3 逃走
ハイガが目を覚ましたのは、おおよそ寝入ってから一時間後だった。
というよりも、何かが近づいていることを肌感覚で察したからこそ目を覚ましたというべきだろうか。
この第六感ともいえる感覚の鋭さが、実のところハイガの生命線であり真骨頂である。
大きく伸びをする。
泥のように体にこびりついていた無形の疲れがその伸びに砕けて、パラパラとほどけ落ちたように感じる。
(……そうだな……アレを使ってみるか)
ハイガは魔術式を脳内で展開し、あらかじめ考えていた新たな魔術を構築していく。
今回の魔術が作用対象は自分自身であり、魔術を完成させること自体は容易だった。
「【感知拡大】」
起術キーを唱えると、自分の周囲に薄い膜が張り巡らされているような心地がする。
光、熱、振動、音……全ての情報がハイガを駆け抜ける。
この魔術は、感覚を拡大・補助するための魔術である。
とはいえ本当に視力や聴力が増加する、ということではない。
むしろ、本来のそうした感覚を十全に発揮させるための魔術、と言った方がいいだろうか。
人間の感覚というのは酷くあいまいである。見えたもの、聞こえたもの、触ったもの……全ての感覚情報を適切に処理するというのは、人間にはほとんど不可能だ。
通常、感覚の大部分は情報として無視され、その一部を人間は感覚として受け取るのである。
もっとも、その無視される部分というのは訓練によって意識的に受け取ることができる。
例を挙げれば、絶対音感などといった一般に超感覚とされる技術がそうだ。
本来、人間には絶対音感を成立させるくらいの聴力スペックが存在する。それを訓練により十全に発揮させたのが絶対音感能力の保持者だ。
これは聴覚以外の感覚にも言えることで、訓練で人間の感覚を引き出すことができる。
その結果は例えばシックス・センスといった超人じみた洞察力であり、ハイガは通常時でもこの領域に片足を突っ込んでいる。
そのハイガの感知能力が魔術的に、十全に引き出されたらどうなるのか。
その結果が、コレだった。
(速い……距離は、二キロ……いや、どんどん近づいている……二足歩行……ッ……人間か? ……いや、断定はできない……)
千里眼じみた空間把握能力。
実際に目にしているわけでこそないからソレが何であるかまでは分からないものの、シルエットすらもはっきりと脳裏に浮かぶ。
ハイガは魔術行使を停止した。
この魔術は強力だが、難点として常に意識的に行使していないと、すぐに効果が切れてしまう。
魔術は本来とは違う状態を無理矢理に生み出す術だ。
それが『燃焼』といった現象の発現ならともかく、自分自身に作用させるとなると、体に修正力が働き、揺り返しが簡単に起こってしまうので、持続的に魔術を発動させなければならないのだった。
偵察といったことには有用だが、例えば戦闘中にはこれを持続させることは不可能だ。
また、先ほどまでいた森の中では障害物が多すぎて情報過多に陥り、まともに情報を精査できない。
有用ではあるが、まだまだ難点の多い魔術なのである。
ぐわん、と耳鳴りのような衝撃をハイガは感じた。急に空気が薄くなったような気がする。
(……超感覚の反動か)
正体の分からないものに真正面から相対するなど、どうしようもない愚かである。察するに、後数十秒ほどで件の存在はここに到達するだろう。
何かの策を弄する暇はない。ハイガは近くの草むらに身を隠した。
直後、現れたのは予想に違わぬ少女だった。
年頃は十四、十五ほどであろうか?
肌は白く、髪の毛は淡い黄金の色でさらさらと揺れ、華奢な体つきも相まって、どこか幻想めいた雰囲気を醸し出す。
瞳の色は淡い蒼翠。透き通った水を思わせる美しさだ。
体を覆うのは革製の防具だろうか。あまり見慣れない質感である。
全体的に生命感を感じさせる少女で、溌剌とした可愛らしさを持っている。
誰がどう見たって、美少女と評することだろう。
が、しかしこの時のハイガにはそんなことは至極どうでもよかった。
(人だ……人だ、人だ人だ…………!)
ハイガはもう、人間がそこにいるということだけでテンションが上がりきっていた。
そういえば、アマゾンで三十一日目に人影を発見したときのうれしさもこういうものだった。
あの時現れたのはひげ面の木こりのオッサンだったが、正直そんなことはどうでもよかった。
ただ、人間がそこにいるというのが無性にうれしくて、歓声を上げたことを覚えている。
今回も同じことで、たとえ現れたのがこの少女でなく筋骨隆々のオカマでも、やはりハイガはどこまでもうれしく思っただろう。
(落ち着け……落ち着くんだ……)
ハイガは深呼吸した。
せっかく出会えたのである。大喜びの狂乱状態で出ていって逃げ出されては、目も当てられない。
落ち着こうと意識している時点で既に十分混乱していたハイガは、己が全裸であることを忘れて少女に声をかけた。
無理に落ち着こうとして、多少言葉は堅くなってしまったかもしれない。
が、たとえフレンドリーな言葉をかけたとて結果は一緒だっただろう。
「きゃああああああああああああああああああああああああ!!!!」
悲鳴が空にこだまし、少女は目にも止まらぬ速さで立ち去り、後には呆然とするハイガが残された。
ハイガは数分立ち尽くし、のろのろと服を着て、ポツリ呟いた。
「……俺が……悪かったのか……?」
――是。悪いのは全面的に……。
「うっせえ黙れ」
『この世界の常識を説く声』に非難されるのは、存外にキツかった。
十数分が経ち精神を落ち着かせたハイガは、出発することに決めた。
ここがどこであれ、少なくともあの年ごろの少女が来ることのできる場所である、ということはそんなに街から遠くもない。
頑張れば、夜までにたどり着くこともできるかもしれない。
そう思い歩き出そうとしたハイガの足は、ふと止まった。
「【感知拡大】」
一瞬だけ感知魔術を展開する。が、そんなことをするまでもなかった。
数百メートル先に見えるのは、先ほど逃げていった少女がこちらに猛スピードで走ってくる姿。
こちらを見つけて表情を絶望に歪ませる少女の後ろには、少女を追う影があった。
(な、なにアレ……! なにアレ! ~~~~~~~~もうっ!)
カルーアは岩の影に座り、バクバクとする心臓を落ち着けていた。
(……見ちゃった。見ちゃったよ…………はっ! いやいや、忘れなきゃ!)
カルーアはぶんぶんと頭を振り、網膜に焼き付いた揺れるサムシングを忘れ去ってしまおうと努める。しかしそんな思いとは裏腹に、青年の裸体はますます脳裏に浮かぶのだった。
(……いい体だった……じゃなくて! なんであんなところに、裸でいたんだろう?)
そう自問すると、ほんの少し思考をピンクに色づかせながらも比較的聡明であるカルーアは、すぐに答えに思い至った。
(ううー……私のせいじゃない? 川浴びをして戻ったら、自分の服を握り締める女……剣呑にもなるよね……)
それなのに悲鳴をあげて逃げるなんて、なんだか悪いことしちゃったな……と妙に反省じみた思考に至った。
……まあ、事実はともかく。カルーア視点ではその通りであった。
(でも、戻って謝るわけにも……ううっダメ! 思い出しちゃう!)
またもや赤面するカルーア。
(無理無理、無理だから! ……今日のとこは帰ろう。この近くにはフェール以外に町はないから、あの人も多分、フェールの街に来るんだろうし。門番の人に聞いて、後日謝るってことで……うん、いいんじゃないかな?)
あと、レーナには黙っとこう。レーナは親友だけど、絶対からかってくるだろうし……などと思考したカルーアは、立ち上がり、岩場から一歩を踏み出した。
するとそのすぐ目の前には……
「GAAAAAAA!!!!」
体の芯まで震えそうな音圧。凶暴な意思を乗せたうなり声。
眼前に牙をむき出しにした魔獣が一匹と、遠方からこちらへと駆けてくる同種の魔物がもう一匹。
(……グラスウルフ!)
顔にかかる生臭い息の感触に一瞬硬直したカルーアは、しかし瞬間的に、かろうじて動き出すことに成功した。
グラスウルフ。
単体では下級の魔獣だが、二匹以上になると一気に中級の扱いをされる魔獣である。
無論、その恐ろしさは連携と、決して途切れないスタミナ。
まだ年若い魔術師が命を散らす大きな原因の一つとして恐れられる存在である。
油断していた自分をカルーアは罵倒する。
(馬鹿! ちょっとネルヴァ大森林に近づけば一気に危険が増すなんて、そんなこと知っていたはずなのに!)
全速力で走りながら後ろを見ると、ぴったりと後ろをとりながらグラスウルフがついてきている。この、相手がへばるまで追ってきて弱ったところを仕留めるのが、グラスウルフの定石だ。
相手がはぐれのグラスウルフであれば足を止めて格闘戦を挑むというのもありだ。
しかし、二匹が相手となると一気に対処は難しくなる。
カルーア程度の魔術師にとって、その行為は不利ではなく不可能であった。
カルーアは街と反対の方向にひた走る。逃げるにしても、決して街に魔物を近づけないというのは魔術師の鉄則である。
街を魔獣の害から守るはずの魔術師が街まで魔獣を引き寄せていれば、話にならない。
と、脳裏にあの青年の姿が浮かぶ。
(……あの人のところに行けば、助かるかも……? だって、あんなところに一人でいるくらいだから強いんだろうし……っダメ! それはダメ……!)
自分を追ってきている魔獣を、通りがかりの他人に擦り付ける行為。
もちろんのこと、それは忌み嫌われ非難される行為である。
『力なき者は死ね』
魔術師の間での常識である。
魔術師とは力持つものなのだから、それを持たない魔術師に価値はない。
当然、魔術師を志す者としてカルーアもこれに殉ずる覚悟だった。
カルーアは無意識のうちに取っていた進路を修正し、あの青年に向かう方向から離れようとする。
が、しかし。
「……っ!」
行く手から追い込むように現れるのは二匹目のグラスウルフ。カルーアは方向をもとの方向に戻すことを余儀なくされた。
これはグラスウルフの本能的行動である。捕食者たるグラスウルフは、しかし油断はしない。
獲物を走らせて弱らせるにしても、できるだけ獲物の望まない道を行かせようとする。
何故なら獲物の進みたがる道というのは獲物の得意な道ということであり、それはひいては狩りの失敗につながるからである。
が、複数体のグラスウルフと遭遇することなど想定していなかったカルーアには、そんな知識はなかった。
必死に方向修正を試みて、その度連携により青年に向かう方向へと戻される。
カルーアの心は次第に絶望に支配されていった。
(このままじゃ、あの人のところに着いちゃう……)
やがてカルーアは悲惨な決意をする。
(もしかしたら、もうあの人はあそこからいなくなっているかもしれない。……もし、まだあの人がいた時には……)
立ちどまって、この二匹を押しとどめよう、と。
その結果、食い殺されたとしても。
カルーアのスタミナはもう限界だった。
一時的に振り払っても、すぐに追いつかれ、逃げきれない。
息を切らしながら走り続ける。
(これじゃ……あの人がいなくなってたって結局私は……)
心が弱気に支配されそうになる。
しかしカルーアは必死に自分を叱咤する。
まだ、もしかしたら何とかなるかもしれないのに諦めるなんて、そんなのは恥だ。
そう、例えばあの青年がいなくなっていれば、そのまま川に飛び込みでもすれば。
グラスウルフが泳げるのかなど知らなかったが、もしかしたら生き延びる可能性はあるかもしれなかった。
しかしカルーアの顔は絶望に歪む。
数百メートル先にあの青年が見えた。
青年もこちらを見つけているのか、驚愕の表情をしている。
カルーアは泣き笑いながら、静かに死の覚悟をする。
天涯孤独の自分を、たくさんの人が助けてくれた。
おかげで生きてこれたし、幸せだった。
恋人はいないけど、親友はいた。
うん。
幸せだった。
でも、立派な魔術師になりたかったなあ……。
これはこの世界にはありふれた光景だ。
昨日だって今日だって明日だって、世界のどこかで若い魔術師は夢見ながら簡単に死んでいく。
このカルーアという少女も、その運命に逆らえないはずだった。
世界の営みのほんの小さな一部として、その生を終えるはずだった。
しかし、たった一つ。
この場にありふれていなかったのは、もちろん――
――ハイガという、若き魔術師の存在だった。
「――――――べぇっ!」
グラスウルフと相対するために反転しようとしたカルーアの耳朶を、大声が打つ。
あの青年が、何か言っている?
「――――――べっ!」
いったい、何を――。
「――――――跳べーーーーっっっ!!!」
瞬間、少女は足に力を込めた。
そして、力の限りに跳んだ。
なぜ、従ったのか。そんなことは少女にもわからない。
けれども、その青年の声には。
その青年の声には、カルーアを無性に信じたくさせる何かがあったのだ。
カルーアは数秒浮遊し、体を地に打ちつけ、そして――
一話が五千字くらいのペースで投稿します。