第弐佰陸閑 クゥニャ・サー・ベラスの場合 丙
「は? 忘れたって、自分のお姉さんのことをですか!?」
「はい~」
俺の驚いた声を聞いても、お母さんは特に表情を変えることなく頷いてみせた。
「そんな……」
実のお姉さんの存在を忘れるだなんてまさか。
いくらクゥちゃんが“超”と“ど”が付くほどのおバカさんだったとしても、ありえない。
「まあ忘れたと言ったら少し御幣があるかもしれないですね~」
「……」
「あの子は記憶を“失った”のではなく、“仕舞った”のですから~」
記憶を仕舞った?
「どう言うことですか?」
「姉がいなくなってしばらくしてからあの子、ねーちゃんなんて自分にはいない、知らないって言うようになったんです~。私も最初は何冗談言ってるんですか~って思いました。そんな冗談は言っちゃだめですよ~って叱ったこともあります」
叱り方が軽いな。
「でもあの子真剣な顔して言うんですよ~。いない~って、知らない~って。逆に、冗談を言ってるのはお母さんだって怒られもしました」
「……」
「そんなことをずっと言うものですから~、心配になって一度知り合いの石に相談してみたんです」
ここで『へえお母さん、石と意思疎通が出来るんですか』なんてツッコミは入れない。
これは多分、いや確実に医師の間違いだ。
ツッコんだら、“石”じゃなくて“医師”ですよ~、って俺が笑われるに決まっている。
だから言わない。石だけに、岩ない。
「そしたらこう言われました~」
――『精神の崩壊を避けるために、脳が無意識のうちに辛い記憶を心の奥底に仕舞いこんでしまっている』
「精神の崩壊を避けるため……」
「そんな話、信じられませんか?」
「いえ、そんなことは」
信じられないなんてことは、決してない。
ショックやストレスでの記憶障害。
詳しくは知らないが、それに似たような話は、現実でもフィクションの中でも何度か見聞きしたことがある。
「それだけ、お姉ちゃんがいなくなったことがショックだったんですね」
記憶を失わなければ、自身を保てないほどに。
記憶を仕舞わなければ、自身を守れないほどに。
「はい~。その出来事を忘れることが、あの子なりの防衛だったんでしょうね~」
それはつまり、それだけ姉のことが好きだったということでもある。
クゥが姉のことを忘れてしまっているにもかかわらず、ラヴやネネネやルージュやエメラダや逸花のことを『ねーちゃん』と呼ぶのは、心のどこかでやっぱり姉のことを覚えているから、姉のことを欲しているからなのだろうか。
「そんないっぱいいっぱいのクゥに休む暇も与えず、辛い修行をさせなければならなくて~」
「修行?」
「はい~。ほら、門番をするはずだった姉二人がいなくなって、その役目が今度はクゥに回ってきましたから~」
姉二人が行っていた、負っていたその修行もまた、クゥに回ってきたわけか。
「あの時は仕方なかったとは言え、申し訳ないことをしました~」
口調は変らないが、表情を見るに、申し訳ないと思っているのは本当だろう。
「でもあの子、私たちに褒めて貰おうと毎日健気に頑張ってくれたんです~。ちょっとスレてましたけど。うふふ」
「スレてたんですか!?」
あの純真無垢ゥとまで言われた、クゥが!?
「スレてたじゃなくて、ズレてたですよ~魔王さま」
「ああ、ズレてたですか」
「そうですよ~」
またもや言い間違い、お母さんからすれば俺の聞き間違いですか。
まあ何にしろ、クゥがスレていたんじゃなくてよかった。
あの清浄潔白ゥとまで言われたクゥがスレてしまった話なんて、聞きたくはない。
“ズレてた”なら、相当クゥらしいからいいけど。
しかしあの子がスレてしまったらどうなるのだろう。
乾いてしまったニヒルな笑みで『ふんっ、この世なんて嘘ばっかりなのだ』とか言っちゃうんだろうか。
それはそれで、何も言わずに抱きしめてあげたくはなるけど、やっぱり嫌だ。
「たとえば~『もっと強く、これからは男のように生きるんだ!』って父に言われて、『ボク』って言うようになったりですね~」
「……」
だからクゥの一人称は、女の子なのにボクなのか。
と言うかそれはズレ過ぎだろうクゥちゃん……。
お父さんが言ってるのは、そういうことではないと思うけど。
「それとか~お父さんのように男らしく、そして強くなるって言って、父の『~だ! ~だ!』って口調を真似てみたり~」
クゥのあの話し方、あれもそうだったのか。
ってだからズレ過ぎだってクゥちゃん……。
そんなことをしても、そんなとこを真似しても、何も変らない。
スポーツとかで形から入ることはそれなりに有効な手段だと、俺は思うけど。
ただだから言って言葉から入るというのはどうなんだろう。
「その二つが、主な修行の成果でしたかね~」
「……」
どんな成果だ。全然成果になってない。
辛い修行をした意味が、微塵もない。
まったく、本当にクゥらしい。
まあ何であれ、両親の期待に応えようと頑張ったのは、偉いことだけど。
「それにしても、何だか大分話が逸れてしまいましたね~」
「本当ですね」
「私、魔王さまに何をお尋ねしたんでしたっけ~?」
と、首を傾げるお母さん。
「えっと、確か『クゥはお役に立ててますか?』みたいなことだったと思います」
「ああ、そうでした~『クゥはお役人に取り立てられてますか?』でした~」
取り立てられてないですよ……。
「それで、どうでしょうか~?」
「そうですね」
クゥが俺の役に立ってるかどうか、か。
さてはてどうだろうか。
別に何かの役に立って貰おうと思って一緒にいるわけじゃないから、返答に困る。
横に立って一緒にいてもらいたいとは思っているけど。
「まあ、はい、大丈夫です。クゥはちゃんとやってますよ。役に立ってますよ」
「本当でしょうか~?」
「心配ご無用です」
クゥはちゃんと、俺の横に立って一緒にいてくれている。暮らしてくれている。
「何も問題ありません」
まあお母さんが俺に聞いているのはそういうことではなく、『門番としてどうか』ということで、それに答えるならば答えは『ダメ』になるのだけど。
だって職務を放棄して、勇者ラヴを魔王城まで素通りさせてしまっているし。
だって職務を放棄をして、奴隷商人について行き商品にされ俺に買われたあげく、城に住み着き遊び放題だし。
ただ何度も言うように、俺は別にクゥに門番を依頼いしていない。
だから何も問題ないという点については嘘ではない。
「そうですか。お役に立てているようで何よりです~。これからも娘とよろしくやってください」
よろしくやってくださいって……まあいいや、もうツッコまずにスルーさせてもらおう。
「は、はい」
自分の言い間違いに気付いていないのだから当たり前だけど、お母さんは俺の戸惑いなど気にする様子なく
「ふぅ」
と、今日何杯目になるのか分からないカップのお茶を飲み干した。
「それでは私はそろそろおいとまさせていただきます~」
「え、もうですか?」
来てそんなに時間も経っていないし。
それにクゥに会いに来たと言っていたわりに、俺とばかり話していたけど。
「もう少しゆっくりしていってもらっても、全然構いませんよ?」
なんなら食事を一緒に食べてもらっても構わないし、もっと言えば泊まっていってもらっても構わない。
そう提案したがしかし、お母さんは首を横に振った。
「お気遣いありがとうございます~。でも、もともとクゥの顔を見たらすぐ帰るつもりでしたし~それに帰って晩ご飯の仕度もしなくてはいけませんので~。じゃないと夫が『も~』って怒ってウシガエルさんになっちゃいますから~」
「……」
「まあ夫がカエルになるのなら、ウシガエルじゃなくてオットンガエルですけど~うふふ」
オットンガエル?
何だそれは、そういう名前のカエルがいるのだろうか。
分からなかったのでとりあえず俺は、笑顔でそうですかと答えておいた。
しかし主婦は大変だなあ。そういうことなら、無理に止めるのも悪い。
まあ話を聞いている限り、特に出会うのが困難な場所に住んでいるわけでもなさそうだし。
会いたくなったらまたいつでも会えるのだろう。
「あ、お茶ごちそうさまでした~とってもおかしかったです」
またしても“おいしい”を“おかしい”と言いながら、水差しを俺に返すお母さん。
「あははは、そうですか……って、えっ!?」
そこで俺がおかしいと思ったのは、彼女の言い間違いなどではなく、一リットル近く入っていたであろう水差しの水が、綺麗さっぱりなくなっていることにだった。
飲みすぎだろう……。
別になくなることについて文句はないけど、お腹大丈夫なのだろうか。
「どうかしましたか~?」
「い、いえ、何でも。それじゃあ、お見送りします」
「え? お水をくれます?」
「まだ飲むんですか!?」




