第弐佰伍閑 クゥニャ・サー・ベラスの場合 乙
「ふふ……ねーちゃん、か」
クゥのお母さんは、今はもう見えなくなった娘が走って行った方向を見つめ、そう呟いた。
「どうかしましたか?」
「あ~いえ、少し、昔を思い出してしまいまして~」
「昔をですか?」
「はい~。あの子はお姉ちゃん大好きのお姉ちゃんっ子でして~、小さい頃はよくああやってねーちゃんねーちゃんって、姉の後を付いて回ってる子だったんですよ~」
「へえ、そうだったんですか」
まあ小さい頃だけじゃなく、今もそうだけど。
今だって、ネネネとルージュの後を、ねーちゃんねーちゃんって言って付いて回ってる。
いやはやしかし、ロリロリなクゥがおぼつかない足取りで、とてとてと姉の後を追いかけているところを想像すると……。
これはヤバイな。
「はい~。正確には、あの頃は“ねーちゃん”じゃなくて、“ねーたん”と言ってましたけど」
もっとヤバイな!
「と言うか、じゃあクゥにはお姉さんがいるんですか?」
「えぇ、いましたよ~」
なんと、まさかこんなケモ耳褐色美女がまだ他にもいるとは。
「オルとロスっていう名前の、双子の姉が~」
しかも後二人もいるのか。
驚くべきはまず、このお母さんが三人も子どもを産んでいるということかもしれない。
そんな風にはまったく見えない。
実は私がそのお姉さんですと言われた方が、まだ信じられる。
「初めて知りました。クゥ、そんなこと全然言ってなかったですし」
「でしょうね~」
うふふ、とお母さん。
ん? でしょうね?
「それより魔王さま」
「は、はい」
「クゥちゃんは、クゥは、ちゃんと魔王さまのお役に立てているのでしょうか~? ちゃんと門番のお仕事出来ているのでしょうか~? あの子寂しがりじゃないですか~」
「あー、確かにクゥは寂しがりですね」
夜も、一人で寝るのは絶対嫌だと言うし、遊ぶのも、皆で一緒がいいと言うし。
とにかく、何をするにも一人でよりも二人でが、二人でよりも皆でがいいと言う子だ。
「だから心配で~」
「そうでしたか」
寂しがりが一人で門番。
そりゃ心配になるのも頷ける。
そしてその心配は杞憂でもなんでもなく、実際クゥは、奴隷商人などという、考えられる上で最も最悪な人間について行ってしまったわけだし。
「でも、どうしてあんなに寂しがりなんでしょうね?」
異常とまではいかないにしても、高校生くらいという見た目年齢に見合う以上の寂しがりであることは確かだ。
「う~ん。それは多分、大好きだった姉が疾走してしまったからだと思います~」
「疾走? お姉さんが極めて早く走ったから、寂しがりになったんですか?」
どう言うことだ、まったくもって意味が分からない。
クゥは、お姉ちゃんが全力疾走したから寂しがりになってしまったなどという、特殊な人間なのだろうか。
「疾走じゃなくて、失踪ですよ魔王さま~。『極めて速く走った』ではなく『消えてしまった』です~」
あたかも俺が間違えたような言い方で、俺を笑うお母さん。
まあそれはいいとして……。
「き、消えてしまった?」
「はい、『消えてしまった』です~」
「……」
単なる軽い会話のキャッチボールのつもりで『どうしてあんなに寂しがりなんでしょうね』と聞いただけだったのだけど、まさかのとんでもない剛速球が返ってきた。
「クゥの姉は、私の娘は、オルとロスは、ある日突然消えてしまったんです~」
そんなことを、相変わらずの間延びした、力の抜けるような声でお母さんは言う。
「消えてしまったって」
そんなお母さんとは違い、俺は彼女の言葉をおうむ返しすることしかできなかった。
「あ、消滅したわけではないですよ~? 消息を絶ったってことです~」
「そ、それは分かっていますけど。何があったんですか?」
「何かあったんです~」
……。
「でも何があったのかは分からなくて~」
困ったように、~のように眉を曲げる彼女。
「どうしていなくなってしまったのか。本当はクゥではなく、オルとロスが門番のお仕事をするはずだったんですよ~。そのために二人は幼少の頃から厳しい修行をしていたんです~」
「はあ……」
「それが嫌で逃げ出したのか~それとも連れ去られてしまったのか~」
とにかく突然いなくなってしまったらしい。
もちろん探したが見つからず、今はどこにいるのか、何をしているのか。
そもそも生きているのかさえも、何にも分かっていないのだとか。
「分かっているのは“オル”は“居る”という名前なのに居なくなって~、“ロス”は名前どおり“ロス”してしまいました~ってことだけで~」
そんな笑い事のように言ってしまっていいものなのだろうか……。
いや、決して笑いたくて笑い事にしているわけじゃないだろう。
エメラダのお父さんも言っていた。『冗談でも挟まないとこんな話は』って。
笑えないから、笑い事にしているんだ。
本当に、この世界の住人は皆気丈だ。
辛い過去があったとしても、そんなことを匂わせず、笑顔で前向きに生きている。
そう言えば前にネネネと
『お前は気丈だな』
『ええ、ネネネは騎乗位ですの』
『分かった……お前は気丈なんじゃなくて、異常なんだ』
『いいえまおーさま、ネネネは正常ですの。正常位ですの』
『……』
なんて会話をしたが、今はそれは関係ない。
「まあとにかく、そんなことが小さい頃にあったもんですから~」
「それで寂しがりに」
「はい~。まあ梨狩りと言うより、桑狩りのような気もしますけど~」
「はい? 梨狩りと言うより、桑狩り?」
んん? どうして味覚狩りの話になったんだ? どこから味覚狩りの話になったんだ?
突然フルーツでも食べたくなったのだろうか。
それとももしかして、俺が話を聞き逃してしまったか。
そうだとしたら、相当量のそれを聞き漏らしたということになりそうだけど。
「梨狩りと言うより、桑狩りじゃないですよ~魔王さま。寂しがりと言うより、怖がりと言ったんです~」
「寂しがりと言うより、怖がり?」
「そうですよ~うふふ」
「……」
もしかして、また言い間違いだったのだろうか。
そうだとするならまったく……どんな言い間違いなのだろう。
原型を、ほとんど留めていない。
天然のレベルを遥かに超越しているのだけど。
そして今回も俺が間違っていたかのような言いよう……まあいいですけど。
「あの子は怖がってるんだと思います~。目を離したらまた、姉のように皆どこかに行ってしまうんじゃないか~って」
「つまりクゥが一人を嫌がるのは、寂しがりで一人が寂しいからではなく、怖がりで一人になってしまうのが怖いからと?」
だからそうならないように、一緒にいたいというということか。
それは、一種の監視のように。あるいは、ある種の門番のように。
「はい~」
「……」
大好きな姉が突然目の前からいなくなれば、そうなってしまうのも想像に難くない。
幼いクゥにとってそれは、とてつもない衝撃と不安を与える出来事だったことだろう。
エメラダのときもそうだったけど、やっぱり小さい頃の出来事というのは、その後の人生に大きな影響を及ぼす。
トラウマという名の、悪影響を。
クゥの場合人生というより犬生なのかもしれないが。
もしくは犬生なのかもしれないが。
そんな彼女も例外なく。
「と言ってもあの子は、自分の姉のことを、自分に姉がいたことを忘れているんですけどね~」
そんな重大発表を、お母さんは十八杯目のお茶を要求しながら漏らした。
俺はとりあえずお茶を、水差しごと全てお母さんに差し出した。
今日も読んでくださり、ありがとうございました。




