第弐閑 極大呪文「ネバネバ」 上
石造りの長い廊下。
薄暗くて、ひんやりしていて、少しジメジメした廊下。
ときどきある窓から差し込む日の光が、今がまだ夜じゃないことを教えてくれる。
そんな廊下を俺は今。
「おいゲイル、はぁはぁはぁはぁ、もっとゆっくり歩けないのかよ!」
全力疾走している。
俺の部屋に勇者を運んで貰うのに自分もついて行って、魔王の部屋の位置を知ろうと思ったんだけど、あの逃げ足担当の四天王、めちゃくちゃ足が早い。
人一人担いでるにもかかわらず、疾風の如く駆けていく。
魔王の体をもってしても、着いていけない。
「何かおっしゃいましたか魔王様?」
首だけでこちらを振り返るゲイル。
「はぁはぁ、もっとゆっくり行けって言ってるんだよ逃げ足担当!」
「素早さ担当でございますよ魔王様」
「そんなことどうだっていいんだよ、お願いだから早足担当くらいになってくれよ!」
大体人を運ぶのにそんなスピードが必要なのか?
急を要しているわけじゃないのだから、歩いて欲しい。
「私のスピードに着いて来ずとも、後からゆっくりとおいでなさってはどうでしょう?」
「その部屋が分からないから言ってるんだよ!」
「なんと!? まさかネバネバですか魔王様」
「ネバネバだよ」
俺がそう叫ぶと、四天王素早さ担当ゲイルは、突然停止した。
やっと止まってくれた。一体ネバネバって何なんだろうか。
「ネバーネバーギブアップですよ魔王様」
「黙れ、はぁはぁ……はぁ、はぁ」
まあネバネバが何であれ、そりあえずこれで歩いて部屋に行け――
「着きました魔王様」
……そうですか。
「では、私はここで失礼いたします」
「ああ、ありがとう」
俺はゲイルから、未だに気を失っている勇者を受け取る。
その体は思っていた以上に軽くて、いくら勇者と言えど女の子なんだなと思った。
「何かあったらお呼びください。直ぐに駆けつけますので」
だろうな、そこだけは信じるよ。
“直ぐに駆けつけて”はくれるだろう。その後に何をしてくれるのかは、何かをしてくれるのかは知らないけど。
「では」
ゲイルは一礼をすると、一吹きの風を残し、その場から姿を消した。
「よいしょっと」
ここに来るまでに見たいくつもの扉より、ひと際大きな、両開きの木の扉を肩で押し開ける。
「おお、さすが魔王の部屋」
横にも縦にも無駄に広い部屋。
その真ん中に、無理矢理スペースを埋めるために選んだのかと思うほど大きなベッド。
脇には装飾の施された、いかにも高そうなソファーと机。それと椅子がいくつか。
一通り部屋を見渡し、とりあえず勇者をベッドに寝かせた。
鬼の形相で殺してやると叫んでいた人間と同一人物だとは思えないくらい、穏やかに眠る勇者。
腰の辺りまで伸ばされた金色の髪が、窓から差し込む日の光に照らされ輝く。
何だか気まずいな、とそう思って、勇者から距離を取るように巨大な窓に近づいた。
窓の外に見えた景色は、地球とは似て非なるものだった。
これはまさに俺の憧れた景色。
空と、海と、山。
空は曇ってるし、海は見えないけど。
と言うか、今は何時くらいなんだろう。
暗さからすれば夕方くらい。夕方の五時くらいかなとは思うんだけど。
まさかあれじゃないだろうな、魔王城の周りだけ常に薄暗いとか。
そうだったら嫌だな……その場合はここを出て行こう。
そんなことを考えながらぼーっと空を眺めていると、山の上空に浮かぶ、いくつかの飛行物体を見つけた。
鳥にしては大きすぎるような気がするし、何より形がおかしい。
もしかしてあれはドラゴンってやつだろうか。
さっきまでバタバタしてて考える暇がなかったけど、こうして考えてみると、本当に異世界に来てしまった、来れてしまったんだな。
何だかまだ全然実感がわかない。結局また夢でしたで終わってしまいそうで怖い。
とにかくこれが現実であってもそうでなくても楽しもう。
異世界に来るのが目的で、その後どうしようかなんて全く考えてなかったしな……。
「……うおっ! ビックリした」
何だ、窓に映った魔王の顔か。
そう言えば全く違和感がなかったから気にならなかったけど、俺、魔王の体に入居したんだっけ?
俺は窓に映る魔王の顔をじっと見つめた。
普通にしていても威圧感のある目、少し尖った歯、ダークブラウンの髪。
身長は170後半くらいだろうか。元の俺の体と同じくらいだ。違和感が無いのはそのおかげだろう。
後はこの頭から生えた魔王然とした二本の角。
……折れてるんだよな片方。
ダサいなぁとそう思って折れた方の角を触っていると。
「あれ……取れた」
角が取れた。ポロッと。
そして床にコロッと転がる。
え? これって大丈夫なのか?
角ってあれじゃないのか、爪とか歯とかと一緒で体ににくっついてるんじゃ。
まあ痛くないし、大丈夫だろう。
そんなことよりも、角が片方だけっていうのは、角が欠けているのよりもダサい……。
「よし、取ろう」
そう心に決めて、ご健在な方の角を両手で握り、力いっぱい引っ張る。
「ふんっ! ん、ぎぎぎぎっ」
かてぇ、抜けねぇ。何より頭が、いてぇ。
さっきはあんなに簡単に取れたんだ、こっちも取れない分けがない。
「おぉぉぉぉりぃぃぃぃやぁぁぁぁっ――」
いってぇぇぇぇ!!
角はブチブチという嫌な音とともに頭から剥がれ、そして引っ張った勢いで俺の手から離れ。
勢いそのままに、ベッドで寝ている勇者の目掛けて一直線。
「ひいっ!」
まずいまずい。痛がっている場合なんかじゃない。
このまま行けば角が勇者に突き刺さってしまう。
そんなことになれば勇者に敵と認識されてしまう。
今でも十分敵かもしれないけど、和解の余地がなくなる。
そうなればせっかく始まった俺の異世界生活は、早々に終わりを迎えるぞ。
気がつけば駆け出していた。
でも回転しながら飛んで行く角には全く追いつけそうにない。
しかしもうダメだ、と思った瞬間、俺の体は急加速。
「うわぁあぁ!?」
勇者の顔面すれすれ、危機一髪というところで何とか角をキャッチすることに成功した。
「ふぅ……何とか間に合った」
よかったよかった。それにしてもあの加速は何だったんだろう。
さっき廊下を走っていたときより、桁違いに早かった。
またさっきみたいに、知らないうちに魔法みたいなものを発動させたんだろうか。
「う……ぅう……ん」
そんなことを考えていると、目と鼻の先にある勇者の目が、パチリと開かれる。
そしてその青い目とバッチリ目が合った。
「あ……」
その瞳に映った俺の顔も真っ青だった。
何せこの状況。どう見ても『意識のない勇者を鋭利なもので傷つけようとしている魔王の図』にしか見えない……。
まずいな、どちらにしろ俺の異世界生活終わったんじゃないだろうか。