トロニー
ある日突然、小さなエルマの住む邑に、異形の客人がやってきた。
客人はトロニーと名乗った。
最初はおっかなびっくり客人に接していた邑人たちも、トロニーの気性が極めて穏やかで、そして自分たちには及びもつかない知識を持つことを知ると、彼を快くもてなすようになった。
やがて月日はながれ、トロニーは気づけば以前からの住人のように邑へ居ついた。
ただし、異形の姿であるため、彼は邑人にはなりえず、客人のままだったが。
トロニーは客人であるため職を持たず、邑人たちに乞われれば手を貸し、それ以外の時間はふらりと姿を消した。
日没には必ず邑へ戻るトロニーの習慣に気づいたのは、エルマだった。
「いつもトロニーはどこへ出かけているの?」
この問いを発して以降、エルマはトロニーの散策の同行者になった。
「ここもすっかり変わっちゃったな……」
トロニーはゆっくりと首をめぐらし、辺りを見回した。
歩けども歩けども、目に映るのは崩れた建造物群とそれを覆い包む緑ばかり。見るもの聞くもの全てが彼の記憶にある景色とかけ離れてしまっている。
しかし当惑は感じても寂寥とは程遠い心持だった。
「トロニーの邑はどんなところなの?」
エルマはトロニーの手を引っ張りながら質問した。
「まず徒歩移動はありえなかったな。特に街と街を移動するときは必ず乗り物を使っていたから」
「荷馬車とか?」
「いや、自動車とか、電車とかね」
エルマは聞きなれない単語に目を瞬かせた。
彼女の傍らに自動車も電車もある。しかしそれらは虚ろな残骸として風景に点在するだけで、もはや本来の姿で機能してはいなかった。
トロニーはまず彼女を近くの原へ連れて行き、そこに転がっていた自動車の車体を指し、これに足がついて荷馬車よりも速く走ったのだと説明した。多分エルマは飲み込めなかったのだろう。彼女にとってトロニーの話は、隣のガンガス小父さんが実は女だったというよりも荒唐無稽な内容だった。
トロニーの話はエルマにとって未知のものばかりで、彼女はトロニーの言葉の端々から次々に質問を見つけ出すと、彼に答えをねだった。
「電気って何?」
これは難しい質問だ。
トロニーはしばし沈黙し、やがて空を見上げた。東の空からせり出してきた黒雲を認めたのだ。
「……雷の親戚、かな?」
「雷は危ないのよ」
その通り。トロニーはまるで褒めるようにエルマの頭を撫でた。
「電気っていうのは、雷に比べると人間にも飼いならせたんだ。その性質を理解して接し方を間違わなければ、僕らにとって危険はそれほどなかったからね」
トロニーはエルマを相手にかつての日々を語りながら、毎日歩き続けた。
そしてある日、トロニーはたどり着いた一つの墓標の前で手元の機器を操作し、「ようやく」と一人ごちた。
やがて邑人たちは行商人から、トロニーと同じような異形の存在が方々で神の御技を披露していると伝え聞くようになる。
ある者は途方もなく大きな水がめを作り、川の氾濫を減らすことに成功した。
またある者は、かまどの比ではない大きな炉を作り、たくさんの炎を生み出した。
「トロニーも物知りだもの」
噂を聞きつけたエルマは、期待を込めて異形の客人を見上げたが、トロニーは肩をすくめただけだった。
「僕はそういったことはできないんだ。その役目は任せられなかったから」
そしてふと何かに気づいたように、遙か彼方へ視線を投げた。
数日後、トロニーが見つめた方角から、新たな客人が現れた。
「久しぶりね、トロニー。やっとあなたの居場所を掴めたわ」
出迎えたトロニーへ、黒髪の女は淡々と呟いた。
「焼却炉を作ったという噂を聞いたよ。指揮は君だろう、リタ?」
「作ったのではなく、修理したのよ。下手に弄られていなかったのが幸いしたわ」
「コーニーも方々の施設を点検して回っているようだし、そろそろ殿堂を開ける頃合かもしれないな」
リタと呼ばれた女は、無表情に手元の計器を見つめている。
「そうね。この辺りの数値も安全値を示しているし、次の段階へ移行して問題ないでしょう」
トロニーは顎を擦りながら思案した。
殿堂を開けるにしても、まず一番先に自分たちの生みの親を目覚めさせるべきだろう。そろそろトロニー達はメンテナンスを受けなければならない時期にきている。
「それにしても、リタの仕事が早くて助かったよ。なんせ博士たちに目覚めてもらう前に、この大地を大掃除しないといけないから」
そしてトロニーはおもむろに背後を振り返る。
エルマは藪越しにトロニーの視線を感じ、慄いて足をぐらつかせ、うっかり小道へまろび出てしまった。
エルマの両の足は極端に長さが違う。ひどいびっこを引くので、とてもでないが走ることができない。
そんなエルマが必死に足を動かし逃げ惑う様をみて、トロニーは呟いた。
「さあ、まず焼却すべきものを集めようか。すべてはそれからだ」