第弐佰拾玖閑 飛び降りマスターアスタ
意識を取り戻して尚、俺は目を開けずにそこに仰向けに寝転がっていた。
目で見て確認せずとも、自分の今いる場所がどこかなど、独特のこびりついた薬品臭をかげば明白なのに。
それでも認めたくなくて、頑なに、堅く、まぶたを閉ざしていた。
しかし目視しないからといって何か現実が変るわけではない。
既に賽は投げられたのだ。
何か行動を起こさなくては。
『どうにもならない』
神はああ言ったが、だからと言って、はいそうですかと寿命までこうしているなんてバカらしい。
賽は投げられたかもしれないが、匙まで投げてはいけない。
そう思って俺は、少しずつ目を開いた。
「うっ……」
突き刺さるような光、それに慣れてくる頃俺の目に映ったのは、案の定、見慣れた病院の、病室の風景だった。
白い天井、白い蛍光灯、白いカーテン、白いシーツ。
白、白、白、白。天界も顔負けの白。
ただここは天界ではない、病室だ。窓の外は嫌なくらいに色付いている。
いつかみたいに、これが神のいたずらである可能性は、まあないだろう。
「はぁ…………」
さて、見たくもない現実を直視したところで、どうしよう。
さてとか言っていられるような心境では、正直ないが。
さて。
異世界へ帰るために行動を起こすにしても、まず何をすればいい。
まあまずというのならそうだ、体を起こそう。
俺は体に力を入れ、腕を使って上半身を起こす。
しかしその行動は普段のように容易ではなかった。
長い間寝たきりだったからか、自分のものではないかのように体には力が入らず、なのにきしむ関節の痛みだけはしっかりと感じて。
「……ふぅ」
ようやく起き上がれた頃には、ちょっとした運動をした後のような気分だった。
まったく情けない、体は使わなければこんな風になるのか。
それとも寿命が近いからなのか。
で、起き上がったが、次はどうしよう。
自然に、視線は窓へと向かった。
そこから見えるは、異世界と変らない青い空に、異世界と変らない緑の木々。
飛び降りるか? 飛び降りるのか?
「飛び降りてみようか……?」
うーむ……でもなぁ、無駄だとか言われたし。
それなら、出来れば他の方法を探したい。
かと言って他の方法ねぇ……。
とりあえず窓まで行こう。
俺はベッドから足を投げ出し、ゆっくり時間をかけ立ち上がった。
そして窓に向かって数歩あるいたところで、何かを踏んづけ滑り
「ぶへっ……」
受身も取れず豪快に、床に顔面をぶつけた。
まったく情けない。
「痛い……」
一体、何を踏んだのか。
床に転がったまま、首だけで足元を確認してみると、そこにはリンゴの皮が落ちていた。
酸化して茶色くなって、乾燥して縮れているけど、あれはリンゴの皮だ。
それはそこにたくさん落ちていて、いや、落ちているのではない、しっかり目的を持って並べられている。
魔方陣を描いている。
逸花がリンゴの皮でつくったものだろう。
まあ正確には、今しがた俺が踏んづけたせいで、少し違うものになってしまっているが。
それにしてもどうしてこんなものが残っているんだ……衛生的によろしくないだろう、誰か片付けてくれよ。
看護士さんとか、お見舞いに来た家族とか友達とか、誰でもいいから。
もしかして俺は、部屋の掃除すらしてもらえないような人間なのか!?
そんなに嫌われてるの!? あるいは好かれていないの!?
この世界で俺へ向けられる愛は、全て逸花に集中しているとでも言うのか!?
そうだ、きっとそうだ、だから逸花の愛は、あんなに重いんだ。
まあその愛も、なぜか今は恋しいが。
「よっと……」
俺は鈍って重い、それでも逸花の愛よりは軽い体を起こし、窓へと辿り着き鍵に手を掛けた。
窓を開けた瞬間、優しい風が病室に吹き込んだ。
それはどこか懐かしい香りがしたけど、どうにも物足りない感じもした。
「ふぅ……」
遠くの空に、一羽の鳥が飛んでいるのが見えた。
「……」
あれ、世界って、こんなに広かったっけ?
「……」
近くの公園から、はしゃぐ子どもたちの声が聞こえた。
「……」
あれ、世界って、こんなに静かだったけ?
「……」
違う。
世界が広く感じるのも、世界が静かに感じるのも、あいつらがいなからだ。
ラヴが。ネネネが。ルージュが。エメラダが。クゥが。逸花が。
いないからだ。
「はは、はははは……は、ははは」
笑ってないと泣いてしましそうだよ、まったくもうまったくもう。
異世界に帰りたい……。
あいつらのところに帰りたい……。
「……………………よし、飛び降りよう!」
決心して、両頬を思いきり叩いた。
異世界に帰る! あいつらのところに帰る!
飛び降りても無駄? 脅しても無駄?
そうかもしれない。そうなのだろう。
でも他に良い案が何も浮かばないんだから、ダメもとでやってみるしかない。
たとえ低い確率でも、もしかしたらどこかの神が、俺の叫びに反応してくれるかもしれないじゃないか。
何の根拠も証拠もない、都合がいいまさしく希望的観測。
でも。
よし、そうとなれば善は急げ、早速行動に移そう。
やることは単純で明快。
窓から身を乗り出し、体を重力にあずける。そして神の不祥事を、ありったけの声で叫ぶ。
たったこれだけのステップをこなす、簡単なお仕事だ。
病院も無用心だな、この飛び降りのプロ桜満明日太の部屋の窓を、自由に開け閉め出来るようにしておくなんて。
さてさて、それでは久しぶりにやってみますか。
窓の縁に足を掛ける。
「……」
が、そこで俺は、何となく思い立った。
どうせ飛び降りるのならせっかくだし屋上からにしよう、と。
その方がなんだか派手だし、神様方も気付きやすいかもしれない。
そうしようそうしよう。
ただでさえ低い確率なんだ、少しでも上げておかないと。
俺は窓枠に掛けていた足を降ろし、病室の出口を目指す。
しかし部屋の中ほどまで行ったところで、
「ぶへっ……」
またしても床に叩き付けられることとなった。
今度は何かを踏んで滑ったわけではない。
何か、見えない力に上から突然押さえつけられた。
否、下から引っ張られた?
まるでここだけ重力が異常に強くなってしまったかのように。
「う……ぐぐぐぐ」
体は床に、うつ伏せで張り付状態。
何が起こっているんだ?
俺はまだ飛び降りてなんていない、こんなに勢いよく重力に引っ張られるなんてことは――
「――っ!?」
気付けば、眩い光に包まれていた。
俺を中心に円を描いた魔方陣が、逸花がリンゴの皮で描いた魔方陣が、発光していたのだ。
魔方陣が、発動した?
そんなバカな……この魔方陣は俺がさっき踏んづけて、原型を失っているはず。
魔方陣に詳しいわけじゃないからよく分からないけど、そんな状態の魔方陣がまだ機能するのか?
もっと精密なものなのではないのか?
それともまさか形を変えてしまったことで、誤作動を起こしたとか? 違う力を有してしまったとか?
分からない。分からないが、ただ、魔方陣は俺の体に作用している。
いつしか重力に引っ張られるという感覚はなくなり、その代わりに、まるで魂や体力を吸われているようなそんな感覚に襲われ始めた。
「ぐっうっ……」
まずい、このままじゃ気絶してしまいそうだ。
早くこの魔方陣から出ないと。
こんなところでくたばっている場合ではないのだ。
異世界に……あいつらに……。
「うぅ……っ……」
何としてでも、這ってでも魔方陣から抜け出そうとする。
だが、寝たきりでただでさえ体力も筋力も無くなってしまっているこの体に、更に追い討ちをかけるようなこの状況。
体はまったく言うことを聞かなくなっていた。
「あがっ……く」
その間にも、どんどん体から魂や体力のような何かは吸い取られ、体は弱っていく。
意識が、遠のいていく
まずい、まずい、まずい、まずい。
こんな所で死んでたまるか。
こんな所で死んでたまるか。
こんな所で死んでたまるか。
こんな所で死んでたまるか。
こんな所で死――
「……ん?」
なぜかそこで、神の言葉が頭をよぎった。
『死因は相変わらず、吸い弱死じゃ』
あのときは何をくだらない言い間違いをと思ったけど、今、こんな状況になって何かが引っ掛かる。
吸い弱死?
火事場の馬鹿力なのか、いや、火事場の馬鹿知恵なのか、頭がフル回転し始める。
『何でも別の世界から強い人間の魂や、魂だけじゃなく体まで召喚するとか何とか』
絶町のおじさんの言葉が。
『あの体を絶対に奪取せよ! それに勇者の魂を降ろし、それを以て残りの魔物を掃討する!』
女騎士の言葉が。
『死因は相変わらず、吸い弱死じゃ』
神の言葉が。
全てが、繋がったような気がした。
いや、繋がっていないのかもしれない。
これはただの、勘だ。勘と言うか、やはり希望的観測。
だけどそれが当たっていれば――
「一か、八か……賭けて、みる、か……」
外れていれば、きっとこのまま死ぬのだろう。そんな気がする。
でも、何度も言うように、他に良い案などこれっぽっちもないのだから。
『信じるものは救われる』、ねぇ。
まさか最後に、神のくだらない言い間違いを信じることになるとは。
いや違うか。信じるのはやっぱり、俺とあいつらとの繋がりか。
しかしまったく、最後の最後に飛び降りないだなんて、何だか締まらないな。
飛び降りないと締まらないなんて、俺ってどんな人間なんだって感じだが。
まあお仕事の内容が、ただただ魔方陣に己の全てをゆだねることに変ってしまったのだから、仕方がない。
「…………」
う~ん、ただやっぱり何だか物足りないな……よし、ならばあれだけ言っときますか。
せーの!
「行ってぇぇぇぇ!」
大切な人と一緒にいるのは、どうやら簡単じゃないらしい。
今日も読んでいただきありがとうございました。
多分残り二話で完結だと思われますので、もう少しお付き合いいただけると幸いです。




