第佰弐拾弐閑 こびとーく
「ふっ……」
花の茎を登り始めていくらかの時間が経ち。
「いや~ここまで来るのに、大分時間がかかりましたね」
いよいよ雲は目の前まで迫っていた。
「……よっ」
「魔王さんが、馬は馬でも天馬だったら、ぴゅーんとひとっ飛びだったんですけどね」
下を見ると大地は遠ざかり、城も町も米粒ほどに小さくなっていて、人などどれだけ目を凝らそうと見えはしない。
「でも天馬とか言うと、天才なのか馬鹿なのか分からなくなっちゃいますよね」
そんなことはない。
天馬の天にも、そして馬にも、別に天才とか馬鹿とか、そういった意味は含まれていない。
ただ単に、天を駆ける馬で、天馬だ。
「まあでも魔王さんの場合だと、天災と馬鹿で、天馬でしょうね」
天を駆ける馬ではなく、迷惑をかける馬鹿ですよ、などと失礼なことを言うヴァイオレット。
「ちなみに天を駆ける馬は、『天馬』と書いて『ペガサス』と読みますけど、迷惑をかける馬鹿は、『天馬』と書いて『マガサス』と読みます」
まったく、言葉と言うものは恐ろしい。
たった一文字違うだけで、天馬なんてメルヘンチックな言葉が、魔が差すなんてメンヘルチックな言葉に変わってしまうのだから。
と言うか何だ、天馬って。
俺は河馬ではなかったのか?
もしかしてあれか?
河馬が滝登りでもして、そして行き過ぎて、天に登ってしまったのか?
「そうなんではないですか? だって魔王さん、滝登りしてますし」
していない、俺がしているのは滝登りではなく、茎登りだ。
カバの滝登りではなく、バカの茎登り。
そもそもカバは滝なんて登るのか?
鮭は滝を登ると、聞いたことがあるけど。
「サケの滝登りですか? 魔王さんの場合は、フザケの茎登りですね」
俺の場合が多い奴だ。
まったく。
「はぁ……疲れた……」
「え? 魔王さん、何かに憑かれたんですか?」
「俺が何かに憑かれてるんだとしたら、それは君にだよ、ヴァイオレット」
体力的には特に問題はない。
腕も脚も、痛くもなければ痒くもない。通常だし、正常だ。
ただ、精神的に疲れた。
何たって、俺が茎を登り始めた直後から、いや、正確にはヴァイオレットが俺に乗り始めた直後からだけど。
この小人は、ずっとこの調子でおしゃべりをしているのだ。
小びトークなのだ。
「失礼ですね、私は憑いてなどいません、付いてるだけです」
「はぁ……」
「そして魔王さんはため息を吐いています」
そのとおりだ。
「でもアレですよ魔王さん。これは別に嫌がらせをしようとか、そういうなのじゃなくてですね。私だけ楽させていただいている、せめてもの礼をと思ってのことなのですよ?」
「礼? 霊の間違いじゃないのか?」
取り憑きやがって。
まあ確かに、ヴァイオレットが話してくれていたから、退屈ではなかった。
少し苦痛ではあったかもしれないけど……。
そしてそのおかげで、ひたすら茎を登るという方への苦痛は、ほとんど感じなかった。
そのことを思うと、むしろもっと話していて欲しいとも思うのだけど。
「話しますよー、魔王さんの頭から手は離しませんが、話しますよー」
ふむ……つくづく憎めない奴だ。
「とにかく……ちょときゅーけいだ、ヴァイオレット」
「おーけいです」
茎の窪みに手足を引っ掛け、安定させて体を休める。
「ふぅ」
大きく深く息をして、眼前いっぱいの緑から視線を横に、外にやる。
霞む地平線、輝く海、連なる山々、蛇行する川。
そんな視界に映る世界を見て、あらためて思う。
あぁ、俺は異世界に住んでいるのだなぁ、と。
まあ海や山や川なんて、元いた世界にでも普通にあった。
でも、この世界に広がる空や、海や、大地は、そのどれをとっても、元いた世界のものとは少し異なった趣を感じるのだ。
ファンタジックで、ファンタスティック。
と言うか、頭上の雲なんかは、趣を感じると言うより、重さがありそうに感じるんだけど。
手を伸ばせば触れられて、本当に掴めそうだ。
「そう思うんだけど、どう思う?」
俺は雲を眺めながら、何となくヴァイオレットに問う。
「へぇ、魔王さん、雲に憑かれそうなんですか?」
「“憑かれそう”じゃない“掴めそう”だ」
疲れただの、憑かれただの、付かれただの、吐かれただのの話は、もう終わった。
「触れそうじゃないかって言ってるんだよ」
「触ったら掴まるのは、いえ捕まるのはあなたですよ変態さん」
「ヴァイオレット、お前は何の話をしているんだ?」
「え? 変態さんが女性に触れて、苦悶させるというお話では?」
「違う、全然違う」
俺が触れようとしてるのは雲であって、法ではない。
「俺がしてるのは、雲に触れられそうではないか、というお話だ」
「あぁ、雲ですか、これはこれは失礼。間違えました」
冤罪もいいところだ。
「まぁ、触れると思いますよ、多分」
と、彼女。
「え? 触れるの?」
自分で言っておきながらさすがにそれはないと、またバカにされるのだろうと思っていただけに、少し間の抜けた声を出してしまった。
「ええ、だって言ったじゃないですか、『オラ、宝を強奪してこようかと思いまして』って」
いや、『オラ』とか、そんななまり方はしていなかったと思うんだけど。
君が言ったのは『お宝を強奪してこようかと思いまして』、だったと思うんだけど。
まあそんな些細な差異は置いといて。
確かに、雲の上にお宝があるということは、雲の上にお宝が乗るということだ。
そしてお宝なんかが乗るんだから、当然人間だって乗れるだろう。
つまり雲に触れる。
「そのとおりです。更にですね、あの雲は、巨人の、サイクロプスの住み家らしいのです」
巨人、サイクロプス。
いよいよジャックと豆の木染みてきたけど。
そうなってくると、お宝ってもしかして『金の卵を産む鶏』『金と銀の入った袋』『歌うハープ』だったりするのだろうか。
「お宝だけでなく、巨人も乗れるくらいですから、大人である魔王さんにも乗れるでしょうね」
もちろん小人の私にも、と付け足したヴァイオレットはしかし
「ただ」
と呟く。
「本当にお宝があるのか、巨人の住み家なのかどうかは、分からないんですよ」
「何だよそれ……。じゃあそもそも、どうしてお宝があるとか巨人の住み家だなんて発想に辿り着いたんだよ」
「今朝お祖母ちゃんが雲を見上げながら言ってたんですよ」
「お祖母ちゃんが?」
「ええ。でも、お祖母ちゃん最近ボケてきてるんですよね」
だから定かではないと……。
よくボケてきていると分かっていながら、そんな情報を頼りに登ろうと思ったな。
「せめてツッコんできていたのなら、まだよかったのですが」
よくはない、最近ツッコんできたお祖母ちゃんとか、意味が分からない。
「まあでも、あるのか、いるのか、乗るのか、その辺は行けば分かることじゃないですか。だから休憩なんてしてないで、早く登りましょうよ魔王さん。早くしないと、日が落ちてしまいますよ?」
「落ちるとか言うな、暮れると言え」
受験真っ只中の学生に落ちる、滑る等々の言葉が厳禁なのと同じで、今の俺に落ちると言う言葉は厳禁だ。
「ま、そうだな。ここで考えててもしょうがない、あと少し頑張りますか」




