第漆拾壱巻 Re:セミプロろーぐ 左
痛い……いたい……イタイ……。
瞼を閉じた闇の中。
黒くて暗い闇の中。
中二病的に言えば、黒よりも暗い闇の中。
瞼の下の瞼を開き、瞼の裏を見てる頃。
徐々に感じる光の中で、痛い。
光の中に居たいと言っているわけじゃない。
痛い、いたい、イタイ……痛いというか……。
「苦しいわぁぁぁぁ!」
また寝ているうちにネネネが俺の体にいたずらでもしているんだろうと、叫びながら飛び起きたがしかし、俺の上に馬乗りにまたがり、女のくせに男の上に積極的にまたがり、首を絞めていたのは、ネネネじゃなかった。
「……たっくん」
「いつ……か?」
「たっくんっ!」
と、泣きながら俺の首に飛びつく彼女。
どうしてこの異世界に、幼馴染である遊佐逸花が居るんだ?
いや、そんなわけがない、と、抱きつく少女を見てみる……。
うん……この明るい茶色の長い髪に、耳の上で細く束ねられたサイドテール。
これは間違いなく、幼馴染の遊佐逸花、逸花だ。
なら、だ。どうして異世界に逸花がいる?
まさか俺みたいに死んで、異世界へ?
どうやって異世界に……異世界?
異世界?
俺はふと辺りを確認した。
真っ白な天井、そこに埋め込まれた白い蛍光灯と空調、敷かれたレール、そこに垂れ下がるカーテン。
そして真っ白な布団に、白いパイプのベッド。
傷だらけでくすんだ白色をした、リノリウムの床。
白、白、白、だ。
天界?
いいや、違う。
窓の外を眺めると、青い空に緑の木々、色とりどりの花に、鳥の鳴き声。
真っ白なんかでは、まったくない。
「よかったー……。たっくん、目を覚ましたんだね」
「目を……覚ました?」
窓から見えた景色と、耳元でささやかれたその“目を覚ました”という言葉は、否応なくここが元居た世界だということを証明し、これまた否応なく俺を現実に引き摺り戻した。
現実に……戻った?
ここは普通の病院だ……美容院じゃない、病院だ。
異世界生活終了した?
「おわっ……た……」
は、ははは、ははははは、ははははははは。
笑えるくらいに笑えた。
まあ笑えるのだから、笑うのは当たり前だけど。
「どーしたの? たっくん。何が終わったの?」
「え……? 異世界生活が……」
「異世界生活? 何それ?」
ふふっと微笑む逸花、怖い。
「いやほら、俺が魔王で、勇者がいて、夢魔がいて、吸血鬼がいて、エルフがいて、ケルベロスがいて、それで――」
「何言ってるのたっくん、夢でも見てたんじゃない?」
夢? 夢か……。
はは、はははは、はははははは、はははははははは。
いつかどこかで、もしこれが夢だったらなんて思って、フラグじゃないよ? なんて言ってたけど、俺しっかりフラグ立てちゃってるじゃないか。
「それとも飛び降りた衝撃で、頭がおかしくなちゃったのかなー?」
逸花は、その方が好都合だけど、と、まるでネネネのようなことを言う。
「ねーたっくん……? ネネネって誰……?」
これまたネネネのように俺の心の中を読む彼女。
俺が異世界に行って彼女たちの対応ができたのは、こいつのおかげかもしれないと、今更ながらに思うわけだけど。
「ねーってたっくん……聞いてるの?」
ものすごーく、これこそ黒くて暗い目をして、俺を見下ろす逸花。
コイツのネネネと違うところは、狂気を孕んでいるということだ。
いや、狂気を孕んでいると言うか、実際に凶器を腹に隠し持ってるんだなこれが。
「逸花さん、あのさ、その包丁を取り出すときにチラッと見えるおへそは、大変、物凄く、非常に魅力的なんですけど、その包丁は出来ればしまってくれないかな?」
「もーたっくん、おへそが魅力的だなんて、仕方ないなー許してあげるよ」
と、いつもより多めに服をめくり、包丁をしまう逸花。
「なっ……!? どうしてブラを着けてない」
「え? その方がことに及びやすいかなーって」
かなーって……下乳が丸見えだよ。
「いったい入院患者に何を求めてるんだ」
「あのねーたっくん、私お腹に赤ちゃんがいるの……」
唐突に何だ……?
狂気だけじゃなく、子供まで孕んだのか?
と言うか……。
「誰の子だよ」
「たっくん」
「え……?」
俺? 俺と、逸花の子? は? 意味が分かんない。
「たっくんが寝てる間に、既成事実を作ろーと何回か……」
「え? え? ええええ!?」
ことに及びやすいように、じゃねえ!
既にことに及んでやがる!
「う、嘘だ! 嘘ですよね逸花さん! 嘘だと言ってくれ!」
「……もー、冗談だよぉたっ君」
ふう、どうやら、イッツジョークだったらしい、でも『HAHAHA!!』とはいかない、コイツの場合そんなことは当然のようにやりかねない。
「本当は、本当にやろーとしたんだけどねー。でも、やっぱりそこには愛が欲しいなーって思ったの」
ほら、本当にやろうとしてる。
「不思議だねー、せっかくのチャンスだったのに」
人が死にそうになっている逆境を、自分のチャンスに変えないで欲しい……。
「恋わずらいって本当だねー、私、本当に病気にかかったみたい」
みたい、じゃない、病気だ。
お前は間違いなく病気だ。
「そんなことより逸花、少し質問してもいいいか?」
「だーめっ」
「っ!?」
なん……だと!?
「質問なんてしなくても、たっくんの言いたいことはわかるよ。もちろん私はいーよ」
いーよ? 質問をしてもいいよ?
「何がいーよ、なんだ?」
「え? 質問の内容は、『逸花、俺と結婚してくれないか?』でしょー?」
ふむ……だから、いーよ、と。
「違うわ!」
それに、プロポーズを質問と置き換えられちゃ、ムードもクソもないな。
「俺が聞きたかったのは、どうして俺の首を絞めてたのか、ってことだ」
入院患者の首を絞めるなんて、言語道断だ。
「だって、たっくん全然起きないから……」
全然×起きない=首を絞める。
こんな式が成り立つとは、到底思えない。
まぁ入院するのにもお金がいるわけで、お金が払えなくなった家族が、もういっそのこと首を絞めて殺してしまえ、という条件付なら式は成り立つ。
けど、逸花は家族じゃないから、式は成り立たない。
「まだ、だよたっくん」
「え?」
「まだ家族じゃない、だよ。ちゃんと言い直してね?」
ニッコリと笑って、サイドテールの死神は、俺の首筋に包丁を当てる。
将来の家族を殺そうとしている少女が、ここにはいた。
俺の上にまたがっていた。
「分かった分かった、分かったからその包丁を早くしまってくれ」
分かればいいの、とこれまたおへそをちらりと見せながら、包丁を腹へしまう逸花。
「で、そのまだ家族じゃない、いつか家族になるかもしれない逸花ちゃんは、どうして俺の首を絞めてたんだ?」
「だからー、たっくんがなかなか目を覚まさないからだよー。もう起きないのかと思って、それならいっそのこと殺して、私も死んで、天国で仲良く暮らそうかなーと思ったの」
さらっととんでもないことを言われた気がするけど、まぁよく考えればいつもどおりであり、これが遊佐逸花だ。
コイツはこうやって、ポワポワした笑顔で、とんでもないことを言うのだ。
と言うか、彼女は天国には行けない気がする、いや、行けない気しかしない。