122 どきどきバカンス③
馬車が止まり、外から呼び声が聞こえるのを待って、数時間ぶりに地面に降り立つ。
日は落ちかけ、世界は薄暗闇に染まっていた、雲ひとつない朱色の空にはくっきりと明るい月が輝いている。
近くから川の流れる音がした。恐らく、かつての旅人もここを中継点としてガレスト山脈を越えたのだろう。周囲とは違い不自然に木々が伐採され開けた空間は、馬車が止められるだけでなくパーティ3つがキャンプできるくらいのスペースがあった。
もちろん、今日の客は僕達だけだ。そしてそれも、久しぶりの客だろう。
リィズと共にフィールドワークに勤しんでいたシトリーが、興奮したように頬を染め、肉片と血のこびりついた三十センチ程の黒い牙を、まるで宝物を披露するかのように掲げてくる。
「見てください、クライさん! 将軍級トロールの牙です! この広大なガレスト山脈でも滅多に手に入らない貴重品ですよ! とても手に負えない暴れん坊で、ハンターでも手こずるので、滅多に市場に出回らないんです! 普段は森の奥にいるはずなのに、いくら古いとはいえ道を歩いていて襲ってくるなんて! 煮てよし、焼いてよし、削ってよしの高級品です!」
トロールとはオークやゴブリン、鬼に並ぶ亜人種の魔物である。並外れた巨体と膂力、タフネスを売りとしていて、亜人種の中ではかなり手強い区分にはいる。ガレスト山脈に出るとは知らなかったが、亜人種の魔物はかなり広範囲で活動するしトロールの生息域は森の中だったはずなので、遭遇してもおかしくはない。
傍らでは、リィズが満足げに両腕を上げ、背筋を伸ばしている。
「ん……はぁ……………あぁ……たくさん、我慢したかいがあったぁッ! 行きはほとんど魔物なんて出てこなかったのに、やっぱりクライちゃん、さいっこうッ!」
「……ほら……行きはお兄ちゃんがいたし」
「アンセム兄、目立つからねぇ……まぁ、魔物が出てきてもルークちゃんと取り合いになっちゃうし……」
僕が何をやったと言うのだろうか……。
リィズが機嫌良さそうに言う。数メートル離れた所では、シトリーが雇った三人が半死半生の体で地面に座り込んでいた。
うつむいているので表情はわからないが、鎧や外套にはべったりと血が付着し、その鍛えられた肉体からは力が抜けている。幼馴染二人とのギャップが酷い。
リィズ達もハンターになりたての頃はアクシデント(強敵の出現や自然災害などなど)に遭遇する度にぐったりしていたものだが、こうして全く気にしなくなったのは果たしていつからだっただろうか。
そして僕は、逞しく育ってしまった幼馴染を頼もしく思うべきだろうか、あるいは寂しく思うべきだろうか。
「そう言えば……お姉ちゃん、暴れすぎ。あんまり撒き散らかさないでッ! 後から来る人に迷惑かかるでしょ?」
「んなの知らない! 後から来る連中って、どうせアーノルドでしょ? 滅多に人が通る道じゃないみたいだし、別にいーんじゃない? ここで戦闘を解禁したってことは、クライちゃんもそのつもりでしょ? ね?」
「いや、そんなつもりじゃないけど……」
そもそも、アーノルド達が追跡に成功する可能性は低い。むしろ、帝都で待ち伏せされている可能性の方が高いのではないだろうか……やはり、ルーク達をなんとかして連れ戻さないと。
軽い会話を交わしながらも、シトリーの手は止まらない。火を起こし、歩き通しだった馬に餌をやり、野宿の準備をする。淀みのない動きは、彼女が普段から同じ事をやっていることを示していた。
だが、決してリィズの方も遊んでいるわけではない。口笛を吹きながら周囲を警戒しているし、そもそもシトリーは自分の仕事に手を出されるのがあまり好きではないのだ。
パーティで活動していた時はシトリーとルシアが野宿の準備を行い、ルークとリィズ、アンセムが狩りや周囲への警戒を担当していた。僕は皆の調子を確認する役割だった。……何もしていないとも言う。
「クライさん、ティーちゃんは……」
「寝てるよ。ずいぶん疲れていたみたいだ」
もう限界だったのだろう。ちょこちょこ意識が飛んでいたようだし、追加の護衛はシトリーとリィズで事足りるのだから、しっかり休んでおいた方がいい。
うなされていたのは……僕にはどうしようもないが。
シトリーは携帯用の鍋と大ぶりのナイフを取り出すと、ニッコリと笑った。
「では……クライさんがいるのも久しぶりですし、精のつくものを作りますね。たくさん素材が手に入ったんです」
「確かに……少し懐かしいな……」
新規メンバーとしてエリザをパーティにいれるまで、うちのメンバーで料理ができるのはシトリーだけだった。
シトリーの料理は絶品である。最初はそこまででもなかったはずだが、すぐにメキメキ腕を上げていった。
調味料は市販のものだし、材料もその場で狩った動物や摘んだ山菜などを使うのだが……なんというか、やたらと僕の舌に合うのだ。帝都から出なくなってからは食べる機会はほとんどなかったが、それをご馳走になれるだけでもこうして帝都の外に出たかいはあったのかもしれない。
なんだか感慨深くなり、目を細めため息をつく。
まだクランを立てる前――パーティリーダーとして共に冒険をしていた頃、襲いかかってくる魔物や幻影、過酷な環境や宝物殿に挑むストレスで僕はいつも死にそうだった。
だがそれでも、その当時僕に悪い思い出しかないかというと、それは違う。仮面にダメ出しされるくらい才能のない僕だが、あの時、確かにクライ・アンドリヒは――ハンターだったのだ。
こうしていると、かつて共に冒険していた頃の事がまるで昨日の事であるかのように思い出せる。
僕はしばらく郷愁に浸っていたが、シトリーに見られている事に気づき、頬を掻いて言った。
「…………ただ立ってるのもなんだ。水でも汲んでくるよ」
「…………はい。お願いします」
「あ、クライちゃん。私も行く! 魚がいるかもしれないでしょ?」
リィズがしれっと僕の腕を取る。
シトリーは昔から何も変わらない姉に、諦めたようにため息をついた。
§
水の匂いに向かって歩くこと数分、視界が開け大きな川が現れた。
水場は人にとっても動物にとっても、そして魔物にとっても重要な物だ。水なくしてあらゆる生き物は生きられない。例外は過去の幻である『幻影』くらいである。
「やったぁ! 綺麗……やっぱりハンターはこうじゃなきゃねえ」
リィズが目を見開き、嬉しそうに川辺を見回す。時間帯が良かったのか、魔物の姿などはない。
ずいぶん緩やかな川だった。日も落ち、黒い水面が濃い月を映しきらきら光っている。
「水は大丈夫そう?」
「うん! 魚もいっぱいいるみたい!」
綺麗に見えても飲用に適しているとは限らない。マナ・マテリアルを十分吸ったハンターはそう簡単にお腹を壊したりしないが、僕は違う。
僕の問いに、リィズは目を輝かせて元気よく答えると、何の躊躇いもなく水の中に一歩踏み出した。
山の上だ。水温は低いはずだが、ハンターはその程度の事では動じない。
リィズは水の中で機嫌良さげに腕を伸ばすと、
「つめた~い……ちょっと血もついちゃったし、水浴びしよっと!」
僕の眼の前で、服を脱ぎ始めた。
腕部を保護している手甲を川辺に放り投げ、躊躇いなく手を背中に回す。もともと胸部くらいしか覆っていなかった服を剥ぎ取り、ベルトを外し、脚を上げ短いズボンを放り投げる。月明かりの下、(僕からは背中だけしか見えないが)磨き上げられたリィズの肌が露わになる。残ったのは背中の面積に対して限りなく狭い黒い下着だけだ。
あまりにも潔い脱ぎっぷりだ。いくらハンターだなどといっても、女の子なのだからもうちょっと慎みを持ってほしい。
その指先が躊躇いなく、背中――まだ残っている黒の下着のホックに触れ、ぴたりと止まった。
今更ながら、慌てて注意する。
「……リィズ、はしたない」
「……えー、いいじゃん。クライちゃんと私の仲でしょ?」
どんな仲だよ。確かに僕はリィズをよく知っているが、あまりに遠慮がなさすぎると言いたいことくらいある。
血を洗い流すだけならそのままでもいいはずだ。僕はリィズのストリップを見に来たわけではない。
どう止めるべきか迷っていると、ふとリィズは顔だけこちらに向けて笑った。
「でも……今日はやめとこっかなぁ。見られながら脱ぐのもちょっと恥ずかしいし、久しぶりに一緒の冒険、だもんね」
照れているような、どこか艶のある表情で、手を上に動かし、止めていた髪を解く、ピンクブロンドの髪が背中を隠す。
そのまま、僕が何か言う間もなく水の中に潜った。
どうやら水深はそこまで深くなかったらしい、胸の少し下まで水に浸かりながら、リィズがくるりと回る。
「クライちゃんも、一緒に入ろ?」
「……いや、水を汲まないと……」
「そっか……残念……魚、取ってくるね!」
リィズが勢いよく水中に潜る。こんな時でも脱がなかった『天に至る起源』に包まれた脚が一瞬だけ空を掻く。
……リィズも昔と比べたら少しは大人になったのかな。
何とも言えない気分になりながら、僕はシトリーから受け取った水筒を水につけた。
§
僕には負い目があった。
パーティ単位で活動し、一人のミスが全員の生死を左右させるハンターにおいて、弱さは罪だった。だが、リィズ達は一切それを感じさせなかった。そして、僕が冒険から抜けた後、その事を真剣に問い詰めてきた事もなかった。
今も僕が当時の思い出をぎりぎり楽しかった出来事として思い出せるのは、そのおかげだ。一見無配慮に見えるリィズも僕の事を考えてくれている。
「やっぱり、クライちゃんがいると楽しいなぁ……来てよかったぁ……」
川辺に腰を下ろし、水を吸ったリィズの豊かな髪を手で梳く。右手で触れる濡れた髪は奇妙な重さがあったが、日頃激戦を繰り広げているとは思えないくらい傷がない。指先が頭皮に触れるとその度に、腰を下ろし、お腹まで水に浸かったリィズの身体が小さく震える。
「うん、大丈夫。汚れはないよ。血も落ちたみたい」
「ありがと。変な匂いがするといざという時にミスするかもしれないから……」
とてもリラックスしたような、甘い声。
目的は達成したが、すぐに戻るのが勿体なく感じる。僕はリィズの恋人でもなんでもないが――リィズも帰ろうと言い出さないし、たまにはこういうのもいいだろう。
沈黙も辛くはなかった。長く人の手の入っていない自然はずっと眺めていても飽きないくらい美しい。
二人で水面を眺めていると、ふと、突然リィズが真剣な声で言う。
「クライちゃん…………私ね、強いハンターになるよ」
「…………ああ、わかってるよ」
もう十分強いハンターだと思うのだが、その言葉には強い意思があった。
強く、慢心せず、研鑽を怠らず、そして美しい。
リィズは帝都で恐れられているが、同時に何人ものファンを持っている。彼女には心を掴むだけの何かが、突出した何かがあるのだ。
立ち上がると、リィズがこちらを振り返る。最低限の胸部と下半身を隠した黒のレースの下着姿が目の前に露わになる。
思わず視線を向けてしまうが、リィズはその事に対して何も言わずに笑った。
「戻ろっか。ありがと、クライちゃん。久しぶりに二人っきりで……とっても楽しかった」
時折リィズは穏やかな時間を望む。
もしかしたらそれは、ハンターになった事で失ってしまった何かを取り戻そうとしているのかもしれない。
「また、一緒に来てくれる?」
もちろんだ。
僕には負い目がある。リィズ達が今のように急激に強くなった一因は間違いなく僕だった。もしも僕がリィズ達と同じように才能があったとしたら、リィズ達はもう少し『正しく』強くなれただろう。
だが、僕がリィズ達と一緒にいたい理由は負い目だけではない。
まぁ、来てくれるというか、今回ついてきたのはリィズの方なのだが、それは今言うべき言葉ではない。
照れたようなリィズに、いつも通りの笑顔で答えようとしたその時、眼の前で輝いていた表情が曇った。
不機嫌そうに眉を顰め、こちらを責めるような口調で言う。
「クライちゃん…………私ねぇ、これでも勇気を振り絞って聞いたの。いい雰囲気だったよね? いくらなんでも……酷くない?」
「……え?」
風もないのに、どこからともなく木々がざわめく音が、葉が擦れ合う不気味な音がした。とっさに周囲を確認するが、魔物の姿はない。
「確かに、思ったよ? なんで普段森の奥で生息しているトロールの群れがあんな所に大量にでてくるんだろうって」
リィズが髪を掴み、水を絞る。
「なんで、水辺に魔物がいないのかなって。なんでこんなに静かなのかなって。思ったよ?」
濡れたままの身体に小手を装着し、服とズボンを履く。ベルトを固定し、髪を縛る。
「でもさぁ、今のタイミングは酷くない? ねぇ、クライちゃんの事は知ってるけどさぁ、いくらなんでも酷くない?」
木々の隙間から何かが這いずり回るような音が聞こえる。音がどんどん近づいてくる。
大物だ。経験があるから知っている。こういう時、こういうタイミングで現れるのはいつだって厄介な魔物なのだ。
何が起こっているのか。混乱のあまり立ちすくむ僕に、リィズが不機嫌そうな表情で言った。
「絶対、埋め合わせしてもらうから」




