11 ヒノキという少女
僅かに頭を後方にそらす。
そのすぐ上を、紙一重で鬼面猿の腕が通り過ぎる。
風圧を顔に感じながら、ヒノキは体を半回転させる。
そしてその勢いで、短刀にて鬼面猿の肩口を切り裂く。
痛みに悶える狂声、宙に舞い散る血しぶき。
硬直も僅かに、その剛腕による一撃が襲いかかる。
「ふっ……!」
当たれば致死のその脅威。
それを既に予測し終えていたヒノキはまたもや薄皮一枚を挟んでその圧倒的暴力をいなし、突っ込んでくる鬼面猿の身体を巧妙に避けながら、その運動エネルギーすらこちらが相手を切り刻む力に添加。
毎日の手入れを欠かさない上等の短剣は、正確に敵の心臓を捉えた。
基本的に魔獣の身体能力は高い。
それは生命力、しぶとさという点でも言えることで、特にこの鬼面猿という魔獣は、心臓をつぶしただけで即死してくれる相手ではない。
しかし致命傷は致命傷であり、いつかは鬼面猿の生命力の最後の一滴が途切れることは明らか。
自らの死を悟り、せめてこちらを道づれにしようと狂奔するその攻撃を、ヒノキは絶対の冷静さを持って避ける。
避け続ける。
もはや慣れきった作業だ。
今さら魔獣の最後のあがきに怯えるということもない。
予想に違うことなく、鬼面猿はほどなくして力尽きた。
そのヒノキよりも頭二つは大きい体躯が、どう、と音を立てて地面に倒れこむ。
生命活動が完全に停止したことを確認し、ようやくヒノキは、小さな安堵のため息漏らした。
第四階層。
探索者にとってはちらほら越えられない壁となる階層であり、多くの探索者がこの階層のさらに先、五階層よりも深い、いわゆる『深層』の攻略を諦め、三階層と四階層でひたすら魔物を狩りながら日銭を稼ぐ。
四階層、というよりも四階層よりも深い階層に言えることだが、上階層のようにマップが単純ではないという特徴がある。
例外の階層ももちろん存在するものの、深階層というのは基本的に地表とあまり変わりはない。
つまり、大地があり、海があり、空があり、山があり、森があり、ありとあらゆる地形が存在する。
その上で地表と異なるのが、非常に強力な魔獣が闊歩するという点である。
かの『神域』というアンタッチャブルな地域も地表には存在するが、そういった特例を除けば五階層以降の魔獣は、そのほとんどが地表の魔獣を上回る強さを持つ。
その手前に位置する四階層に出現する魔獣は地表であれば生態系の頂点に位置するような魔獣ばかりであり、探索者が限界を感じるというのも無理からぬ話であろう。
またマップが複雑化することにより、探索者は常に足場の変化や気候の変化、水場の有無といった情報に敏感になり続ける必要がある。
それもあってか四階層よりも時間効率のいい三階層に探索者は集中する傾向があり、探索者の数は若干の落ち着きを見せる。
これまでの階層とは打って変わった、探索者に迷宮が『人間の領域』ではなく『魔獣の領域』であるという事実を突きつける階層。
それが、四階層という階層であった。
さて、そんな階層をヒノキは。
(ここから北には平原。西には山岳。東には湖沼。……帰還転送陣は北にあるし、平原を突っ切る。……他は足場も悪いし、初回に踏み込むべきじゃない)
事前に得た情報を頭の中で反芻しながら、細心の注意を払いながら攻略していた。
ヒノキは、自分が弱者であると知っている。
もちろん一般人と比べれば強者ではあるが、魔獣と闘争する迷宮という領域で一般人に比べ勝っていても意味はない。
魔術師でありながら魔術師とは思えないほど貧弱な身体強化しかできないという、その致命的な欠点。
それを誰に言われるでもなく、自分自身が一番に把握しているからこそヒノキは他の魔術師がしないようなことに必死になって取り組む。
それは例えば情報収集。
ヒノキは新しい階層に挑むときには、関連するあらゆる情報をそらんじることができるほどにその階層を事前に調査してから侵入する。
仮に魔獣の群生地に入り込んでしまえば、それだけでヒノキはゲームオーバーだ。
基本的な身体強化率が低いため、魔獣と比べれば移動速度が大きく劣り、追い付かれる。
ヒノキには、一度魔獣とエンカウントすれば勝利するという選択肢しかないのだ。
そしてもしくは、敗北と死か。
さらには例えば、武器の管理。
ヒノキの貧弱な身体能力では、素手ではスライムの核を取り出すことがやっと。
だからこそヒノキは、それを補える優れた武器を手に入れることに余念がない。
今手にしている短剣にしても、かつて一年間に貯めた金額を全てつぎ込んで製作してもらったものだ。
この世界において、武器というものは軽視されがちである。
熟練の魔術師が本気で拳を握れば、それだけで常人は十人単位で吹き飛ばされ、あるいは肉片になる。
なまなかな武装では、その差を埋めることすらできない。
『魔術師ならば己の拳に懸けよ』
魔術師の常識であり、そんな魔術師ばかりのこの都市では、武器使いというのはそれだけでも風当たりが強く、己に実力がないことを喧伝するようなものであると見なされている。
無論のこと、武器を使って無手の魔術師に叶うならばそれはそれで『強さ』を尊ぶ魔術師のこと、一定の尊敬は得られるのであるが、そうできるような魔術師の大半は、武器など使わずとも強い。
そのような風潮の魔術師の中にあっても、ヒノキは武器に気を配るし、その手入れは欠かさない。
魔術師として最下層であるという自覚があるからこそ、嘲られようとも貶められようとも、己の命を預けるものをのみ信ずる。
ヒノキという少女には、良くも悪くも魔術師としての誇りなど存在しなかった。
「これで……終わりっ」
とどめを刺して、一息つく。
別に取り出したナイフで、新しく討伐した魔獣――おそらく灰毛狼だろう、事前に仕入れた情報と姿形が一致している――の討伐証明、牙を剥ぎ取る。
短剣の血糊を丁寧に拭きとって、周囲への警戒を解かないようにして先へと進む。
ヒノキがわざわざ命を危険に晒してでも迷宮に潜るのは、その他に選択肢が無いからだ。
ヒノキは両親を知らない。
物心ついたときには、同じような境遇の少年窃盗グループの一員だった。
迷宮により発展する都市の光射さない場所には、急激な成長のゆがみを凝縮したような無法地帯が形成されている。
各地から流入してきた魔術師が無責任に子供をつくり、勝手に迷宮で死んでいく。
そうして残された子供には戸籍が無い……つまり、存在しないという扱いなのである。
そんな人間や都市部での成長競争に負けて流れ込んできた人間が形作る社会がそこであったから、当然のこと治安は悪い。
殺人と強盗は日常茶飯事。
詐欺と搾取は穏当な手段と賞賛される場所である。
ヒノキの男言葉には、ここで生まれ育ったということの影響が大きい。
髪をあまり伸ばさないのもそうであるし、ボロ布にフードを被った不審者スレスレの格好もそうだ。
女を感じさせる恰好をしていれば、それだけで骨までしゃぶりつくされる。
今日隣にいた少女が、次の日娼館に売り飛ばされていてなんらの不思議はない、そんな場所である。
年上の少女たちのアドバイスに従っていたその癖は、スラムを脱した今であっても抜けていない。
仮に彼女らの忠言を無視していれば、整った容貌や珍しい銀の瞳を持つヒノキのこと。
おそらく今頃は、人買いにさらわれ奴隷にでもなっているのが関の山だ。
幸いなことに、と言おうか。
ヒノキはその環境に頭からつま先まで浸かりこむ前に、魔力検査を受けることができた。
そして幸運なことに、魔術師としての基準を満たすだけの魔力があった。
魔術師として、探索者になるというのはヒノキにとって晴天の霹靂だった。
探索者となれば、命の危険はあってもまっとうに稼ぐ手段が得られる。
スラムでは命の危険があり、なおかつまっとうでない稼ぎ方しかなかったのだから、随分とマシだ。
そのような選択とも呼べない選択の結果として探索者を営むヒノキであったが、現実はなかなかに厳しい。
貧弱な体は簡単に痛み、痛みに屈せば死ぬ。
一般的な魔術師としては非力にすぎるヒノキでは、高みを望むことなど不相応に過ぎていた。
ただそれでも、ならば深階層に侵入しなければよいのかもしれない。
上階層で得られる稼ぎでも、貧しくはあっても生活することはできる。
野望と夢を捨てるのであれば、生きること自体は平易であった。
けれどもヒノキには、そんなことは耐えられなかったのだ。
どうしようもない環境から、幸運で抜け出すことができた。
そして幸運で抜け出したからこそ、だろうか。
ヒノキには、ただ生きるだけでは駄目だという奇妙な強迫観念のようなものがあった。
――あの淀みに戻りたくない。
――淀みで朽ちるよりは、高みを目指して堕ちた方がマシだ。
それが傲慢なのかもしれない、というのは分かっている。
けれども、力続く限りは、望む地平があるならば、進まないのは嘘だとも思う。
ヒノキには夢がある。
いつかこの閉塞した都市から飛び出て、広い世界を見ること。
それこそがヒノキにとっての、命を賭してなおの望みだ。
が、その単純な野望は、ヒノキにとってはなかなかに難しい。
存在しないということになっているヒノキという人間が、大手を振ってこの迷宮都市イーリアから抜け出せるはずもない。
全方位を壁に囲まれ、通行者はすべからく身元を確かめられるこのイーリアという都市では、ヒノキという人間はその中で生きることしか許されないわけだ。
――ならば、それを覆す。
金さえあれば。
金を積めば、ヒノキの身分を作り出すことくらいはできる。
そのためにヒノキは、今日も命を危険に晒すのをためらわない。
それは全くもっての本末転倒であるかもしれなかったが、しかしヒノキにはそうすることしかできなかった。
(……おにーさんとおねーさんも、今頃この階層にいるのかな)
失った体力を回復させないままに探索を続行するというのは、あまりタフではないヒノキにとってはあり得ない選択肢だ。
事前調査により、どのようなものが口にしても問題ないのか、水場がどこに存在するのかということなどはかなり正確に頭に入っている。
身体能力を観察眼と経験とで補うスタイルのヒノキにとっては、僅かの荷物でさえも邪魔になり得る。
だからできる限り討伐証明部位の小さな魔獣を狩るといった、細かな部分にさえも気を配っている。
そんなヒノキのこと、魔獣の出現頻度の小さな地域というのも当然把握しており、警戒を怠らずとも思考を他に割くだけの余裕はあった。
(……変わった人たち)
窓口で伝言の有無を確かめると、『二、三日の内にまた会いたい』という旨の伝言が入っていた。
本当に変わっている。
たいていの場合、この歳で探索者をしている孤児になど、誰も好意的な目を向けない。
特にヒノキは魔術師の癖に身体能力がかなり低いという点で、ほとんど蔑まれる対象ですらある。
魔術師にとっての相手の判断基準など簡単なものだ。
つまり、自分より強いか、弱いか。
もともと、その身に宿る『力』という単純すぎる理に身を任せる連中である。
そんな存在が、『弱いからこそ、その他で弱さを補う』――などという、弱さを前提とした努力など土台認めるはずがないのだ。
ヒノキが一人で探索を行っているのも、それが大きな理由だ。
単純な話、足手まとい扱いされるのだ。
力さえあれば策などいらない――それは魔術師の単純かつ絶対のロジックであり、ヒノキはそれに反論する言葉を持たない。
実際ヒノキも、大きな力を持っていればこんなにまだるっこしいことなどしはしない。
ならば、魔術師にヒノキのやり方をわかってもらおうなどとはヒノキ自身、思ってもいなかった。
それがどうだ、あの二人はヒノキの戦いを『いい戦いだ』と言ってくれた。
どういう意味での賞賛なのかなど、ヒノキにはわかりはしない。
それでも、その時に感じた嬉しさは本物だった。
スラムとは縁を切った。
探索ギルドでは、他の魔術師とそりが合わない。
この孤独な少女にとって、好意的に評価されるというまっとうな人生であればごく当然な経験は、ほとんど皆無に等しいものだったのである。
(まあ、カルおねーさんが抱きしめてくるのは……どうしていいか分からないけど)
あの、『抱きしめられる』という感覚。
あの、不思議な感覚は何だったのだろうか。
温かく、柔らかい。
ただそれだけのはずなのに、なぜか異常なほどに満たされる。
けれども、その満たされる感覚がどこかもどかしく、苦しい。
そのもどかしさから振り払ってしまいたいのに、力が入らない。
あの感覚を何と呼ぶのか、ヒノキはまだ知らなかった。
だからこそ。
(……ま、もう一回一緒に呑むってのは……嫌じゃないな)
僅かな笑みを浮かべながら、少女は立ち上がった。
あの感覚に、名前を付けてみるのも悪くない。
十分に体力が回復したことを確認し、ヒノキは探索を再開した。
――曲がり角を曲がればぶつかるような、そんな偶発的でどうしようもない『悪意』。
それがすぐ先で待ち受けていることに、少女はまだ気づいていない。
次回はアレです、一寸先は闇でした、みたいな内容




