞおおおおおおおおおおッ!」
だめだ、これ。あまりに気持ち良さそうに入っているから一瞬違うと思ったけど、ただの野良ドラゴンだわ。
§
『しとりいいいいいいいいいいいい! ドラゴンだ! ドラゴンがいたぞおおおおおおおおおおッ!』
「!?」
大浴場から聞こえてくる咆哮に、クロとシロが顔を見合わせる。
《千変万化》のロッカーには予想通り鍵が残されていた。既に、首輪は解除されている。後は逃げるだけだ。
まさかここまでうまくいくとは思っていなかった。いや、脱衣所での《千変万化》の言葉を聞く限り、恐らく全ては《千変万化》の想定通りなのだろう。
だが、ここまで来た以上は止まることはできない。警告を聞いた上で盗みを決行したのだ。今更全て白状したところで状況が好転するとは思えない。
「逃げるぞ」
「あ、ああ……あんなイカれたやつに付き合ってられねえ!」
クロの言葉にシロも強く頷く。その顔色が優れないのは、クロと同様、全てがコントロールされているような予感に襲われているためか。
浴場の方では、ガラスが割れる轟音が響いている。クロとシロはロッカーに鍵と首輪を投げ入れると、全力で脱衣所を飛び出した。
ちなみにドラゴンはオスです(男湯なので)。
活動報告にて、コミカライズ版キャラデザ③を公開しました。
第三弾は陰の功労者なあの人です。よろしければご確認くださいませ!
/槻影
更新告知:@ktsuki_novel(Twitter)
P.S.
書籍版一巻、二巻についても発売中です。続刊に繋がりますので、そちらもよろしくお願いします!