22話
勇者は再度トイレブラシに本当に敵が向かって来ているのか聞いたが、まず間違いないと彼女は答える。
「最悪じゃねーか! ただでさえヘトヘトに疲れてるっつーのによ!」
「仕方ないですよ、敵はこちらの事情など知りませんし、仮に知っていても待ってなどくれないでしょう。私としても『火竜の剣』を手に入れてからにしたかったのですが、とにかく『メルティクラフト』するので準備をお願いします」
「……はぁ……仕方ない……」
勇者は背負った剣を鞘から引き抜いた。
「うえ!? なんだ、こりゃあ!?」
剣は刀身に黄色い液体がついてベタついており、何だこれはと一瞬思ったがすぐに思い出す。
「……ああ、そうか。そういえば油の湖に飛び込んだんだっけ、その時、鞘に油が入ったのか」
「勇者様、急いでください!」
「わ、わかったよ! よし、いいぜ!」
勇者は剣の刀身に付いた油を着ていたローブで強引に拭うと、すぐさま剣とトイレブラシをバッテンの形にして交差させるように重ねた。
「ではいきます! 魂の契約の名のもとに命じる、交われ!」
トイレブラシの短い詠唱と共に、勇者はオレンジ色の炎の繭に包まれた。狼型の魔獣に襲われた時のことを思い出しながら、体中が融けていくような感覚に身を委ねる。全身が凄まじい熱を持ち、心臓がドクン、ドクンと大きな音を立てて脈動するそれら一連の変化を感じながら熱が冷めるのを待っていると、次第に心臓の音は小さくなり、帯びていた熱さも落ち着いていった。すると目の前の炎の膜は内側から裂けるようににして消え、赤い髪、赤い目、色白の肌をした勇者が姿を現す。左手の甲には赤い魔石が埋め込まれ、刀身が黒く変色した大剣を持っており、その姿は『メルティクラフト』が成功したことを如実に物語っていた。
「(『メルティクラフト』成功しました、融合状態も極めて良好です勇者様)」
「(……でもよ、これ結局顔は動かせないし、喋れないんだけど……)」
やはり前と同じように勇者は顔を動かすことが出来ず、喋ることが出来なかった。
「(ってことはあれだろ? 前と変わらないってことは相手が何言ってるかもわからないわけだろ……)」
「(そう、ですね。その可能性は高いですね。ですがこればかりは私にもどうにもできなくて、勇者様の底辺すぎる魂の今後の成長に期待するしか――)」
「(貴様今なんと言った? この天才的の元破壊神の魂を侮辱したように聞こえたんだが)」
「(あ、あはは! 敵、来るの遅いですね! なはは!)」
「(ちッ、ごまかしやがって……まあいい……お前のような便所ブラシに俺の至高の魂は理解できないだろうからな。史上最高の純度と輝きを持つであろうこの俺の――)」
「(勇者様)」
「(なんだよ遮るなよ)」
「(到着したようですよ)」
トイレブラシが勇者の左手を動かし剣を向けた。その方向には砂で出来た小高い山のようなものがあり、そちらに目をやると、次の瞬間何かがその山を飛び越えるようにして現れた。
「(あの人ですね。私が感じた魔力の質から見てまず間違いないです。あの人は敵意を持って魔力を発していましたからね)」
「(なるほど、あいつか)」
現れた人物が敵であると断定したトイレブラシの言葉を受けた勇者は鋭く目を細めると睨み付けた。相手の身長は勇者よりも高く、筋肉質な大柄の青年だった。褐色の肌に短めの茶髪を前髪ごと逆立たせたツンツン頭の青年は整った顔立ちを歪ませて、嬉しそうに笑っていた。
「(またイケメンさんですね。もしかしたら金髪のイケメンさんのお仲間かもしれませんので注意しておいてください)」
「(あのパツキンの仲間か、どうりでいけ好かない面構えをしてやがる。なんだあの日焼けした肌は、なんかファッションサーフィンやってそうで腹立つわ)」
「(何ですかファッションサーフィンって)」
「(サーフィンやったことないし特に興味もないくせに女にモテるためだけに海の家で夏だけサーフボード持って歩いてる奴のことだよ)」
「(またわけのわからないことを)」
トイレブラシが呆れていると青年はゆっくりと勇者に近づいてきた。近づいてくる過程で勇者の目にあるものが飛び込んでくる。前に戦ったレオンと同じように簡素な鎧に身を包んだ青年の胸当てには青色に輝く魔法陣が刻まれていた。
「(……どうやら本当に金髪のイケメンさんの仲間みたいですね)」
「(そうみたいだな。つーかなんだあの野郎二ヤケ面しやがってからに)」
口元に笑みを浮かべながら迫ってくる相手に不快感を感じた勇者だった、青年はそんな勇者に構うことなくどんどん近づいてくると、距離にして約二十数メートル程の場所で立ち止まり声をかけてきた。
「俺の名前はガゼル・クロックハート、アイオンレーデ国に所属している騎士だ。この前俺の仲間の騎士がアンタと一戦交えたと聞いているんだが、間違いないか?」
ガゼルは勇者に問いかける、
「(……やっぱ何言ってんのわかんねえな……)」
「(……そうですね……)」
だが勇者は何を言っているかわからず、また喋ることができないため両者の間で沈黙が続いた。そいて数分後しびれを切らしたようにガゼルが再び話しかける。
「……だんまりか。だけど悪いな、こっちは任務で来てるんだよ。あまり時間はかけられない、だから何も言わないのならその魔力量と特徴的な赤毛からこっちで勝手にアンタが標的だと判断させてもらうぜ。それでさ、赤毛くん、率直に要件を言わせてもらうと、俺に大人しくついてくるか、それとも戦って無理やり連れ去られるか、どっちか選んでくれないか?」
ガゼルは腰に下げていた籠手を両手にはめると、勇者に二者択一を迫った。
「(……なんだアイツ、何言ってるのかはわかんないけど両手に籠手をはめだしたぞ、やる気か……?)」
「(そのようですね。雰囲気や発する魔力の具合から臨戦態勢に入ったと思います)」
「(はぁ……まったく、今は戦える状態でもなければ、戦える気分でもないっていうのに……そして何より真の強者は無駄な争いはしないというのがこの世の理……真の強者であり英雄であるこの俺は、戦うに足る理由がなければ決して剣を取る事はないというのに……まあ人格者である完璧超人の俺に剣を取らせる理由など滅多にないがな)」
「(……その割には金髪のイケメンさんにお顔を侮辱された時に完全に私怨丸出しで切りかかって行ったような……)」
「(お前の気のせいだろう)」
勇者がトイレブラシと話し込んでいるとガゼルは拳にはめた籠手を勇者に向けて話し始める。
「三十秒待つ、その間に選んでくれ。三十秒後に何も話さず沈黙を続けるのなら降伏の意思無しと見なして力づくでアンタを取り押さえる。それじゃあいくぜ、いーち」
ガゼルがカウントを始めても勇者は相変わらずトイレブラシと呑気に心の中で話し合っていた。
「(だいたい、いくら戦争中って言っても剣で相手を思い通りにしようなんて野蛮だ。二十二世紀生まれの俺には信じられない!)」
「(前にも言いましたが勇者様の世界は二十一世紀です)」
「(なんて悲しいんだろう、暴力でしかわかり合えないなんて。しかも理由は目玉焼き。俺は清く正しいことに力を使いたいというのに目玉焼き……はぁ……これだから未開人は嫌なんだよね……文明人としては嘆息せざるを得ないよ……ん? あれ何便ブラ……)」
戦いの始まりを告げるカウントが続く中、勇者はガゼルの腰に下げられた大き目の筒状の物体に目を留める。
「(あれは多分水筒ですね)」
「(すい、とう……ってことは……水が、入ってるのか……)」
「(そりゃあ水筒なんですから水が入ってるでしょうね。しかし……確かに勇者様の言う通りかもしれませんね。いきなり戦うなんて野蛮かもしれません。向こうも何か話しかけてるみたいですし、ここはいったん『メルティクラフト』を解いて相手の話を――)」
「(戦うぞ)」
勇者は決断した。
「(ええ!? なんでですか!? さっきと言ってること違くないですか!?)」
「(アイツを倒せば水が飲めるんだ。水を、奪い取る。それが俺の戦う理由!)」
「(真の強者はそんな追い剥ぎみたいなことしないと思うんですが……水筒の水を奪い取ることが勇者様が言ってた戦うに足る立派な理由なんですか? とても立派とは言い難い陳腐な理由なような……というか無駄な争いはしないんじゃなかったでしたっけ……?)」
「(……みず、みず、みず、みず、みずみずみずみずみずみずみずみずみずみずみずみずみず)」
「(……あのぉー……勇者様……?)」
勇者にはもはやトイレブラシの言葉は届かず、ひたすらにガゼルの腰の水筒だけを見続けていた。そしてガゼルのカウントが続く中、勇者は剣を構えて、
「(水をよこせええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!)」
駆け出した。
「(まったく、どっちが野蛮なんですかもう!)」
と言いつつも勇者をサポートするためトイレブラシは剣の刀身にオレンジ色の炎を纏わせた。カウントを終える前に突進してきた勇者にガゼルは小声でそうこなくっちゃ、と笑いながらつぶやくと迎撃態勢を取り、飛び込み切りかかってきた勇者の顔に右籠手でストレートを打ってきた。
「(はッ! パツキンの方が攻撃は速かったぜ!)」
だが難なくそれを顔を横にそらすことで回避した勇者は燃える剣を両手で上空に振り上げ、勢いよく振り下ろした。それは吸い込まれるようにしてガゼルの右肩に振り下ろされた。角度、間合い、威力、どれをとっても申し分なく、トイレブラシも攻撃の成功を確信していた。
「(安心しろ、みねうちにしてやるぜええええええええええええええええええええええ!!!)」
勇者の心の叫びと共に剣はガゼルの肩の肉を焼き切るはずだった。
ガキィィィン!
しかし響いた音、それはまるで固い岩に剣を叩きつけた音だった。
「(な、んだこりゃ……)」
勇者は表情には出ないものの、内心では驚愕していた。ガゼルの右肩部分、そこは先ほどまでは何も防具はついておらず、むき出しのままだった。だが燃え盛る剣の刃が当たっている今のガゼルの右肩には灰色の泥の塊が剣から肩を守るようにひっついていた。それはまるで固まったコンクリートのようでいつの間にかガゼルの右肩全体を覆っていた。
「(勇者様避けてください!!)」
「(え? うわ!?)」
トイレブラシの叫び声を聞いて我に返った勇者は迫りくるガゼルの左拳をようやく認識すると、遅ればせながら回避行動を取ろうとした。しかしいくらレオンの放つ槍よりは遅いとはいえ、回避するには不可能な距離だったため、仕方なく左手を剣から離すと肘を立てて防御の態勢を取った。すると左手が赤く輝き始めた、トイレブラシの魔力による防御力増強だと瞬時に理解した勇者はこれで防げる、そう思った。そう思い込んだ勇者だったが次の瞬間、ガゼルのパンチが勇者の左手にめり込み、そして
「(な!? なぬううううううううううう!? ぐわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!??)」
勇者の肉体を弾き飛ばした。
「(あぶるううううううううううううううううううううううううううううううううう!!??)」
たった一撃にもかかわらず信じられないほど強力な殴打によって何度も砂の地面をバウンドしながら転がり、砂で描いた線を作りながら勇者はなおも転がり続け、五十、六十メートルほど離れた地点でようやくその動きを止めた。
「(勇者様大丈夫ですか!?)」
「(……うう……だ、だいじょ、ばないかもしれない……いって~、左腕の骨が砕けたかと思ったぜ……)」
うつぶせで倒れていた勇者はゆっくりと立ち上がると、攻撃を受けた左腕を凝視した。
「(……左腕は……一応、大丈夫みたいだな……)」
手を握ったり、開いたりすることで状態を確かめる。
「(そうみたいですね、よかった。とっさに魔力を左手に集中させたエクスカリバーちゃんの機転のおかげですね。感謝してください)」
「(あ、ああ、今回は割とマジで助かったぜ。サンキュー……しかしなんつーバカ力だ……これならイモムシを吹き飛ばしたのも納得だぜ……)」
遠目でガゼルを睨み付けた勇者は目の前の相手の脅威をあらためて認識し直し、両手で剣を構える。
「(あの人は相当体を鍛えているみたいですね。魔力で筋力をブーストしたとしても普通あんなパワーは出ませんよ。出そうと思っても肉体がその強化に耐えられませんからね。あの鍛えあげられた筋肉質な肉体は才能だけでなくたゆまぬ努力の結晶です。勇者様も見習ってください)」
「(ふん、努力など愚民のすること、すなわちこの天才には必要ない)」
「(また底辺のクセにそんなこと言って……そういう発言は真の天才にしか許されないというのに)」
「(だからその真の天才が俺だと言っているのだよ。だいたいあんな力だけの奴、恐るるに足りな――)」
勇者が言い終わる前に離れていたガゼルが砂を蹴り、跳躍して勇者の前に現れた。
「(うひいいいいいいいいいいいまた来やがったああああああああああああああああああああああ!!??)」
「(滅茶苦茶恐れてるじゃないですか……)」
言ってることと反応の違う勇者に呆れたトイレブラシは指示を出す。
「(とにかく今度は注意してください。あの褐色肌のイケメンさんの攻撃は受けずに避ける方向で)」
「(わわわ、わかったよ。よ、よーし、今度は食らわないぜ)」
トイレブラシと脳内で相談していた無表情の勇者を見たガゼルは手で顎を擦りながら考える。
(結構強めに殴ったんだが……無傷とはな。普通の奴なら腕の骨が粉々になる威力だってのに大したもんだ。その上、俺の攻撃なんて蚊に刺された程度にも気にしちゃいないっつってるような涼しい顔しやがって。おもしれえ、あの程度じゃあダメージにならねーっつーならこっちもさらに威力をあげるぜ……!)
自らの無表情のせいで静かに闘志を燃やし始めたガゼルのことなど露知らず、勇者は内心ビビりまくっていた。
「(べ、便ブラ、なんかアイツさっきより目がマジになってないか……)」
「(理由はわかりませんが、あの人のやる気を出させてしまったようですね。気をつけてください勇者様)」
「(いや気を付けてくださいってそんなこと言われても……って、うひゃあ!?)」
駆け出すと同時に、勢いよくジャンプしたガゼルが勇者に殴りかかってきた。怯えながらもその攻撃をなんとか回避するも、その拳は勇者の頬をかすめ砂の地面に突き刺さる。瞬間、凄まじい轟音が鳴り響き、砂の地面が吹き飛び形を変える。砂の海が割れるその光景を見た勇者は恐怖で意識が飛びそうになった。だが
トイレブラシの声が現実に引き戻す。
「(勇者様チャンスです!)」
「(あ、ああそうだな! 今度こそくらえやガングロぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!)」
ガラ空きになった背中目掛けて、勇者は炎の剣を渾身の力を込めて振り下ろした。今度こそは、と勇者は思った、だがしかし、
ガキィィィィィィィン!!!
響くのは先ほどと同じ金属音、それはガゼルの背中を守り、勇者の攻撃をまたしても阻む。
「(またかよコンチクショウ!!!)」
ガゼルの背中を守ったのは勇者の初撃を防いだ灰色の泥で、今度はまるで鎧のようにガゼルの背中全体を包み込んでいた。熱せられた剣の刃でギチギチと押し込め、力任せに切ろうとするも、いくら力を入れてもその鎧には傷がつかず、砂に刺さった自らの拳をひき抜き態勢を立て直したガゼルが振り向きざまに勇者に再び拳による殴打を繰り出す。
「(うわあああああああああああああああああああああああああああああ!!??)」
「(勇者様、私に体を預けてください!)」
「(それはどういうって、うぶるああああああああああああああああああああああああああああ!!??)」
勇者の体を強引に乗っ取ったトイレブラシは通常ではありえない関節の曲まげ方でガゼルの剛腕を体を反らし回避すると、すかさず剣を持っていない方の手で高速で何度もバク天しながらガゼルから距離を取った。その人間離れしたアクロバティックな動きに、ガゼルは思わず口笛を吹く。
「やるな! 身体能力には結構自信があるけど、あの体勢から回避して後方へ退避するなんて芸当、俺には無理そうだ。片手と両足の関節がイカレちまいそうだからな、それをあそこまで華麗に。敬意を表するぜ」
ガゼルは勇者の見事な体さばきに、尊敬の念を抱いた。
「(おおおお、俺の手足のかかか、関節がアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!? い、イカレちまってるぜええええええええええええええええええええええええええええええええ!!??)」
が勇者の剣を持っていない方の手と両足の関節は見事にイカレていた。
右手はあらぬ方向に曲がり、両足に至っては、もはや幼児が人形を無理やりいじくった後のように盛大にねじれていた。
「(イヤアアアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!?? 俺の手と足がああああああああああああああああああああああああああああああああ!!??)」
「(そんな騒がないでくださいよ。大丈夫です、ここをこう、えいッ! えいッ!)」
ボキッ!
バキッ!
ゴキッ!
ベキッ!
「(あがあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!??)」
トイレブラシの肉体操作により、曲がっていた勇者の関節は手足を引き裂かれるような激痛と共にエグい音を出しながら元に戻った。
「(ほらもう大丈夫ですよぉ、エクスカリバーちゃんの愛のある施術ですっかり元通りです♪ きゅんきゅん♪)」
「(何がきゅんきゅん♪ だよてめえこの腐れ便所ブラシが!!! パツキンと戦った時にも言っただろうがゴラァァァ!!! 人の体を勝手に操って無茶しようとするんじゃありませんよおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!! 手と足がマジでダメになったらどうすんだ!!!)」
「(平気ですよ、手や足なんて飾りです。現に私にはありません)」
「(お前は便所ブラシだからだろうがッ!!!)」
勇者がトイレブラシと口論していると、ガゼルは次の行動に移るべく考えをまとめる。
(……レオンの言う通り体術では向こうの方が確かに上だな。真向勝負じゃ相手にダメージは与えられそうにねぇし……使うか『メルティクラフト』……いやでももうちょっと楽しみてえなぁ……それに俺の『魔技』は加減すんのがかなりムズイし……どうすっかなぁ……あ、そうだ、せっかくこんな場所で戦ってるんだ。有効活用させてもらうか)
砂漠の砂を蹴とばしながら、いいことを思いついたと言わんばかりに表情を変えたガゼルはゆっくりと勇者に向かって歩き出した。それに気がついた勇者はトイレブラシとの口論を止め、剣を構えるも、ガゼルの顔に嫌な感じを受ける。その表情は悪だくみを企てる子供のようだった。
「(……なんだあの嫌な笑いは……)」
「(何か、こちらにダメージを与える奇策を思いついたのでしょうか)」
勇者とトイレブラシに緊張が走り、ガゼルの次の行動により自分たちの考えが正しかったことを知る。
ガゼルは勇者からある程度離れた所で立ち止まると、拳を下に向け、肘を後ろに引いた。その後、下ろされた拳が地面の砂をゆっくりとえぐる。それはまるで拳で砂をすくい上げるような動きだった。
「(……何する気だアイツ……)」
無表情の顔には現れなかったが勇者の頭には疑問符が浮かび続けた、だがそれは一瞬でかき消された。
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ……!!!」
ガゼルが吠えたその時、ゆっくりだった腕の動きが見えないほど素早く振り抜かれ、腕で抉っていた地面の砂が膨れ上がるように盛り上がった瞬間、それは爆発し、そして、
ドッシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!
ガゼルの剛腕により、地面をひっくり返したように、巨大な砂の壁が出来上がった。
「(んなバカな……あ、ありえない……)」
「(現実です。構えてください!)」
縦、横、共に四十メートル近い砂の壁を見上げていた勇者はあまりのことに驚き呆けていたが、トイレブラシの指示でようやく正気に戻り、灼熱の剣を砂の壁に向かって構える。そしてガゼルも次の行動に移ろうとしていた。
「さあて、と。準備オーケーだ、そんじゃあいくぜ赤毛くん……!」
砂の壁を挟む形で勇者のことは見えていないガゼルだったが、掛け声と共に勢いよく立ち上がった砂の壁目掛けて渾身の殴打を放った。
ズシンッ!!!
鈍い音が勇者の耳に聞こえた。壁の向こうにいるであろうガゼルが何かをしたのであろうということは想像できた勇者だったが、間違いなくそれは自分にとって不利益になることであることも同時に予想する。
ズズズ、砂が崩れ落ちる耳障りな音が勇者に聞こえ、自分の予測が外れていなかったことを痛感した勇者はプルプルと体を震わせ、成り行きを見守った、見守る他選択肢はなかった。
ゆっくり、ゆっくりと砂の壁が自分の方に傾いて行く様子を内心青ざめながら勇者は見る。砂の壁は上部をポロポロと崩しながらもまだ倒れなかった。もしかしたら崩れないかも、と甘い考えが勇者の心を支配したが、それをあざ笑うように、突き崩すように、
ズシンッ!!!
ガゼルが最後の一撃を加えた。
ズッッッシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!
四十メートル近い砂の津波が勇者に襲い掛かってきた。
「(ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ!!??)」
パ二ックになった勇者は構えるのをやめて逃げ出そうとしたが、体が動かなかった。
「(体が動かない!? 便ブラ、もしかしてお前か!?)」
「(ええ、そうです。聞いてください勇者様、今逃げてもあの砂の速度では走っている途中で飲み込まれてしまうでしょう)」
「(でもこのままじゃあどのみち飲まれるだろう!?)」
「(大丈夫です、金髪のイケメンさんと戦ったあの日から結構時間が経って契約による結びつきがより強固なものとなり、結果として私と勇者様の『メルティクラフト』による融合の精度が前よりも結構あがっています。『火竜の剣』との融合ではないですが、今の私たちならあの程度の砂の津波なんでもありません)」
「(いや、だけどさ!? ……ってもう……遅い……のか……ああ、神よ……俺を見捨てたか……)」
逃げる時間などもうない、そう思えるほどに津波のスピードは速かった。勇者はそれを見て諦めざるを得なかった。
「(安心してください勇者様。貴方のことは私が必ず守ります。例え私の持ちうるあらゆるもの、全てを投げ出してでも、犠牲にしても必ず)」
「(……便ブラ……でもいったい何を犠牲に……)」
「(……それは……言いづらいですが……例え、例え――)」
不安そうな勇者を諭すように優しい声音でトイレブラシは言った。全てを差し出すという言葉とその覚悟に救われる。彼女のその優しさと頼りになる声に心の底から希望を見出した勇者だったがトイレブラシが言いづらそうにしているもの、彼女が自分の何を犠牲にしてこの状況を乗り切ろうとしているのかについては皆目見当がつかなかった。
(……いや、だけどこんな自信満々なんだからきっと大切なものを投げ出そうとしているんだろうな……きっと魂とかそういうのだろう……なら俺も弱気になっちゃだめだ! 便ブラに報いるためにも!)
「(例え私の両手両足を差し出してでも)」
「(お前のじゃねえよ俺の両手両足じゃねーかざけんなよてめえ!!??)」
がその言葉に再び絶望の底に叩き落される。
トイレブラシの他人のものを差し出す覚悟と共にビキビキと勇者の両手両足の筋肉が収縮し始める。
「(お、おいおい何するつもりだお前……!? 俺の両手両足になにするつもりだ!?)」
「(ちょっとだけ両手と両足に負担をかけるだけですよ♪ だいじょーぶ♪)」
「(嘘つけ絶対大丈夫じゃないだろう!? あ、あがな、なんだこれは……!? まるで両手両足がちぎれるようなこのヤバイ痛みは……!? これこのまま振り下ろしたらなんかマズイ気がするよコレ……!? ちょ、ちょっと待ちなさ――)」
「(いきます! ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!)」
「(ウオオオじゃない!? 待てって言って……ちょ、筋肉がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!??)」
言うと、トイレブラシは勇者の体を操作して、襲い来る砂の波に対して剣を振り上げ上段の構えをさせた。すると、刀身のオレンジ色の炎がより一層強く燃え始め、勇者の手足の筋肉が膨れ上がる。そして轟々と音を出して迫りくる津波はついに勇者のすぐ近くまでやってきた。ザラザラとした砂の音を聞きながら筋肉が無理に膨張する痛みで失神しかけていた勇者の心とは違い、トイレブラシは冷静に自らを飲みこまんとする自然の脅威に剣を振り下ろそうとした。
砂の濁流に小さな斬撃は飲み込まれるように思われた、そして壮絶な痛みの中、自身も砂に飲み込まれるとそう思った勇者だったが、予想は外れる。
ザンッ。
砂に剣が振り下ろされた時の音は小さく、頼りなかったものの、問題はその振り下ろされた速度だった。
両手で燃え盛る剣を頭上に構えたその唐竹割りの姿勢から繰り出された斬撃は文字通り目では見えないほど速かった。
ズッシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!
その斬撃は一撃のもとにビルも飲み込みかねない巨大な砂の波をものの見事に真っ二つに切り裂いた。
と同時に、
「(おんぐわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!??)」
勇者の両手両足の筋肉を引き裂いた。
そして形を失った砂上の荒波は崩れ去り、その後、勇者が行った常識外れの一刀両断の衝撃波の風が一瞬遅れて巻き起こった。風に舞った砂が視界を覆い隠す。砂が崩れたことに安堵したトイレブラシは気取った声を出す。
「(ふう、まあこのくらい朝飯前ですね)」
「(……ど、どこが朝飯前だテメエ!? 人の筋肉を裂けるチーズのように扱うとは何事だ!? 後遺症でも残ったらどうす――)」
「(でももう治ってますよ)」
「(そんなわけな……あれ……マジだ……)」
勇者の筋肉はいつの間にか完璧に再生していた。痛みもすでに無く、体は自由自在に動く。
「(言ったでじゃないですか、融合が前よりも格段に安定してるって。あれくらいの損傷は余裕で……)」
トイレブラシは話の途中で黙った。
「(……どうした?)」
「(……褐色のイケメンさんのが気配がかんじられないんです……魔力も消えました)」
砂が舞い、視界が見えないため勇者には状況が把握できなかったが、トイレブラシが簡潔に伝える。
「(何ィ!? 逃げたってことか!? それじゃあ水が飲めないじゃねーか!? あんにゃろうこの天才の素晴らしい戦闘技術に恐れをなしたのか! 根性無しめ!)」
「(いえ……逃げたわけじゃないと思います……おそらく、この砂ぼこりを隠れ蓑にして奇襲を仕掛けてくるつもりかと……注意してください)」
「(ほう……つまりこの俺の周囲への警戒が一瞬でも逸れた瞬間に、そのわずかな隙を狙って奴は攻撃を仕掛けてくるつもり、ということか。集中力が試されるわけだな?)」
「(その通りです。周囲への警戒を怠らないでください)」
「(小賢しい真似をしやがるぜ。だが……ふッ、問題ない。俺の灰色の脳細胞はいつも覚醒状態、つまるところ集中力が乱れる事など決してな――)」
ブーン、ブーン。
虫が勇者の顔の周りを飛び始めた。
「(み、乱れることなど、決して――)」
ブーン、ブーン、ブーン。
虫がもう一匹増え、勇者の顔周辺を旋回しながら飛ぶ。
「(み、乱れる、乱れる、ことなど――)」
ブーン、ブーン、ブーン、ブーン、ブーン、ブーン、ブーン、ブーン、ブーン、ブーン、ブーン。
「(みだ、みだ、みだ――)」
ブーン、ブーン、ブーン、ブーン、ブーン、ブーン、ブーン、ブーン、ブーン、ブーン、ブーン。
大量の虫が勇者の顔周辺を入り乱れながら飛び始めた。
「(あああああああああああああああああああああああああああああうっとおしいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!)」
「(思いっきり乱されてるじゃないですか!?)」
耳障りな羽音と虫が顔に衝突する不快感にさらされた勇者は集中力を乱した。持っていた炎の剣を振り回しながら暴れ始めた。
「(ちょッ!? やめてください勇者様!? 隙だらけになってます!? ちょっとくらい我慢してください! 無視ですよ無視!)」
「(虫を無視とかお前そんなくだらないギャグを飛ばしてる暇があったらこの鬱陶しい虫をなんとかする助言をしろ! 我慢できる許容量を遥かに超えてんだよ! つーかなんでコイツらさっきから俺の顔に群がって来やがるんだ!)」
「(汚物と勘違いしてるんでしょうか)」
「(なんつったてめえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ……!!!!)」
「(じょ、冗談ですよ冗談! エクスカリバージョークですよぉ! てへへぇ!)」
勇者は怒りのままにブンブンと剣を振り回して、虫を焼いたが、いくら焼いても次々に虫が勇者に群がる。イラついた勇者はトイレブラシに言う。
「(おい、もっと剣の火力を上げられないのか! あと筋力も! このクソ虫ども焼き尽くしたる!)」
「(出来ないことはないですが、今はそんな状況では……)」
「(この状況で集中しろって方が無理だっつの! 一瞬だけでいい、一瞬で終わらせるから!)」
「(もう……しょうがないですね……ちょっとだけですよ……)」
トイレブラシは渋々といった様子で勇者の両手の筋力を上げ、剣の炎の勢いを強くした。先ほどと比べれば微々たるものだが両腕は膨れ上がり、剣の炎が轟々と音を立てて燃え始めた。目をつむった勇者は静かに剣を下ろし、顔に群がる虫に全神経を集中させた。張りつめる空気の中、勇者は虫の気配を追った。想像の中で一撃のもとに虫を焼き切る自分を思い浮かべ、虫が逃げるコース、回避速度、旋回するタイミング、あらゆる可能性すらも考慮に入れ、回答を導き出す。
カッ、という光射す天啓と共についに勇者は至った。
「(見えた……!!!! ……いや、だがまだ甘いか、もっと、もっとだ……!!!!)」
いったん閃いた勇者だったがまだ甘いと考え直し、剣を両手で強く握ると下段に構える。
その直後だった、砂ぼこりの変化にトイレブラシが気づく。
前、右、左、後ろ、左斜め前、右斜め前、左斜め後ろ、右斜め後ろ、全ての方向の誇りが揺らぎを見せ始め、トイレブラシは動揺する。
(巧妙に自らの位置を隠してはいるけど魔力の反応……魔術攻撃を仕掛けてくる……でもこれじゃあどっちからくるのかわからない……でもとりあえず勇者様に教えないと)
トイレブラシは勇者に敵が近く奇襲を仕掛けてくることを教えようとした。
「(勇者様! 敵が仕掛けてきます! 虫のことはいったん忘れてください!)」
トイレブラシは呼びかける、
「(……勇者様? ……あの聞いてますか?)」
が勇者から応答がない。
「(……ちょ……あの、勇者様……聞こえてないん……ですか?)」
再度呼びかけるもやはり勇者から応答がなかった。
聞こえてくるのは静かな呼吸音のみだった。そんな中でトイレブラシはなぜ聞こえてないのかという疑問にある答えを見出した。
「(え……もしかして……ちょっと待ってください……勇者様!? ウソでしょ!? まさか、まさか!?)」
コォォォォォという呼吸音を発しながら修行僧のような雰囲気を纏う勇者にトイレブラシは驚愕する。
「(集中しすぎて聞こえてない!!??)」
鬱陶しい虫を殲滅する、今の勇者の頭にはそれしかなかった。
「(たかが虫を追い払うためになんでそんな無駄に凄まじい集中力を発揮してるんですか!? 虫なんてどうでもいいですから私の話を聞いてください勇者様!!! 勇者様ってばあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!)」
だがしかしトイレブラシの声は届かない。勇者が完全にガゼルのことを忘れ虫を排除することに神経の全てを動員していた時、四方八方の砂塵の揺らぎ方が次第に大きくなっていった。それに気が付いたトイレブラシはひたすら焦った。
(マズいですマズいですマズいですよォ! ど、どっちから来るのかわからないのに勇者様はこの調子、もうこうなったら私が勇者様の肉体を操作して無理にでも迎え撃つしかない!)
とそう思い、いつものように勇者の肉体を操ろうとしたトイレブラシだった、
(……え……?)
が操ることができなかった。
(そ、そんな……うそ……!? わ、私の精神支配を跳ね除けるほどの集中力だっていうんですか……!? どんだけ虫を排除したいんですか貴方は……!? ど、どうしよう!? くだらないことに対するド底辺の集中力を舐めすぎてました……こ、このままじゃ……)
そして砂ぼこり舞う空間に穴が開くと同時にガゼルの攻撃が開始された。
ビュンッ!
前方から何かが高速で勇者に向かってきた。
(前ッ!? ふぬうううううううううう! だ、だめ、やっぱり動かないッ!?)
トイレブラシは瞬時に判断し、勇者の体を強引に動かそうとしたがどれだけ気合を入れてやってもピクリとも動かなかった。
(うわあああ!? あ、当たっちゃいます……!?)
前方から現れたそれは拳台の石だった、灰色の石が高速で勇者の顔面に飛んできた。
だが、高速で迫る灰色の石はトイレブラシの予想を外れ、頬をかすめて後方に飛んで行った。
(あ、危なかった……)
トイレブラシが安堵したのも束の間、左から同じように石のつぶてが一直線に勇者を襲う。
(つ、次は左、って、え……!?)
石が飛来したのは左からだけではなかった。
ビュンビュンと風を、空気を切り裂く石の弾丸は左、右、前、後ろ、斜め、全ての空間から矢継ぎ早に、凄まじい勢いで同時に放たれ続けた。石による怒涛の空間攻撃は勇者の身動きを完全に封じていた。
(これは……かく乱と同時に精神的圧迫を強いる精神攻撃……石によるかすり傷の痛みと、本命の攻撃がいつ現れるかという恐怖をジワジワと相手に与え、精神的動揺を誘う戦法……くッ……敵ながら見事です)
トイレブラシはガゼルを称賛したが、攻撃を受けている勇者はまったく意に介さず、ひたすら顔の虫に集中し続けた。顔や服を掠め、切り傷を作りだすガゼルの投石攻撃の中にいてもなお勇者は顔に群がり続ける虫に嫌悪と敵意を叩き付けるべく黙々と頭の中で軌道を何度もシュミレートする。
石が空間を入り乱れる連続攻撃の最中だった、砂ぼこりで視界が完全に遮られた中の攻防、激しさを増し飛び交う石の弾丸のさなかに、一瞬、トイレブラシは勇者の左側から大きな空気のよどみを捉える。
グォォォォォォォォォォォォォン!!!
十メートル近い巨大な石の塊が鈍い音を響かせ勇者に向けて放たれた。
「(勇者様ァァァァァァァァァァァァ!!?? 避けてくださいィィィィィィィィィィ!!??)」
勇者を潰すべく真横から放たれた巨大な岩は着々と勇者に迫っていたが、勇者はそれでも動かなかった。
「(ちょッ!? 今度はかすり傷じゃ済まないですよ!? 動いてください勇者様ああああああああああああああああああああああああああああああ!!?? あああああああもうダメですううううううううううううううううううううううううううう!!??)」
トイレブラシの言う通り勇者に迫る岩は直撃すれば確実に大きな損害を与える代物であった。勇者はこのまま動かないのでは諦めかけたトイレブラシが悲鳴をあげる中、ついに勇者は虫の軌道を完全にシュミレートし終えて動き出す。
グウォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!!!
迫りくる脅威、耳に響く岩の低い音など聞こえていないように勇者はその体を少し右にずらした、その動きはあくまで勇者が虫を排除するための最適な構えをとるための一行動に過ぎなかった、
オォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!!!
がそのわずか一瞬の出来事が功を奏した。
それはまさに最小限の動きによる回避だった、岩は勇者の学ランをかすめ、通り過ぎて行った。
「(あ……あぶな……かった……)」
だが安堵したのもその時だけだった。トイレブラシは気が付く、すでに石の投てき攻撃が止んでいたことに、そして巨大な魔力を放つ敵がすでに勇者のすぐ後ろにいたことに。
「(しまッ……勇者様後ろですううううううううううううううううううううううううううう!!??)」
巨大な岩による魔術攻撃は囮だった、ガゼルは勇者がかわすことも計算に入れ、かわした直後に狙いを定め、岩を放った直後に地面の砂に隠れながら勇者の背後に接近し、間合いまで入ると立ち上がり、その拳を振り上げ、構えていたのだった。
「これで終わりだぜ! 赤毛くん!!!」
ガシャン!!!
ガゼルの強力な殴打が勇者の背中目掛けて打たれた、回避不可能だとトイレブラシは思い、事実その拳は勇者の背中にかけてあった剣の鞘を跡形もなく砕いた、そしてそのまま背骨を破壊するべく拳に力を入れた瞬間だった。
ビシャッ。
鞘が破壊されると同時に何か黄色い液体のようなものが飛び散り、ガゼルに降りかかる。だがガゼルはとっさに灰色の泥を胸や顔に展開しそれを防ぐと、そのまま攻撃を続行した。今度こそガゼルの拳は何ものにも遮られることなく勇者の背中をとらえる、
「(この天才、今度こそ完全に見切ったぜ……!!!!!)」
はずだった。
「(おっしゃ待たせたなクッッッソ虫どもがああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!)」
虫の軌道を完全に見切った勇者はくるっと身を翻した、そのタイミングがまたもや絶妙なものだった。ガゼルの拳が背中に届く寸前、触れるか触れないかというところ、わずかな誤差すらも許されない刹那のタイミング、目をつむったままの勇者は体を回転させその拳をひらりとかわし、そして同時にしゃがみ込むと中腰になってガゼルの方に向き直った。
「な……!?」
あまりにも自然かつ一部の隙も無い勇者の回避や一瞬で間合いを侵略されたことに対してガゼルは目を見開き驚く、そして見事ガゼルの懐に入り込んだ勇者は全身の力を腕に込め、
「(あの世に逝けやああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!)」
しゃがんだ状態から足のバネを使い、飛び上がるようにして下段から切り上げた。
その燃え盛る斬撃は勇者の顔に群がっていた虫を焼き尽くし、そのままガゼルの胸に直撃した。灰色の泥と胸当ての鎧で胸を二重に守っていたガゼルは攻撃が胸にきたことに対して心のどこかで安堵していた。
ジュウゥゥゥゥゥゥゥザシュュュュ、グシャッ!!!!
「な、あ、がはッ!」
だが勇者の渾身の力を込めた怒りの斬撃は先ほどとは違いガゼルの灰色の泥の鎧や最初から身に着けていた胸当てごと容易に体を焼き切り、抉り、衝撃波と共に切り飛ばした。
そのあまりの衝撃にガゼルの体は砂漠の地面に何度も叩き付けられながら転がって行った。
その後、数十メートル近く吹き飛ばされた後に、ガゼルはうつぶせに倒れたまま動かなくなった。
「(ふうううう! ウザったい虫を駆逐してやったぜ! ハハハ! 人間様にたてつくからこうなるんだぜ! それに何よりこの俺の美しいイケメンフェイスに群がったことが運の尽きだったな! 俺に群がっていいのは美少女だけ――ぶはぁッ!?)」
集中力が解けた瞬間トイレブラシに体を操作され勇者は自分の顔を自分で殴った。
「(なんだコラ便ブラてめえ人の体を勝手に操りやがって何しやがるッ!)」
「(何しやがるですって!? こっちのセリフですよ! 何で虫を除去するなんてくだらない理由であんな無我の境地みたいな異常な集中力発揮してるんですか! 危うく背骨をへし折られるところ、いえ一歩間違えば体を粉々に粉砕されるところでしたよ!)」
「(何言ってんだよ虫にそんな力あるわけないだろ? 常識でモノを言いなさいよ、まったくバカだなぁお前は、ハハハハ! このトンマめ、ハハハハハハハハ!)」
「(ムキィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ……!!!!)」
「(おい、ちょ、やめ、ぶはぁ、べはぁッ!!??)」
先ほどまでの危機的状況を何も知らない勇者はトイレブラシを馬鹿にし、それを聞いた彼女は怒り狂い勇者の体を操作して顔面への攻撃を開始した。数分近く勇者とトイレブラシの無駄な内輪もめは続いたが、両者が不毛と気づいたためか争いは収まった。
「(……はぁ……とりあえず危機は脱しましたからもういいですよ……心臓に悪かったですけどね……)」
「(いやお前便所ブラシなんだから心臓無いだろ……ってあれ? 砂ぼこりがいつの間にかはれてるな、いつ消えたんだ? そういえばガングロが奇襲してくるって話はどこいったんだよ……つーか、なんでガングロはあんな離れた場所でぶっ倒れてるんだよ?)」
勇者は今頃になってようやく周りの状況に気が付いた。
「(もうなんか説明するのもめんどくさいです……)」
「(なんかいつになく投げやりだな……ま、いっか。さて、よくわかんねーけどとにかく奴が倒れている以上この戦いは俺の勝ちみたいだな。水を奪って勝利の祝杯をあげるとしますかね、けひょひょひょひょひょひょひょひょひょひょひょひょひょひょ!)」
嬉しそうに奇妙な笑い声を脳内で響かせた勇者はガゼルが持っている水筒を奪い取るべく砂漠の砂をザクザクと音を鳴らしなら意気揚々と歩き出した。ガゼルのいた場所は勇者からおよそ60メートルほどの場所でそれほど時間はかからず、あと二十メートルといったところまで接近した時だった。
「……く、い、つつ……」
気絶していると思われていたガゼルがゆっくりとだが体を起こし始める。
「(な、なに……!?)」
「(まだ戦うつもりかもしれません、注意してください勇者様)」
鋭く焼き切られた鉄の胸当てを籠手のはめられた手で押さえながらガゼルは立ち上がった。
「……はぁー……やるな、してやられたぜ。まさか俺の攻撃を少しも見ずにあれほど完璧なタイミングで回避して反撃してくるなんて思わなかった。もしかして俺の行動を全部先読みしてたのか?」
「(……何言ってんのかわかんねーんだよ。日本語でしゃべれ日本語で)」
「(異世界人に無茶言わないでくださいよ……)」
ガゼルは自分を負傷させた勇者に対して信じられないほど明るく陽気に話しかけてきたが、当の勇者は何を言っているのかさっぱり理解できていなかった。
「……やっぱ答えてくれねーか、レオンに聞いてた通り寡黙だな。まあ、とにかくお前がとんでもなく強い奴だってことはさっきの一撃で思い知らされたよ。でもなんかまだ本気出してるようにに見えないんだよな、そんなお前に俺の本気の『メルティクラフト』を見せるのはなんか悔しい。だからさ、俺のもう一つの切り札でお前に本気を出させて見せる」
ガゼルは口が裂けんばかりに笑うと、胸当てを押さえていた手を戻し、構え直した。
するとガゼルの周囲に灰色の粉が漂い始めた。ガゼルを周囲を覆う灰色の粉は次第に密度を増していくと、手、足と広がりやがて体全体を満遍なく包み込み始める。
「(便ブラ!? なんだアイツ今度は何やらかそうってんだよ!?)」
「(……さっき勇者様の剣を受け止めた灰色の泥と同じ原理です。たださっきとは違って明らかに密度を上げていますが)」
「(そうだ、聞こうと思ってたんだけどあの灰色の泥は何なんだよ!)」
「(時間がないので簡潔に言いますとあのイケメンさんは土属性を持っていて、そしてあの灰色の泥は土属性の魔力そのものを変換して作りだした魔力の泥、魔泥と言います)」
「(なんだそれ!? ってかアイツ詠唱とかしてなかったぞ! メルティなんたら以外では魔術を使うのに詠唱が必要なんじゃないのかよ!?)」
「(あれは魔術ではないです。ただ魔力を変換して物質に作り変えているだけなので。属性を持つ者は少なからず自分の属性の魔力を元素変換できるのです。もともと属性魔術とはその単純な元素変換をより複雑かつ高度にする式を組み上げ威力や耐久力、持続効果をより高めるためのもので、いえ違いますね。それを言うならば、魔術というもの自体が高度な計算式の名のもとに空虚な幻想を――)」
「(長いわ!? もっと簡潔に!)」
「(つまり属性を持つ人は威力とか性能を考慮に入れなければ詠唱しなくても魔力そのものを火とか水とか、単純なものに変換できるんです。ですからあの褐色のイケメンさんは自らの魔力を単純に変化させて土の鎧を作り出しているんです)」
トイレブラシが言い終わるのとほぼ同じ時に灰色の粉は霧散し、全身灰色の鎧に包まれたガゼルが姿を現した。両目が見える穴以外は全身がゴツゴツした灰色の岩石に包まれたその姿は恐ろしいものだった。
「(げげッ、なんだありゃ……!?)」
もともと二メートル近い大柄だったガゼルの体は岩盤のような分厚い灰色の魔泥に覆われ、その大きさをニメートル以上膨れ上がらせ大きくしていた。それはまさに岩の怪物と形容してもいいほどに仰々しいものだった。形状としては動物のアルマジロに酷似していたが、本物のアルマジロとは違い、可愛さの欠片も感じられない岩でできた化け物は勇者を震え上がらせた。
「ふぅ、あっちい上に見てくれはちょっと不細工だけど、お前といい勝負するにはこれくらいしないとダメみたいだからな。今度はそう簡単に切れないからな、覚悟しろよ赤毛くん……!」
言い終わるとガゼルは岩の形状をさらに変え始めた、ガリガリと岩が削れる音が聞こえ始め、瞬く間に岩は形状を球体に変化させた。そしてガゼルが纏った岩の球体はその後、ギュルギュルと音をたてて回転を始め、勇者に向かって突撃を開始した。
「(うわーーーーーーーーーーーー!? なんか来たぞ!?)」
「(勇者様回避です回避! 横に跳んでください!)」
回転しながら高速で接近する巨大な岩の団子を横に跳び回避した勇者だった、
「甘いぜ……!」
がそれを見越していたのかガゼルは急ブレーキをかけるとすぐさま方向を変え、勇者に襲い掛かる。
「(のわああああああああああああああああああああああああああああ!?)」
ズドンッ!!!
「(ぐぶッ!?)」
「(勇者様ッ!?)」
高速回転する岩の球体は勇者の腹部に激突し、肉体を跳ね飛びした。
ボーリングの玉にぶつけられたピンのように横に弾き飛ばされた勇者は握った剣を支えにしてなんとか立ち上がろうとした。
「(立てますか勇者様!?)」
「(よ、余裕だよ。超よゆ、う……うおおえッ……よゆ……)」
「(いや余裕じゃないでしょう絶対に!?)」
内心はグロッキーながらも無表情のまま立ち上がった勇者を見て、ガゼルは内心驚く。
(あれくらってもまだ立つかよ……だったらどんどんいくぜ……!)
ガゼルは再び高速で回転しながら勇者に攻撃を開始した。
そして先ほどよりも速く迫る突進にダメージを負った勇者の回避行動は間に合わなかった。
ドゴッ!!!
「(ぶへらっちゃッ!?)」
勇者は吹き飛ばされる。
「まだまだぁッ!!!」
ガゼルは勇者に立ち上がる暇さえ与えず、すぐさま方向転換すると弾き飛ばされた勇者が地面に落下する前にさらに激突した。
「(ぷげらうッ!?)」
またもや勇者は跳ね飛ばされる。
後はひたすらにそれの連続だった。
ズドゴッ!!!
「(べへえるちぇッ!?)」
べゴンッ!!!
「(ゲロッパッアウチッ!?)」
ズッドンッ!!!
「(くあらるんッ!?)」
グドンッ!!!
「(あぶれっとうふッ!?)」
ズッドォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォン!!!!!
「(かぱあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!??)」
そして何度となく繰り返された回転攻撃も最高速度に達した一撃と共に終焉を迎えたのだった。
ガゼルは球体の形状を変えアルマジロの形に戻り思う。
(……流石にこれだけ攻撃すりゃあもう……)
岩の鎧からは蒸気が噴き出ており、その回転攻撃がどれほどまでに凄まじかったのかを表していたが、
(……マジかよ)
勇者は再び無表情のまま立ち上がった。
(……あれだけ攻撃したってのに……まるで効いてないってか……ショックだぜ……『メルティクラフト』状態の魔技を除けば俺の出来る最強の攻撃だってのに……)
どうした、こんなものか?
そう言われているような気さえするほどの余裕溢れる勇者の無表情にガゼルは戦慄する。
(……アイツ……底が見えないぜ……)
そして底が見えない最強の英雄の安否を確かめるためトイレブラシは語り掛けていた。
「(勇者様平気ですかッ!?)」
「(……うん……ふふ……)」
「(……あの……ホントに平気ですか……)」
「(……うん……うふふ……あー……あんなところにマカロニグラタンの妖精がいるよぉ……♪)」
「(だいぶマズいですねこれは)」
底の浅い勇者は限界を超えた痛みにより幻覚を見始めていた。見かねたトイレブラシは作戦を考えるべく考察に入った。
(勇者様の底辺ボディと底辺メンタルではこれ以上攻撃を受けるのは危険ですね……次の攻撃が来る前になんとか対策を考えなくては……しかし普通にやっても今の私と勇者様の魔技ではあの岩を突破するのは不可能に近い……それにしてもただの魔力変換であそこまで強力な岩を作り出すなんて本当にすごい人ですね……金髪のイケメンさんもそうですがまだお若いのに大したものです……おっとそんなこと考えている暇なんてなかったですね)
トイレブラシは再び変形を開始したガゼルを見ながら考察に意識を集中させる。
(……あれ、でもさっき勇者様が虫を焼いた時に偶然あの褐色のイケメンさんに攻撃があたって灰色の泥の鎧を焼き切っていた。さっきは偶然うまくいったんだと思ったけど……でも今思い返してみると偶然にしては綺麗に切断されすぎていた……あれはどうして……)
攻撃の準備を整え終えたガゼルを尻目にトイレブラシは思考速度をさらに加速させる。
(勇者様の攻撃がうまくいった理由……あっさりと剣が鉄のように硬い魔泥を切り裂いた原因……ん? そういえば勇者様自身が攻撃される前に確か鞘が砕かれて液体のようなものが魔泥に付着して……あれは……あ! そうか! なるほどそういうことだったんですね!)
トイレブラシは勇者が攻撃される前に鞘が破壊されたことを思い出し、納得した。
(だとしたらなんとかなるかも……えーっとあれは……あった、あった♪ よーし!)
トイレブラシはあるものを視線にとらえると岩の鎧を破壊する作戦を立てた。
「(勇者様! あの岩の鎧を粉砕するナイスな作戦を美少女が立てましたよ!)」
「(ホワイトソースたっぷりのマカロニグラタンの妖精ぐらたんッ♪ って呼んでねぇ♪)」
「(……頭を打ったのかな……もういいです、私がやりますですよ)」
言うとトイレブラシは勇者の体を動かして走り出した、それを見たガゼルも急ぎ球体状になった岩を回転させて追いかける。
「(さあ、こっちですよイケメンさん!)」
勇者の肉体を操るトイレブラシは肉体の限界ギリギリの速度で走り、目標の場所までガゼルを誘い込もうとした。だが転がるガゼルに比べて普通に走る勇者の肉体では速度が明らかに違い、やがて追いつかれそうになった。
「逃がさないぜ赤毛くん!」
後ろから勇者を轢くべく加速するガゼルは勇者を数センチといったところでとらえるも横に飛び退いてかわされる。
「(よしッ! 狙い通りの位置に誘導完了です! あとはタイミングを見計らうだけですね!)」
トイレブラシは自身の作戦を成功させるために、ある場所へとガゼルを誘導した。しかし導いた場所は取り立てて特徴のある所ではなく他と変わらない砂漠の一部であり、砂一色の風景が淡々と広がっているだけだった。一つ特徴というものがあるとすれば、前方にある積みあがった砂の山くらいのものであるが、その小さな障害物だけでは到底ガゼルの岩の球体による攻撃を防げないということくらいはトイレブラシも承知の上であった。
ガゼルは勇者の、ひいてはトイレブラシの狙いを考える。
(……何を考えてここに誘導したんだ? 何の考えも無しにここまで来たとは思えねえし……ふッ、駄目だわかんねえ。まあいいか、俺はこの攻防一体の技に絶対の自信を持っている。ただ赤毛くんもどうやら俺のこの鎧を打ち破る方法がなんかあるみたいだしな。なら、真向勝負といこうじゃねえか!)
勇者、もといトイレブラシに何か考えがあると知りながらガゼルはあえて勝負することに決めた。
「俺の鎧を打ち破れるなら見せてみろ……!!!」
ガゼルは自身で出来うる限り最大限の回転を行った。ギュルギュルと砂を巻き込み煙をあげながら熱を帯びていく岩の玉はやがて最高速度まで達すると、地面の砂を弾き勇者に突進を始めた。
「(来ましたねッ! 行きますよぉ勇者様!)」
「(ぐらたんォ♪ ぐらたんォ♪ るんるんるん♪)」
支離滅裂なことを言う勇者を無視したトイレブラシも体を操作して駆け出す。ちょうど小さな砂山を挟む形で両者は向かい合った。駆け出したのはほぼ同時だったがガゼルの方がやはり速く、砂山に近づくとそれを粉砕した。そのままに岩の球体は勇者に激突すべく進みだしたが、ガゼルは違和感に気づく。
「なんだ……これは……」
雨が降った。
砂山をガゼルが粉砕した瞬間、小さな砂山に埋もれていた何かの容器が破損し中身がぶちまかれた結果だった。粉々になった容器は四方八方に飛び散る。
そして液体が岩の球体を濡らし、それに驚いたガゼルが速度をゆるめた時だった。
トイレブラシはその隙を見逃さず急ぎ距離を詰めると、剣に灯しうる限りの最大の炎を纏ませ、剣を振り上げると、
「(いよいしょおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!)」
勢いよく振り下ろした。
ドッゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォン!!!!!
瞬間、響き渡ったのは鼓膜を破るような爆音。
と同時に巨大な爆炎が周囲の砂をあらかた全て吹き飛ばした。
勇者とガゼルも当然、例外なく爆発と共に吹き飛んだ。
砂漠に五十メートル以上の大きな円形の穴が空いた。
穴の周囲と中はいまだにジュウジュウと焼ける音を出しながら依然として高熱を帯びていた。
「(あっちいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいアツアツあついいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!??)」
そんな中、爆炎で百メートル近く吹き飛ばされた勇者は地面を転げまわりながら自身に燃え移った炎を消す作業に没頭していた。中々消えない炎を十数分以上かけてようやく消すことに成功する。
「(……はぁ……はぁ……ようやく消えた……)」
「(いやぁ、すごい威力でしたね。あと正気に戻って何よりです)」
「(てめえ便ブラいったい何やったッ!? 何か岩のアルマジロみたいのに滅茶苦茶攻撃されて意識が飛んで、それで気がついたら火だるまになってたんだけど!? 説明してくれるかしら!?)」
「(なんでオネエ口調なのかは知りませんが、簡潔に説明しますと、油に引火させてイケメンさんのあの鎧を吹き飛ばしたんです)」
トイレブラシは説明を開始した。
「(油だと!?)」
「(はい、そうです)」
トイレブラシは心の中で思う。
(さっき勇者様がイケメンさんの鎧を難なく切り裂けたのは鞘に溜まっていた油が鞘が破壊されるのと同時に魔泥に付着したからだと私は先ほど推測したんですが……あの様子を見る限りどうやら正解だったようですね)
トイレブラシは粉々に破壊され飛び散った灰色の鎧の欠片を見ながら心の中でつぶやいた。
「(つまり、あの褐色のイケメンさんの鎧を破るためにスティーブ将軍が持ってきていたドラム缶に引火させて破壊したのです。その結果爆発して炎上、勇者様にも多少の被害がいきました)」
「(多少だと!? 俺のこの黒焦げの顔を見てからモノを言えよ貴様! 危うくこの美しい顔を失うところだったんだぞ!)」
「(よかったです、危険に晒されたのがさほど重要なものじゃなくて)」
「(この野郎ォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!!!)」
勇者とトイレブラシは多少の口論を交えつつも敵であるガゼルを探し始めた。
「(……ガングロ、どこ行った……)」
「(勇者様の体より遠くに吹き飛んだんだと思います)」
「(……そんな遠くまで吹き飛ぶ爆発とかどんだけだよ……油に引火しただけであんな凄まじい爆発痕が出来るか普通……ガソリンに引火したってああはならないと思うけど……)」
勇者はいまだに焼け跡から煙が立ち上る爆発痕を見た。
「(普通の油ではないですからね。魔力で水から油に変化した油ですから。普通の油と違って魔力に反応してただの発火以上の威力で燃え上がるんです。ですから大量の油が私の魔力の炎に反応した結果あの凄まじい爆発が巻き起こったわけですよ。魔力で変換された油は取り扱い次第では火薬よりもある意味危険なんです、注意してくださいね勇者様)」
「(注意してくださいねじゃねえよ!? お前はそんな危険なもんに俺の体を操作して発火させたのか!? なんて性悪なんだ!? 俺が巻き込まれて死んだらどうするつもりだったんだ貴様!?)」
「(大丈夫ですよ。私と勇者様は火属性ですから炎の耐性は並外れて高いです。ちょっとやそっとの炎による攻撃は通用しません、よって爆発で焼け死ぬということは無いでしょう)」
「(炎で死ななくたって爆発の衝撃で死ぬかもしれないだろうが!?)」
「(おっと盲点でした)」
「(わざとだろてめえわざとだな!!!)」
「(まあまあ、あ! イケメンさん発見しました勇者様)」
「(誤魔化してんじゃねえぞコラ! これが終わったら追及してくれる! 覚悟しとけよ!)」
トイレブラシが話をそらすと、勇者は怒りながらも倒れているガゼルに注意を向けた。しばらく歩いた後に発見したガゼルは傷を負い倒れていた。纏っていた灰色の泥は粉々に砕け、遠目でも体からは赤くはれた火傷の跡や黒い焦げ跡がはっきりと確認できた。
「(……大丈夫かアイツ……滅茶苦茶焼けこげてっけど……あ! ああ! なんてことだ! お前やるんだったらもっと優しくやれよ! ひどい! こんな!)」
「(勇者様はお優しいんですね……ですが戦いは生きるか死ぬかのどちらかです。そんなお人よしではこの先やっていけませんよ! ここは心を鬼にして今のうちに人でなしになるための練習をする必要が――)」
「(ひどいあんまり! 水筒が壊れてる! これじゃあ水が飲めない!)」
「(必要ないみたいですね……)」
完成された人でなしを前にトイレブラシは釈迦に説法という言葉を思い出した。
爆発によって破壊された水筒のことでわめき散らす勇者を白い目でトイレブラシが見ていたその時、突然彼女は異様な魔力の反応を感じ取った。
(これは……もしかして……魔具の反応? でもこんな強力な魔力を宿した魔具なんて聞いたことも見たことも無い……そうか! 間違いない! これは『火竜の剣』の反応だ!)
気が付いたトイレブラシは急いで勇者に報告しようとした。
「(勇者様! 聞いてください! 見つけましたよ!)」
「(代わりの水筒か!?)」
「(違いますよ! 『火竜の剣』の反応を見つけたんですよ! 水筒なんかよりよっぽどすごい発見です! こんな広い砂漠で見つけられたんですから幸運ですよ! 福引で一等当たるよりも幸運です!)」
「(……なんだよそれかよ……水筒じゃねえのかよ……福引でいうとポケットティッシュか、たわしだな……)」
「(なんでですか!? 私たち『火竜の剣』を追ってここまできたんですよ!? それなのになぜブービー賞なんですか!?)」
「(そんな喉の渇きを潤せないもんは今必要ない……だいたい反応ってどこだよ……)」
「(え? えーっと……えーっと……あ、あの、辺、かな?)」
トイレブラシは自信がなさそうに勇者の手を動かすとだいたいの位置を示した。
「(かな? ってなんだよ……なんで自信なさそうなんだよ……)」
「(いえ……ちょっと説明しにくいんですが砂漠自体が魔力を持っているというか帯びているというか、それで探知にしにくいというか……とにかく調べにくいんです……)」
「(……なんだそりゃ……)」
胡散臭げな声を出す勇者にトイレブラシは説明を渋った理由を心中で考える。
(砂漠全体が魔力を帯びているなんて言っても勇者様にはわからないだろうし……私自身もなぜウルハの地形が魔術で変形し、そして魔力を帯びているかという理由がわからない以上説明のしようがない……)
心の中で区切りをつけるとトイレブラシは勇者に話す。
「(ま、まあとにかくこの辺のどこかに『火竜の剣』は埋まっていますよ)」
「(この辺のどこかって言われても……)」
勇者の見つめる先にはやはり砂しかなく、トイレブラシの言うところのこの辺にしてもかなりの広さをもっていた。
「(……いや、しらみつぶしに砂を掘って探すとか言わないよな?)」
「(他に方法があるんですか?)」
「(ええーーー! やだーーーーーーーー! つーかーれーたー! 勇者おうち帰る!)」
「(勇者様が言っても可愛くないですよ。さっさと探しましょう、イケメンさんが倒れている……う……ちに……って勇者様勇者様前前前を見てください!)」
「(なんだようるさい奴だ、なあ……ああああああああああああああああああああああ!?)」
勇者とトイレブラシは前を見ると、ガゼルが再び立ち上がろうとしていた。その緩慢な動きからでもわかるほどにガゼルはまだ闘志を失っていなかった。傷だらけの体でやがて立ち上がると勇者を見据えて楽しそうに笑い始める。
「くく、あははははは! やっぱりお前最高だよ! 強いわ! ここまで追い詰められたのは久しぶりだぜ! くくく、いやぁそれにしても隊長とレオンの言う通りだったな、戦闘能力が未知数の相手を捕らえるのは至難の技か……楽しむとか手加減とか俺が言える立場ではなかった! 失礼したよ赤毛くん、お前はきっと俺より強い! 俺の方が挑戦者だったんだ、今初めてそれを理解したよ! あはははははははは!」
「(……なんだアイツ……なんで笑ってんの……水筒を破壊された怒りで気でも触れたか……?)」
「(勇者様じゃないんですからそんなわけないと思いますが……)」
言ってる言葉こそわからなかったが笑い出したガゼルに勇者とトイレブラシは不審な目を向ける。
「さて……それじゃあ……俺より強い奴相手なら殺すつもりでやらなきゃ捕獲は無理だよなぁ」
「(……便ブラ……なんかさあ……すごい嫌な予感がするんだけど気のせいかな……)」
「(……奇遇ですね勇者様……私もです……)」
ひとしきり笑った後、口元を歪めたまま目を鋭く細めたガゼルを見ながら勇者とトイレブラシは不吉な予兆を感じていた。ガゼルの雰囲気の変化に呼応するように砂漠に吹いていた風が急に止み、辺りが静まり返る。それはまるで嵐の前の静けさだった。
「お前のような強敵に使えるのならば本望。ここから先、遊びは無しだ。アイオンレーデ国所属騎士ガゼル・クロックハート、死力を尽くしてお前を倒す」
ガゼルは籠手を下げていた方とは反対の腰からナイフを取り出すと、肩付近を切った。爆発で所々破れた服の隙間から血がにじみ出す。そしてその血をナイフですくうと、籠手に一滴垂らした。
「(さ、させるかあああああああああああああああああああああああああああああああああああああボケえええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!)」
勇者はトイレブラシに指示されるよりも早く駆け出す。
その動作を、そしてその結果を勇者は誰よりも知っていた。金色の髪を持つ美しい騎士との戦いでその後の展開を身に染みて理解していた。だからこそ駆ける、その動作が、言葉が成立してしまうその前に。
だがガゼルもそれを理解していたのか冷静にことに及んだ。ナイフを地面に投げ捨てると同時に血を垂らしていない右籠手で砂をすくい上げると勇者に向かってえぐり飛ばした。
先ほどよりも小規模ではあったが砂の波が勇者に襲い掛かる。
「(負けるかあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!! うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!)」
砂を燃える剣で切り裂きながら懸命に前に進むも間に合わない、ガゼルはゆっくりと籠手をはめた両手をバッテンのように交差させ言った。
「血の契約の名のもとに命じる、交われ……!!!」
ガゼルが吠えると地面に黄色い魔法陣が展開され、その体を包み込むとやがて弾けて消えた。
そして右腕が肩まで灰色の岩に覆われ膨張したガゼルがその姿を現す。左手には黄色の魔石が埋め込まれ、それは『メルティクラフト』の成功を示していた。
「(ちきしょうが……!!! 間に合わなかった……!!!)」
「(仕方がないです。今は相手の魔技に備えましょう)」
トイレブラシに言われ、とりあえず後ろに下がった勇者はガゼルの出方を窺った。
「受け取ってくれ赤毛くん、これが俺の持ちうる全てだ……!!!!」
ガゼルは灰色の岩に包まれた右腕を持ち上げると、地面を殴った。
腹の底から響くように砂漠の砂に振り下ろされた重い一撃は砂を巻き上げた、だがそれだけだった。それ以降はなんの変化も無く辺りは静まり返る。
「(……なんだ……あれでお終いか……?)」
「(いえ、そんなはずは……)」
拍子抜けする勇者とは違い、トイレブラシは警戒していた。そしてその警戒が的中するように、地面がグラグラと揺れ出した。
「(な、なんだ……!? またイモムシか……!?)」
「(違います! これがあのイケメンさんの魔技です!)」
地面が盛大に揺れ出す中、ガゼルの周りを取り囲むように巨大な砂の柱が地面から噴き出し、八本出現した。その後、最初に出現した砂の柱はガゼルにぶつかり、その体を飲み込むようにして合わさると、一本の巨大な柱を形作った。そしてそれからも砂の柱が無数に出現し、同じように一本の巨大な柱に吸い込まれるようにして融合を繰り返していった。ガゼルを飲み込んだ巨大な柱は50メートル近い巨大な塔のような形になると、やがて形を変えて行った。
「(……おい、おいおいおい……こ、これは……)」
「(……土属性の魔技は結構見たことありますけど……これはまた……中々どうして凄まじいですね……エクスカリバーちゃん脱帽です……)」
その巨大すぎる体は砂漠を照り付ける太陽を容易に遮り、辺り一帯に巨大な日影を作り出した。見上げる勇者の顔はどこまでも無表情だったものの、内心は恐慌状態だった。側面に生えた二本の腕だけでもすでにイモムシの魔獣と同等の大きさをほこっていたその砂の塊は確かに勇者に対して敵意の眼差しを向けていた。
「(う、うそだろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!??)」
五十メートルを超える砂の巨人が姿を現した。
勇者とガゼルの戦いはいよいよ佳境に突入する。