29話
勇者が何かを仕掛けてくる前に先手を打とうとしたのはシャルゼだった。魔眼による詠唱短縮能力をフル活用したシャルゼは素早く詠唱を済ませ、属性魔術における上位魔術を発動する。その結果シャルゼの肉体から青緑色の光が立ち上り、強く引いている矢に巻き付いて行く。すると、やがて光は風に変化し、風の巻き付いた矢が完成した。
(この矢はさっきとは違う。着弾と同時に周囲一帯に無数の風の刃を発生させ、あらゆるものを切り刻む)
シャルゼが発動させようとしたのは物取りの男に用いた上位の風属性の魔術であった。全てを切り刻む真空の刃を発生させる上位魔術であり、シャルゼの最も得意とする魔術だった。
そして矢を射るべく魔眼で勇者の位置をあらためて確認すると、あえて照準を勇者からずらし、少し離れた地点に修正した。
(直接狙えば矢の魔術が発動する前に解析されて分解されてしまう。だけど発動さえしてしまえばもう分解することはできない、赤毛の剣士から離れた場所を狙い魔術を発動させる。この魔術は幸いにも効果範囲が広い、きっとうまくいくはず)
シャルゼは自分の魔術の効果範囲を熟知していた。そのため勇者から離れすぎず、かといって近すぎない位置を計算し、ベストの場所を見つけるとそこに矢を撃つべく構えた。
(これは僕が通常の状態で撃てる最高の一撃だ。これが防がれたのなら、もう手段なんて選んでいられない。だから……頼む、これで決まってくれ!)
祈るように目をつむったシャルゼは全てを込めた一撃を放った。
勇者は右手を前に突き出した状態で目をつむり、感覚に身を委ねていた。
(はぁ……失敗しても成功しても痛い事には変わらねーよなこれ……)
トイレブラシが勇者に提示した作戦内容はとても安全と言えるようなシロモノではなかった。
(飛んでくる矢を素手で受けるとか正気の沙汰じゃないぞまったく……)
トイレブラシの作戦は痛みを伴うものではあったが、彼女曰く確実に襲撃者の居場所を特定できるものらしかった。というのも、矢を正確無比に離れた場所まで飛ばすには魔力の糸を術者と矢につなげなければいけないらしく、襲撃者も同じように矢を飛ばしているらしいことを魔術を分解した時に知ったらしい。そこで、それならばその糸をたどって敵の居場所を知ろうと、トイレブラシは提案してきたのだったが、問題がいくつかあった。
(矢は必ず俺から離れた場所に着弾して、周りを巻き込む効果範囲型の魔術が発動する、か)
トイレブラシは襲撃者の攻撃を予測していた、だからこそ勇者に指示を出したのだった。それが最初の問題にあたる。
(それにしても……相手が撃ってきた矢の場所を感知して、地面に着弾する前に素手で受け止めなきゃとか。なんという無茶振り……)
勇者は高速で飛んでくる矢の位置をすぐに捕捉し、移動しながらそれを捕まえなければいけなかった。そして捕まえた矢を手で受け止める、それが勇者に与えられた仕事だった。
(だけどやるしかねえよな……このままじゃ防戦一方だし、なぶり殺しにされるのが目に見えてる……仕方ない……腹をくくるか……)
基本的に痛い思いをしたくない勇者だがトイレブラシの提案した作戦以上のものを用意できなかった勇者に選択の余地などなかった。
(……防御魔術を張りつつ、相手の矢につながっている糸を探る魔術式を構築するのに時間がかかるから集中したいとか言ってたけど……俺は覚悟きめたんだ、お前もマジで頼むぜ、便ブラ)
トイレブラシは勇者の右腕が吹き飛ばないように最低限の防御魔術を施しつつ、腕に着弾した瞬間に襲撃者の魔力糸から相手の居場所を探るために意識を集中したいと勇者に言った。そのための役割分担でもあったため、勇者は何も言わずに任せたが、トイレブラシが片手間にできないほどに集中しなければいけない魔力糸の探知は想像以上に難しいらしく、それが問題の二つ目だった。だが集中さえできれば大丈夫です、という彼女の言葉を信じた勇者は飛んでくるであろう矢に意識を集中させる。
(メルクラ状態の必殺技じゃないといいんだけど……必殺技だったら受け止めたときとか絶対痛いだろうし)
三つ目の問題点として、相手がもし『メルティクラフト』状態になり、魔技を放ってきたならばどうなるのかというものがあった。だがこちらも対応は変わらず、勇者は矢を受け止めることが仕事であったが、威力の違いがネックであった。
トイレブラシは『魔技だったとしても大丈夫ですよ。腕はギリギリのところで守りますから。魔術と違って威力が段違いですけど、腕が死ぬほど痛くなるだけですから我慢すれば平気です、じゃあ体に被弾した瞬間に自動で防御魔術が発動しますのでよろしくお願いします、あはは』などと笑い話にしていたが受け止める勇者からしてみればたまったものではなかった。
(あと必ず手で受けるように、って便ブラは言ってたけど……なんでだ……)
さらに念押しするようにトイレブラシが手で受けるよう言ってきたことに対して首を傾げる。
(……しかし来ねえな……まだ撃って来ないのか……なんか小便行きたくなってきた……)
勇者はもぞもぞと内股になりながら下半身を動かし始めた。
(こんな格好してるせいか、ちょっと寒くなってきた……夜だしな…………まだ来そうもないし、ちょっとだけなら大丈夫だよな……)
勇者は履いていたパンツを下ろすとその場で立ちションを始めた。
「ふぅ……」
空気が冷えていたことを示すように湯気が立ち上る。
勇者が安心しきっていたその時だった。
巨大な魔力の塊が遠方より飛来する気配を感じ取る。
「え!? ウソ!? ちょ、ちょまッ!?」
勇者の小便はまだ勢いがあったが、近づいてくる矢の気配は尋常ではないほどに速く、今すぐ動かなければ間違なくどこかに着弾することは目に見えていた。
「く、くっそおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!」
ゆえに勇者は走った。
小便を周囲にまき散らしながら走った。
小便が自分にかからないように横向きで走った。
反復横跳びをするように走った。
パンツを履くことなく走った。
フルチンで走った。
緑色の変態はなりふりかまわず、ひたすらに気配を追って走ったのだった。
そして気配を追って走っていた時、森の奥の方から草をかき分ける音が聞こえてきた。音はどうやら勇者が向かっている方向から出ているようだった。
草を手で押しのけながら太った男が森の中を進んでいた。
「はぁ、はぁ、おーい! 誰かいないデフか! ……はぁ、やっぱりぼくチン一人だけデフか……警備員たちはみんな散り散りになって逃げてしまうデフし……だいたいにして依頼人のぼくチンを森の中に置き去りにするなんてどういうことデフかまったく……全員首にしてやるデフ! ……というかなんでこんなことになったんデフかね……カルチェもブブルもあの変態に倒されてしまうなんて……」
アンサムは広大な森の中を一人でさまよい歩きながら途方に暮れていた。
「どうしてぼくチンみたいな選ばれた貴族がこんな目にあわなければならないんデフか……それというのも全部あの変態共のせいデフ! 特にあの緑色の変態のせいデフ! 倒した相手の肛門を舐めるだけでは飽き足らず、虫を詰め込むなんて……うう……」
自分で言いながらおぞましい光景を想像したアンサムはブルブルと身を震わせた。
「あ、あの異常な変態に見つかるのだけは御免デフ! 絶対に御免デフよ! ……でもどこまでも追ってきそうで怖いデフ……やっぱり悪い事してお金を集めたり、サラマンダー盗賊団と魔物の密売をしようとしたことが原因なんデフかね……あと『火竜の剣』の魔石をスティーブ将軍から買い受けたことも理由の一つなのかもしれないデフね。『暁の涙』って改名して、魔石は持ってないってすっとぼけて……で、でもぼくチンは貴族デフ、大抵のことは許されるはず。そうデフよ、今回のことだってぼくチンはなんにも悪くな――」
アンサムが言いかけた瞬間、茂みが揺れ、人の形をした影が見えた。
「あ、もしかしてぼくチンを迎えに来た警備員デフかね! なかなか気が利くやつがいたもんデフな! 特別にぼくチン専用の近衛兵に任命してやらないこともないデフ――」
ガサッ、音と同時に現れたのは――。
「ふぬううううううううううううううううううううううううううううううううううううッ!!!!!!」
全裸で小便をまき散らしながら走る緑色の変態だった。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!??」
アンサムは叫ぶとすぐさま逃げ出したが、変態は後ろから追って来ていた。変態の目線はどこか別の場所に向いていたが、やがて前を走っているアンサムに気が付いたようだった。
「あ、てめえアンサムじゃねえかコラ!!! どこ行ってたのかと思ったらこんな森の中に隠れてやがったのか、もう逃がさねえぞ覚悟しろッ!!!」
「いや、いやデフッ!!! 来るなデフううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう!!??」
アンサムは顔面蒼白になりながらも必死に走った。肥満体系もなんのその、腹の贅肉を揺らし素早い動きを見せるそれは体育の時間に活躍するデブを彷彿とさせた。
「逃がさねえって言ってんだろッ!!! ゲハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!!」
(つ、捕まったら、肛門に、ぼくチンの肛門に何をされるかわからないデフッ! に、逃げ切らねばッ!)
悪魔のような顔で下半身を露出させ、またそれだけでは飽き足らずあろうことか小便をしながら夜道を横向きで飛び跳ねるように全力疾走する変態に捕まったらどうなるのか、考えるだけで恐ろしかった
だからこそ走る、自分の純潔を守るように。
勇者は飛んでくる矢を掴むべく、一心不乱に小便をまき散らしながら走っていたが、偶然見つけたアンサムも捕らえようと顔を歪めて笑った。
「な、なんで、追いかけてくるんデフかッ!?」
「『暁の涙』のケースを開けるカギが必要なんだよッ!!! てめえが『暁の涙』のケースのカギを持ってるんだろ、コラッ!!! 正直に答えやがれッ!!!」
「そ、そうデフけどッ……! わ、わかったデフ、カギなら、渡すデフ、デフからもう追っかけて、くるな、デフッ……!」
アンサムは豪華な装飾が施されたネックレスについていたカギを首からはずすと地面に放り投げた。だが勇者はカギに目をくれることもなく走り続けるアンサムを追撃する。
「な、なんで追ってくるんデフかッ!? もうカギは投げ捨てたデフッ!!!」
「信用できないんだよッ!!! あのカギが偽物って可能性があるッ!!! だからてめえを捕まえる、捕まえてカギと一緒にケースの前まで来てもらうぞッ!!!」
「いや、いやデフッ!? お前に触れられるくらいなら舌を噛み切って死んでやるデフッ!!!」
「なに生娘みたいなこと言ってんだこの豚ッ! キモいんだよッ!」
「お前に言われたくないデフこの尿漏れピーマン野郎ッ!!!」
「誰が尿漏れピーマンだこの野郎ッ!!!! っていうか異世界にピーマンがあんのかコラッ!!!!」
追いかけっこはデッドヒートし、両者は汗だくになりながら肌寒い夜の森を走り続けていたがやがて体力の限界がきたアンサムは足をもつれさせて転んだ。
「あひゃひゃひゃひゃひゃッ!!!!! これで終わりだぜッ!!!!」
「いや、いやぁぁぁッ!!!! もう許してくれデフぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!」
勇者がブブルに襲いかかろうとした時、矢の気配が軌道を変えた。そして同時にスピードも跳ね上がったように感じ、着弾までもう間もないことを知る。
(左に曲がったのかッ! くそッ! 矢を追いかけるならアンサム確保してる暇ねえぜこりゃ!)
勇者は決断を迫られる。
(ちッ、仕方ねえッ!)
勇者は矢の方を追いかけることに決め、アンサムから離れ矢を追いかける。アンサムは勇者が離れたことで気が抜けたのかそのまま気絶した。
「こちら、皮カムリのチェリー! アラン将軍! おいッ! アラン将軍! 聞こえるかッ!」
矢を追う勇者はアラン将軍にアンサムを捕らえてもらおうと腕輪に呼びかける。
『ん? おお、相棒か、どうした?』
「アンサムを見つけた! カギはやっぱり奴がもってやがった! 今は気絶してるんだが俺は別件で忙しくて捕まえられない! 仲間を一人こっちにまわしてほしい!」
『……すまない、今はちょっと手が離せない』
「なにッ!? まさか敵の増援が来てるのかッ!?」
『いや、みんなでゲームしてて』
「いいか? ケツの穴に『火竜の剣』を突き刺して欲しくなかったらさっさと来い」
勇者はドスのきいた声で脅しをかけた。
『わわわ、わかったよ相棒……』
「屋敷から見て南の森だ。真っ直ぐ進めばアンサムがいるはずだから三分以内に来いよ?」
勇者はそれを機に通話を切ると全力で飛んでいる矢を追いかけた。いつの間にか尿は止まっていたため前向きに走り出す。森をフルチンで走るうちにやがて風を纏った矢が飛んでいるのを見つける。
「見えたッ! アレかッ! 掴まえてやんぜええええええええええええええええええええッ!!!」
勇者は全力で走り、矢の向かう先を目で追った。
(あそこかッ! あそこに着弾させるつもりだな!)
勇者がその鋭敏な感覚で感じ取った矢の行き先は一本の木であり、風を纏ったその矢は木に向かって突き刺さろうとしていた。距離的には届かないこともない場所ではあったものの、しかし厄介なことに矢が突き刺さろうとしていたその場所は結構な高さだった。勇者が普通に上ったとしても優に五分はかかる高さ。
だが矢が木に突き刺さるまではあとわずかな時間しかなく、届かないと分かっていながら勇者は全てを振り絞ってジャンプしようとした。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!! 間に合ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええッ!!!!」
その瞬間の出来事である。
勇者の願いにこたえるように、その時、勇者の足に魔力が集中していき、足が赤く光り輝く。
(まさか便ブラかッ!?)
集中させてほしいと言いながらも勇者のアシストをしたトイレブラシに内心感謝しながら、勇者は全力で跳んだ。地面に穴が開くほど強く跳び、矢を目掛けて突っ込む。
「とどけええええええええええええええええええええええええええええええええええッ!!!!!」
スローモーションで時が流れる感覚をこの時勇者は味わった。
ゆっくりと、矢と木の間に滑り込んだ勇者は着弾寸前になんとか間に合った。
だが勢いのつきすぎた勇者の体は想像以上に高く跳んでしまい、上半身の腕で受け止めるはずだったにもかかわらず別の場所に矢は接触した。
上から落下するようにして矢と木の間に滑り込んだ勇者は口を大きく開けながら現状を認識する。
矢が接触したのは上半身ではなく下半身。
下半身のある場所に魔力の風を帯びた矢じりは衝突した。
勇者の下半身において最も大事な場所。
勇者の下半身の前に付いた、男の象徴。
決して魔力がこもった攻撃が命中してはいけない場所に矢は命中する。それは――。
「んほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!??????」
勇者の股間だった。
しかもむき出しの状態の勇者の股間だった。
「らめえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!????」
勇者は気持ちの悪い声を出しながら矢の衝撃に押さえつけられる形で木に張り付けられる。そしてその衝撃の凄まじさはから勇者は股間が、正確には精器が吹き飛ぶのではないかと錯覚した。
しかし勇者の体の一部に接触したことでトイレブラシが事前に張っておいた魔術が発動し、赤い光が股間をガードしたが衝撃全てを消すことは出来なかった。
「ぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!???????」
勇者の汚らしい喘ぎ声が夜の森に響いた。
そしてその時だった、ガサゴソと草をかきわけ音を立てて何者かが勇者のいる方に向かってきた。
「相棒! アンサムを捕まえたぞ! ところでどうしてそんな大声を出し――」
現れたのはアンサムを縛ったまま引きづってきたアラン将軍だった。
「……え……」
将軍は、風の矢をち〇こに受けて悶えている勇者を見て絶句しているようだった。
アラン将軍は顔を若干引きつらせたのち、申し訳なさそうな顔をした。
「……す、すまない。だ、だが、そういうのは自分の部屋でやったほうがいいぞ……」
「何を想像してんだてめえわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!???」
「何をって……ナニを……」
「そんなわけねーだ、ォホオオオおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!????」
否定する前にさらに矢の衝撃が強くなったため、さらに気持ちの悪い声をあげる。
「わ、私は、先に屋敷に戻るが、あまり遅くならないようにな。抜きすぎは体によくない……」
息子の部屋で掃除の途中、エロ本を見つけた母親のような顔をしたアラン将軍はアンサムを連れて、そのまま立ち去ろうとした。
「何言ってやが、るうううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう!!!!???? ちょ、待てまああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!?????」
勇者は絶叫し、助けを求めて将軍を呼び止めようとした、がそれは言葉というよりも獣の叫びに近かった。
だが勇者の心の叫びが届いたのか将軍は立ち止まり、ゆっくりと勇者の方に振り向いた。
(伝わったかッ!? そうだよこんな斬新な自家発電があるわけないだろうッ!? 助けてくれッ!)
勇者はそれを見て、言いたいことが伝わったのかと歓喜した。
「大丈夫。誰にも言わない」
人差し指を口に当てたお茶目な笑顔のアラン将軍はそのまま帰った。
「……そっ、そうじゃねぇぇよボケががああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!????」
勇者は大量の唾を飛ばしながら叫んだ。
そして結局、アラン将軍は帰ってしまい、勇者はこの世のお終いのような気分になった。
だがその時、再び救世主が現れる。
「相棒ッ!」
なんとアラン将軍が戻ってきてくれたのだった。
「しょ、しょうぐ、じょうぐううううううううううううううううううううううううううううん!!! ありがどおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
勇者は泣いた、喜びのあまり鼻水と涎を垂らしながらむせび泣く。
そして感謝した。
ようやくこの股間をえぐるような衝撃から解放される、と勇者は安堵する。
(便ブラ、まだ特定できてないのかもしれんけど、あれだもう一回、もう一回やり直そう。だからこれはノーカンでお願いします)
勇者は心の中で、そう言うとアラン将軍の方を見た。
さあ、助けてくれ、とそういう顔で将軍を見た。
「ティッシュ、置いておくよ」
アラン将軍はそう言うと帰った。
期待していた勇者は口を開けたまま固まった、そしてやがて――。
「…………お、お、お、お前ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!」
絶叫したのだった。
もはや股間の感覚がなくなりかけ、自らの剥けていない息子に向けて自作の鎮魂歌を歌おうかと思い始めたその時。
「お待たせしました勇者様――って何してるんですかッ!!!!????」
「べ、便ぶぶらぶわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
真の救世主がようやく現れたことに勇者は再び感涙し、救世主トイレブラシはドン引きした。
「……あの、私、手で受け止めてほしいって言いましたよね……今戦闘中ですよ……こういう特殊なプレイは遠慮していただきたいんですが……」
「だから違うんだってぶ、ぶ!? ぶわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!????」
話している最中にさらに威力の増した矢に勇者は悶える。
「もう、解析、終わった、な、ら、早く、ななん、なんとかしてくりゃれええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!」
「なんですかくりゃれって……まあ、いいですけど。相手の場所はわかったので、今、押し返します、それで……ホントは手から発動する予定だったので、えーっとちょっと不備があるかもなのですが……」
「なんでもいいから早くぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!?? 俺のブレイドのツインドライブがキャパシティのリミットをケラウェイぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃしてるんだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!??」
「言ってることはわけわかんないですけど、なんとなく伝わりました。では――」
トイレブラシが言うと、勇者の股間に巨大な光が発生し、風の矢を飲み込んだ。
「ォォォォォォ……お? ……痛くない、痛くないぞ! よくやった便ブラ! 褒めてつかわす!」
「上から目線の感謝は納得いきませんが……いいでしょう、今回は。なにせ――」
勇者の股間から発生した赤い光が矢の衝撃を吸収したため痛みから解放された勇者だったが、それで終わりではなくなぜか股間が光り輝いたまま空中に浮いたままの状態が続いていた。そしてトイレブラシはとても悲しそうに言葉を途中で切った。
「なにせ、なんだよ? 途中で切るなよ。あとなんで俺浮いたままなんだよ。敵の居場所わかったんならさっさと奇襲仕掛けに行こうぜ」
「いえ、相手は魔眼持ちなのでこちらが移動し、接近すれば向こうは居場所がバレたと一発で気づくでしょう。なのでこっちも遠距離攻撃を仕掛けようと思いまして……それもとても速い攻撃魔術を」
「そうなの? じゃあ早く撃てよ」
「……自動で発射されます、あと三分後に。ただ発射される前に一つ聞いてください勇者様……正直こんなことになるなんて私も予想外だったんです。私はてっきり手で、腕で矢を受け止めるものとばかり思ってしまっていたので、こんな、こんな事態になるなんて……」
「なんだその言い訳染みた懺悔みたいな言葉はよ……」
勇者はトイレブラシが言っている言葉の意味をまだ理解できていなかったが、その言いようは『これから悪いことが起きるけど、私のせいじゃないYO?』と言っているように聞こえた。
「おい、ちゃんと説明しろ! 何が起きるのか、ちゃんと!」
「……わかりました。まず私は勇者様の体にある術式を施したんですが、それは相手の魔術を受けると自動で発動する類の設置型の魔術だったんです。私が相手の魔力の糸を探るのに必死だったからそういう設置型の魔術にしたんですが……その、相手の魔眼の事を考えるとスピードの遅くて威力の弱い低級攻撃魔術では相手に気づかれて、すぐに対処されてしまうと思って……上級の、それも超強力な属性魔術を仕掛けておいたのです。で、ここからが問題なんですが……」
トイレブラシは申し訳なさそうに、怒られるときの子供のように、言葉を所々途切れさせながら勇者の反応を見つつ言う。
「前に……上級の属性魔術を使った時に反動で勇者様が焼けるような痛みを味わったじゃないですか? あれよりちょーっとだけ反動が強い魔術が発動します。それも矢が接触した部分を起点にして、ですので矢が接触した部分に反動がいきます」
「矢が接触した部分を起点にしてって……まさか……」
「はい……」
勇者は己の光り輝く股間を凝視しながら目を見開き、トイレブラシは肯定した。
「……は、反動って……どれくらい?」
勇者は以前のクベーグ戦を思い出し、あの時味わった焼けるような苦しみもまた思い起こしていた。
「そんな心配するほどでもないですよ」
「そ、そうなの? ひゃ、百度くらい?」
「いえ、もうちょっとだけ上です」
トイレブラシの怯えようからどれほどの熱が股間を襲うのかとビビりまくっていた勇者だったが、それほどでもないと言うトイレブラシの言葉に少し安堵した。
「じゃあ、二百度、か三百度くらいか?」
「摂氏五千度くらいですかね」
「ふざけるなぁぁああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!??????」
勇者は自身の股間に襲い来る絶望的な未来に慄き、絶叫した。
「大丈夫ですよ、ちょっと皮つきソーセージとウズラの卵がウェルダンになるだけですよ」
「ウェルダンで済むかボケッ!!?? 鉄だってバターみたいに溶けちまうような温度じゃねーか!!! 俺の股間が消し炭になっちまうだろう!!??」
「ド低脳なのに摂氏五千度の意味を理解できるなんて勇者様偉いです!」
「話を逸らすなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!!!!」
そうこうしているうちに勇者の股間が強烈なまでの熱を帯びてきた。朝日のような光と高熱が薄暗い森を照らし、その光景はまるで勇者が股間に太陽を作り出しているようにも見えた。
「あ、熱い、股間が、焼けるように熱いぞッ……」
「時間ですね。魔術が発動します」
「止めろッ!!! 今すぐ止めやがれッ!!!」
「無理です。一度発動した魔術は止められませんよ。前にも言いませんでしたっけ?」
「意地でも止めろよ気合で止めろよ!!?? 俺の男としての尊厳が失われてしまうんだぞッ!!?? っていうかその前にショック死するわッ!!?? 睾丸は男にとっては露出した内臓みたいなもんなんだぞ!!!! 内臓を直に焼かれるようなもんなんだ、直火焼きだ炭火焼だ備長炭だよ!!!!」
「大丈夫、安心してください。クベーグさんの時も反動に耐えられたんですから今度も平気ですよ」
「あの時は全身だったから気がまぎれたけど今度は股間にピンポイントじゃねえか!? 無理無理絶対無理死んじゃう死んじゃうッ!? これはマジでむ――」
「心配しないでください」
発狂寸前の勇者に向かって遮るようにトイレブラシは優しく言う。
「痛いのは一瞬です、たぶん」
トイレブラシの無責任な言葉を聞き、勇者はもはや止めることは不可能なのだと悟る。
「勇者様ファイトッ!」
「い……いやぁああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!??????」
勇者の咆哮を合図として、人口の太陽は膨れ上がっていき、やがてある一点に向かってその陽光は炸裂する。巨大な極太の炎がレーザーのようなスピードで森を焼きながら発射された。
その光景は勇者の股間からビームが出ているようにも見えた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!!!」
そして魔術の発動と時を同じくして勇者の股間を灼熱の業火が襲う。
「ぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
立ち小便をしているかの如き勇者の攻撃は一見するとふざけているようにしか見えなかったが、その股間から放たれるレーザービームは木々や岩を一瞬で消し炭にするほどの威力をもっていた。しかしそれに伴う反動もまた凄まじく、勇者はもはや言葉らしい言葉を話すことが出来ないほどの灼熱の痛みに身を焦がしていた。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ……あ、あッ……」
だがやがてビクンッ、と体が大きく跳ねた後、勇者は静かになった。
勇者が動きを止めると、股間から放たれていたビームも勢いをなくしていき、やがて消失した。
勇者が静かになると同時に浮いていた体もやがて地面に落下した。
ドサッ。
地面に体がぶつかったが、柔らかい土と草の上だったためか、体はどこも怪我をしていなかった。
ある一点を除いて。
ジュウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ。
静かに仰向けで倒れる勇者の股間からは煙と香ばしい臭いが出ていた。
「……お疲れさまでした、勇者様。今、再生魔術をかけますのでそれまで待っていてください」
真っ白に燃え尽きた勇者の顔を見下ろしながらトイレブラシは慈愛に満ちた声でそう言った。
勇者の撃ったビームは森の木々を消し飛ばし、ビームの通った後の森には一直線に道が新たに出来ていたのだった。
時間は少し遡り、勇者がちょうど股間からビームを放った時のこと。
「……防がれた。いや、それだけじゃないッ!?」
シャルゼは魔眼で自身の攻撃が阻止されたことを知ると同時に、強力な魔力攻撃が自分のいる方角に向かって来ていることを知る。
(く、間に合うか……ッ!)
シャルゼは魔眼の力をフルに使い、風属性の上位防御魔術を発動しようとしていた。本来数十分かかる詠唱をわずか十秒足らずで行ったシャルゼの眼に陽光に似た光の塊が映る。
巨大な炎がシャルゼを消し飛ばそうと眼前まで迫っていた。
「はぁァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!!」
巨大な熱の波がシャルゼを飲み込む寸前だった。間一髪、シャルゼが叫ぶと空気の膜がシャルゼを中心にして広がりその体を守った。
「ぐ、がううううううううううううううううううううううううううううううううううううッ!!!!!」
しかし安堵したのも束の間、あまりにも巨大かつ威力のある炎属性の上級魔術に空気の膜が歪み始める。
(こ、こんな凄まじい炎の属性魔術が存在するなんてッ、このままじゃモタないッ!!!)
さらに勢いの増していく炎にシャルゼは戦慄した。
「う、ぐ、わああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!?」
紅蓮の炎はシャルゼのいる大木を消し炭にすると、そのままシャルゼを空中に吹き飛ばし、なおもその体を喰らい、焼き尽くさんと襲いかかる。
「僕を追撃する魔術的付加がされているのかッ!?」
空中にいながらも炎の攻撃を受けていたシャルゼだったが、体だけはなんとか風の膜が守っていた。だがそれも、もはや破られるまでそう時間はかからないところまできていた。その証拠にシャルゼの体は徐々に焼けこげ、服だけでなく全身が焼けただれ始めていた。
(このままでは全身が焼かれる、イチかバチか、賭けてみるしかない……)
炎に押し上げられる形で空中で攻撃を受けていたシャルゼは自身に迫る危機の重大さに気が付き賭けに出る。
「うううううううううううううううううううううううううううううううううううううううッ!!!!」
歯を食いしばりながら、炎の軌道を変えようとシャルゼは空気の膜の形を調整した。
「ううううううううううううううううううううううううう――うがぁッ!!!!!」
風の膜の形を変えることで炎を、空中ではなく地面に向かわせることに成功したシャルゼは、食らいついてくる炎を受けながらそのまま地面に叩き付けられた。
「ぐほッ!? ……ぐ、ぁッ!!!!」
しかしやはり軌道を変えようとも意味はなく、炎はシャルゼを追撃してきた。その体は空気の膜にまだ守られてはいたものの、炎に押され地面をえぐりながら転がる。木々が吹き飛び、地面の土が舞い上がる光景を朦朧とした意識の中で見たシャルゼは、なんとか目的地につくまでは意識を保とうと気を張った。
(チャンスは、一度だけだ……!)
シャルゼはボロ雑巾のようになりながらも魔眼を輝かせ、炎を見た。
やがて森の中を抜け、勇者から十キロ以上離れると、そこはもはや森ではなく岩石地帯になっていた。
小さな石や岩に衝突しながら、シャルゼは背後を見た。
(見つけた、もう少しッ……)
シャルゼの眼が捉えたのは巨大な黒い岩だった。その大きさは優に五メートルを超えており、その巨石はまるで岩石地帯の主であるかのように堂々とそびえ立っていた。
(術式、再構成、風圧、調節、速度、調節)
魔眼による詠唱短縮でものの一秒もかからず術式を組み上げたシャルゼは背後に迫る岩との衝突のタイミングを計る。
(5、4、3、2、1――)
炎と岩の間に挟まり、押しつぶされる寸前。
(0ッ!!!)
シャルゼは風の膜を解除し、凄まじい速度で上に吹き飛んだ。
風の属性魔術を炎と岩に挟まれる瞬間に地面にぶつけ、上空へと舞い上がる、それがシャルゼの行ったことだった。言葉にしてみれば単純なものだったが、炎と岩がシャルゼを押しつぶすギリギリまで、追撃してくる炎を引き付けなければならなかった。そしてそのタイミングを見極めるのは過酷であり下手をすれば岩と炎に挟まれ押しつぶされて体が破裂する危険性もあった、だがかといって上に跳ぶのが早すぎれば今度は炎がシャルゼを確実に追跡し消し炭にすることは間違いなく、破れかけの空気の膜がそれを物語っていた。
そして炎が激突した岩の背後に落下する。
「……はぁ……はぁ……うまく、いった……」
高熱に先ほどまでさらされていた体は湯気が出ており、服はすでにボロボロだった。
(……枯れ木に上った時、使えるものがないか周囲を魔眼で確認しておいてよかった……)
シャルゼは自分の用心深さに苦笑し、噴き出す汗を腕で拭った。
(この岩の大きさなら大丈夫のはず、これでしばらく息を整えられる。でも……これでいよいよ後がなくなってしまった。もう『メルティクラフト』するしか手がない……)
横幅十メートル、分厚さは五メートル近い巨大な岩に背を預けたシャルゼは安堵しながらも心を曇らせていた。最後の手段、それはうまくいけば勇者を捕らえることができる自信があった。成功すれば強力な魔技を放つことが出来る、しかし失敗すれば全てを破壊しつくす危険があった。
(……『メルティクラフト』状態で放てる魔技の失敗が怖いわけじゃない……『メルティクラフト』という状態になった時、それは僕の中にある血を刺激してしまう……この呪われた眼を遺伝させた血を……)
シャルゼは両腕で自身をきつく抱きしめながら目をつむった。
その時。
「……え……?」
巨大な岩から焦げ臭いにおいが漂ってきた。
そして背中が猛烈に熱くなり、岩から飛び退き、岩を見た。
「そんな……」
シャルゼは巨石を見ながら顔を絶望の色に染める。
直径十五メートル程の巨石が熱を帯び、真っ赤に色を変えていた。もともと黒かった岩は灼熱の炎を受け色を変色させ、煙をあげる。
(こ、壊れる……)
岩にヒビが入り始めたのを見たシャルゼは直感的にそう思い、熱を帯びた岩に両手で触れる。
ジュウゥゥゥゥゥ。
(あ、ついぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!!! だけど、やらなければッ!!!)
全身のありったけの魔力を岩に注ぎ、岩の耐久力をあげる。魔眼を使って詠唱を短縮できるとはいえ、術式を組み上げる数十秒すらも命取りになるほど岩は熱と衝撃で破壊されていた。これが現状でシャルゼの取れる最善の手段であった。
それが功を奏したのか、緑色の光が岩に吸い込まれていき崩壊を免れる。
しかし気は抜けず、目に入る汗やまとわりついてくる虫をそのままにし、食いしばった歯にさらに力を入れて魔力を注ぐ。
「止まれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!!!」
叫び、崩れゆく岩にこれで最後といわんばかりに大量の魔力を注ぎ込んだ。
ヒビが各所に入り、グラグラと揺れる岩はもはや決壊寸前だった――だが。
「……た、助かった……」
焼けただれた手を岩から離し、地面にへたれ込んだシャルゼはため息をつく。
岩を破壊する炎の勢いは止まり、術が効果が切れたことを魔眼で確認したシャルゼは唇を震わせながら己が体験したことを振り返った。
(……危なかった……威力もさることながら、速度、持続時間、追尾などの付加能力、どれをとっても次元が違いすぎる……現代にこれほどの大魔術師が存在していたなんて。これじゃあまるで太古の昔に存在していたとされる伝説の魔女たちみたいじゃないか……でも、確かにこれほどの力を持つなら大規模な『呪界』を発生させることも可能……)
シャルゼが勇者に対して恐怖と畏怖、両方を感じていた時。岩がガラガラと音を立てて崩れ始めた、どうやら先ほどの攻防ですでに形を保てなくなっていたらしい。
(無理もないか……あれほどの熱と衝撃を受けていたんだ。助かったよ、君のおかげだ、ありがとう)
意思のない無機物に心の中で感謝したシャルゼは崩れゆく様子を看取るように眺めていた、
「……なッ……!?」
だが岩が崩れ去った瞬間、舞い上がった塵の中に異物を見つけ思わず声をあげる。
それは直径一メートルほどの浮遊する球体だった。
そして塵が晴れると同時に、轟々と音を出し燃え盛る小さな太陽は周囲をいっそう明るく照らす。
「……あ……」
シャルゼの声と同調し、赤い実が弾けるように球体が破裂する。
光と熱の波がシャルゼを含む周囲百メートルを飲み込んだ。
バゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!!!!
炎がドーム状に広がり爆発する様子をトイレブラシは見ていた。
「へぇ、あの爆発が起こったってことは私の炎の魔術に最後まで耐えきったみたいですね。でも残念でしたねロビンフットさん。あれは仮に防御に成功したとしても形を変えて残り、爆発するように設定しておいたんです。ふふ、エクスカリバー流は隙を残さぬ二段構え。いや~可愛いだけじゃなくて有能なんて、私って本当にすごいです♪ 可愛いは正義、そして強くって可愛いのは大正義。つまり大正義エクスカリバーちゃんに敵は無しということです。流石、すごい、可愛い、最高! どんな時でも輝いて、ぶはあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!??」
自画自賛を繰り返していたトイレブラシは地面に叩き付けられ強引こすりつけられた。
「なにてめえはほざいてんだゴラァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!!」
「ゆ、勇者様、起きたんですかッ!?」
目覚めた勇者にトイレの便器をこすりつけるように強引に地面をこすられていた。トイレブラシはそれを跳ね除けると勇者の顔面にぶつかる。
「何をするんですかッ! ひどい仕打ちです、敵を討ち取った功労者にすることじゃないですよ!」
「何がひどい仕打ちだ、こっちが受けた仕打ちに比べればはるかに甘いわッ!」
「敵を倒せたんだからいいじゃないですか! 私の必殺魔術で焼き尽くしたんです、褒めてください!」
「褒めるかボケナスッ!? 俺の股間まで焼き尽くしただろうがてめえは!? 危うく死ぬとこだったぞッ!? 俺のビッグフランクになんてことしてくれたんだッ!?」
「勇者様の皮つきポークピッツなら無事再生してるでしょう!」
「違うビッグフランクだ断じて皮つきポークピッツじゃない!!! それにビッグフランクもそうだけどツインドライブがオーバーヒートしたことの方も問題なんだよ!!! 子孫が残せなくなったらどうするつもりだったんだ貴様ッ!!!」
「大丈夫ですよ、あってもどうせ残せない――ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!?」
トイレブラシをへし折ろうと勇者は柄に両手で力を入れた。
「なにする、んですかッ!!!」
だがまたしても逃げられる。
「やんのかコラッ!!!!」
「やってやりますよッ!!!!」
勇者とトイレブラシは、路地裏で肩がぶつかったチンピラ同士が睨み合うように顔を近づけた。
「「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!!!」」
そしていつも通り殴り合いを開始した。
十分後。
「くっそ……いてえ……」
「痛いです……」
いつも通り決着は引き分けに終わり、トイレブラシを左手に持った勇者は自身を襲撃してきた刺客がいるであろう方向に向かって走っていた。
「本当に勇者様はどうしようも無い人ですね。可愛い女の子がやらかしたとしても、多少の事は大目に見るのが男の甲斐性でしょうに」
「黙れ便所ブラシ。何度も何度も言ってるけど、お前のどこが可愛い女の子だ、それに多少じゃなくて大惨事だっただろうが」
「今現在も大惨事ですけどね……」
魔術発動と同時に下げられていた下半身付近のパンツ代わりのボロ布も燃え尽きたため、勇者は現在再生したソーセージと二つの玉を丸出しにしながら夜の森を歩いていた。
股間を除き、緑色のペンキを全身に塗りたくった変態が夜の道を全力疾走する。
「完璧に変質者です……」
「てめえのせいだろッ!?」
「人のせいにしないでください。だいたい股間に矢を受けるなんてどう考えても勇者様のミスです」
「あらかじめ説明しておかなかったお前にも責任はあるだろうが!」
「だって勇者様ヘタレだから魔術の反動のこと話したらクベーグさんと戦った時みたいにビビッて作戦に協力しないかもしれないじゃないですか」
「貴様言うに事欠いてこの天才イケメン勇者をヘタレ呼ばわりだとッ!? いいか? 勇者とは勇敢なる者のことを言うんだぞ! つまり勇者でありながらもさらにとびぬけて優秀な大勇者であるこの俺がヘタレなんてことあるはずが――」
ガサ、ガサッ!!!
「ふぁふぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃイイイイッ!!??」
近くの茂みが揺れると同時に勇者は奇声を発し、腰を抜かした。
そして茂みからは小さなリスのような生き物が顔を出し、勇者の前を横切って行った。
「……さすが、頼りになりますね大勇者様」
「違うッ! 今のは違う! あれだ、また敵の攻撃が来たのではないかと警戒した俺の本能が無意識に体を動かし回避行動をとらせ――」
「ああわかりましたわかりました」
「この掃除用具ッ!!!!」
トイレブラシにぞんざいに言葉を切られた勇者は立ちあがると目的地に向かった。
「……今から確認に行くわけだけど、本当に倒せたのか?」
「たぶん、ですけどね。まあ倒せていなくとも今こうして攻撃が止んでいる以上なんらかのダメージは負わせられたはずですよ」
「そうあってほしいけどな、なにせこっちは男にとって最も大切なものを一時的にとはいえ捧げたんだからな……」
ブルブルと体を震わせた勇者は敵がいる爆発痕に向けて一心に足を動かした。勇者の全力疾走の結果、それほど時間もかからず目的地である場所にたどり着いた。
「ひええ……すげえなこりゃあ……」
勇者は周囲百メートルに及ぶ巨大なクレーターを見下ろしながら顔を引きつらせていた。
「そうでしょう、なにせこのエクスカリバーちゃんの魔術ですからね。でもこの程度の威力は序の口ですよ、本気になった私の魔力攻撃はもっとすごいのです」
「……これで本気じゃないとかどんだけ物騒な掃除用具なんだよお前は……」
「だから掃除用具じゃなくて聖剣ですから! 失礼な!」
「小汚い便所ブラシが聖剣名乗る方が失礼だろ……つーかこれ、敵生きてんのか……」
勇者はクレーターに降りようとして足を止めた。
「……裸足じゃまずくね……絶対火傷するよねこれ……」
煙を出しながら、今だに赤みを帯びる大地を見た勇者は怖気づく。
「大丈夫ですよ。私たちは火属性、炎に耐性があるって言ったじゃないですか。並大抵の熱では勇者様に火傷を負わせることは不可能です。摂氏五千度の熱にもあんなに長時間耐えられたじゃないですか」
「結局消し炭にされたけどな……」
勇者は言うと、クレーターに降りて行った。
「お、ホントだ熱くない。でもひでえなこりゃあ」
勇者は周りを見回したが爆心地には石一つ残されておらず、踏んでいる土でさえも、発生し全てを焼き尽くしたであろう炎によって黒焦げになっていた。
「そこそこ威力を出しましたが、この程度で戦闘不能にするのは難しいでしょうね。なにせ金髪のイケメンさんたちと同等の力を持っているみたいですから、負傷させるのが関の山でしょう。でもいいんです、相手を負傷させて居場所を特定するのが目的なんですから」
「この程度って言ってもお前さあ……」
どう考えても戦略兵器を使った後としか思えない惨状を見ながら勇者は考える。
(こんなナパーム落とした後みたい場所にいて倒せてないとか……魔力持ってるから生きてはいるのかもしれないが……どう考えても戦闘不能になってると思うけどな)
勇者は内心もう戦闘は終わったとそう思っていた。
「……誰もいないな……ってあっちィィィな!? なんか、急に温度が上がって、火傷しそうだぜアチッ!?」
焼け跡の中心に向かって歩いていた勇者は地面が急に熱くなったことに驚き、ピョンピョンと跳ねる。
「ここが爆発した場所の中心部近くだからでしょう。魔力によって発生した熱がまだ残っているせいか温度が他とは違います」
地面を見ると、確かに他よりも盛大に土がえぐれて周辺が消し炭状態になっていた。
「あっち、あっちッ! あ~も~! もう確認しなくていいだろう便ブラ! 屋敷に帰ろうぜ! 敵はたぶん爆風でどっかにふっ飛ばされて行動不能になってるよたぶん!」
「そんな適当に済ませないでください。行動不能になっているとしてもそれを確認するまでは油断しては駄目ですよ。戦いはまだ終わっていないのですから警戒を怠らないでください」
トイレブラシは勇者の心の内を理解していたのか、はたまた勇者のダラけた態度を見咎めたのか、注意しようとブラシのスポンジを顔に当てて注意する。
「わかってるって。でももう深夜だからさ、集中力が続かないっつーか、ねみぃんだよ。しかも結構動き回って、戦闘もしたし、疲れてるわけさ。ふぁ~、ベッドが恋し――」
勇者がトイレブラシの注意を聞き流し、あくびをしたその時。
ゴォォォ、上空より轟音が響く。
「……なんだ、この音……上か?」
「……これは、勇者様! ここから急いで離れてください! 大至急ですッ!!!」
「な、なんだかわからないけど、了解!」
トイレブラシの迫力に、嫌なものを感じ取った勇者は全速力で来た道を引き返した。
「ぐ、なんか音がさっきより、っていうか、なんだ、頭に、響く……」
「勇者様ッ!?」
ギィィィ、と金属をノコギリで擦ったような音が周囲に響きわたり、走っていた勇者は立ち止まり、たまらず頭を押さえてうずくまる。爆心地の中央からは離れられたが、今だに勇者は焼け跡から出られてはいなかった。
「マズイッ!?」
トイレブラシが悲鳴のような声をあげると同時に上空より真っ直ぐ、天から降り注ぐ雷のように何かが急速に落下してきた。大気を震わせるような轟音と金属をひっかいたような耳障りな不協和音を奏でながら落下してきたそれは爆心地の中央に着弾すると、巨大な音を出して周囲一帯を薙ぎ払う。
「うあ、ぐあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
強力な超音波を受けた勇者は頭を押さえた状態で衝撃波を受け後方に吹き飛ばされた。
そのまま吹き飛び、転がると勇者は意識を失った。
「勇者様ッ! 勇者様ッ!」
トイレブラシの必死な呼びかけにも勇者は応じず、場に不快な音が今だに響いていた。
「はぁ……はぁ……今度こそ……攻撃は当たったはずだ……はぁ……」
シャルゼは下を見下ろしながら荒い息を吐く。
地面に体を預け横になりたいと、そう思ったが、シャルゼが現在いる場所ではそれは叶わない。
(ギリギリだった……あとほんの一秒でも遅ければ、確実にやられていた……)
三日月のような形をした三メートルを超える巨大な緑色の弓を右手に持ったシャルゼのその額には汗がにじんでいた。武器の形状が変わり、左手に魔石が埋め込まれた『メルティクラフト』状態でシャルゼは雲の上から勇者を見下ろす。
(爆発の直前、魔技の発動でなんとか、ここまで退避できた……それにしてもなんという強さだ……レオン君とガゼル君が撃退されたという話も今ならなんの疑いもなく受け入れられる……魔力だけじゃない、二段構えのあの技術……まごうことなき強者の証)
上半身の服がほとんど燃え尽き、体中に火傷の痕を残すシャルゼはあらためて勇者の強さを認める。
魔技を用いたことで勇者位置からおよそ五千メートルほど離れた上空に退避したシャルゼは魔眼を光らせ遙か下にいる勇者の魔力状態を見た。
(だがどれほど強かろうと僕は退けない。それにさっきの一撃、確実に赤毛の剣士にダメージを与えられたはず。しかしこちらも『メルティクラフト』を使ってしまった……いつ暴走するかもわからない……状態が安定している今のうちにケリをつける……!)
矢を携えていない状態でシャルゼが弦を強く引くと、空気が渦を巻いて弦と弓の間に入り込み矢の形に変形する。風の矢は周囲の空気を取り込みながら次第に膨らんでいくと二メートル近い巨大な一本の矢へと姿を完全に変えた。
(これで、終わりだッ!!!!)
シャルゼが巨大な槍のような空気の矢を地上に向けて放った瞬間、周囲の雲が消し飛んだ。
「ま、マズいですッ!? 二射目が来るッ!?」
トイレブラシは自身の握られた勇者の左手を引っ張るようにして体を運んでいたがシャルゼの魔技が放たれたことを感じ取ると悲鳴をあげた。
(たぶんロビンフットさんは『メルティクラフト』している。そしてその状態の魔技は攻撃力もさることながら、一番厄介なのはその時に響く音。なるほど、着弾と同時に周囲に音を響かせる能力ですか、魔力と風、両方が複雑に擦れあい特殊な音を発生させ、音はしだいに反響し大きくなっていき、そしてそれは超音波となって脳を揺さぶる。脳のある動物にとってこれほど厄介な能力はないですね)
気絶した勇者を見て敵の魔術を考察したトイレブラシは次の攻撃に備えるべく勇者を引きずる。
(…………駄目だ、このまま引きずっていても攻撃を避けることはできない。次の攻撃で音が周囲に響けば勇者様の脳が破壊されかねないですし……風の衝撃は防げても同時に音を防ぐのは難しい……どちらか一方だけならどうにでもなるんですが……どこかに、なにか使えるものは……たとえばそう、音を遮断できる何かを見つけられれば――)
トイレブラシは勇者を引きずるのをやめると、木を背にして座らせた。
(仕方ない……契約の影響でそんなに長く離れられないけど、十分くらいなら大丈夫のはず……)
トイレブラシは勇者の左手から離れると、上空へと舞い上がる。そして館を含む森全体が見渡せる位置まで飛び、周囲を見回した。
「お金持ちの家でこれだけ広い敷地ならどこか、どこかに――あった!」
トイレブラシは森の中を見まわしながら、目的のモノを探し、ついに見つける。
そしてトイレブラシが目的のモノを見つけた時に、天の雲を切り裂いて空気の矢が落下してきた。トイレブラシは急いで勇者のいる場所まで戻ると左手に収まり、凄まじい速度で勇者を引きずりながら、ある場所へと向かった。勇者が土で汚れる事など気にも留めずトイレブラシは速度を上げていき、矢が落下する前になんとかお目当ての場所にたどり着く。
「いっけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!!!」
トイレブラシは渾身の力で勇者を引っ張り上げると、目的の場所にその体を投げ込んだ。左手に握られた彼女も当然それに巻き込まれる形で共に落下した。
ザブンッ!!!!
水しぶきをあげて勇者の体は水の中に沈む。
トイレブラシが見つけ、勇者を投げ込んだ場所、それは池だった。
勇者が水の中に体を沈めた瞬間、風の矢が池の近くに落下する。地面にぶつかったと同時に矢の形をした空気は破裂し木々や土を切り裂きながら衝撃波を発生させる。周囲が衝撃波にさらされ、破壊されていく中で先ほど勇者の脳を揺さぶった強力な超音波も発生した、だが――。
(……思った通り。水の中なら音の影響を受けずに済むみたいですね)
水の中にいる勇者とトイレブラシには影響はなく、なんとか二撃目を退けることができた。
トイレブラシが安心した時、勇者が目を覚ました。
「んんんぶほべえええええええええええええええええええええええええええええええッ!!??」
勇者は口と鼻から大量に水を飲み込んでしまい、苦しみのあまりもがき苦しみながら水上に出た。
「おぼふへッ!? ぶ、ぶはぁッ!? ごふぇごふぇっ!? な、なんだ、なんだここッ!? なんで俺水の中にいるんだッ!? 冷たッ!?」
「お目覚めですか勇者様。よかったです」
「お前の仕業かッ!? どういうことだこれはッ!?」
「実はですね、かくかくしかじかで――」
トイレブラシは簡潔に状況を説明した。
「……そうだったのか。あの音で気絶してたとは……その、まあ、なんだ、助かったぜ便ブラ。サンキューな」
「いえいえ。それでこれからの方針なんですが――」
「ってうわ、また降ってきたッ!?」
トイレブラシが作戦を説明しようとした時、再び天から矢が池の近くに落下する。勇者は急いで水の中に潜る。
「(水の中にいれば安心なのはわかったけど、このままじゃ身動き取れないぞ!?)」
「(そうですね。それにこのままここにいてもいずれは矢が池の水を吹き飛ばしてしまうでしょうしね)」
「(ちくしょう! 依然ピンチのままってことかよ! やっぱりここはもうメルクラして俺の冥王紅炎斬撃波で――)」
「(無理です。絶対届きません、敵は遥か上空にいるんですよ? 私が見たところ今の勇者様の魔技の射程はせいぜい五十メートルから百メートルくらいですもん)」
「(じゃあどうするよッ!?)」
「(敵の魔眼の弱点を突きます。敵がこちらの位置を遥か上空から捕捉できているのはこちらの魔力をその眼で捉えているからです。でもこれは逆に言えば魔力しか見えていないということ、ここに突破口があります。わかりますか?)
「(う、うん、あー、うん、わかる、すごいよくわかる! あれだよな、あの、あれがその――)」
「(……わからないならわからないと言ってくださいよまったく……つまり私が言いたいのは敵が見てるのは勇者様、というか私の魔力であって勇者様を直接見ているわけではないということです。私と勇者様が別々に分かれて行動した場合、敵は十中八九私に向けて攻撃を撃ってくるでしょう。そこがつけ入る隙になります)」
トイレブラシの言葉の途中で息の限界がきた勇者は水上に顔を出す。
「ぷはッ! ……お前と別れてって、お前が囮になって目玉焼きバカ三号を引き付けるってことか? でもお前と俺は契約の関係でまだ離れられないんだろう?」
「ええ。ですが契約してから結構日にちが経っているので少しくらいの間なら離れても大丈夫なんです。でも時間厳守になりますが。もし離れたままタイムリミットを過ぎると大変なことになりますから」
「どうなるんだよ?」
「死にます、二人とも」
「なんだとッ!!??」
勇者が唾を飛ばしながらトイレブラシに右手で掴みかかると、再び矢が降ってきたため、水中に避難する。
「(タイムリミットってどれくらいだッ!!!)」
「(十分くらいですね。限界に近付けば頭痛、吐き気、めまいに襲われます)」
「(風邪かよ……っていうかたったの十分ぽっちじゃあお前が敵を引き付けたところで意味ねぇだろ! それなら多少頭が痛いのを我慢してでもさっきみたいに敵を特定してお前が魔術をぶっ放した方が絶対にいいだろう絶対)」
「(今度あの音を勇者様が聞いたら脳を破壊されますよ。脳が揺さぶられて頭がパーになって――)」
「(なんだと!? 俺の優秀で完璧で美しいエレガントな頭脳がパーになるだと!?)」
「(いや、もとからパーだからあんまり関係ないか……)」
「(てめえなんつったコラッ!!!!!!)」
勇者は掴みかかり、トイレブラシを揺さぶる。トイレブラシは若干悲鳴をあげつつもそれからなんとか抜け出すと勇者に向き直る。
「(と、とにかくですよ! あの超音波はかなり危険なんです! さっき勇者様が気絶した時だって私が魔術をかけて回復しなきゃ危なかったんですから!)」
「(そ、そうなのか……悪い、助かったぜ)」
「(ホントですよ! ただでさえ猿と同じくらいのパーなのにこれ以上猿以下のアッパラパーになったら大変だと思って私は必死ににゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!??)」
勇者はトイレブラシの柄を握りつぶすように力を込めた。
トイレブラシが解放される頃には勇者の息が続かなくなり再び地上に出る。
「ま、まあ、作戦があるので聞いてください……」
「今は緊急事態だから許してやるが! 貴様後で覚えておけよ!」
「まったくホントに根に持つ性格ですね、だからモテないんですよ……」
「なんか言ったか?」
「いえいえ! とんでもございませんですご主人様! で、作戦というのはですね、『暁の涙』を守っている結界を利用するというものなのですよ!」
「結界って、確か攻撃を反射させる奴だっけ? もしかしてお前が囮になってそこまで奴の攻撃を誘導するってことか?」
「その通りです、私なら脳が無いので、矢が飛んできてどこかに着弾したとしても問題ないのです! それにしてもド低脳なのによく瞬時にわかりましたね! 脳を揺さぶられた影響でしょうか! やっぱりもう一回くらい揺さぶってもらったほうが頭がよくなる――冗談です冗談ですアハハハ!!??」
勇者の眼が人殺しのそれに変わりかけていたためにトイレブラシは笑ってごまかした。トイレブラシが笑っているのを勇者が睨んでいると再び矢が飛んできたので水の中に潜る。
「(……ったく。で、俺はお前が結界を利用し終えて、敵に攻撃を返したら合流すればいいのか?)」
「(え、ええ。それでおねがいしますです。でもこれはかなりの電撃作戦になるので気を付けてくださいね。下手を打つと即終了ですから。なのでこれから時間の許す限りみっちりと作戦を練って――)」
トイレブラシが言いかけたその時に、水の中に上から巨大な何かが落下し、水を巻き上げるようにして回転し始める。そうすると池の中の水が回転を始め、勇者もそれに巻き込まれる形で回り始める。
「(うわ、うわ、ちょ、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!??)」
勇者は池の水全てと同時に巻き上げられると、同じように水と共に地面に落下する。
「――ぶはッ!? いってー、な…………」
「……どうやらみっちり打ち合わせしてる時間はなさそうですね……ってゆーか勇者様もうただの変質者ですね……」
「しょうがねーだろ! 服がなくなっちゃったんだから! くっそー、俺のスタイリッシュなファッションをよくも台無しにしてくれたな! 目玉焼きバカ三号めッ、ぶちのめしてくれるわ!」
長時間水に潜っていたことで緑のペンキが完全に落ち、完全にただの変態と化した勇者は大の字で倒れていたが怒りを胸に抱き、やがて立ち上がった。
「勇者様、次の矢が来るまであまり時間もなさそうなので勇者様にやってほしいことを簡潔に説明します」
「ああ、わかった」
真剣な口調のトイレブラシに応えるように勇者もまた神妙に頷く。
「勇者様にやってほしいこと、それは――」
「それは?」
勇者はトイレブラシの言葉をオウム返ししながら待つ。
「――全力で館まで走る」
「……なんだよ……普通じゃん」
トイレブラシのあまりにも真剣な口調に身構えていた勇者だったが、別段大したことはなかったため力を抜いて嘆息した。
「言葉にしてみれば確かに簡単なことかもしれませんが、十分以内に館の五階にある宝物庫まで行くんですよ? この意味がわかりますか勇者様?」
トイレブラシの言葉を聞き勇者は考える、確かに今いる場所は館からかなり離れた森の中であり、しかも時間帯は薄暗い夜。今まではなんとか迷わずにいられたが勇者自身は土地勘がなく、おまけに十分という限られた時間での行動。さらに森の中はトラップだらけ、先ほどまでは運よくトラップに引っかからなかったが、罠にひっかかったり一度迷えば館に着くまでに確実に十分以上かかる、勇者はそう思った。
「……わかってくれたようですね。そう、これは命がけのレースです。絶対に失敗の許されない、ね」
勇者は事の重大さに気づき生唾を飲み込む。
「と、そろそろ攻撃がまたくるでしょう。時間も無いわけですし、さっさと済ませてしまいましょうかね。勇者様ちょっと、失礼」
「え、おい……」
トイレブラシは無遠慮に勇者の額にスポンジを当てた。すると、スポンジがわずかに光輝き、映像が頭の中に入ってくる。送られてくる映像、それは森の中の景色だった。まるで自分が進んでいるかのように森の中を進んでいるイメージが勇者の頭に流れ込んできたため驚く。やがて映像が終わると、勇者の記憶に先ほどの映像が刻まれ、何度となくそこを通ってきたかのようにその道筋がいつでも思い出せるようになった。
「……これは……」
「それはこの森と屋敷までを繋ぐ最短ルートを私が映像にしたものです。さっき池を見つける時にこの森の全体像をザッとですが把握したのでその時に算出し、割り出しました。今の渡した映像通りに進めば十分以内に屋敷にたどり着けます。今私が勇者様の記憶にその道筋を割り込ませました」
「すげーなお前……」
「えへへー! 当然です!」
勇者はトイレブラシの卓越したナビゲート能力に脱帽した。
「でもだったら別に俺に覚悟を問うような真似しなくてもいいじゃん……」
「真剣にやってもらわなければ意味ないじゃないですか。それに十分以内につくといってもそれは走った場合ですから。あと、たぶん、多少トラップがあるかもしれないです。地上からでは気づきにくいかもしれませんが上から見た時に魔力を若干、感じ取れたので……」
「まあ、多少ならいいよ。自分でなんとかすっから」
「そうですか、それならよかったです。足を消し飛ばされないでくださいね?」
「ああまかせ――ってちょっと待てッ!? トラップってそんなえげつないものなのかッ!?」
「ああ、いやいや、たとえ話ですよ! たとえ話!」
「本当だろうなッ!? 足が消し飛ぶとか――」
勇者がトイレブラシに答えを求めていた時、上から轟音が響く。
「あ、じゃあ作戦開始ですね! よっとッ」
トイレブラシがものの数秒で詠唱を終わらせると途端に勇者の足が赤く光りだす。
「足を強化しておいたので通常よりも速く走れると思います。では宝物庫で会いましょう」
「え、おい話はまだ終わって――」
勇者が呼び止めるのも聞かずトイレブラシは左手から離れると颯爽と空に舞い上がった。
「勇者様ー! トラップゾーンに突入したら速度を落とさないように走り抜けてくださいねー!」
「なんだそれッ!? どういう意味だッ!?」
一方的に話すだけ話した後、勇者の叫びを無視したトイレブラシは彼方へと消え去った。
「……くっそー! 悩んでる暇なんてねーよなッ!!! うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!!」
上から落下してくる空気で出来た半透明の巨大な矢をその眼に捉えた勇者もまた強化された俊足で駆け出す。残り時間は九分十五秒、命がけのレースが始まる。
勇者が湖から引っ張り出される少し前。
空中を浮遊しながらシャルゼは顔を手で押さえていた。先ほどから走る眼の痛みと体の中から沸き上がってくる衝動を必死に抑えるために、気を紛らわせるためにその綺麗な顔に爪を立てる。
「だ、駄目だ……駄目だ……抑えろ……抑えろ……おさえろ……オサエロ……ぐ、うううううう、うぐッ!」
シャルゼの光り輝く青紫色の魔眼の中央に縦線が浮かび上がり、その眼はまるで猛獣の眼へと変化しそうになった。だが爪を立てていた手を顔から離し、握りこぶしを作るとそのまま勢いよく自分の顔を殴りつける。すると、シャルゼの瞳から縦線は消え、元々の優し気な眼に戻る。
「……はぁ……はぁ……時間がない……」
手を弓にかけ、空気の矢を作り出すと、弦に添える。
(連続で追い打ちをかけたいところだけど、今の僕ではこの状態を維持しながら一発ずつ発射するのがやっとだ……休み休みやっていくしかないな。しかし、どういうことだ……連続とは言えなくともさっきから地上に矢を撃ち続けているのに、最初の一撃を除いて赤毛の剣士の魔力にいっさいの揺らぎが見られない……まさか僕の矢の影響を受けていないのか? いや、そんなはずはない……脳を持つ生き物ならばあの音に耐えられるはずが…………でも音を遮断する何らかの方法があれば、あるいは…………)
シャルゼは魔眼に意識を集中し、勇者の居場所をより正確に把握しようとした。遥か下にいる巨大な竜のシルエットがその瞳に映し出されるが、違和感を感じる。
(……さっきいた場所よりも下に沈んでいる……これは穴……? ……いや、違う……ただの穴じゃない……そうか、なるほど……)
シャルゼは勇者の位置を魔眼で観察した結果、地面の下にいることに気が付く。
「……水か……そういえば空に舞い上がる直前に大きな池が見えたような気がする……僕の魔技の特性を即座に理解、対応し、地形をうまく使ったということかな。本当に一筋縄ではいかない相手みたいだね」
シャルゼは勇者に対して尊敬の意を表すと、口元をわずかに緩めた。敵とはいえ、戦士としての能力の高さに思わず感嘆した結果であった。
(おそらく赤毛の剣士は僕が魔眼を持っていることにもう気づいている。魔眼が距離を無視して目視できるのはあくまで魔力のみ、池に潜られてもすぐには気づかれないという考えは正しい。それに、仮に気づけたとしても正確な池の位置をこの距離から割り出すことは難しい。赤毛の剣士、確かに君の考えは正しい、だが――)
シャルゼはすでに添えていた風の矢を解除すると、ゆっくりと深呼吸した。そして――。
「甘いよ……!!!」
下にいる勇者に言うと、弦を先ほどよりも強く引いた。
すると、巨大な弓の弦に空気がまとわりついていき、空気はやがて五メートルを超える一本の細長い矢へとその姿を変えた。
そして狙いを定め、地上へと射る。
巨大な空気の矢はゆっくりと、した速度で放たれると、時間をかけて徐々に高度を下げて落下していった。先ほどまで撃っていた矢とはあきらかに違う鈍足の矢は静かに雲を射抜くと、池とはまったく違う場所目がけて落ちて行った。
(そう、確かに僕は池の位置を正確に把握してはいない、でもね――)
シャルゼが目をつぶると同時に落下していた矢が膨張し始める。
そして――。
(だったら君の周囲全てにバラまくまでだッ!)
膨らんだ矢が破裂すると、池の周囲に全てに降り注いだ。
(さっきの矢と比べれば、威力こそないが水に一本でも入れば池の水全てを吹き飛ばす。引っ張り出させてもらうよ、赤毛の剣士ッ!)
池の周囲に矢が降り注ぐと、それぞれの矢は着弾、衝撃波を発生させる。一発一発の衝撃の規模こそ小さいものの、雨あられのように降り注ぐ矢は断続的に周囲に衝撃をもたらした。そのうちの四、五本がシャルゼの予想通り池に落下し、瞬間、轟々と音を立てて水を巻きあげはじめた。
(上にあがってきている、成功したようだね。よし、これで仕上げだ――あ、があ……殺す……コロス……コロス……人間は皆ごろ――)
シャルゼは勇者の魔力が浮上してきていることを目で確認すると弦に手をかけた、だが心の内側から先ほどよりも強力な、ドス黒い感情が湧き上がってくる。
「――違うッ!!!!!!! 僕はそんなこと思ってなんか、僕じゃないッ!!!!! 僕は人間だ、人間なんだッ!!!!!」
再び眼が変化してきていたが、弦から離した手で先ほどよりも強く顔を殴りつけることでそれを阻止する。涙を流しながら空中で膝をかかえ、深呼吸を始めたシャルゼは三分ほどそのまま動かなかったが、やがて落ち着きを取り戻すと矢を構えた。
「――大丈夫、まだ大丈夫だ。やれる、やってみせる」
シャルゼは力を入れて弓を引くと、風の矢を出現させる。
「――ここで制御出来れば、僕だってきっと――」
シャルゼの願いと共に、矢が地上に放たれた。
「……え……そんな、バカなッ!?」
しかし矢を放って一分ほど後、シャルゼの魔眼が驚くべき光景を捉える。
(空に上がってきているッ!? 赤毛の剣士は空を飛ぶこともできるのかッ!? それに――)
巨大な炎の竜が空に舞い上がる光景を見て戦慄したシャルゼは奥歯を噛みしめる。だが驚いたのはそれだけではなかった。
(――空と地上とで魔力の反応が分離した、どうなってるんだッ!? 一つは巨大な炎の竜、もう一つは――)
シャルゼは地上を走っている小さな魔力の反応を見た。
「……なんだ、あれは……」
シャルゼの眼が見せた地上を走る魔力、それは炎の竜と比べれば小さなものだった。いや、今まで見てきた戦士たちと比べて見てもたいして強くはない小さな白い灯火。巨大な炎の竜に隠れていたほんの小さな輝きが露わになった瞬間のことである。普通の、平均的な魔力量を持つ人間と比較しても少ない、たいしたことはないと、そう感じられる小さな反応が現れただけ、見間違いと言ってもいいほどのものだった――。
「……こ、怖い……」
だが、シャルゼは本能的にそれを恐れた、ゆえに震える。その小さな炎は見れば見るほど通常の魔力とは違い、小さいながらも巨大な何かを、恐ろしいものを内包していることをシャルゼは見抜いていた。そのための反応だった、だが地上を走るそれを恐れていたのはシャルゼの中に内在するケダモノの血であることを彼は気づいていなかった、だからこそケダモノの血によって発言した瞳に映るそれが余計に不気味かつ異常に見えたのであった。
(こ、こんな気分、初めてだ……どっちだ、どっちを狙うッ……!)
空を舞い上がる巨大な真紅に染まった炎の竜と、地上を行く小さな、だが今までにない輝きを放つ白き焔。シャルゼは引いていた弓を地上と、舞い上がってくる竜、どちらに向けるか迷い、何度も弓の向きを変えたが目をつむり気分を落ち着かせるとやがて弓の向きを定める。
(落ち着け、地上を走る方は遠のいて行っている。むしろ今問題なのは――)
シャルゼは弓を強く引くと、
(あの竜だッ!!!!!)
巨大な空気の矢を放つ。
矢は雲を切り裂くと竜目がけて一直線に飛んで行った。
(……僕の判断は間違っていないはず。でもどうしてだろうか……明らかに巨大な竜の方が脅威なのに、竜を見ている方が安心する……むしろ、あの地上を走る小さな炎の方が、何か、そう――)
シャルゼの瞳がより一層輝き、アメジストのような輝きを放ちながら小さな炎を見た。
(――世界を変えてしまうようなそんな恐ろしいもののように思える)
一人心の中でつぶやいたシャルゼは視線を竜の方に向け、矢を構え直した。
トイレブラシは空を飛びながら向かってくる矢を見た。
(……あの程度の威力では反射させてもたいして意味無さそうですね。やはり、最高出力で撃っていただかないと反射させても、ッと――)
高速で飛んでくる矢を間一髪かわすと、身を翻してまだ見ぬ敵の周りを飛ぶ。
(そのためにはロビンフットさんにもっと全力を出してもらいましょうかね。ロビンフットさんには申し訳ないですけど、勇者様の持つ『特性』がこの世界を変えられるか私は見届けなければならないんですよ。つまりこんなところで勇者様をやらせるわけにはいかないんです。そうでなければアイツに、あの女に成り代わって勇者様をヴァルネヴィアに連れてきた意味がない)
トイレブラシはそう言うと、体に赤黒い魔力を纏わせる。魔力は徐々に膨れ上がっていくと、シャルゼのいる空域にまで届き、空間そのものを覆った。
(まあ、勇者様が『特性』の所持者ならばこんなことしなくてもいいのかもしれませんが、念には念を入れて――)
トイレブラシの魔力は最終的に空全体を覆いつくすほどに膨れ上がった。
(――今私が撃てる最強の魔術をご覧に入れましょう)
トイレブラシは嬉しそうに、しかしどこか冷たい声で笑うと、弓兵に向かって呟いた。
こうして勇者とシャルゼの戦いは決着に近づいていった。