5『ネコさんその後』
その後の話。
一斉にその姿を消した猫じゃらしは無事河川敷へと戻り、どこか違和感の残る日常はようやくいつもの光景を取り戻していた。
そしてその首謀者たる不思議猫・チェシャはあれから姿を現していない。
シマの話によれば、毎日のように通っていた商店街にも、猫じゃらしを集う河川敷にも姿はなく、その消息は不明となっているらしい。
そして僕はというと――、
それは休日の昼下がりのこと。
「ということなのよ」
特にすることのない僕は、日がな一日を勉強しながら過ごしていた。
はずなんだが。
「何でぼくはここにいるんだよ」
そこは先週、僕が白ウサギと共に厄介事を被った舞台である河川敷。そこに建つ一軒の駄菓子屋だった。
どうやら不幸というものは立て続けにやってくるものらしく、あれから一週間。無事河川敷に猫じゃらしが戻ったということもあり、僕は安心して勉学に励んでいたはずなのだが、そうは問屋が卸さないのである。
今日の来客――まぁ今回ばかりは僕の方が来客なのであるのだが――はまたしても『猫』。
それも、今度の猫は厄介な方の猫だ。
「にゃんだ、人間」
そう。猫じゃらし事件の主犯格にして単独犯、美少女の姿をした摩訶不思議猫。
チェシャ猫が、そこにいた。
駄菓子屋の店主であるおばあさんの膝の上で、丸くなりながら。
「はぁ……」
僕は盛大にため息を吐く。
いや、ため息なんて不快に思うかもしれないが、ここは心中察して欲しい。
だってそうだろ? 先週あんなにゴタゴタあって、なんとか解決したはずのこの依頼。その犯人である猫野郎(雌)がまさかこんな暢気に、それも激戦を繰り広げた河川敷の駄菓子屋に我が物顔で居座っていれば、誰だってため息の一つや二つくらい吐きたくもなるってものだ。
「何が、というわけだ、このウサ公。小説舐めんな。というか僕を舐めるな。そんな一言で二度も三度もどうにかなると思ったら大間違いだ。然る説明をした後さっさとご退場願え。むしろ僕が帰る」
「んもう、図々しいわね」
「どっちがだ! いいか、僕は勉強がしたいんだよ。それも静かにだ。なのにまた堂々と問題を、それもこの前の原因であるこの猫のとこに引っ張ってきやがって」
「ごちゃごちゃ言いながらもついて来たのはアリスの方じゃない」
「姐さん。きっとこれは兄貴なりのジョークってやつっスよ。ノリツッコミっス」
「お前もだよお前も! 何でお前も当たり前のようにここにいるんだよ!」
「何言ってんスか。おいらと兄貴の仲じゃないっスか」
「ああもういい。話が進まん。それよりもそっちの猫だ。何でそいつがここにいる。そいつはあれから行方知れずだったんじゃないのか」
そう。あの後、河川敷には猫じゃらしという名の平和が戻った。
それと同時に、その元凶であった暴れん坊猫・チェシャは姿を眩ました。
町中の猫と交流のある情報通のシマですらその行き先を掴めぬまま、一週間の時が経過したのだった。
「はずじゃないのかシマ?」
「い、痛いっス、兄貴……」
ギリギリと、縞猫の頬を引っ張りながら問いただす。
「い、いや、それがオイラにもよく……」
言いながら、シマの視線は白ウサギへと泳ぐ。
「ふぅ……。やっぱり、お前か」
その白い大福餅は変わらぬ瞳で僕を見つめ返してくる。
「どういうことだ」
「簡単な話よ。その娘、もともとあっちの住人だったの」
あっち。
それは詰まるところ、ここではない別の世界。不可思議世界。
予想はしていた。チェシャの異様な姿、特異体質と呼ぶには幻想的過ぎるその能力。
だが、今それは問題ではない。
「それで?」
「それで、この娘が住んでたって世界、この前わたしたちが行ってきた世界のことなの」
「は?」
え? それってつまり、春休みに僕たちが迷い込み、ひょんなことからあちこち荒らしに荒らしまくった末、あまつさえ世界まるごと崩壊させてしまったあの世界のこと?
「そう。その世界よ」
考えを察したのか、白ウサギは僕の顔を見て肯定する。
うそん。
そんな偶然って普通あるか。
「『この世に偶然はない』」
「っ――――」
「『出逢いは必然』『この世全てのものは縁によって結ばれている』よ」
意味深に、白ウサギはそう語る。
「……とりあえず、事情はわかった。そこでもう一つ質問だ。何でこいつがここにいる?」
前回の僕たちの騒動が今回の遠因であることはよくわかった。だが、だからと言ってチェシャが今ここにいる理由はないはずだ。そもそもの話、この猫はこの店に迷惑をかけていた張本人なのだ。店主であるおばあさんが捕まえるだの退治だのを考える人ではないのはよくわかっているが、それでも納得いく話ではないだろう。
「えっとね、それは――」
「それはチェシャがここを気に入ったからにゃ」
横から口を挟むように、チェシャは実に簡潔に、わかりやすい答えを返してきた。
「ああ、そう……」
…………もう、いいや。
「はぁ……、まあいい。それで、結局のところ、僕にどうしろと?」
「それこそ簡単な話よ。自身で生んだ縁は自身で解決するもの。しばらくの間、この娘をうちで預かるのよ」
「……冗談だろ?」
「マジよ」
「……はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
特大のため息が、肺の奥底からこそげ落ちた。
「兄貴、元気出してくださいな」
「シマ……」
「ほら。おいらのとっておきの鰹節、分けてあげやすから」
「…………」
寄越されたのは、猫の額ほどもない切れっ端だけ。
「え、ちょっ、兄貴、無表情で首根っこ掴まないでくださいよー、びっくりするじゃないですかー、もう、――い、いや、ちょっと待ってくださ……、待って、扉開けないで、メジャー級の振りかぶりしないで、マジで、あ、あ、あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
ピシャリ。
「ふう……。で、だ、チェシャ」
僕は落ち着きを取り戻し、おばあさんの膝の上で優雅に寝そべるチェシャへと語りかける。
「なんにゃ」
「お前はそれでいいのか」
「別に構わないにゃ」
しれっと、チェシャは言う。
「即答だな。うちにいるのは僕と、この白ウサギだけだ。はっきり言って、異常だぞ? 僕はともかく、この白ウサギは何をするかわからないぞ?」
「うぐ……。それは……、少し不安にゃが」
でも、とチェシャはおばあさんの顔を一瞥する。
「チェシャは普通とは違うにゃ」
「……まぁ、そうかもな」
「チェシャは猫にゃけど、猫とは違うにゃ。でも、人間でもないにゃ」
「…………」
「そんなチェシャには居場所なんてないにゃ。前にいたとこはチェシャとは違うけど、チェシャみたいに違うヤツらがいっぱいいたにゃ。仲間にはにゃれにゃかったが、誰にも変とは言われなかったにゃ。でも、もうそこはないにゃ。だからまたこっちに戻ってきた。にゃけど、やっぱり居場所にゃんてにゃかったにゃ」
「そんなことは、ないだろ」
僕は優しくチェシャを撫でるおばあさんを見る。
少なくとも、この人はチェシャを否定はしないはずだ。
受け入れてくれるかは別の話かもしれないが、居場所がないなんて――
「それはダメにゃ」
「え?」
「チェシャは普通とは違うにゃ。普通じゃないチェシャは、周りも普通じゃなくなるにゃ。それじゃあ、ダメなのにゃ」
それは、理解できる気がする。
この世界には不思議なものが数多く蔓延っている。気付いていないだけで、それは僕たちのすぐ側に、いつでも存在している。だけど、それはやはり別の世界の話だ。不思議はすぐ側にあれど、それらは決して触れることのない、認識の外にあるものだ。常識という境界線がそこにあるからこそ、日常は日常として廻り、不思議は不思議へと消えていく。それはこの世の必然であり、道理だ。もしもわずかでもこちらを垣間見たものは、もう普通ではいられない。今まで普通に見えていたものの全ては不思議へと変わり、やがて不思議は日常へと変わる。今の、僕のように。
今のおばあさんはチェシャのことをただの猫にしか見えていない。それはおばあさんが境界線の内側、普通の側の存在だからだ。
だが、チェシャと暮らし続ければ、いずれその境界線はあやふやとなり、超える。
そうすれば、もう元には戻らない。
一度壊れてしまった物が、もう二度と元には戻らないように。
チェシャはそれを理解した上で、この居場所を拒否したのだ。
唯一自身を認めてくれたであろう、この駄菓子屋を。
「よし、わかった」
パンッと、僕は手を叩く。
「にゃ?」
「お前をうちにおいてやる」
「あら。いいの?」
「ああ。もうこうなったらウサギの一匹や猫の一匹変わらん。僕の家でまとめて面倒みてやる」
「あらあら。柄にもないこと言っちゃって」
「うるさい」
「ほ、ほんとかにゃ」
チェシャは意外にも、驚いた様子で目を見開いていた。
「ああ。ただし、僕の勉強の邪魔はしないこと。それと、食い扶持はそのうち自分でなんとかしろ。いいな?」
「にゃ、にゃ! わかったにゃあ!」
チェシャは嬉しそうにそう言うと、おばあさんの膝からぴょんと飛び上がり、僕の顔面に抱きついてくる。
おばあさんから離れた影響か、チェシャはこの前の美少女の姿へと変わり、僕にその豊満なボディを擦り付けてくる。
ふ、ふむ……。これはこれで悪くないものだな……。
「ニヤけた顔しちゃって……」
なぜか白ウサギが悪態をついてくる。お前だって僕の勉強中に意味もなく押し付けてくることがあるだろう。おかしなヤツだ。
僕はとりあえず抱きついてくるチェシャを引き剥がし、立ち上がる。
「よし、そんじゃま、帰るか」
「ええ」
「にゃ」
そうして僕と二匹が店を後にしようとしたとき、
「ねこちゃん」
おばあさんが、しわがれた声でチェシャを呼び止める。
「いつでも、帰ってきていいからね」
「っ――――――――」
チェシャはしばらく黙ったままだったが、やがて、
「にゃあ!」
元気よく、そう鳴き声を上げる。
「また来ますね、おばあさん」
「わ、〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「お、おい、何でお前が泣いてるんだよ」
「、〜〜〜〜〜〜〜〜」
「ふふ……。あいよ」
おばあさんはそれ以上は何も言わず、静かにチェシャを見送っていた。
昔と変わらず咲き誇る、猫じゃらしとと共に。
テテレテッテテー
【チェシャ猫 が なかまに くわわった】
え? なにこれ。
これいったか?
今ので終わりでよくないか?
おい。
終わり