2 未知との遭遇
「……生き延びた…………!」
抑えきれない歓喜が溢れだす。
ついに森の切れ目に達したハイガは雄叫びを挙げた。
苦節十日。幾つの試練を越えてきただろうか。
獣を仕留めて肉を手にし。怪物を恐れて息を潜め。雲霞のごとく群がる虫々に辟易し。深く眠り入れぬ浅い睡眠に耐え。常に緊張を張り巡らし。
その全てに耐え切ってハイガは森を抜けることに成功した。
代償は大きかった。
相棒だったナイフは二日前に欠け、もはやナイフとしての用を成していない。生き抜くことに精一杯だったハイガは疲れ果て、汚れ、異臭を放っていた。
しかし、その対価にハイガは生存という何にも代えがたい実を手にしていた。
森を抜けると草原で、さわさわと草を揺らしながら風が吹きわたる。この硬質な爽やかさがハイガには何処までも心地よく感じられた。
念のためさらに数キロを歩いて森から離れながら、ハイガはこれまでずっと沿って歩いてきた川を見る。
水は澄み、キラキラと陽光に煌めいている。小魚の影が岩の陰にちらつき、もうなんというか癒される。少なくともワニだのピラニアだの、血生臭い生き物の影も形もない。
ハイガはずっと身につけ、汚れに汚れた黒のジャージを脱ぎ捨てる。
生まれたままの姿になると、足を川にひたし、次いで全身を川に投げた。
「イヤッホオオオオゥゥゥ!」
溜め込み続けたストレスと森から生還した喜びが爆発し、奇声を挙げながら清らかな水の感触を楽しむ。肌に冷たく感じられるほどの水温だったが、今のハイガにはその鮮烈さが心地よかった。
夢中で身体中を擦り、こびりついた垢を落としていく。
(久しぶりに、息をしたような気分だ……忘れかけていたが、これが生きていることの実感か)
ここ二年間をほとんど引きこもって過ごしたハイガには、この歓喜の感情は懐かしく感じられた。と、同時に、この二年間、自分がどれほど生きているという実感を得ていなかったのかに思い至って愕然とする。
もっとも、それほどの偏執がなければ魔術にたどり着くことはできなかった。だから、ハイガは後悔はしなかったが。
体をぷかぷかと水に浮かべながら、これからに想いを馳せる。
(とりあえず、人間に接触しなきゃダメだ。それが第一目的だし、それに一人での生活はいつか破綻する。……魔術は、人を探しながら試していけばいいか。森を抜ければ視界の確保が簡単になるから、そんなに不意打ちを警戒しなくてもいい。何にもなさそうだから、多少魔術を失敗したところでそんなに影響もないだろう)
よし、と方針を決めたハイガは川から上がる。ジャージを適当にザブザブと洗うと、適当な枝木を拾い集め発火魔術を組み、一瞬で焚き火を作り出した。
枝にジャージを引っ掛けて乾くのを待ちながら、ハイガは焚き火を眺める。この暖かさが水に冷えた体にたまらなく心地よい。ふと思いついて適当な川魚を捉え、枝に突き刺して焼いた。
パチパチと魚の脂が跳ねる音が耳に心地よい。十分に熱されたことを確認して串から抜き、かぶりつくと、パリパリの皮に包まれた柔らかい白身がまろび出て、さらなる一口を誘う。
塩でもあればな、とハイガは残念に思った。
たちまちのうちに魚を食べきる。
と、急に眠気がハイガを襲う。これまでの緊張が緩み、蓄積された疲れが表面に現れたのだ。
(ちょっとくらい、いいよな……)
ハイガはそのまま、眠気に身を任せた。
アルキラ王国フェール地方魔術ギルド支部に所属する魔術師、カルーア・アレキサンドライトはその日、魔獣の討伐に赴いていた。
ここはフェールの街とネルヴァ大森林の中間地に位置する平原であり、基本的にフェールの街の魔術ギルド支部に所属する魔術師は、ここで魔獣の狩りに精を出す者が多い。
魔獣は街を脅かす脅威であり、また通常の動物には存在しない様々な特性を持つ素材が獲れるため、その討伐は魔術師にとっての大きな収入源となっているのだ。
この、親友からは『女の子なんだから、魔術師なんてやめなよ』と有形無形に促される十四歳の少女もまた、そんな魔術師の中の一人であった。
「うーん……この辺じゃ小物しかいないよね……」
カルーアは折り取ったホーンラビットの角を弄びながらそう独りごちる。
彼女が拠点とする街、フェールはそれなりの大きさを誇る地方都市である。ネルヴァ大森林に面しており、それなりに魔獣の襲来は多い。しかしやはり街にはあまり魔獣は近寄らず、魔獣を日常的に狩ろうと思えば、少々街から離れる必要があった。
とはいえネルヴァ大森林に近寄りすぎるのは自殺行為だ。あそこは魔獣の跋扈する領域で、人間が存在できる場所ではない。
幾人もの魔術師がネルヴァ大森林に挑んだが、一回や二回、もしくはさらに多い回数帰ってくるものはいても、何度もネルヴァ大森林に入れば必ずいつかは帰ってこなくなった。
分を越えてネルヴァ大森林に深く入り込めば、それは絶対の死を意味するだろう。
ネルヴァ大森林に近づくほど魔獣はその危険性を増す。己の才能を過信はしないカルーアには、そんな危険地帯に近づく気はない。
それに、ネルヴァ大森林は『始まりの森』とも称される神域である。
カルーアはそんなところに近づく命知らずではなかったのだ。
少なくとも、これまでは。
「何だろ、あれ……?」
新たな獲物を探し、平原を移動するカルーア。
その最中に見慣れないものを見つけたカルーアは、思わず声をあげた。
カルーアの鋭敏な視線が捕らえたのは、遠くに薄く立ち上る煙だった。
それの意味するところを数秒後に察したカルーアは、サッと青ざめた。
(ま、まさか……火事……?)
仮にあの煙がどこかに発生した火によるものであれば。そしてもしそれが燃え広がり、ネルヴァ大森林に火災が起これば。それに驚いた魔獣たちは、一斉にネルヴァ大森林から溢れ、フェールの街に押し寄せるのではないか……?
それは恐ろしい想像だった。
そして最も恐ろしいことは、それが実際にありえない未来ではないということだった。実際に、そうした過程を経て起こった悲惨な地獄は長い歴史の中ではしばしば現出してきた。
カルーアは逡巡する間もなく走り出した。少しの遅れで取り返しがつかなくなるのが火事というものだ。
その身に宿る魔術を全開にし、トップスピードで十数キロを走り抜けた。
が、幸いなことに、カルーアの破滅的な予想は簡単に外れてくれた。煙はいつしか見えないほどに薄れ、消えていったのだ。
カルーアはその薄い胸を撫で下ろす。
が、スピードを緩めはしたが歩みを止めはしなかった。少なくとも、何かはあったのだ。一応、気付いたからには確かめる義務があるというものだろう。
(このあたり、かな?)
カルーアは見当をつけていた辺りに至り、火元を探す。……見つけた。
川辺に、焚き火の跡があった。触れてみると、火傷しそうに熱い。つい先ほどまで燃えていたということだろう。あたりの草は引き抜かれていて、燃え移らないようになっていた。それはきっとこの焚き火をした人の配慮なのだろうが……
「……なにこれ?」
気になったのは、焚き火の近くで地面に突き立てられた枝に引っ掛けられた黒い布切れだった。
広げてみるとボロボロで、薄汚れた上下の一式だった。しかしよく見ると縫製そのものはとてつもない緻密で、おそらくとても高価な品なのだろうとカルーアは予想した。
その時である。
「おい」
背後から声をかけられた。
カルーアは布を持ったまま飛び上がる。
(お、落ち着いて……!)
もしかして、この布を盗もうとしていると勘ぐられているのでは?
聞こえてきた若い男の声は、そういえば少し刺々しい。
すぐに誤解を解かねば。
急いで振り返ったカルーアの目にしたものは、カルーアの網膜に永遠に焼きついた。
焼きつけてしまった。
肌。
この辺りではあまり見ない、白にやや黄と茶を混ぜた肌。
その生命感あふれる瑞々しい艶やかさは、水さえ弾くだろう。
顔面。
ザンバラに切られた黒い髪の毛と陽光に遮られて、あまり見えない。
しかし、その双眸の放つ強い光は、知性と意志の強さを感じさせる。
腕。
あまり太くはないが適度に筋肉のついた両腕は、力強さとしなやかさを同時に兼ね備えていた。
胴体。
その青年らしさを主張する胸板は、若々しいながら男らしさを持っている。
それと対照的に絞られた腹筋は、健康的に六つに割れていた。
足。
カモシカのような瞬発力を瞬時に連想させる、しなやかな筋肉。
そこに無駄なものはなく、機能美とでも表現しうる美しさがあった。
サムシング。
両足の間に揺れるソレは、とてつもない存在感を有していた。
全裸。
圧倒的全裸。
恥ずかしげのないその装いは、力強ささえ感じさせた。
もちろんカルーアは、青年が発していた何かの言葉に耳を傾けることなく、空を切り裂くような悲鳴を挙げて逃げ出した。
本作随一のセクシーシーン