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湖の森~記憶の欠片が彷徨う夜~

作者: 七葉


 リン、と音がした。


 そして感じたのは、冷えた水の心地良さ。


 見えたのは、闇になれきれない、空。











「――そして私は思ったの」

 鳥の声もしない森の中、力強くなっていた私の声は思いの他よく響いてしまった。これはやばいと思ったけれど、静寂を愛する私の話相手の反応は無い。何処か別の何かに気を取られているのかと、お互いが寄りかかっている樹木の幹さえ薄らと見えるだけの暗がりで、水面に浮かぶサガリバナが放つ小さな光を頼りに、私は隣の少年の顔をそっと覗う。

「…………」

 顔は、見えない。少し俯いているようで、少年を囲むもの達よりも暗い前髪がゆらりゆらりと揺れて少年の瞳を隠している。私が見ている事に気付いてないのなら、少年は一体何処を見つめているのだろうか。

 そこまで考えてから私はある事に気が付いた。

 少年の髪は瞳を覆っているだけではない。〝揺れて〟もいるのだ。この森には風というものは吹かない。何かが干渉しない限り、この森の空気やそれに触れられているもの達は動く事が出来ないようになっていた。なら、何故少年の髪は動いているのか。

 答えは簡単だった。少年の方へ少し耳を澄ませてみればいいのだ。静かに少年の方へ体を近づけると案の定、微かではあるが規則正しい呼吸が聞こえる。

 それに気付いてからの私の行動は、我ながら覚えている限りで一番迅速かつ的確だったと思う。


 取りあえず、少年を目の前の湖に突き落としておいた。






 ようやく湖と眠りの淵から私の座っている樹木の根に這い上がってきた少年は、予想通りではあったが普段より三割増しの不機嫌さを露にして私に視線を向ける。しかし、髪に付いたサガリバナの花びらが落ちる事はあっても、その体から雫が滴り落ちる事はない。この湖はただの湖にしか見えないが、私達にはそう見えるだけで実際には存在しない幻覚のようなものなのだそうだ。だから、触れても濡れる事はない。

 ただ、その感触と心地良さ、沈んだ時の息苦しさだけは残っている。そのせいか、少年は体をだるそうに引きずり、荒く呼吸を繰り返している。今度は規則正しくない。

「てめぇ、また、やりやがったな」

「言いだしっぺの君が寝ていたのが悪い」

 ゆっくりと私の隣に座り込むと、少年は軽く息を吐く。そして納得のいかない顔で腕を組み、私の方を向いた。

「俺ら、何か話してたっけ?」

 口よりも先に手が動いていた。隣でうずくまる少年を一瞥して、自業自得だと軽く睨み付ける。

 少年はいつもそうだった。気まぐれで何かを言い出しては、自分がそれを忘れる。特に間に睡眠を挟むと、確率は格段に上がる。それを知ってから少年には会話の滑らかさというものを期待しなくなったのだが、今回は失念していたらしい。

 隣の少年を再び見やると、顎に指を当てて眉を寄せつつ話の内容を思い出そうとしていた。少年曰く、早く思い出さないと私がふてくされて鬱陶しくなる事が分かったから、らしい。少々不服な理由だけど、思い出そうとしてくれる事は素直に嬉しかった。少年がちゃんと思い出してくれた事は皆無ではあるが。

「私がここに来た時、どんな気分になったかっていう話だよ」

 結局しびれを切らした私が内容をもう一度話して少年がやっと思い出す、というのが定型になっている。今回も例外なく少年は、あぁ、と納得したように頷くと意地の悪い笑みを浮かべ出す。少年の言葉が一言多いのもいつも通りだ。

「お前の語彙力と表現力の無さが露呈した話か」

「……心優しい私は今のを聞かなかった事にしてあげるから、どこから聞いていなかったかだけを答えなさい」

 握りしめた拳を顔の高さまで上げて心情を示してみると、さっきの攻撃が余程効いていたのか少年はすぐに笑みを崩して、私から一歩距離を取る。それから私の方をちらりと見ると、また一歩下がる。そして真面目な顔になり、口を開いた。

「ほとんど覚えてない」

「いつものごとく、ね。で、私から離れたのは?」

「言ったら殴るだろう」

「君が反省してたら殴らないよ」

 溜息をつきながら拳を下ろすと、少年はゆっくりと警戒を解いていきながら私に話を促してくる。一々怒っていても埒があかないので、殴るのは後回しにして二回目の回想を話し始める事にした。

「そう、あれはどれくらい前の事だったか」

 少年が、ダサいとか何とか言っていたのは聞かなかった事にする。






 そう、あれは本当に突然すぎて、その前に何をしていたかなどは覚えていない。ただ、騒がしい中にいた事だけが意識の片隅に残されていた。

 そして刺すような光が一瞬、けれどすぐに暗い中に放り出されて、ノイズの塊で敷き詰められていた周りが急に静かになった。シン、と張りつめた空間は冷え冷えとしていて、少しでも動けば何かが崩れていきそうな、何処か危ういものを感じさせた。それは知らない間に私の呼吸を止めさせていたようで、息が苦しくなって初めてその事に気付いた。無意識の内に小さな空気が漏れて、新しい空気を吸い込み始める。全身に広がったものは他人の息遣いが沢山集まったような、生温かい空気だった。






「何で〝生温かい〟が〝他人の息遣い〟に感じるんだ?」

「だって、人が集まると気持ち悪いでしょ」

 少年はなるほど、と呟いて視線を上に上げる。考え事をする時や昔の事を思い出している時の、少年の癖だ。

 別に上を見ても星は一つも見えない。それどころか、この森には風も然り、空や地面、水など普通ならあるもののほとんどが存在しない。新鮮な香りを感じる事は無いし、樹木達の根も地面を経由せずにむき出しのまま幻想の水と、辺りに静かな光を渡し続けるサガリバナ達に包まれている。上の空間にはただ虚無の世界が広がるだけ。

「それから、気持ち悪さが収まった後最初に感じたのは、ここの水の冷たさ。けど最初に驚いたのは、〝空〟って言って良いのか分からないけど、〝上の空間〟かな。何も無いっていう事が、何だか居心地が悪かったんだ」

 私という存在は必要無い、と言われている気がしたのだ。

「その時かな、向こうの世界の事を思い出したのは」

 この森に来る直前の事は忘れていても、それより前の事は鮮明に覚えている。私はそこでも居場所が無く、そこにいる事自体にずっと違和感を感じていた。

 結局何処にいようが、この空白感は記憶の片隅にそっと棲み続けるのだろう。理由ははっきりとは分からない。ただ、何も寄せ付けない空間を見上げながら、そしてもう一つ思い出したのだ。

「私ね、自分が嫌いで、けどそれが好きなの」

 何も無い空間を見つめていた少年の瞳がいつの間にか下りてきていて、怪訝そうに私を見つめていた。その瞳が宿す光の粒から逃れるように、私は湖に目を移す。

 少年は高校生ぐらいの歳の姿だが、意外と反応に子供っぽい所がある。嫌な時はあからさまに嫌そうな顔をするし、殆ど見た事は無いが楽しい時や嬉しい時は素直にそれを感じ、態度に表してくる。少年の境遇も関係するのだろうが、私にはそれが羨ましくてたまらない。

 何も感じる事が出来ない、それが私。別に楽しいとか嫌だなとかは感じる事は出来る。そういう感じるではなくて、何かを〝好き〟と思う事が出来ないのだ。恋愛の意味での〝好き〟もそうだが、友人や家族、とにかく〝他人〟というものが好きになれない。

 小さい頃はそれが変だという事に気付かず、よく遠巻きにされていた。虐められたりもした。家族も嫌気がさしたようで、中学に上がると同時に母方の祖父母の家に預けられた。その時、ようやく自分が異質なものだという事を認識したのだ。それが人間社会を生きていく上で、絶対的な障害になる事も。

 その時の私は人間社会を生きていく事を選んだ。演技する事を覚え、とにかく明るく、何かを間違えた時はボケた風を装う。母方の祖父母は両親達とはかなり離れた所に住んでいて小学校時代の知り合いが全くいなかったので、私は何の疑いも無く〝明るくて時々天然ボケが入る〟というキャラを定着させられた。けど、その容易さが問題だったのかもしれない。

 そこまで考えて、ふと、目の前を通り過ぎようとしていたサガリバナを視界に捉える。打ち上げ花火みたいに華やかな見た目なのに、その色はある一点に奪われて白濁したものになっている。雪のように儚くもなく、雲みたいに強く、時には何かを照らす明るいものなど、そこに感じる意味合いを変えるわけでもない。例えば修正液を一滴垂らしてみると、液体達は動く事もままならず、逃げ場もなく固まっていく。かと言ってそれを外から変えようとすると、どんどん黒ずんでいき、果てには被った膜を破いてしまう。そんなどうしようもない諦めも含んだ、少なくとも純粋ではない色。そして、気が付くと追いかけてしまう、何かを引き付ける色。

 外側から元の色を奪った中心の赤は、その色を鮮やかにすればする程白濁色の花びらを際立たせていく。奪った赤よりも、奪われた白濁の方が見られるようになってしまう。

 矛盾。そう、知らない内に矛盾が生じていたのだ。そして、それが矛盾だと気付いた時にはもう遅い。知らないまま投げ出されて、気付いたら終わっている。私も引き返せない所まで行って、分かったのだ。〝私〟はもういない。

 だから、私は死のうとした。

「――っい、おいっ!」

 冷たい何かが頬に触れたのを感じて、思考が引き戻される。何かと思って目をやると、少年の手だった。殴るなどの行為以外で少年に触れるのは初めてで、こんな心地の良い手だったんだな、と場違いな事を考えてしまった。そして、少年の腕から肩へ首へと目を走らせていくと、困ったような、呆れているような、何とも形容し難い表情と巡り会った。

「君さ、何、その顔」

 半分笑いながら少年に声をかけると、いつもの馬鹿にした表情ではなく何処か安心したような表情が返ってきて、戸惑ってしまう。頬に触れる掌が異様に優しくて、私を見つめる瞳がいつになく真剣で、少年ではないような雰囲気だった。

「ね、ねぇ、本当にどうしたの?」

「戻ったか、大丈夫そうだな」

 殆ど同時に声を発してしまったが、見た目よりいくらか低い少年の声は何の躊躇いも無く、私の思考へと入ってくる。心地良い掌が離れていくのは名残惜しかったが、それよりも気になる言葉があった。それを咀嚼しようと苦戦していたのが顔に出たのか、少年はいつもの呆れた表情に戻り、いつも通り遠慮無い一言を放つ。

「ちゃんと注意したはずだがな、サガリバナを長く見続けるなと。あいつらの〝想い〟に引きずり込まれるぞ。何回言ったら覚えるんだ」

 少年の言葉で自分が何をやらかしたかを理解し、加えて反論の余地も全く無かったので、視線だけを少年からゆっくり逸らした。

「仕方ないじゃん、ちょっと小さい頃思い出して感傷的になっちゃったんだもん」

「引きずり込まれたら、自分が嫌いで好きってよく分からん記憶も無くなるぞ。良いのか?」

 この森に来て、少年に会って、教えてもらった事。

 ここは、記憶が集まる場所だという事。それもただの記憶ではなく、自らの意思で消そうとしたり死のうとしたりといった人の記憶が収容される。つまり、何らかの事故や事件を自ら起こして、結果記憶喪失になってしまった人の元の記憶がこの森にはうじゃうじゃいる。

 また、記憶喪失になる前の記憶が集まるなら、それと入れ替わりになる記憶喪失になった後の記憶も集まる。こちらは前の記憶と入れ替わりに向こうの世界へ渡り、何かの拍子でまた前の記憶にそこを追い出され、行き場を失くしてここに戻ってきたものらしい。

 前者が私で、後者が少年だ。

 そしてもう一つ、この森を隙間なく包む湖い浮かぶサガリバナについて。この花の内には目に見て分かるような記憶喪失ではないが、人が忘れてしまった、消したいと願う〝想い〟が詰まっている。サガリバナが放つ赤が鮮やかであればある程、その〝想い〟は強い。

 しかし同時にそれを保ち続けるには、微弱過ぎるものも多い。だから、そういうもの達は別の記憶の負の感情を取り込む事で自分の〝想い〟を保たせているらしい。取り込まれた記憶はサガリバナの内の〝想い〟の奔流に呑まれて消滅してしまう。先程の私はどうやらその誰かの〝想い〟とやらに取り込まれかけていたらしい。それを少年が引き戻してくれたという筋書きだが、元々記憶を失くしたくてこちらに来たのだから、記憶が消滅するのは私にとって歓迎すべき事だ。なのになぜ、それを知っている少年は私を引き戻したのだろう。

 なぜ、私はこんなにも安心しているのだろう。

「……まぁ、別に答えなくていいけどな。俺は少し歩いてくる」

 少年はそう言うと音も立てず立ち上がり、歩を進め始める。少年の足が水を切っていく音が妙に刺々しく感じられて、背筋がビクリと震えた。

 それでも心の何処かにねばねばした、しつこい汚れみたいにいくら拭っても拭いきれない塊が留まっていて、それが邪魔をして少年の方を見ることが出来なかった。その気持ち悪さを紛らわすように、湖の方へと視線をやる。

 そこにはやはり、サガリバナが浮かんでいた。






 しばらく何も考えずに森を眺めていると、少年がゆっくりと歩いてくるのを視界の端に捉えた。先程のわだかまりは薄れてきたようで、微かな躊躇の後、私は少年の方を見る。少年は両手に何かを持っていた。この森に手で拾えるものがあっただろうか、と疑問に思い、少年の手元へと目を凝らす。

 それは、小さなサガリバナだった。

 少年はあまり大きなサガリバナの無い場所でしゃがみ込み、その小さく淡い光を放つサガリバナをそっと、水面に浮かべる。その表情は何か大切な一部を切り裂く時の、息も出来ない、憤りと悔恨と、それを追い越そうとする狂気めいたものがせめぎ合う、それに似ていた。

「また、〝助けて〟きたの?」

 少年が私のいる樹木の根にたどり着くのを見て、少年に声をかける。いつも通りの笑顔で言えたはずだ。

 少年はチラリと私を一瞥して、すぐに逸らす。そして、そのまま呟くように口を開く。

「記憶が無くなる所はもう見たくないんだよ。まして〝消える〟じゃなく〝枯れる〟のは」

 自身を保てるだけのエネルギーが無いサガリバナの末路は、他のサガリバナに取り込まれて消滅するか、記憶やその〝想い〟に飢えたまま〝枯れて〟いくかの二つ。稀に〝想い〟の持ち主がもう一度手に取る事もあるが、それは私も数える程しか見た事が無い。

 私としては、意識の片隅に浮かんでは消えていく不快な感情を忘れられるならどちらでも構わないが、少年は違うらしい。記憶喪失後の記憶の中で何か思う所が出来たのだろう。私はそれを聞いた事は無い。

「そういえば、あの話の続きは?」

「あの話?」

 突然かけられた言葉に眉をひそめつつも声のした方を見上げると、少年のいつも通りの私を馬鹿にしているような呆れた表情が目に入った。しかし、話の内容も呆れられる理由も分からない。多少癪ではあったが思った事をそのまま伝えると、少年はさらに呆れて溜息をつく。

「俺を湖に突き落とす前に何か言いかけていただろう」

 私は思わずまじまじと少年を見つめてしまった。少年が話の一部を覚えていたからではない。実際に、私に語彙力と表現力が無いと先程語っていた。

 問題はそこではない。

「君は何でそう関係無い事ばっかり覚えているの」

 私の話は忘れたくせに、まさかそんな微妙な所を覚えているとは思わないだろう。少年が話の本筋は忘れるくせに、どうでもいい事はよく覚えているのはいつもの事だが。しかもそれを使って私をからかうのが好きらしい。

「前に言っただろう、俺は静かな所が好きなんだ」

 暗に、声が煩かったから聞こえたし覚えていた、と。少年は自慢げに言い、悪びれた表情などは何処にも無い。しかも私の拳から逃げられるようにか、ある程度の距離も取っていた。そういう所では抜け目はあまり無いようだ。

 だが、甘い。

「煩くて悪かったわね!」

 両親の家の近くの山で小さい頃から遊び回っていた私にとっては、太く入り組んだ樹木の根を渡っていく事は造作も無い。すぐに少年の元へたどり着き、一発くらわす。

 少年は再びうずくまり、頭を抱える。

 これも、いつも通りの風景。

「まぁ、続きは言うけど、……笑わないでよ」

 少年は頭を抱えたまま、私を見上げる。期待するような琥珀の瞳に、本当に笑ったらもう一回湖に突き落とそうかと考えた。

 まぁ、それにしても、我ながら結構恥ずかしい事を思ってしまったよな、と思いつつ口を開く。

「あの時、目を開いたらまさかの一面が森の風景。しかも地面が無くて、全部水に浸されているし。上を見れば何も無い空間が広がっている。もうこれはあれしかない、って思ったのよ」

 さすがに恥ずかしくなって、少年から視線を逸らし、続ける。

「ここは、二次元の世界だ!、ってね」

「どこからその発想が出てきたんだ」

 少年の溜息の音も聞こえた。

「だって漫画とかは唯一好きなんだもん」

 赤くなっているだろう顔を手で隠してしまっているので少年の顔は見えないが、呆れきった声と同じ表情をしているのだろう。しかし、予想に反して少年はそれを笑う事はしなかった。その代わり違う言葉が発せられた。

「好きなもの、あったんだな。」

 その言葉に少年がどうやら少し勘違いをしているらしいという事に気付く。

「別に好きなものなら他にも一応あるよ。私が好きになれないのは他人、つまり〝人〟だよ」

「ふぅん。でもその好きなものが漫画って事は意外。読んでて楽しいの?」

「漫画はね、自分が何も思えなくても大丈夫なんだ。だって、中の人物達が代わりに感じてくれるから。演技するのにも必要だったし、その時だけは感じてるフリが出来たから、ね」 

 それによって培った笑顔を向けてみると、少年はそんな楽しみ方があったのかと、興味深そうな感想を挙げてくる。

 この事は今まで誰にも話した事は無かったが、明らかに反感や否定感情を貰うだろう事は容易に想像出来ていたので、少年からまるで私を肯定するような言葉が出てきた事には少なからず驚いた。少年は前々から誰かの言う事を否定する事が無い、という不思議な性格を持っている。これも真っ白な状態の全身に刻まれようとする他人の記憶を、ただ受け入れるしかなかった記憶喪失後の記憶の特性なのだろうか、と少年を見つめ、考える。

「君は、本当に不思議な人だねぇ」

 思わず言葉に出していたらしく、訳が分からないという様子で口をポカンと開けてしまっている少年と瞳が合う。

 そんな風に何も考えずにコロコロと表情を変えられる少年が、やはり羨ましく感じられる。そして、自分と全く違う境遇の少年が何を思うのかが、気になって仕方がなかった。それが演技を重ねてきた私の性なのか、それとも別の何かなのかは分からない。

 この森は分からない事が多すぎるよな、と思いつつ、けれどやはり抑えきれなかった疑問を少年にぶつけてみる。気を遣う必要の無い少年の前では、私はかなり思い切った行動が出来るようだった。

「今の言葉は気にしないで。それより君はどうなの?何を感じたの?」

「俺?そうだな……。別に何も思わなかったな。それどころじゃなかったし。ただ、懐かしいと思っただけだ」

 何も思わない、という言葉に思わずドキリとする。色々なものを受け入れるという印象のあった少年が、何も思わないというのには違和感があった。しかしそれが、種類は違えど何も思わない事を経験したという事実は、何か今までに無い特別な共有感とも言えるようなものを感じさせた。

 それはこの狭く小さな世界特有の効果か、少年の持つ柔らかくてホッと一息出来る空気を醸し出す性質の影響のおかげか。何にしても、それは今の私に仄かな心地良さを与えている。しかし十数年振りに自然と零れた笑みは少年にマイナスの印象を与えたようで、少年は不快そうな表情を表していた。

「何だよ、俺には笑うなって言ったくせに、自分は笑うのかよ。それとも、それが〝素〟?」

「さぁね、私にも分かんない。ただこれは笑ったんじゃなくて、私が珍しく素直に嬉しいと思った証拠だよ」

 今度は少年が私をまじまじと見る番だった。上から下まで本当に穴が開くぐらい見つめられる。そして、そうだったな、と苦笑いを浮かべる。

「お前、猫かぶってたって言ってたな」

「ただの猫じゃないよ。数十年間育てたんだから」

「それ、もう年寄りじゃん」

「子供世代の猫を貰うから、大丈夫」

 自分でも嘘か本当かよく分からなくなった笑いを浮かべては記憶の片隅に直していく。と、不意に少年が真剣な表情になって、私の目を見据える。

「それ、疲れるだろ」

 疑問ではない断定形に少年の過去を垣間見た気がして、ずっと引っかかっていた事を尋ねる機会が出来たと知る。

「そりゃ、疲れるね。その経験はさっき言ってた〝それどころじゃなかった〟事?」

「……まぁ、そうだな」

 少年は視線を湖へ移し、普段より少し低い調子で話し始める。

「記憶失くした奴が目の前にいたら、当然記憶を取り戻して欲しいって思うよな。それで、俺が入る前の奴の言動とか趣味とかをやらせる。まぁ、当たり前の行動だな」

 少年はそこで一度口を閉ざし、溜めていた息をゆっくりと吐き出す。湖の、森の向こうに何かを思い描くように、微かに瞳を細めて、また口を開いた。

「けどな、俺の前代の奴には恋人がいてな、毎日会いに来るんだ。早く思い出して欲しかったんだろうな、いつも奴との想い出を一生懸命に話すんだよ。飽きもせず、何度も、何度も。でも奴は戻って来ない。何でかは知らないけどな。それで、情けない話、いたたまれなくなったんだ」

 見えない何処かを見つめながら、少年は小さく笑う。いつもは妖しく歪に輝いているサガリバナさえ、儚く淡く消えそうな光に変わっていた。それくらい、哀しいものに映って見えた。

「俺は、嘘をついた。彼女は喜んでくれたけど、俺はずっと身体の至る所にわだかまりのようなものを抱えてるみたいで、ある日、それに耐えきれなくなって、自殺したんだ」

 哀しそうな表情のまま、少年はやはり小さく笑う。私と似ているようで、全く別の根が見える。

 私は自分を守るために。少年は居場所と他人を保つために。

 必要とされなくなった事だけが同じ。

「それは君が誰も否定しない事に繋がっている感じ?」

「俺は奴の心も知らないまま彼女と接した。奴を否定したんだ。そのくせ、自分だけ楽になろうとした。誰かを否定する資格なんて、俺には無い」

 その心に素直に従えた少年は、やはり守ろうとしたものが私とは違ったからだろうか。少なくとも私の目に映っていた少年は、少年のなろうとした姿と同じだった。

 そう思い返すやいなや、それに比べて、と何故か躊躇いも無く自然と言葉が出ていた。

「……そう思っても、そんな自分しか肯定出来ないのは可笑しいかな」

 上手く笑えてないのが自分でもよく分かる。少年がこちらを向く気配がする。けれど、正面から見る事は出来なかった。少年の声が軽く響く。

「知ってるか、サガリバナの花言葉は〝幸運が訪れる〟なんだと。それなのにここにいるサガリバナはずっと彷徨い続けて、幸運なんてどこ吹く風だよってな」

 いきなり関係の無い事を話し出すので、また話の内容を忘れたのかと思って、ゆっくりと少年の方へ顔を向ける。少年は何かを懐かしむように笑っていた。そして、私と瞳を合わせる。

「皮肉だよな、向こうの奴らがそうして呼んでるものが、奴らに見放されたものの中では全く別の働きをする。結局、人って自分の事しか考えてないし、見ようともしない。こっちみたいな世界に来てこいつらを見ない限り、分かるはずもない。分かる機会は別の所にもあるんだろうがな」

 少年の言わんとしている事が察せれない私に気付いたのだろう、ばつの悪そうな表情をして頬をかきながら続ける。

「だから、さ、それはお前が見せなかったのもあるけど、お前が悪いんじゃなくて、運が悪かっただけなんだよ。ちゃんとお前が苦しんでる事を感じて、傍にいられる奴に出会えなかっただけなんだ」

「それは楽観的過ぎない?」

「……実はこれ、ある人の受け売りで俺もまだちゃんと呑み込めてないんだ。だけど、大多数が自分の事しか考えてないのに、そんな事を一々深く考えるなんて時間と労力の無駄じゃないか、っていうのは最近なんとなく分かってきた気がするんだよな」

 その人は少年にこの森について教えてくれた人でもあるらしく、この森で少年が初めて会った人だという。その人は会ってからすぐにいなくなってしまったらしいが、その短い間に少年は色々な事を教えて貰ったようだ。多少、その人の性格が移ってしまった所もあるらしい。意地の悪い笑みをよく浮かべる所だろうか。

 とにかく、今回は機嫌が良いらしい少年は、その人から教えて貰った話を珍しく饒舌に語ってくれた。いつもとは逆の立ち位置が新鮮だった。

「その人はサガリバナが向こうの世界の〝星〟のようだと言ってた。その人の地域では叶えられなかったり、忘れられた約束は星になるって言われてたらしいんだ。そう考えると、叶えられず忘れられたものが俺らの想像を超えるぐらいあるって事だよな。サガリバナは咲いて散ってをずっと繰り返してるし。」

 少年は傍にあるサガリバナを一つ掬い取る。それは、淡く光続けていた。

「それで、こっちの世界と向こうの世界はこの湖で繋がっているんじゃないかってな。向こうで人が星に願いを託して、こっちでそれが〝幸運を運ぶ〟っていうサガリバナに宿る。ここも結局人が作り出した世界で、サガリバナは星が人の願いを受けて姿を変えたんじゃないかって。その人曰く、この湖は〝地上に降りた星空〟なんだと。人の願いが歪になり始めているって事を人が見やすくなるように、上から降ってきたんだ。だから上の空間には何も無い」

 私は思わず上の空間を見上げてしまった。そして湖を見渡す。確かに、サガリバナの淡い光は星のようだし、私自身、星空を見ていて吸い込まれそうな感覚に陥った事もある。少年を見ると、小さく苦笑いをして、言う。

「驚きだよな。こっちに来た奴はそんな事考えそうも無いのに、あの人は何だったんだろうって今でも時々考える」

「この星空を地上に降ろした張本人だったりして」

 冗談めかして言ってみると、少年も口に小さく弧を描いた。

「かもな」

 それを見て、心が軽くなっている事に気が付いた。自分が異質な存在だと思う心はまだちゃんと残っている。ただ、それが前程気になってないような気がするのだ。ただの気のせいかもしれないし、時間が経てば戻るかもしれない。けれど、久しぶりに感じる、心が軽いという心地良さはただそれだけで、私の心の何処かを動かしたのかもしれない。今はそれだけでも良いきがした。

「で、その人はこうも言ったんだ。これを見れた俺達は運が良いってな。向こうに戻れば前みたいに自分を無駄にしなくなるかもしれないし、好きな事が見つかるかもしれないし、誰かに触れられるかもしれない。全部自分がどうしたいかで変わってくるけど、他の人よりも可能性が増えたってな」

「想像力豊かな人だね」

「そうだな。壮大過ぎて俺にはまだ信じられないし、実行できそうにもないけど」

「同じく」

 私は上の空間を、こんどはゆっくりと見上げる。何も見えない。それは変わらない。

「根っからの癖ってそんなすぐには直らないものだもんね」

「そりゃ、そうだ」

 視線を下ろすと少年と瞳が合って、今度は上手く笑えた。少年もいつもの小さい微笑を浮かべる。

 と、急に眠気が襲ってきて、樹木の根の上に座り込む。体を幹に預けて、この森に来て初めての睡魔に困惑する。

「その人はもう一つ教えてくれたんだ。ゆっくりろした眠気は向こうの世界の記憶を辿る夢を見る前兆だという事」

 少年の声に視線を上にやると、少年は星の無い上の空間を見上げていた。顔は、見えない。

「そして、急に襲う眠気は記憶が消える時か、向こうの世界に戻る前兆だってな」

 全てを聞き終わる前に、青白い光の粒子に包まれて、ここに来た時とは逆の順番で現象が進んでいく。色んなものが浮かんでは消えていき、けれど最後まで残ったのは少年の小さな微笑とあの森での出来事だった。そして、パステル模様の空間を通り、そこに散らばる記号のようなものを拾っていき、また周りが騒がしくなった。

 それから――


 









 リン、と音がした。


 そして感じたのは、触れた温もりの懐かしさ。


 見えたのは――。

 


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