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1 Hello World



 意識が覚醒するのと同時に、頬に僅かな湿り気を伴った感触を感じた。

 青年・三矢ハイガは大きく伸びをしながら上体を起こし、辺りを見渡す。


(……どこだよ、ここ)


 茫洋とした思いを抱いた瞬間、意識を失う前のことが同時に頭を駆け巡った。

 ハイガは思わず飛び起き、辺りを見渡す。背筋を伝う冷や汗の感触がはっきりと感じられて、どうにも不快だった。


 目の前に広がるのはうっそうとした森。巨木が立ち並び、視界は深い緑に覆われている。少し視線をあげると、遠くに高い山が見えた。山頂は雲を突き、その全容を見せない。


 深呼吸し、肺の中に空気を送り込む。ハイガはこの濃密な空気の味を知っていた。世界中を旅した中学時代、三十日間一人でアマゾンをさまよったことがある。

 ここの空気はあそこのようなどこか熱のこもったような印象こそ受けないものの、同種の、生々しい生命の気配を含んでいる。


(…………)


 ここは危険だ。

 本能的に、ハイガはその事実を理解する。


 森は人間の領域ではない。獣と樹木と虫――自然の支配する空間だ。

 一刻も早く森を抜けるため、ハイガは水源の音に耳を凝らしながらも、考え考え歩みを進め始めた。







 で、ここはどこなのか?


 ハイガは比較的簡単に見つけることのできた川に沿って山と反対方向に、つまり下流の方向に進みながら考えをまとめる。

 意識を失う前のあの唐突な『■■■』と名乗る声。あれは人間よりもっと大きな何か……例えば、神だとかそういった類の存在の声だったのだろうか。そして彼の言を信頼するならば、ここは地球の平行世界ということになる。


 魔術が発動するかどうかは既に試していた。

 ポケットに入っていた紙くずを取り出して、発火の魔術の起術キーを唱えると、昨日(昨日なのだろうか?)と同じように火が灯った。

 その後ちょっと警戒して耳をすませていたが、昨夜のような声は聞こえない。

 ハイガは魔術が発動することに何よりもホッとして、そして何も聞こえてこなかったことに憤慨した。


 勢いに押されて異世界に行くことを了承したような形になっていたが、しかしどう考えても事前説明とアフターサービスが足りない。

 魔術の開発が禁忌だというのならば、せめて事前にそう通達しておくべきだろう。魔術創造が成功したらいきなりそれを咎めるというのは、どう考えてもまともな人間のやり方ではない。

 ……相手が人間であるのか全く持って疑わしいので、考えてもせんないことだったが。


(せめて、ここがどんな世界なのか説明ぐらいはしてくれたらよかったのに)


 と、そう思った瞬間、頭の中に知識が湧き出た。あたかも元から知っていたことかのように、ポンと。


 ――解。ここは、世界『ネルヴァ』です。


 ハイガは驚きのあまり立ちどまった。

 続けて自問すると、その答えが泉の水のように湧き出てくる。


(この世界に人間はいるのか?)


 ――是。存在します。


(魔術を使うのか?)


 ――是。全員が魔術を行使するわけではないですが、使う人間も存在します。そうした人々は、魔術師として広く認知されています。


(意思疎通することができるか?)


 そう自問すると、ハイガの口から自分でも知らない音韻の言語が流れ出た。ハイガはその経歴から十二、三の言語を、断片的にであれば三十ほどの言語を操ることができたが、そのどれにも似ていなかった。だというのに、それの意味するところが完全に理解できる。


(一応、それなりの補助はあるってことだな)


 ハイガは安堵のため息をついた。それなりにノンバーバルコミュニケーションにも自信があるとはいえ、言葉が通じるのと通じないのでは雲泥の差である。

 一応の安堵を得て、ハイガは思考に余裕ができた。と同時に、地球に残してきた人々のことを考える。とはいっても両親のことぐらいだったが。


(親父はあんまり気にしないと思うが……お袋はなあ……悪いことしたなあ……)


 父親はそもそも子供がどこにいたって、元気にやっていれば気にしないタイプだ。ハイガのしぶとさは父親も知るところなので、大して心配もすまい。

 が、母親は昔から自分のことを甘やかしてくれた。中学時代、三か月に一回ほど家に帰る度、大げさなまでに喜び、僅かな休息の後にハイガが家を出ていくときには陰で泣いていたことをハイガは知っている。それでも笑って送り出してくれたのだからまったくいい母親だった。


(悪いのはどう考えても俺じゃなくて俺を飛ばしたやつだけどな……でも……)


 ハイガは決心する。いつか魔術を極め、また地球に戻り、両親に会いに行くと。

 少なくも、その努力を払わないという選択肢はハイガには無かった。

 よし、とハイガは罪悪感に蓋をし、思考を切り替える。


(できるだけ早くこの世界の人間と接触して、俺の魔術を高める。俺のもともとの望みでもあるし、そうするのが一番だろう)


 ハイガの行動指針は決まった。後は、実行に移すだけである。

 自問する。


(ここからどう行けばいい?)


 …………。

 …………アレ?


 答えは返ってこない。

 ハイガは嫌な想像をし、試す。


(もしかして、質問しても一般常識以上の答え・・・・・・・・・は返ってこないのか?)


 ――是。


 つまり、このアフターサービスの応えてくれることは、この世界の人間なら誰しも知っている常識だけだということである。

 この未開の森を抜けるためにどこへ向かえばいいのかというのは、一般常識ではないのだった。

 ふつふつと、ハイガの中で何かが煮え立つ。


(…………つ、使えない……!)


 要するに、異世界に飛ばされたハイガへのアフターサービスは、『幼稚園児でもわかる常識ハンドブック初級編』だけなのであった。


 ハイガは怒った。怒りのままに歩を進めた。

 極めねばならぬ。魔術を極めねばならぬ。

 魔術を極め、俺をここに飛ばしたやつを一発ぶん殴らねば気が済まぬ。


 ここにハイガは、『■■■』をいつか殴りぬけることを決意したのだった。







 川沿いを進み始めて五日間が経った。


 まだ森を抜けることができない。先に山の方に向かって、どの方向に向かえば森が途切れるかを確かめた方が賢明だっただろうか。


 ……いや、人の手が入っていない山に登るのなんて自殺行為だ。体力の消耗を考えても、この方策を取ったことが間違いだったとも思えない。

 しかし、正しい方法を取ったとて助かるものではないのが現実のままならないところである。


 口の中で噛み続けていた鹿肉を飲み込む。

 この鹿は二日前に仕留めたものだった。腿の肉を切り取り、剥いだ皮の中に保存しておいたのだ。

 常にナイフの携帯を忘れないハイガの癖が役に立った稀有な瞬間であった。


 ハイガは世界を放浪する中で、最悪、ナイフさえ持っておけばなんとか生き残れるという、およそ日本の高校生には必要のない信仰を抱いていた。その癖は日本でも抜けず。ハイガはいついかなる時も、それこそ眠る時にもナイフを忍ばせているのだった。

 こんな癖が役に立つ時が来ようとは。ハイガは人生のままならなさを思ってやまなかった。


 夜が近づき、ハイガは木の枝と草葉で即席のシェルターを作成した。火を焚いてもいいが、野生動物が火を怖がるというのはそこまで絶対のことでもないので、むしろ居場所を知らせてしまうという点で好まなかった。また、虫が灯りに引き寄せられてくるということもある。


 作り上げた即席シェルターの中で鹿肉をかじりながら、この世界のことを考察する。


(確か、地球の平行世界なんだよな……鹿とか、俺の知っている動物がいるのは、それが原因だろう。とはいってもなあ……俺の知らない動物もいくらか見かけた。そもそも植生も俺の知る何処とも合致しない……これは、この世界が魔術を許容する世界だからなのか?)


 ハイガは三日前に遭遇した怪物を思い出す。胴体に比して腕のあまりに長いその生物の姿は、ハイガの知るものの姿の中ではテナガザルに似ていたが、その目に突き刺さるような赤を基調としたまだらの毛皮は、ハイガの知るものとはあまりに違った。

 しかし最も異なっていたのは、その五メートルに達しようかという巨体と、隆起した猛々しい肉体。腕を振り回しながら、木々をなぎ倒していた。


 ハイガはその怪物が過ぎ去るまで、息を潜めて隠れていた。魔術を使用すればなんとかなるかもしれなかったが、なんとかならなかった場合のことを考えると隠れる方が有効なのは間違いなかった。


 その後、ハイガは幾らかのあまりに地球の動物とは違う生き物を目にした。


 最も目にして興奮し、そして恐怖を抱いたのはのは、その次の日に目にした、体長五十メートル、体高二十メートルほどの小山のような大蜥蜴――竜だった。

 翼を広げれば、おそらく体幅は百メートルほどにもなるだろう。

 その目にも鮮やかに輝く青い体色は美しく、ハイガはその竜から放たれる悪夢のような威圧感と、その危険性を察知してすかさず隠れながらも、その美しさに見惚れた。


(この世界には、竜までいるのか……!)


 もはや戦うという選択肢の浮かばない、同じ生物なのだとは思えない純然たる存在の格の違い。

 この森で目覚めてから見た生物の中でも、明らかに別格の存在だ。この存在と比べれば、あの恐ろしい猿のような怪物も虫と変わりあるまい。


 竜が眠っているのが幸いだった。

 あれほどに絶対的な強さを感じさせる生物ともなれば、他の獣を警戒する必要すらなく、だからあんなに無防備に眠っているのだろう。


 一目見るだけで伝わるその戦力差に、ハイガはこれまでにないほどので細心の注意を払って気配を殺したのだった。


(早く森を抜けたい。この世界の人と話して、この世界のことを知りたい。というよりも魔術の研究をしたい。森の中じゃ魔術の研究もできないからな……)


 ハイガはこの五日間、頭の中で新しい魔術式を組み立てることはあっても、それを行使することはなかった。このあからさまなほどに危険地帯な森の中で未知の魔術を行使するという愚を、ハイガは犯せない。


 頭の中で組み立てただけの魔術を行使するのだから、どんなことが起こっても対応できるよう、少なくともすぐには命の危険のない場所で試したかった。

 障害物に覆われ、いつアンブッシュを受けても不思議ではないこの森などは、その条件として最悪だ。


(……なんでこんなところに転送するんだ)


 魔術を行使できないイライラと『■■■』に対する怒りを抑えながら、ハイガは早々に寝入った。

 無論その間も警戒は続け、僅かな音に反応して飛び起き、対処する。

 安眠など夢のまた夢であり、鋼でできているハイガの精神力も、じりじりと削られていく。



 この時、森を抜けるのにさらに五日間を要することをハイガはまだ知らない。




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