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字三町一番 松野養鶏場

作者: にけ猫

 レンコン畑につながる裏庭で、逃げ出している鶏に薬指をつつかれてしまった。

 人慣れした鶏なのでかかってきたのか、普通の鳥ならば逃げてしまってつつきはしない。

 鶏は恐いものがなく、追い払っても大声でおどしてもきりがない感じだった。

 そのうち、「手を出すからだよ」と、鶏が言ったように聞こえて、えっ、と耳を疑った。そして鶏はばさっと羽根を広げた。煙のような靄のような曖昧なものが少しの間たちこめ、もう一度くわっと嘴を開けて、やはり、「手を出すからだよ」と言った。

「変な気を起こさないことだねえ 」

 今度は人間のような声で言い、自分の鶏舎のある方角へさっさと歩いていってしまった。つついてきた鶏は、最初より一回り大きくなっているように見えた。


 わたしの夫のハルちゃんが勤める「松野養鶏場」は、周りをレンコン畑に囲まれたひどく風の強いところにある。ハルちゃんはそこの十六代目で、養鶏場に勤める前は近所の喫茶店でアルバイトをしていた。ハルちゃんはアルバイトは行ったり行かずで三ヶ月で辞めて、それからなけなしの貯金で食いつないでいるとき、松野養鶏場に呼び戻されたのである。

 養鶏場では、鶏糞の世話と卵拾いをする。雌のひよこの仕入れや集荷業者の相手は十五代目当主であるお義父さんが行い、卵の箱詰めはお義母さんが行う。要するに、呼び戻されたというほどのことではなく、つまりはただの手伝いである。

 今日はそのハルちゃんに頼まれ、朝から一緒に養鶏場にやってきた。結婚してから初めてのことである。養鶏場に着くとお義父さんが鉄の門を開けているところで、奥でお義母さんが旅行カバンを持って立っていた。

「今日から四国八十八カ所参りに行くから、あとのことは頼んだで」

 門をくぐったところでお義母さんに言われた。

 このところ鶏たちの体の具合がよくなかったらしい。前の日には、産んだ卵の数がようやく去年の同じ月の半分に達した程度だったという。毎日のようにやってくる卵の集荷業者の大坪という人に、

「松野はん、それではあきません」

 と、たしなめられた。そこで大坪の軽トラの運転手をしている阿部さんがひとつ案があると言い、四十八カ所参りを勧められた。今までもときどきお義父さんとお義母さんは寺社詣でに行くことがあったが、ごく近くの寺ばかりだった。五十一番札所というのは遠い。

「信心が足らなんだか」

 義父母はどうやら鶏の供養に行くらしかった。

「五十一番札所から少し足を伸ばすと道後温泉もあるし」と、お義父さんはそんなことも言った。

「ウチは生き物飼ってるせいで、今まで外泊はできんかったからなあ」

 ハルちゃんは親に対しては理解がある。門の前で見送るハルちゃんに向かってお義母さんは嬉しそうに笑っていた。

 お義母さんは四十六歳だが白髪も多く、インスリンの注射器が手放せないほどの糖尿病で、五歳年上だというお義父さんのほうが余程若く見える。

 そのお義母さんはお義父さんが若い頃見合いした人のうちで一番養鶏場に向いていたということらしい。しかもお義母さんが、お義父さんのお父さんのお姉さんの旦那さんの妹さんの子供であると聞かされて、十人ほどの女の人の中から選んでそのあと一ヶ月もしないうちに結婚したという昔話を聞いたのは、つい最近だった。この縁談話を養鶏場に来るたいていの親戚――それは近所一帯を占めているのだが――は知っていて、いまだに、「ええ嫁さんもらいましたなあ」とうらやましがれたりする。お義父さんはそれに対しては「鶏のおかげ鶏のおかげ」などと答え、お義母さんは「ほほほ」と笑っている。

 そういうわけで、お義母さんは鶏に手をつつかれることなく、お義父さんといっしょにこの土地で養鶏を続けているのであった。


「鶏につつかれてしまいました」

 鶏の仕事に来たついでに古いばあさんのいる母屋へ挨拶に行って、縁側で麦茶を飲みながらわたしが何気なく言うと、古いばあさんは驚いたように「えっ」と小さく言った。

「それからどうなったかね」

 飲みかけの麦茶の入った湯飲みを盆の上にもどして、古いばあさんは髪を手でとかしあげた。

「それからちょっと赤くなりました」

「どんなふうに」

「こんなふうに」

 正面から射した陽がわたしの薬指の先を照らす。のぞき込む古いばあさんの薄い髪の毛を、ときおり風が揺らした。

 古いばあさんはハルちゃんのおばあさんで、新しいおばあさんであるお義母さんに対しての呼び名である。松野家にわたしがきた時点でわたしが嫁さんと呼ばれるようになり、お義母さんの呼び名は嫁さんからおばあさんに、おばあさんは古いばあさんに繰り上がった。ほかにもお義父さんの弟であるおじさんは母屋から東に住んでいるからということで、東のおじさんと呼ばれている。そしてそのおじさんのお嫁さんは東のおばさんという。松野家は呼び名の前に「新しい」だの「古い」だの「東の」だのをつけることが好きなようだ。そのうち「新しくも古くもない」だの「西の」だの「南の」だのがついた誰かが出てきそうなのである。

 結婚して初めての正月、お義父さんから、そんな松野家の因縁話を合計三時間にわたって聞かされたことがあった。正月早々卵拾いの手伝いに来ていた東のおばさんが、見たこともない白っぽい、丸餅だけのつぶつぶした汁の雑煮を運んできてくれる間も、因縁話はとうとうとつづいた。ちょっとインスリン打たせてもらいますよ、とお義母さんが言って注射を打ち、はやばやと雑煮をたいらげてしまっても、切れ目ない話のどこで雑煮を食べていいのかわたしにはわからなかった。ハルちゃんはしかしお義父さんの話にふんふん頷きながら、いつの間にか雑煮をたいらげていた。どうにかしてハルちゃんの真似をしようとしたが、わたしの方の雑煮はちっとも減らなかった。やっとお義父さんが雑煮を食べにかかって少しの沈黙が訪れたとき、わたしが慌てて餅をすすりこもうとすると、ああそれから鶏舎はのう、と始まってしまった。鶏舎にも鶏にも卵にも、そして一年に一回入ってくるひよこにも、仏壇にも墓にも仏壇の(りん)にも墓に敷かれている石にも、とにかくすべてのものにそれなりの話があるようだった。

 室町時代に三河から渡ってきた先祖はこの土地の風の強さに困り果て、当初は簑を着ていたらしいのが江戸の末期にやっと舶来品であるマントを手に入れたという話と、親孝行で蔵を建てた五代目の長男が、三反歩の田んぼを十軒の分家にそれぞれに分け与えたことから「三町」という字になったという話と、最近ではひいじいさんが一番のやり手だったが、今のじいさんが隣町の団さんに田んぼを売った金で道楽したのを自分が買い戻して、もう二度とこんなことをせんようにお義母さんのお兄さんと一緒に抗議に行って、そこでお義兄さんが脳梗塞で倒れて右半身がちょっと不自由になったという話を全部話し終えると、お義父さんはやっと落ちついた。

「ところでひとみさんは、鶏についてどう考えているかね」

 と、使い終わった割り箸を箸袋に戻しながらお義父さんが言ったときに、東のおばさんが呼びにきた。そろそろ鶏舎の見回りの時間らしかった。

「ちょっと昔にもどこぞのじいさまが鶏舎へ迷い込んでな。このあたりはウチと隣地との境がわかりにくくて。とは言っても昔よりはよほど分かるようにはなったんじゃけんど」

 お義父さんは「松野養鶏場」と刺繍された帽子を頭に押し込むように被り、わたしの目の前で少し伸びたあごひげをさすりながら言った。

「鶏は気に入らん人間をつつくからなあ」

 そしてタオルを首にかけると、お義父さんはすっぱいものを食べたときのような表情になって、笑った。雑煮をごちそうになって、お義父さんが鶏舎へ行ったのをきっかけに、東のおばさんに見送られて鉄の門のところで別れた。

 そんなことを聞いていたので指をつつかれた話を古いばあさんにしたのだ。

「ひとみさん、それどんな鶏やったかね」

 古いばあさんはわたしの薬指をまじまじと眺めながら言った。鶏の鳴き声が母屋の壁にこだましている。   

「大きめの鶏でした」

 古いばあさんは少し頼りないような表情になったが、それ以上何も言わず、飲み残しのお茶を庭に撒いた。しばらくして柱時計が十時を打ち、ハルちゃんがそろそろ開放鶏舎の卵を拾うぞと呼びに来たときには、もう庭のお茶のしみは乾いていた。今日の養鶏場はいつもより少し暑かった。


 納屋の橫の小道を抜けて義父母の住む敷地に入ると、ウインドレス鶏舎がうなり声を上げていて、その向こうにトタン葺きの開放鶏舎が二棟並んでいた。

 さてはさっきの鶏は、あそこから逃げ出してきたのだなと思った。

 手前の開放鶏舎の入り口でハルちゃんが手招きをしていたので近寄っていくと、ハルちゃんはちらっとわたしを見て言った。

「おまえ、卵でも呑み込んだような顔してるで」

 ハルちゃんはもう、わたしのことなどどうでもいいのだ。

 ふてくされながら鶏舎を覗くと、通路の真ん中で東のおばさんが手もみをして立っていた。

「ああ、ひとみさん」

 鶏舎で聞く東のおばさんの声は、全体的には低いのに「い行」の音だけが妙に高いという変な声に聞こえる。それに何となく顔が鶏に似ているのである。

「こんにちは」と東のおばさんに声をかけると鶏はいっせいにわたしのほうを見て、ぎゃぎゃっと鳴き声を上げた。

「さあ面子もそろったし、卵を拾うか。こっちのカゴには大きいめ、あっちのカゴには小さいめ、これには中くらい、そしてこれにはどれともいえないのを入れてくれよ」

 ハルちゃんが言うと東のおばさんはいそいそと鶏のケージに近寄って行き、受け皿の卵をつかんだ。

 鶏は東のおばさんの手をつつく素振りもなく、ごく自然に自分たちが産んだ卵を委ねている。前から一緒に暮らしていたもの同士みたいなふうである。東のおばさんは「たまご~、たまご~」と小さく歌いながら、大きめのや小さめのや中くらいのやどれでもないのをカゴに間違えることなく手早く入れていった。ハルちゃんもその横で平然と卵を拾い始めた。

「この卵えらく大きいでえ」額に汗を光らせたハルちゃんが東のおばさんに卵を見せた。「あれっ、まあっ」見せられてあげた東のおばさんの歓喜の声に鶏が驚くかと思ったが、何も起きない。コッコッと鳴くだけである。

「私も大きいの、みつかるとええなあ」東のおばさんが感極まったようにぶるぶるっと体を震わせて、いっぺんに五つ掴んでカゴに入れた。それを見てハルちゃんもまた五つ掴んでカゴに入れた。すると東のおばさんがまた五個つかんでと、そんな事を二人が繰り返す。

「きっとこれは黄身が双子なんよ」

 東のおばさんは大きい卵を見つけるたび、陽に透かしながら言った。ちょっと嘘っぽい気もしたが、あまりに真剣な顔で言うのでわたしも大きいものをさがしてみた。

 三列むこうにひとつ大きい卵があったので手を伸ばすと、受け皿の手前でふっと空気が変わった。まるで生暖かい粘液に手を浸したような感じがして、手を伸ばしてみたものの触ることができなかった。さっき鶏がしゃべったのも思い出されて、どうにも気味が悪かった。

 大きい卵の横に中くらいのものがあり、その横に小さい卵があった。けれどどれともいえない、というのはどういう大きさなのか今ひとつ分からない。東のおばさんは筋張った鶏のような手で、ハルちゃんはふっくらしたもも肉のような手を、機械のように縮ましたり伸ばしたりしてどんどん卵を拾う。

「お前も拾えや」

 そう言うハルちゃんに「もう少ししてから」と返しながら、同時にまったく拾わずに済む言い訳を考えたのだがにわかには思い浮かばず、

(はよ)う」

 重ねて言うハルちゃんの声に、「つつかれると困るから」代わりにそんな言葉が出た。

「えっ、ひとみさん、つつかれたんで」

 東のおばさんが驚いて訊ね、持っていた卵を受け皿に戻した。それからケージに顔を近づけてエサをついばんでいる鶏をじっと見つめ、その鶏の鶏冠をちょいとつついた。

「ほんとにつつかれたんで」

「ええ、まあ」

 東のおばさんは鶏の顔とわたしの顔を交互に見て、首をかしげた。鶏がつつくのが信じられないようだった。ハルちゃんも信じられないという顔をしている。鶏はふたりの前ではおとなしい。嘴はピンク色のプラスチックでできたおもちゃのようなのだ。

「そんなこともあるんかねえ」

 東のおばさんはなおも不思議そうに言った。わたしは妙に薬指の先が熱くなり、どきどきと心臓のように鼓動も打ちだしてきて、気になって薬指を見てみた。赤みが少しきつくなって膨らんできている。ぎゅっと手を握ると、はち切れそうな風船を握っているような感じがした。

「ごくろうさん」

 古いばあさんの声が聞こえ、振り向くと鶏舎の入り口から「ちょっとひとみさん」と手招きされた。

「どう傷は」

「いや、ちょっと腫れてきたかなと思って」

「痛いことは」

「そう言われれば」

「痛みだしてきたんかいな」

 痛いのには割と強い質なので、我慢できないほどではない。それでも痛いと言ってしまうと歯止めがきかなくなってしまいそうなのだ。

「少しだけ。でもわざわざどうしたの」

「ちょっと気になっての」

 そう言ったあと古いばあさんはハルちゃんに寄っていって、わたしを母屋へ連れて行くよう告げた。ハルちゃんは卵を拾いながら「ああ」と適当な返事をした。東のおばさんは見向きもしないで卵を拾っている。古いばあさんは呆れたように鼻から息を出して、わたしの手を取ると母屋へ向かって歩き出した。

 母屋に入ると台所は朝ご飯を食べたままになっていて、土間に置かれた食卓の上に油漬けの鶏のささ身を盛りつけた鉢があった。生肉であるところを見ると今朝締めたばかりのようだ。古いばあさんは折れ曲がるように椅子に腰かけ、頬杖をついてささ身を一本頬ばって、言った。

「ひとみさんはさあ、なんで結婚したんや……」

 わたしは指が痛みだしていて少し気持ちが暗くなっていた。訊かれて、それはハルちゃんが好きだったからかなと考えながら、しかしそれも違うような気がした。どうせここにはハルちゃんはいないし、本音を言ってもいいかという気分になった。

「近所の恵子ちゃんも同級生の直子ちゃんも結婚したし、世の中そんなものかと思って」

「で、結婚して良かったかい?」

「……」

 ハルちゃんが今も汗を垂らしながら、せっせと卵を拾っている姿が浮かんだ。横で東のおばさんが卵を拾いながら鳥肌を立たせている。気色の悪い鳥肌と肉汁のような汗が見えた気がした。

「ほんとうはどうなんや」

「――なんか、わたしが思ってたのと全部が違うような」

 お義父さんもお義母さんもハルちゃんも無神経にも何かを求めてきて、わたしもそうしなくてはいけないと自分をねじ曲げてしまうことが多かった。それが次第に吐き気がするほど嫌になって、この鬱憤をどこへぶつければいいか分からなくなった。だが本心に素直になって反抗すればしたで、わたしはあとから罪悪感に苛まれた。

「う~ん、わからんでもない」

 突然古いばあさんが言って、ささ身の油漬けを食べかけにして、棚の上から古めかしい箱をおろしてきた。昔はどこの家にもあった、前面がひきだしになっている置き薬の箱だ。古いばあさんはその薬箱が開いてこないように、ひきだしを押さえて振った。それほど大きくはないのにそんなに軽くない、乾く寸前の粘土のようなものが入っているような、ゴトという音がした。箱の中にはそれ以外は何も入っていないようだ。古いばあさんは箱のひきだしを開けると阿波しじらの小さな巾着袋を出してきた。

 台所の勝手口が全開になっていた。不用心かとも思ったが、古いばあさんは閉めもしない。そのときちょうど東のおばさんが勝手口の外を横切った。東のおじさんの昼食を作りに行くところらしかった。そのすぐあと母屋の裏手を這っている四角いブリキの管がごんごおんと音をたて始めた。

「動き出したね」

 何も聞かないうちに古いばあさんが、音のするほうを向いて言った。

「ひとみさん、あれ知ってるかね」

 知らないと答えると、古いばあさんは何の音か説明してくれた。ウインドレス鶏舎から送られてくる卵のベルトコンベアが動く音なのだと言う。鶏舎の脇から裏庭を通って納屋までつなげられているとのことだった。

「『ういんどれすけいしゃ』っていうのは窓がないんやで」

「ええ、名前からしてもそうでしょうね」

 鶏は生まれて、雄か雌か判別されて、ここに運ばれてくるともう外を見られないということになる。しかもその少しの間でさえ外を見られるのは雌だけで、雄と判別されたらその時点でゴミ箱行きになるのだそうだ。

「なんやら気の毒な気もするが」

 古いばあさんは体を屈めて、勝手口の軒越しに外を見た。たしかに考えてみれば、もし自分がそんなところへ入れられたらどう思うだろう。けれど物心がついたころにすでに窓のないところにいたのなら、それはそれで疑うこともない日常になるのではあるまいか。

「あたしがここに嫁に来たときは開放鶏舎ばっかで、今よりもずっと忙しかったんやでえ。毎日もう朝早くからエサやって卵拾って」

 金持ちでお嬢さん育ちだった古いばあさんは朝寝がひどく、農業の「の」の字も知らずで最初のうちは姑さんに何度も怒られた、と笑いながら言う。

「まったく、出かけることもままならんだわ。それなのにあたしときたら、昔から洒落ることと遊ぶことしか頭に無かったからねえ。でもまあ手伝うようになってすぐ鶏に手をつつかれて、それっきり鶏の世話はしとらんで手は白いままや」

 そう言って古いばあさんは、薄い唇をつんととがらせ顔をしわくちゃにした。

 ブリキの管がさっきにも増してごおんごおんと鳴りだした。

「風が吹き抜ける音かと思ってました」わたしが言うと、古いばあさんは、え、という顔をして、またささ身の油漬けを一本口に放り込んだ。

「最初来たときも風が強かったから」重ねて言うと、古いばあさんは口を「ああ」というかたちにした。鶏のささ身は嚙んでぐちゃぐちゃになったまま、古いばあさんの口の中に残っている。

「ああここの風なあ。たいしたことないよ、たいしたことない。けどひとみさんにはどう?」 古いばあさんが言い、わたしは何と答えていいのかわからずに少し首を横に振った。

 ちゃかちゃかちゃかちゃか、と古いばあさんが箸で湯飲みの縁を叩きだし、わたしはそのリズムに聞き覚えはあったがどこで聞いたのか思い出せなかった。

 食卓の上に出してきた古いばあさんの右手を見ると、薬指の先が無い。すこしびっくりしたが、それより古いばあさんがどうして薬指をなくしたのかということのほうが気になった。

 それと関係があるのかどうは分からないが、前にハルちゃんが「古いばあは身勝手で、鶏の仕事を何もしよらん」と言っていたことがある。昔から台所でその日に絞めた鶏をさばき小分けして、鶏舎へ来る親戚に渡すと、決まってどこかへ姿をくらましたらしかった。 そのうち姑さんが死んで、養鶏場はお義父さんが継いで切り盛りするようになった。東のおじさんもお嫁さんをもらい、いつのまにか時間が経って、古いばあさんはじいさんと一緒に隠居しても、鶏をさばくと相変わらず姿をくらました。古いばあさんがいったいどこへ行くのかはどうしてもわからなかったという。

 最近では誰も古いばあさんのことを気にしなくなっていた。古いばあさんは、やっと皆が自分を忘れてくれたようで気楽になったと、口の中のささ身をごくっと呑みこんだ。そしてささ身が喉につっかえたようなしばらくの沈黙のあと、また話し出した。古いばあさんは、いざ好きなことをしようと思うととたんに考えが散り散りになってどこかにいってしまう、と言った。実は一回だけ、ふと昔の男のひとりが頭をよぎって出かけたこともあったが、途中でその男の名の「げんさん」という言葉だけしか思い出せずに、結局引き返して来たらしい。古いばあさんはその話をしている最中に、いきなりわたしをつついた鶏のことをもちだした。

「ひとみさんなあ」

 何かを思い出しかけたような顔で、古いばあさんは言った。

「追いはらうんやで。追っかけて来たら」

「追いかけて来たらって、何が」

「せやから、ここの鶏たちや」

 顔をあげて古いばあさんを見ると、古いばあさんも顔をあげてわたしを眺めていた。すでにわたしが鶏に恐れをなしていることを察しているようだった。

「駄目か」

「……」

「そうか、どうしても追い払われへんか」

 古いばあさんは大事なことを言い聞かせるように言ったあと、またちゃかちゃかと、さっきと同じリズムで湯飲みの縁を叩きはじめた。まのびした気持ちなのかせっぱ詰まった気持ちなのか、古いばあさんの態度はさっぱりわからない。ひょっとするとそのどちらでもあるのかもしれない。今日一日鶏にかかわればなんとか慣れるだろうなどと、軽く考えていた自分の馬鹿さを考えたとたんに、古いばあさんの叩いているリズムをどこで聞いたのか思い出した。それは毎年盆前になるとあちこちで聞こえてくる、阿波踊りの曲のリズムだった。テープにエンドレスで吹き込まれた(りん)と太鼓で演奏されるその曲は、あっちの広場、こっちの学校から聞こえ続けていて、阿波踊りの日も休まず養鶏場へ行くハルちゃんをアパートの玄関で送り出しながら、そのリズムが頭の中にしみ込むのをどうにか阻止しようとした覚えがあった。しかし「ちゃかちゃかちゃかちゃか」は、しっかりとわたしの頭にしみ込んでしまっていた。

「追い払うんやで」

「そうですか」

「できたらなあ」

「できますか」

 古いばあさんは答えず阿波しじらの巾着の口を広げた。そして袋から義指を出し自分の薬指につけると、壁に貼ってある荒神様に向かってなぜだか「なんまんだぶなんまんだぶ」と手を合わせ、ガスの元栓を締め、盛り塩の皿を流しの横に置いた。そして最後に空になったささ身の油漬けの鉢を流しに置いて、水をかけた。

「よくわからんけどね、嫌なもんは嫌なんよ。これはどうにもならんもんや」 

 古いばあさんはそう言うが、果たして嫌なものはどうやったら避けることができるのか、それを強いてくる相手にはどう表現したら伝わるのかまでは分からない気がした。しかしそのことは古いばあさんには言わなかった。


 もういないだろうと思ったり、いやいるだろうと思ったりしながら開放鶏舎へ向かった。すでに鶏が考えの真ん中にきてしまっているのであった。

 鶏ははいた。またしても鶏舎を逃げ出してあちこちを闊歩していた。

 そんな鶏の目を盗んでうまい具合に鶏舎へ戻れたのにホッとすると「ひとみさん遅かったね」と東のおばさんに言われた。ずいぶん油を売ってきたような気持になって、「すみません」と答えた。東のおばさんはそれ以上何も言わなかった。

 受け皿の上にはさらに数を増して卵が転がってきていた。わたしはやっぱり卵を触るのはいやだったので、東のおばさんの背後を蟹歩きして鶏舎の中を移動した。鶏からこちらが見えないように東のおばさんの背中にはりついていると、ハルちゃんが横に来て台車を目の前に置き「さあ拾え」と言った。

 まだ無理、と言おうとしたが、そろそろその言い訳も通じないような雰囲気になっていた。いっそ思い切って掴んでみようかとも考え、少しだけ手を伸ばすと鶏がその手を見つめてきた。そうするとつつかれたときのことが思い出されて、どんなに気合いを入れても駄目だった。やはり掴めないものは掴めないのだ。

「しかたない、おまえ、お袋の服着ろや」

 ハルちゃんはため息をついてわたしに言った。

「お義母さんの服? なんで」

 お義母さんとの関連がよくわからなかった。するとハルちゃんは、

「鶏はな、普段から人をよく見ててなあ。だれがどんな格好をしていてどんな声で、どんな臭いがするかよく覚えておる。親父のこともお袋のこともオレのことも家族やと思ってるんや。けどな……」

 と、宙を睨む目つきになって、ハルちゃんはは少し声を大きくした。

「けど違う人間が来ると大変なことになるんや」

 そう言えばそんなことをお義父さんから聞いたことがある。

「鶏がつつく、とか?」

「――まあそういうワケや。せやからお袋の服着て、帽子かぶれ。離れの玄関にかかってるヤツをな」

 ハルちゃんが言いたいことが、だいたいわかった。

 東のおばさんがちらっとわたしの顔を見てから、足元に落ちていた卵を拾った。

「やられたな」

 卵の中身は空だった。逃げ出した鶏が卵を食べるのだそうだ。

「共食い?」

「そうとも言えるけど、そうでもないわな。奴らの頭ではそこまで分からんからな」

 東のおばさんはその空の卵をカゴの縁で叩いて割ると、後ろに向かって投げた。よく見るとそんな卵の殻が鶏舎のところどころに落ちているのだった。

 お義父母さんの住む離れは二棟の開放鶏舎の向こうにあった。その建物を取り囲むように鉢植えの植物が並べられていて、それがどういうわけかアロエやサボテンなど、トゲのある植物ばかりなのだ。離れはまるで植物の親玉みたいに大きな鉢植えに根ざしているようだった。あまりに大きくなった団扇サボテンに恐いもの見たさに近づくと、葉の後ろに隠すように一斗缶が置いてあった。恐る恐る蓋を開けてみると、中には使用済みのインスリンの注射器が何本も入っていた。

 玄関へ入ると右の壁のふたつのフックに「松野養鶏場」のロゴが入った帽子と霜降りのトレーナーと膝に穴のあいた作業ズボンが掛けられていた。鈍いピンクのフックのほうに、「邦子」とお義母さんの名前が入っていた。

 義母の服を卵の殻をつまむような感じでつまみあげ、目を薄く瞑り袖に手を通したとき「ぺちん」と音がしてぞっとした。ほつれかけていた糸がひっかかっただけなのに、ぶるぶるっと身震いした。そしてわたしは今のこの今、ここの鶏に服従してしまった、と思った。今までにも何回かこうなりそうな場面はあったような気がしたが、それが具体的にどんな場面だったかは色々ありすぎて、「どれ」とは言い表しにくかった。

 服の中に、いままで見たことのない景色が浮かんでいる。

「あんたは邦子さんかい、それとも邦子さんの服を着たひとみさんかい」とあの鶏がねとねとした声で言い、にやっと笑ったように見えた。はっとして目を見張るとととたんに鶏に戻って、エサをついばみ始めた。エサをついばみ始めるともうどこにでもいる鶏になって、わたしの目をごまかしているようだ。

 豆球がチラチラと揺れ、胸のずうっと沈んでいった辺りで、静かなざわめきが聞こえていた。これはきっとウインドレス鶏舎の中なのだ。真ん中に未知の通路が見える。

「ほれ、入れ」

 突然誰かが、背後から声をかけたような気がした。


「ああ、着替えてきたんやね」

 トレーナーの袖の臭いを嗅いでいると、東のおばさんが言った。その声が一瞬鶏が言ったように感じた。東のおばさんはわたしが義母の服に着替えたが嬉しそうで、口の端から「きゅっきゅっ」というような音を出して笑った。それがエサをもらって歓喜したときの鶏の声に似ていて、つられて鳴きだした鶏の声がわたしには、「この貝殻粉をまぶしたの、おいしいわね」とか「また大きな卵を産んでしまうわ」とか言っているように聞こえたのである。東のおばさんは嬉々としている。けれど今のわたしは気が重く、目が大きく開けていられなかった。

「あれでいいやろうか」

 ハルちゃんがわたしの格好について小声で東のおばさんに話かけると、東のおばさんは指を唇に当てて「しっ」と言った。

「たぶん」

「そうやといいけど」

 わたしはトレーナーの臭いを嗅ぐ振りをしながら聞き耳をたてたが、もうそれ以上ふたりは何も言わなかった。ハルちゃんがおもむろに「ふん」と、大きく一回鼻から息を出した。お義母さんの服からは鶏糞と濡れた獣のような臭いがしていた。

 卵を拾っているあいだ、ハルちゃんと東のおばさんはしきりに「はあー」や「ふうー」の、胸に詰まったような息を吐いた。それは何かを言おうか言うまいか、迷っているようでもあった。あまりにふうふう呻るので何が言いたいのか訊いてみると、東のおばさんは口の中でもぐもぐと声を呑んで、ハルちゃんは、ああ、あれね、大きい卵は産道の広がったひねた鶏が産んで、小さい卵は若い鶏が産む初卵や、とはぐらかす。そしてさっきからどうも鶏の雑談が耳につく。

「いったい、何なん」

 たまりかねてわたしが問い詰めると、これ以上隠せないと思ったのか、ふたりは渋々話出した。

「へたをするとここへは誰でも入れたからなあ」と東のおばさんが中くらいの卵を掴んでと言うと、ハルちゃんは目を細めて外を見た。

「そういえばあの日も、ずいぶん暑い日やったな」

 ハルちゃんの言う「あれでいいやろうか」という意味がどんなことを指すのか思いめぐらしながら聞いていると、東のおばさんがさらに付け加えた。

「知らん人間が入って来た、っていうんで鶏が驚いたんやったな」

 ハルちゃんは卵をがしゃがしゃと三つつかんで「そやそや」と相槌を打った。わたしはあの鶏につつかれたことを思い出していた。鶏が知っている人間というのはどのあたりの人間を指すのだろうか。たとえばわたしのように中野家へ嫁に来ただけの者もそれに入るのか、それとも東おばさんのように事あるごとに通って来ている者なのか。それなら古いばあさんはいったいどちらの人間なのか、ふたりの話からは想像できなかった。

「昔は屋敷と町道の境がわかりにくくて。今みたいに整理されてなかったからな」

 それで前にこの鶏舎へ迷い込んだ者がいるというのである。何年か前の、たしかお盆だったらしい。お経のあと裏手にある墓へ親戚一同が墓参りに行って、その帰り道に近所の栄作さんというじいさまがはぐれたのだそうだ。

 お義母さんの服からする鶏の臭いが、昼になって暑さとともにさらに増してきて、わたしはハルちゃんの話す話の内容をすぐれない気分の中で聞いた。話の感じからすると、栄作さんが鶏舎へ入ったのはその日が初めてであるのは間違いがなかった。


 その日栄作さんの家では法事があって、お経のあと親戚一同が家の裏手にある墓地に墓参りに行ったのだそうだ。栄作さんは今年八十三歳で、すでに隠居をしていた。家は長男が継いでいた。

「立派な墓やなあ、栄作さん」

 親戚が口々に言うので栄作さんは得意で、このあとの会食の酒の肴にでもするかとあごをさすりながら庵治石の墓石を見上げた。見上げて後ろに少しよろめいた拍子にべしゃっと音がして、草履のかかとが濡れた。長男の持った桶の底に小さな穴が開いていて、漏れた水滴が小さな水たまりを作っていたからだった。

 墓参りを終えて半分ほど帰って来たときのことだ。はたと周りを見た栄作さんは目を疑った。一緒に歩いていたはずの親戚の姿がまったく見当たらなくなっていたのだ。鶏舎のトタン屋根が太陽に焼かれて波打ち、鶏の鳴き声が響き渡っている。そのとき栄作さんは初めて、自分が養鶏場に迷い込みひとりでぐるぐる歩きまわっているのに気づいた。   当時の松野養鶏場は今と違ってウインドレス鶏舎などはなく、まるで整理されていなかった。似たような開放鶏舎ばかり並び、いったん知らない者が入り込もうものならそこはもう巨大迷路になってしまうのだった。

 太陽がじりじりと降り注いだ。やがて栄作さんは足元が波打っているように感じ始め、暑さで倒れそうになってきた。早くここから出なければと思ったが、もがけばもがくほど養鶏場の奥深くに迷いこんでいく。

「こりゃまるで蟻地獄じゃなあ」

 喉の奥があぶった紙のようにぱりぱりと音をたてているような気がして、栄作さんは長男の持っていた桶の水滴をこの口に落とせないのを悔やんだ。周りの景色が歪んで見えているのは、目に入った汗なのか涙なのかわからない。

 栄作さんは出口を探してさまよった。どこかに必ず出口はあるはずと、ひとつずつ鶏舎をのぞき込んだ。しかし栄作さんにはどれもこれも模写でもしたかのように色も形も同じに見え、果たしてこれはさっき覗いた鶏舎なのか、それとも初めて覗くものなのか見分けがつかなかったのである。「わしもここまでか……」栄作さんはつぶやいた。

 行き詰まって困り果て、いくつめかの鶏舎を覗いたときだった。向こう側に通じる道が栄作さんの目に入ってきたのだ。

「よし、ここを突っ切ってやろう」

 栄作さんは夢中でその鶏舎へ飛び込んだ。ところが突如現れた見知らぬ人間に驚いて、鶏たちが暴れ出したのである。

 すさまじい風が鶏舎の中で吹き荒れた。体が持って行かれそうになった。けれどここを突っ切るしか逃げ出す方法はないと栄作さんは一所懸命走った。そのそばで鶏たちが羽根をばたつかせて金切り声をあげている。そしてまるで逃げる栄作さんを追いかけるように、片っ端から鶏たちはバタバタと死んでいった。

「ああなったらもう、誰にもどうすることもできんのや」

 ハルちゃんはそれをときに養鶏場で起きる、とてつもなく大きな白いあぶくのようなものだ、と付け加えた。

「それから栄作さんを見たことないなあ。どうなったんやろ」

「さあ、親戚の者が言うには、それっきりどんな集まりにも顔を出さんようになったということやで」

 ふたり手を止めて目を合わせた。

「まだ五月やというのに、今日は暑くなりそうや」

 ハルちゃんが言って外に目をやると、東のおばさんも外に目を向けた。ふたりは外を見つめて耳を澄ましている。鶏がコッコッと小さく鳴きながらエサをついばんでいる。東のおばさんは少し安心したように、ふーっと息を吐いた。ハルちゃんが首に巻きつけたタオルをはずして額と頬を拭い、

「あの鉄の門を設置したのも確かあのときやったな」

 と、ぽつりと言った。

 ハルちゃんの話はそれで終わったが、その話はハルちゃんがわたしを戒める作り話かとも思ったのである。しかしどう考えてもこれといった教訓を引き出すことができなかった。

 鶏が「ぎゃあ」と鳴いた。昼も真っ盛りというのに、養鶏場には鶏の鳴き声しか聞こえていない。わたしの後ろから何羽もの鶏の話し声が聞こえてくる。

「あたし、きょうは卵を産めなくてね」

「あたしは朝からひとつっきりよ。なんだか気分が荒々しくて落ち着かなくて」

「いつもと何かがちがうわね」

「そう、ちがう、ちがう」

 ときどき風が吹いてトタン屋根をきしませる。そのたびに鶏がつぶやき、鶏のつくる鋭い気配がよぎる。喉の下にぜいぜいするかたまりが溜まっていくような気分だった。

「その話ってほんとうなん」ハルちゃんが話し終えて、わたしは開口一番に聞いた。お前の身にも起きるぞと言われてからでは怖くて聞けない。

「親父とお袋の目の前で起きたと言ってたから、ほんとうに決まってるやろ」

 ハルちゃんは鼻毛かなんかを抜きながら答えた。東のおばさんはまた大きい卵を見つけ、陽にかざして透かしている。どうしても双子かどうかが気になるのだ。

「栄作さんつつかれたやろうか」

「鶏はにおいと格好で、栄作さんは他人やとわかったやろう」

 ハルちゃんが言うと、鶏が横でくわっと口を開けた。そのまま何か言い出すかと思いわたしは一瞬顔をそむけたが、べつに何も言わなかった。ごく普通の、鳴き声だけだった。

「相手が他人なら手を出したり大声出したりせん限り、追いかけてまではつつかんかったやろうけど、これが身内やったら鶏は見ただけでつつくかどうか判断しよるわ」

 そう言えばわたしがつつかれたのは、手を出してもいないし大声を出す前だった。つまり鶏は、わたしを見ただけでつつこうと決めたということになる。

「私、つつかれたことないで」嬉しそうな口調に変えて東のおばさんは言った。

「そうや、オレもや」

「あんまり外へ出やんから外の臭いがついてないし、鶏が安心するんかもな。最近の人ってなんやらハイカラな臭いするでアカンのや」

「そうやなあ」

「三軒先の大阪の学校へ行ってる娘さん、変な服着て変な髪型してたわ。ハルちゃん知ってる?」

 ふたりの会話を聞くともなく聞いているうちに、また鶏の声が聞こえてきた。鶏の声が「変な気を起こすなよ」とせせら笑っているような気がして何度か鶏を見た。実際に鶏は笑いながらわたしのほうを見ているように感じた。鶏は、思うがままに振る舞っているように思えた。


 養鶏場へ来てから半日が過ぎ、そろそろハルちゃんも卵拾いばかりにかかっていられなくなっていた。足元から胸の高さまである三段の受け皿は、ほとんどハルちゃんと東のおばさんが拾い、残っているのは出口から手前一メートルほどの三段だけだった。残りはお前が拾っておけよ、とハルちゃんは言ったが、わたしはまだ卵を拾える心持ちになりそうになかった。けれど東のおばさんが「ひとみさんは義姉さんの格好をしてるからだいじょうぶやろう」と言うと、ハルちゃんがすぐにそうやのうと言って話はおしまいになった。

 しばらくしてハルちゃんは、鶏糞を片づけに離れの前に造られたビニールハウスへ向かって行った。東のおばさんは大きい卵はこの鶏舎にはもうほとんど残っていないと見切りをつけたのか、隣の鶏舎へ入っていってしまった。隣の鶏舎へ行く前に東のおばさんに、小さいのはあのカゴ、中くらいのかそのカゴ。大きいのはこのカゴでどれともいえないのがあっちのカゴと、もう一度念を押されたが、どうしてもわたしにはその「どれともいえない」というのがどういう大きさなのかがわからなかった。

 少しして、古いばあさんがまた鶏舎をのぞきに来た。古いばあさんの指には義指がはまっている。わたしを見た古いばあさんの目尻にはたくさんしわが寄っていて、どうやら微笑んでいるようだ。

「ひとみさん、ちょっと縁側でお茶でも飲むか。卵拾いは後回しにして」

 古いおばあさんがわたしを誘った。

 縁側で古いばあさんと、午前中に挨拶へきたときのように向かい合って座った。

「鶏がしゃべったのを聞いたかい」

「ええまあ」

 鶏の声は今も聞こえていた。何度か聞いているうちに、聞こえること自体には慣れてきたように思う。けれど慣れてはきたものの鶏の声が耳につくたび虫酸が走り、初めに聞いたときよりもさらに気分のいいものではなくなってきていた。

「今日は話があって」

 すでに今日はもう色々と話をしたはずなのに、古いばあさんの様子は朝より改まっている。そしてこんなことを話しだした。

 実はもう六十年も前になるけどあたしも鶏につつかれたことがあってね。鶏につつかれてから、鶏がしゃべっているように感じるようになったんや。最初は耳がおかしくなったものかと思い、つばを飲む込んで耳通しをしたり耳そうじをしたりしてみたが、耳は通ったままだし耳かきには鶏のエサのような粉が付くだけやった。とにかく耳障りだし気味も悪いので、じいさんや姑さんにも聞こえるかと訊いてみたけれど笑い飛ばされてしまった。耳栓をしたりほっかむりをしたりしても、鶏のしゃべる声が聞こえる。やがてその声は耳に入っているだけでなく、頭の芯にまで届いているということがわかってね。医者にかかったこともあったけど、特にどこも悪くないなどと言う。薬を飲んでもむろん消えない。そのうちに聞こえることが自然になって、聞こえても聞こえなくても気にならなくなったんや。そんなあるとき、ふとじいさんと姑が話しているのを耳にしたんや。

「ハツゑの体はうちの家に合わなんだ。朝は遅寝で、それなら夜のことは強いかといえばこれはまた依怙地や。わしはもう何ヶ月もハツゑには拒否されておる。ゆうべもやっぱりあかなんだ。ハツゑはいったい何を考えてるんか。もういい加減観念していうことを聞けと言ってやったが、頑固に首を横に振り、布団の中でかたくなに背を向けているばかりやった。こうなるとワシはもうハツゑへの情などはなくなってくる。ついに、そんな我を通してばっかおったら鶏が怒るぞって言うてやったんや」

 古いばあさんはじいさんの声色で言って、髪をてのひらで三回なであげた。そして、

「鶏が怒るぞって」

 もう一度今度は自分の声で言って顔をくしゃくしゃにした。

 鶏が怒るという言葉にいったいどういう意味があるのか。じいさんを怒らせるとつつかれるというふうにも取れるし、鶏が怒るのはじいさんの言うことを聞かなかったときだというふうにも取れる。その意味はきっと古いばあさんにもわからないのだろうが、するとわたしは鶏に言われた「言うことを聞かないからだよ」という言葉を思い出してしまうのだった。

 縁側で古いばあさんはそのあとまんじゅうを食べ、わたしは餡が苦手なので仏壇にあったバナナをもらって食べた。

 

 この養鶏場はわたしには理解できないことが多かった。ふと振り向くと、よく鶏が逃げ出しているのだ。鶏に逆らった覚えはないのに、その鶏は何もせずに養鶏場をうろついているわたしを見つけて追いかけてくる。追いかけてきてはつつこうとする。鶏の嘴は生ぬるかった。

 朝つつかれた指は最初あれほど熱かったのにだんだん冷やっこくなって、今では感覚がなくなっているようでもあった。そして感覚がなくなってきているのは指先だけではない。むしろ体全体におよんできているようなのである。つつかれたことでわたしの体が鶏に絡め取られてしまっているとすれば――そんなことを考えると落ち着かない。

 古いばあさんの薬指の先の色はわたしとよく似ていて、古いばあさんの話すことはわたしの身に起きることのようで、古いばあさんは妙にわたしの心に巻き付いてくる。

 義指のはまった薬指をさすりながら、古いばあさんが言った。

「あたしはほんとは夜のことも好きなんや。ほんとの夜はええもんやがな」

 あからさまにそちらを見ず聞いていると、古いばあさんは続ける。

「じいさんは養鶏場のことにも何にもうるそうて、こうせなイカン、そうせなイカン、なんで言うようにしてくれんのやって言うてのう。ひとみさんは春樹に言われへんか?」

 わたしは言われるとも言われないとも取れる首の振り方をして、古いばあさんの話をはぐらかした。

 実はハルちゃんにはそれほど魅力を感じなくなっていた。わたしがそう考えていることは古いばあさんにもわかっているのだろう、こんどはわたしの正面にまわって正座をした。そして、

「ひとみさんは何に失望したんや?」

 問いただすような決めつけるような目をして訊いた。

 何かに失望するというからには、その何かにたいそう入れ込んでいなければならない。確かに最初は何かに入れ込んでいたように思える。

 けれど今はハルちゃんとの気持ちやからだのつながりだの、ある期間一緒に過ごしただけで心が通じていると思い込んでいたことだの、幾つかのことを思い出してもピンとこない。この養鶏場の鶏のように杳として掴めなかった。

「いろんなことに、失望したような」

 そう答えると、古いばあさん口をすぼめて笑った。

 それからも古いばあさんが重ねて訊ねてくるかとわたしは待ったが、もう何も訊ねなかった。言葉はなく、荒神さまを見上げてなんまんだぶ、とだけ拝んだ。

 外から「ひとみさんひとみさん」としきりに呼ぶ、鶏の声が聞こえる。耳を塞いでも一向にその声は止まない。、小さくばたつかせる羽音に混じって、「ひとみさんひとみさん」と呼ぶ声が延々と聞こえ続けている。

 風に乗って聞こえる、ざわめきのような、静かな不思議な音だった。


 三時が過ぎても古いばあさんに母屋へ何度も呼ばれるので、なかなか卵が拾えない。けれどそれはわたしの口実で、ほんとうは何度もそうやって呼ばれ卵を拾わずに済んでいるので安心していた。

 母屋の台所は昼ご飯の片づけも終わり、流しは洗い物も終わってきれいに磨きあげられていた。かわりに調理台に丸鶏が乗っかっている。

「その鶏、今日死んだんですか」

「うん、今からさばくで」

 漂流してきてやっと陸に上がった遭難者のような声を出して、古いばあさんが立ち上がった。丸い塊の横には目を瞑った鶏の頭が添えられている。

「ガッついてエサを喉へつめて死ぬか、もう卵を産まへんのにエサだけ食べてるかするヤツが毎日見つかるからな」

 古いばあさんは鶏の首のあたりへ包丁の刃をあてた。

「毎日ですか」

「ああ毎日、何羽も」

 言いながら古いばあさんが力を入れると、鶏がぶるっと動いたように見えた。わたしはえっ、という声を呑みこんで少し後じさった。後じさった拍子に、開いている食卓の上の薬箱の中が見えた。阿波しじらの巾着の中身は空だった。

「こんなに鶏肉ばっか食べ切れへんからなあ。それを知ってる親戚が毎日夕方になると肉をもらいにやってくるがな」

 それで古いばあさんはしかたなく鶏をさばくようになったらしい。さばき終わると今でもどこかへ姿をくらませるのだろうか。

「東のおばさんはもう持って行ったんですか」

「さあ、今日はまだ見ないねえ。まだ卵拾ってるんやろう。せやけど忘れず来るで。大きい卵と鶏肉があの人の生き甲斐なんや」

 突き放した言い方をして、また鶏肉にブスリと包丁を入れる。

「あのう……」

 わたしが言うと古いばあさんが顔を上げた。古いばあさんの手が脂でてらてらと光っている。最初細く窄められていた目が次第に大きくふくれ、今は涙を湛えながら膨張していた。

「みんな、喜びますか」

「鶏肉なあ、みんな好きらしいで」

 古いばあさんの目がますます大きくなった。見開かれ、剥がれでもしたふうに、ついには白目が黒目のまわりじゅうを覆って、目玉の三分の一くらいが露出したようになった。と思ったら、すぐに元に戻った。

 ふたたび古いばあさんが新たな肉を裂いた。その衝撃で鶏が今にも目を覚ましそうに見える。わたしは「もう少しそっと切ってください」と喉元まで出かかった。

「やっと出てきたわ」

「何がですか?」

 古いばあさんが「見る」と聞いたとたんにまた目玉は大きくなった。切れ目を入れて腹を開けた白い塊は、まな板の上で脱力している。古いばあさんが何かを握って引っ張った。

「あ」

 わたしが声をあげたとたんに、中から何連にも連なった黄色い丸っこいものが出てきた。古いばあさんの顔が薄ら笑いを浮かべている。

 卵の元やよ。黄身がつながってるんや。これがひとつずつ卵になって出てくるんや。せやけどその途中どこで殻に覆われるんか、腹の中には殻の元は見当たらん。あたしはねえ、鶏の腹からこれが出てくると不思議になるんや。どうやって黄身が白身に覆われてそれで殻を付けるんかってな。

 古いばあさんは小さな声で喋った。卵の元が腹の縁からつるつる這い出てきて、まな板の上にだらりと広がった。

 春樹はひとみさんにどうしろと言うで?あたしはね、ここへ嫁に来てすぐやった。じいさんと姑さんに卵を拾えと言われたわ。けどあたしは朝は布団にくるまってるのが好きやったし、お天道さんが高くなればお洒落れしてでかけたかった。そやけどじいさんはまるっきりあたしの味方はしてくれなんだ。そう考えたらじいさんが嫌いになった。あたしはね、一回嫌いになると、ずいぶん嫌いになってしまうんよ。どうしてあのとき「げんさん」と一緒にならなかったんやろうなあ。と言っても今では「げんさん」が誰だかよくわからんようになってしもうたけど。

 じいさんは夜になると言い寄ってきた。ひとみさんも春樹に言われるで?ひとみさんも言われるやろう。じいさんは何回も言い寄ってきたわ。でもあたしは何回でも断った。もうじいさんとはそんなことする気は、さらっさらなかったよってなあ。そのうちじいさんはあきらめたのか誘わんようになった。あれからどのくらいたったかのう。五十年ぐらい経ってへんやろうか。じいさんはあたしが断るたびに、それは人の道から外れとることやって言ったわ。そんなにわしの言うことが聞けなんだら、今に鶏につつかれてしまうぞ、そうなってもワシは知らんぞ、って諭したもんやけど、あたしは真に受けなんだ。あたしは、じいさんとの夜を依怙地になって断ったんやのうて、姑さんが朝早く起こしに来るのも、生き物飼ってるから出かけられへんのも、鶏も、その鶏が産んだ卵の黄身も白身も殻も、もう何もかもが嫌やったんや。そんなふうにじいさんを拒否し続けて、それで鶏もあたしのことが嫌いになったんやと思う。久しぶり鶏舎へ近寄って行ったときに、逃げ出していた鶏があたしを追いかけてきてつついたんよ。やはりじいさんの言うことはほんとうやった。


 ほんとうやった、という古いばあさんの声が、わたしの声のように聞こえる。まったく違う質の声なのに、よく似たものが言っているように聞こえる。そのうちに自分が母屋にいるのだか鶏舎にいるのだか不明になって、ただ古いばあさんがふわふわした声で古いばあさんの感慨を述べているだけだというようには思えなくなった

 鶏が追いかけてくる、その言葉を聞くと背中いちめんがぞくぞくとした。古いばあさんの目玉はもう膨れておらず、薄い皮が覆い被さったようないつもの目に戻っていた。卵の元はまな板の上に変わらず広がっていたが、少し乾き始めて艶が減ってきていた。

 わたしは古いばあさんと似ていることが数々ある。

 どうもこの養鶏場になじめないのもそうである。養鶏場の人たちと言葉を交わすとき、わたしは今も目を合わせられない。その人たちがわたしを誘い、皆でひとつになろういう心持ちになろうというときも、わたしはつい手を引っ込めてしまう。いつまでも手を後ろに回したまま、どうしても手を差し出せない。手を差し出しさえすればその人たちに溶けこんで混じりあえるだろうが、わたしはどうしても手を差し出せない。そんなふうにわたしは手を隠したまま、養鶏場の人たちがわたしに対抗したりわたしに要求したりするのをただ見ているだけなのである。

 長い年月をかけて、色んなことをあきらめて何回か養鶏場の人たちと交わすようになれば、次第にわたしの手も開きはじめ、そのうちに知らず知らずとなじんでいくかも知れない。そうすればそれほど依怙地にもならず、手を差し出せるかも知れないのである。

 でもようやく手を差し出そうとなったときには、きっとその人たちの姿は鶏に変わっているように思う。そしてわたしは鶏にならない。その人たちが白や茶色やまだらやのさまざまな鶏になるのである。今までもそうだった。鶏になる前に交わすことをやめてしまった人たちもいたが、そうでないここの人たちは、みな鶏になった。

 なぜわたしが鶏にならずにその人たちが鶏になったのか。実際にはその人たちが鶏になっているときにはわたしも鶏になっていたのかも知れない。しかしわたしはその人たちが鶏になった瞬間の、粟立つような感じを今でもはっきりと覚えている。自分も鶏になっていたなら、あのような粟は立つまい。

 けれど古いばあさんは鶏にならない。薬指の第二関節から先がないから養鶏場の人たちに手を差し出すこともないのだろうか。鶏はそのことを、依怙地だ、と言って蔑んだのだろう。

 鶏が鳴いている。ひとみさん早くいらっしゃい、言うことを聞いて卵を拾いなさい、そういう含みで鶏は、コッコッコッと音をたてているのだろうか。


 わたしの指が先から黒くなってきていた。古いばあさんの指にますます似てきた。

 紫檀の仏壇の扉を開けようとしている古いばあさんの指を後ろから見た。扉に手をかけた古いばあさん指は、陽炎の中で揺れているように映った。

「古いばあさん」と思わず声をかけた。

「何や」古いばあさんは振り向いて言う。古いばあさんの目や鼻や口は色が抜け、少しのっぺらぼうに近くなっていた。

「どうしたんですか」聞くと、古いばあさんは不思議そうな顔をした。

「ひとみさん、いやに指の色が黒くないかい」

 反対に、そんなことを言う。

 古いばあさんは仏壇から離れてわたしのところにやってきた。わたしの指をてのひらで何回か撫でた。まるで可愛がっている猫の背でも撫でるようなやり方だった。

「ひとみさん、医者へ行ったほうがいいよ」そう言いながら、撫でる。古いばあさんは目をすぼませて、さらに撫でた。

 そのあと東のおばさんが大きい卵を持って、鶏肉がさばけているか様子を見に来た。まな板が洗って立てかけてあるのを確認すると、東のおばさんは何も言わずに当たり前のように冷蔵庫から麦茶を出してそこらへんにあったコップに注いだ。そして大きいめのじいさんの椅子にやれやれと言って腰掛け、麦茶をすすった。

 ハルちゃんは鶏糞の片づけにかかりっきりらしい。逃げ出している例の鶏は姿を見せず、どこか敷地の隅でエサでもあさっているようだ。もしかするとこの台所の勝手口を出たあたりで潜んでいるかも知れなかった。そして時間がたつにつれて、わたしの指先はぶよぶよしていった。

 卵の出荷の時間が迫ってくると、東のおばさんはゆらゆらと立ち上がり、レジ袋に入った鶏肉を冷蔵庫に押し込み、大坪が卵を取りに来ると言って母屋をあとにし、納屋へ向かって行った。

 ひとみさんも持って行き、と古いばあさんに鶏肉を渡されて、お礼に肩でももみましょうかと言うと、古いばあさんはどちらでもいいように頷いた。日が少し傾いてきて、母屋の裏手にある台所は薄暗くなりつつあった。わたしが蛍光灯の紐を引っ張って灯りを点けると、古いばあさんは蛍光灯の光の下で置物のようになっていた。どこかから線香の匂いがしてきていた。わたしは薬箱の中の巾着の口が開いて、そこから出てきた義指が古いばあさんの指先に差し込まれるところを想像した。

「古いばあさん、それでつつかれた指はどんなになったんですか」

「最初は少し赤いだけやったんやけど、だんだん黒くなっていったな」

 つつかれてすぐ、古いばあさんはじいさんにそのことを伝えたのだった。ところがじいさんは誰も鶏になぞつつかれたことはない、おとなしい品種やからと言ったそうだ。まかり間違ってつつかれたとしても、舐めておけば治ると相手にしてくれなかったという。

「指はのう、黒くなって崩れたよ」

 古いばあさんはあまり気の入らない声でこう続けた。

「崩れてきたんで、薬指の半分から先を落としてもらったんだよ。医者に聞いたら切り落とさんと体じゅうに毒が回って死ぬって言うから」

 話し終えると頼りなさそうに首を何回かまわして、それから「よっ」と掛け声をかけて立ち上がった。

「ひとみさんも体じゅうに毒が回るかも知れんで」

 古いばあさんは明日に備えて包丁を研ぐらしかった。肉と一緒に骨も切るので一日で刃こぼれするのである。古いばあさんは流しの下から研ぎ石を出し、さっきまで鶏をさばいていた調理台に二つの研ぎ石を置いた。少し背を屈めるようにして、先に粗めの石でそのあと細かめの石で研ぐのだと言った。

「ひとみさんの指も黒くなって崩れるかも知れんなあ」

 古いばあさんが言うので、わたしは驚いて薬指を見た。ますます色が黒くなって、精気が抜けている。

「まさか」

「指がなくなったら、そりゃつまらんぞ」

 古いばあさんはわたしの薬指の先を見ながら言った。線香の匂いが一瞬強くたって、養鶏場の空気がざわめいた。目に見えない狐みたいな動物が何匹も養鶏場の中をよぎっていったようなざわめきだった。

 古いばあさんはもう一度わたしの薬指の先を見てからふっと軒を仰いで、

「言うことを聞いてたら、黒くならんかったかも知れんなあ」

 と、わたしにともわたしにともなくつぶやき、洗い桶の水に包丁を浸して洗った。土間に流しの水がはねて、古いばあさんの足下は少しぬかるんでいる。それから水を切った包丁を手拭いでくるんで、立てかけてあるまな板の横に並べて、また荒神様に「なんまんだぶ」と拝んだ。

 拝みながら、勝手口の外をときどき窺った。

 

 養鶏場じゅうに鶏の気配が充満していたが、庭に鶏の姿はなくなって、静かなものだった。今はもう鶏は逃げ出していない、そう思った。

「拾うのはアカンでも卵の箱詰めぐらいはできるやろう」

 納屋へ行くとハルちゃんは、わたしの今日の作業振りを皮肉って言った。

 納屋の壁の空洞からは卵がかちかちと火花を散らすように溢れ出て、その奥からごおんごおんとうなり声が聞こえてきている。ウインドレス鶏舎からベルトコンベアで運ばれてくる卵たちである。一瞬、転がり出してくる卵がわたしの頭の上で割れ滴って耳の中へ入ってくるように感じて飛び上がった。

 痛くはないのだが、外耳に入り込んだ途端に卵の中身はそのまま奥に流れ込んでくる。冷たい。わたしはとっさにまだ入り込んでいない卵の中身を阻止しようと首を強く左右に振った。

 難儀な手を動かして卵詰めに向かった。こんな気持になっても手は動くが、やはりわたしは卵を拾う気になれなかった。毎日卵を拾って夜には依怙地にならないように、具合が悪うなった鶏の供養にでかけなアカンと、じいさんだかひいばあさんだかお義父さんだかお義母さんだかが言った。ハルちゃんも同じ考えらしい。

 黒くなって落ちたりしませんようにと念じながら、卵の箱詰めを手伝った。薬指が痛んでぶよぶよして感覚がない。

 ひとみさん、大坪が卵を集荷に来るわよ、でも中ぐらいの卵の数が足らないわよと、鶏の声が空から降り注ぎ、わたしは降り注いだもののなかでびしょ濡れになる。あわててカゴから中くらいの卵をつかみ取り卵を詰め終えると、次は大きい卵が足らないと言う。今度はカゴの中の大きい卵をつかむと東のおばさんが走ってきて、それは駄目、わたしが持って帰るんだと取り返しにきた。

 ひとみさーん、ひとみさーん、こうやって卵は拾うんやよ。東のおばさんの声が聞こえわたしは無理やり卵に手を伸ばすが、それが鶏の罠であるかもしれないと思いつくともう二度と卵を触れられない。言うことを聞いたらつつきませんよ、変な気を起こすからつつくんですからね、とさらに鶏の声がした。するとわたしはだんだん面倒になって、それならばもう言うことをきいてやれという気になってくる。

 そうよわたしたちの言うことを聞けば何もしないって最初から言ってるでしょ、朝早く起きて、エサをやって水をやって、夕方に卵を拾って夜には床に入るのが道理よ、と鶏の声がかさにかかって言い、言うことを聞くかどうか、わたしの心の中で自分の心どうしの争いが始まるのだ。


「ひとみさん、ちょっと参ってない」東のおばさんが卵を詰めながら言った。ハルちゃんは大坪に出荷する数を確認しながら、わたしと東のおばさんに箱を割り当てた。

 わたしはだんだんと黒くなる指先の痛みがはなはだしい。いっそのこと鶏のもとに下ろうかと思ったが、わたしの奥にある依怙地なものがどうしてもハルちゃんや東のおばさんや義父母やの、養鶏場の人の言うことを聞こうとしないのだ。

「おばさんは参りませんか」

 卵を箱詰めしながら聞くと、東のおばさんは目をぱちくりさせた。

「ぜんぜん、これがわたしの毎日やよ」

 東のおばさんは相変わらず嬉々としている。東のおじさんのところへ嫁に来て邦子義姉さんに鶏舎の手伝いを頼まれて、今ではもう鶏が体の一部になっているという。

「鶏につつかれたことはありませんか」

「あるはずがない」

「つつかれない秘訣はなんですか」

「そりゃ養鶏場と一心になることやろう。こちらも鶏であるとせつせつと唱えれば、鶏は分かってくれる」

 ハルちゃんは頷いている。東のおばさんは話ながらも卵から目を外さない。どんどん箱へ詰めていく。

「つつかれるのが恐かったら、絞めた鶏をさばいたらええで?」

「はあ」

 わたしのところの箱はいっこうにいっぱいにならない。古いばあさんは鶏のもとに下りたのだろうか。もう自分の世界にきっぱり見切りをつけることができたろうか。

 道の方からエンジンの音がして軽トラックが入ってきた。ハルちゃんは納屋から出て行って、こっちこっちと誘導した。わたしが東のおばさんに、あれが大坪さんですか、と聞くと、そうだと答える。軽トラの荷台の側面に「大坪商会」といかにも素人っぽい文字で書かれている

 なんとか箱詰めが間にあって大坪が卵を車に乗せだした。東のおばさんは一歩下がって、少しもの悲しそうに積まれる箱を見送っている。ハルちゃんももの悲しそうに、大坪の車の荷台を見つめている。

「わしゃあ、あちこちの養鶏場を回っているがな」

 大坪はハルちゃんとわたしを見つめた。沈黙が一瞬きて、それからまた大坪は話し始めた。

 お宅の卵はいい。白身はこちっと盛り上がって黄身は双子が多い。生でもゆでても絶品や。生臭さもないしだいいち血卵がない。中くらいのは卵焼きに小さいのは目玉焼きにするとちょうどいい。どれでもない大きさは果たしてどう料理すればいいか悩まないこともないが、言い換えたらどうとでも使ってくれということや。つまり、元々どうにでもなるというだけのことや。お義父さんも頑固なだけあって約束は必ず守る。これだけ要ると言ったら必ずその数を揃えてくれる。最近は少し信心が足らんせいで卵の数が減っていたが、聞いたところ早速供養に出かけたそうやな。すぐさま効果はあらわれるやろから心配してへんで。

 そこまで言って大坪はぱんぱんと手を叩き、

「お宅の卵はいい」ともう一度言った。

 手を叩くのが合図だったのか、大坪の車の運転手がエンジンをかけた。運転手もハルちゃんや東のおばさんとよく似た感じの帽子をかぶっている。毎度あり。大坪は言い、ドアを開けて助手席に座った。

 それから助手席の窓を半分開け、

「わしはもうすっかり鶏になじんだが、お宅の古いばあさんはいまだになじめんらしいなあ。信心もいまいちみたいやし」

 とわたしに言い、目を大きく見開いて鶏舎を見返した。なるほど信心深そうな目をしている。

 わたしは、古いばあさんの指が無いのを知ってますか、と言おうとしてやっぱりやめてしまった。考えたら、卵の集荷業者に訊いたところでどうなるわけもないのだ。

「大坪さん。養鶏場の人にもいろいろいるんですよ」

 大坪の運転手はハルちゃんの方やわたしの方は微塵も窺わずに、ただ大坪だけに向かって言った。

「まえの姑さんと邦子さんは似たところあるし、古いばあさんはまたそのお二人とは違ったお人ですやろ」

 運転手が言ったとたんに、納屋の中で東のおばさんがガタガタと音をたてた。誰もものを言わずに納屋の中を窺った。その中で東のおばさんは、ひときわ大きい卵の入ったカゴを真ん中へ引きずってきて、電気をつけた。電気をつけてみると外がずいぶん暗くなっているのがわかった。まだ早い時間だと錯覚していたが、夜に近い時間のような様子になっていた。

 まだ誰もものを言わなかった。東のおばさんは今度はどれともいえない大きさの卵が入っているカゴを引きずってきて、その中から少し大きめの卵を掴みだした。そして助手席に座った大坪方へ向かって掴んだ卵を見せる。大坪は助手席の窓を全開にした。生暖かい風が納屋のまわりを吹いている。すべての卵をふところに収めると、東のおばさんは軽トラのところまですっすっと歩いていって、大坪の目の前にその一つを差し出した。

 どうですか。こういう大きさはどうですか。東のおばさんはかすれた声で言い、ハルちゃんは満足そうにその卵を見守っていた。

「どうですかと言われても。さっき言ったように、どうとでも使える大きさですなあ」

 大坪は顎をさすりながら答える。

「お気に召しませんか」

「気に入るも気に入らないも、それなりにいい卵です。これはどんな大きさの鶏が産んだか察しはつきますな」

 大坪しきりに顎をさすりながら答える。少し困った様子でもある。

「ではあなたは。あなたはこの卵どう思いますか」

 大坪ははその大きな目でわたしを凝視した。

 どう違うのだろうか。わたしはもともと卵なんかに興味はないし、今だってたいしてない。もちろん鶏にだってまったく興味は無かった。ただ鶏が向こうからやってくる。やってきては自分たちの言うことを聞けと言う。だがわたしは鶏の言うことなぞ訊きたくない。いくら訊きたくないと追い払っても、鶏は後ろからやってきて追いかけてくる。

 そのうちに追いかけられるのに参ってしまって、言うことを聞いてしまうのだろうか。わたしをつついた鶏はどんな大きさの卵を産むかわからないが、あの体の大きさからして、おそらく一番大きな、黄身が双子の卵を産むのだろう。鶏につつかれた指がびりびりと痛んでしかたがなかった。

「失礼、あなたは新しい嫁さん?」

 大坪に問われ、ゆっくりと首を縦に振った。大坪は何も言わず運転手と顔をあわせ、そうしてから鶏舎をぐるっと見渡して、きゅっきゅっとハンドルを回して軽トラの窓を閉めた。

 車は養鶏場を出て行き、白い排気ガスが薄紫に染まって見えた。ウインドレス鶏舎からつながる四角いブリキの管の中で、なにも乗っかっていないベルトコンベアがまだ動いていた。


「ひとみさん、みつけたわ」

 そろそろ帰ろうかと母屋へ向かっている途中で鶏の声がした。鶏はわたしを見るなり追いかけてきた。追いかけてきてはまた嘴を差し向けてきた。

「つついたら赤くなって、黒くなってしまう」

 と叫ぶと、鶏はへんな鳴き声で、「だって我慢できない」と叫び返した。

 ぐいぐいと嘴を差し向け、わたしの逃げ場を奪う。養鶏場じゅうに強風が吹き荒れ、鶏舎がびりびりと震えている。わたしは追い払いながら、鶏の隙を窺った。鶏はじっくりと力強く押し寄ってくる。のがれようとしてもかなわない。

「ひとみさんひとみさん」

 鶏は名前ばかりを言い立て、ますます追いかけてきた。追い払いながら横目で鶏舎の通路を見ると、鶏の羽根が舞い散ったその地面から湯気があがっていた。鶏舎屋全体が熱気で湧き立っている。

 いきなり開放鶏舎へ突風が吹き込んでトタン屋根をはぎ、ケージを壊した。壊れたケージから何羽もの鶏が逃げ出した。鶏たちは金切り声をあげて自分たちが産んだ卵をけちらし、地面に広がった白身と黄身を踏み荒らす。通路はエサと鶏糞と卵が入り混じっている。そうこうするうちに一番大きい鶏がぴょんと飛び上がってわたしの頭の上に乗った。

「どうして追いかけてくるの」

 大声で聞くと、鶏は嘴をくわっと開けながら、

「だってひとみさんはいつまでたっても言うことをきかないでしょう」と言い、ひるんだわたしを追いかけ回し、手をあちこち嗅ぎ回わる。そのしつこさにはうんざりさせられる。また指先をつつかれるかと手を後ろに隠すと鶏はますます嗅ぎ回る。わたしは松野家へ嫁に来てからずっと鶏とこういう争いを繰り返しているような心もちになった。鶏が攻撃し、わたしが受ける。もうその繰り返しには飽き飽きしていた。

 えい、と気合いを入れて鶏に殴りかかると鶏はこぶしをすっとよけ、そのまま羽根をばたつかせた。もう一度、と殴りかかってみたが同じだった。羽根ばかりで深くこぶしが入らないのである。むちゃむちゃに手を振り回しても駄目だった。

 ついに力が尽きて、振り上げた手を下ろして驚いた。どうも右肘から下の感覚がないのである。薬指はどうなったのかと不安になって、左手で右手をさぐってみた。もしかするとつつかれた指は黒くなって崩れ落ちているかも知れない、と思った。その間もひとみさんひとみさんと名前を呼ぶ声が聞こえている。

「ひとみさん、あんたも養鶏場が体質に合わなんだな」

 古いばあさんの声だった。気づくとわたしは鶏舎の通路に座り込んでいた。古いばあさんはわたしの目の前に自分の薬指を近づけてきた。ひっひっと息をこぼしながら、左手の人差し指と親指で義指をつまみ、ねじを回す要領できゅっきゅっとひねて見せる。古いばあさんの義指はいとも簡単に外れ、突端がなくなった中途半端なクレヨンのような薬指が現れた。

 古いばあさんは鉛色になったわたしの薬指をつまんで、その義指をはめこんだ。義指はわたしの薬指に吸い付く。

「古いばあさん、すごいなあ。わたしの指のサイズわかるの。ハルちゃんはわたしの指輪のサイズもわからんのに」

「フフ、ひとみさんのことやったらなんでもわかるで。これから先のこともなあ」

 古いばあさんは微笑んだようだが、どちらかというと哀しいような表情になっている。

 古いばあさんのことがわかったような気がした。今までうやむやにしてきたことが、いっそこのまま過ぎ去っていけばいいのにと考えていただけであることがわかった。養鶏場のことにしても何年も心の中で押さえつけてきたわりには、よくよく考えてみるといやに単純なことで、なぜ今まで抵抗しなかったのか、またわからなくなった。わからなくなるとそれはまた、単純なことではなくなってしまう。

「さあこれはあたしからの贈り物や」

 古いばあさんがわたしの手に白いものを握らせた。

 ちくちくとした突起がてのひらに触れた。それは力任せに引きちぎったような紙の礫だった。広げてみるとしわくちゃな紙面に、かろうじて読めるような文字で、「松野養鶏場脱出券」と書かれている。「これは――」

 コッコッ、コッコッ、という音が近づいてきていた。母屋の障子にも納屋の壁にも、離れの屋根にもその音は反射していて、やがてあちこちが振動で揺れ始めてきた。音はだんだん大きくなり頭の芯にも響いてくる。

 東のおばさんがひときわ大きい卵を入れたカゴを抱えて、わたしの頭の上でひとつずつ割っていたのだった。割れるたびに、黄身が双子だと言って喜んでいる。

「どうしてわたしの頭の上でそういうことをするんですか」

「ひとみさんがすすんで養鶏の仕事をするようになるように、や」

「やめてください」

 わたしが払いのけようとしても東のおばさんはお構いなしだ。そのうち「ふん」という鼻息が聞こえてそちらに目をやると、ハルちゃんが鉄の門の前に立っていた。

「どうしてこれを設置したのか教えてやってもええで」

「別に、わかりたくもないわ」

 わたしが答えてもそれを無視してハルちゃんは続ける。

「栄作さんみたいな人間が養鶏場へ入ったらえらいことになるからや」

 もう夜も更けてきて、ハルちゃんが鉄の門を閉め始めた。東のおばさんは割った卵をすくってビニール袋に入れ、それからひとみさんも一緒に鶏肉を取りに行こうと振り返って手招きする。早くしないとなくなるわよ、と言う。鶏肉が欲しいわけではなかったが、今ひとりで養鶏場を歩くのは危ない気がした。

 母屋の台所では古いばあさんが踏み台の上に立って棚の上の薬箱の引き出しを開けようとしていた。踏み台は少し傾いていて古いばあさんの足元はぎこちない。

「ひとみさん、たしか義指はもうひとつあったはずだよ」

 と、古いばあさんは体を揺らしながらやっと引き出しを開けた。

 古いばあさんは薬箱の中の阿波しじらの巾着を探している。足元へ逃げ出していた鶏がやってきて踏み台をつつき、それでも古いばあさんは引き出しの中をまさぐるのをやめず、引き出しから手を出そうとしない。

「毎日エサをやって、水をやって、それから鶏舎へ入って卵を拾って……。そんな人間など理解できんと思ってたわ。それに鶏は鶏でなかなか言うこと聞かんしなあ――」

 古いばあさんがまさぐりながらぶつぶつつぶやいている。古いばあさんの足元に鶏がいます、義指を探している間に足をつつかれていまいます。そう言うが古いばあさんは体をぐらぐらさせながら、引き出しをまさぐるのをやめない。

「あんたは自分は養鶏場には関係ないと思ってたやろう」ついに鶏が、古いばあさんめがけてくわっと嘴を開けた。

 危ない――。

 古いばあさんをかばってその鶏を振り払うと、鶏は踵を返してこちらに向かってきた。そして義指のはまったわたしの指と、掴んでいる「松野養鶏場脱出券」をすごい勢いでついばみ始めた。

「こらっ、こらっ。あっちへ行け」

「またそんふうに抵抗して」

 鶏は真っ白い羽根をばたつかせ、自分の産んだ卵をいくつも踏み割って騒ぎ回る。地面は白身と黄身に鶏糞が混ざってどろどろになり、追い払おうにも足を取られる。

 あたりは一面、抜け落ちた羽毛と硫黄のような鶏糞の臭いで目も開けていられない。そのうちまた鶏が指をついばみだした。わたしは鶏を振り払い、顔を手で覆った。目の前は薄暗がりだ。


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