喪失した記憶
一週目。
二番手:アイス棒
……一話千文字が目安なのに二千字書いていてすごい。
彼女は彼に駆け寄る。車だとか、信号だとか、道路だとか。そんなことはもう抜け落ちていた。
幸い人の通りが多く、集まってきた無数の人のおかげで彼女が牽かれるようなことはなかった。
「おい、人が……救急車……もしもし!」
「え、マジ? ヤバいじゃん」
「大丈夫かい、君!」
彼女に救急車の心配はなかった。いや……むしろ、必要もなかったかもしれない。
「**、**……やだよ……こんなの、嘘だ……」
彼の頭から、腕から。血がじわじわと、彼を抱き抱えた彼女の服を汚した。
「……**、笑って」
「……なんでよ……やだ……**がこんななのに……笑えるわけないよ……」
「笑って。笑ってほしいんだ」
笑って。そう彼は繰り返す。彼は、傷があることが嘘のように自然に笑って、手をゆっくりと彼女の頬に伸ばす。
「笑って……僕、君が好きだ。そして何よりも、君の笑顔が好きだった……」
「じゃあ、生きてよ! これからもいっぱい、いろんなところに行って、一緒に行って……一緒に笑ってよ! お願い、お願いだから……」
強かった言葉は次第に小さな嗚咽に混じっていく。
「最期に、君の笑顔が見たいんだ」
「……最期なんて、言わないで……言わないでよ……」
彼は、また、
「笑って、**」
笑った。
それに圧されたように、彼女も、
「……最後じゃ、ないからね」
笑う。
「……ありが、とう……**、君と出会えて、君と付き合えて、君と笑えて……最期に**の笑顔が見られて。僕は、幸せだった」
その声はそこで止まる。そして最後、口だけが伝えきれなかった言葉を表現した。
『ありがとう きみのこと だいすきだった さようなら』
動きが硬直し、彼女の頬をなぞっていた手が、バタリと落ちた。
「……嘘。嘘。嘘でしょ……嘘だ。誰か、嘘だって言って……」
間に合わなかった救急車が、ひどく無機質なHとGを繰り返す。
シーソーシーソー……彼との記憶。
サイレンに散らかって、涙でぐしゃぐしゃになって。
笑っては、見れなくなった。
「ああぁぁああぁぁ!!」
彼女の声は、もう止めて、とサイレンの音を掻き消した。
榛原晃大の葬儀は、涙で埋まっていた。
あまりに若すぎて、あまりに突然の死……。その衝撃は身内だけでなく、学校や、晃大が習っていたピアノ教室にも届いた。
涙が空間を支配する。だから、一粒の涙も浮かばせていない彼女は悪く目立ってしまっている。
松崎美音。晃大の彼女であり、そして子供の約束と言えば馬鹿にできる、しかし二人にとっては未来への架け橋だった婚約。その相手だった。
一番悲しんでいるはずの彼女が、なぜ泣いていないのか。理由は、簡単だった。
涙など、もう枯れてしまっていたのだ。
彼女の人生そのものが暗くなったような、絶望。
もう、何もしたくない。何をしても、笑える気がしない。
あるいは……認めたくなかったのかもしれない。心のなかで嘘だと、悪い夢だと繰り返していたのかもしれない。
だが無情にもその時はやって来て。
彼女は骨を納める時、今日初めて涙を、崩れ落ちるように流した。
キミはサ、死んダ。
死んじゃっタんダ。
マダ、キミの物語はこれカラだっタのニ。
キミのしあわせは、これカラだっタのニ。
キミは、マタ彼女ニ会いたいかナ?
……ソウ。だろうネ。
ジャ、約束ダ。
物語ヲ、紡ぐんダ。
世界がキミを裏切るなら、ボクは世界を裏切ろウ。
キミがボクを裏切るなら、ボクもキミを裏切ろウ。
絶対ニ、忘れないデ。
キミが、物語を紡がなければならないコトヲ。
……ジャ、全部忘れテ。
サヨナラ。二度と会わないことヲ祈ってル。
あ、ソウソウ……
「…………ッ!」
意識が覚醒した瞬間、頭にズキンと鈍い痛みが走った。
「…………?」
明らかに見たことがない。なんで僕は、ここにいる?
そこは、病室。
一輪の赤い花が白い部屋に僅かな色を与えている。
彼はしばらく考え込んでいたが、考えても何もわからないことが分かり、ベッドから降りた。
まだ、頭がクラクラする。
とりあえず病室から出てみようとドアに向かう。
ドアの、背の小さな人も、あるいは車椅子の人も開けやすいように……いわゆるユニバーサルデザインの取ってを握ろうとしたその時、ドアが横にスライドする。
「あ……」
「あら、目が醒めたんですね。ですが、まだ安静に。頭を強く打っていますから」
看護服を着た、若い女性にベッドに押し戻される。
「いや、僕は……」
……僕は、どうしてここにいる?
「あの、僕は何でここに……」
シーツの端が少しだけ乱れていることに気付き、それを直していた看護士は答える。
「あなた、道端で倒れてたらしいんです。見つけた人がここに連れてきたんですよ。丁度ここ、そこから近かったらしいですから。確か名前は……楠さん? この花も、楠さんが置いていったんですよ」
赤い花が生けられた花瓶に水を注ぎながら、彼女は付け足した。
「はぁ……」
しかし、彼にはまったく覚えがなかった。それこそ道端で倒れたようなことは……
「……ッ!?」
車に跳ねられ、そして……
あれは、誰だ?
「……っ」
思いだそうとする度に頭痛の強さは増す。成果のない痛みを受け続けるようなことは嫌で、彼は思いだすことをやめた。
「あ、名前を教えていただけますか。カルテを作っておきますので」
「あ、はい。僕は……」
………………。僕は…………なんて名前だっけ?