1:九月一日
お待たせしました、第三章後編 学園編スタートです。
最初、私はそれを夢だと思っていた。
それは、自分でも常識的な判断だったと思う。なにしろ、目が覚めたら全く知らない場所にいて、混乱と恐怖で気絶して、次に目が覚めたら自宅の自分のベットに寝ていたのだから。
もちろん、夢とは思えないような記憶ではあった。私が行っていたその場所はあまりにもリアルで、夢と考えるにはあまりにも私の常識から逸脱した別世界だったからだ。
だが、それでも自室で目覚めた以上夢なのだろうと、見切りをつけた。別の場所に行くことなどできないと割り切った。
だが、次の日いつものように学校に向かい、そこでいつものように同級生に呼び出され、そこでいつものように心を削られていたとき、唐突に彼女は現れた。
『私の前でこの娘に手を出そうなんて、あなた達本当にいい度胸ね』
彼女はとても強くて、かっこよく輝いていて、私がこうあれればと思っていた姿そのものだった。
彼女は当然のように驚く同級生たちを黙らせて、追い払って、私に向かって輝いてみせる。
それが、彼女と私の最初の出会い。夢のような現実が、夢でないと証明された瞬間だった。
「どうしたんだいトモ? まるで地雷原を歩く象のような表情をしているよ?」
「……象って言うのは、思いのほか表情豊かなんだな」
かけられた言葉にそう返しながら、智宏は伊達メガネを慣れた手つきで直して声のした方へと視線を向ける。
案の定視線の先にはクラスメイトにして智宏の友人の一人である寺原聖人の姿があった。どうやら今ちょうど登校してきたらしく、肩に鞄をかけたままこちらに向かってくる。カバンのキーホルダーが十字架であるところを見ると、どうやら今日の彼はキリシタンらしい。父親が仏教徒で母親がキリシタン、父方の祖父母は神道論者という宗教色豊かな家庭を持つ聖人は、その日の気分でかなりあちこちの宗教を転々としている。
「おはようトモ。夏休み中なにごともなかったようで、君に神のご加護があったことをうれしく思うよ」
「……生憎と僕に神のご加護はなかったようだぞ。僕にとっては激動の夏休みだった」
「え? そうなの? そういえば火観子先輩が『ヨシトモと連絡取れない』とか、『ヨシトモも誘ったけど断られた』とかいろいろぼやいてたっけ」
久しぶりに聞く先輩の名前を妙に新鮮に感じながら、智宏はそういえば誘いのメールが来ていたなと思いだす。その前の連絡は恐らく自分がこの夏巻き込まれたトラブルに起因するところが多かったのだろうが、その後の『断られた』というのは智宏が行っていた一大プロジェクトの影響だろう。
とはいえ、後者はともかく前者はまともに話せる話ではないので、この場は「いろいろあったんだよ」と適当にお茶を濁しておくことにする。少なくとも智宏自身は積極的に異世界云々の話を人に聞かせるつもりはない。そのために伊達メガネまで用意して、異世界に行ったことでよくなってしまった視力を隠しているのだ。
「ふうん。まあ、なにがあったにせよ、こうして無事に夏休み明けで顔を合わせられたんだから、やっぱり神のご加護はあったんだよ」
「そうかねぇ……。まあ、お前がそういうならそれでもいいんだけど……」
「いや、ほんと……。まさかこうして無事に新学期を迎えることができるなんて……、やはりこの世界に神がいるとしか考えられない……。この夏休み中、何度、どれだけの意味でもう駄目だと思ったことか……」
「……な、なにがあったんだ?」
だんだんと口調が暗いものに変わり、虚ろな目で会話から呟きへと移行した友人に、思わず智宏はそう問いかける。すると当の聖人は、まるで底抜けの絶望を見たような深い闇色の瞳を智宏に向け、ごく簡潔に事情を話してくれた。
「夏休み中、火観子先輩に誘われて部活のみんなで旅行に行きました」
「さっき言ってた僕と連絡が取ろうとしてたのってそれか?」
「はい。三泊四日で海に行きました。貸別荘でとても豪華です」
「それはそれは、急だった割に随分と豪勢な……。まあ、あの人のコネならそれくらいできるか……」
「三条先輩も一緒です」
「……」
「地獄を見ました」
知らない人間にはまったく伝わらないような会話だったが、三条という三年生の魔女を知る智宏にはそれだけで十分だった。
なるほど、あの魔女と同じならこの反応も頷ける。少なくとも智宏は、四日間もあの先輩と一緒に過ごすなど考えたくもない。
「あの人本っ、当に洒落にならないんだよ……!! おかげで僕らがどれだけの修羅場に慣れてしまったことか……。正直連絡付かないって聞いたときは君が逃げたんじゃないかと本気で思ったよ」
「あー……、別にそんな事態を予期していたわけじゃないんだが……。まあ、とりあえずご愁傷様と言っとくわ」
智宏がそう言うと、聖人はようやく立ち直り、自分の机に向って鞄を置き始めた。とは言っても聖人の席は智宏の斜め前である。そう遠くにある席という訳ではない。
「ところでさっきの話だけど、なんだって君は新学期早々落ち着きをなくしてるんだい? まるでこれからトラブルが起きるのを恐れているようじゃないか」
「あー……、そんなふうに見えたか?」
「そりゃあバッチリとね。ついでに言えば朝に弱いトモが俺より早く来ているってのも珍しいし」
「あー……」
聖人の指摘に智宏は内心でしばし葛藤を覚える。正直に言えば、今智宏が落ち着かない理由は話しても特に問題はないのだ。まさかこちらの方で先に聞かれることになるとは思っていなかったが、つじつま合わせはすでにできている。
ただ、これを堂々と言うべきかどうかといわれれば少々疑問がある。智宏の感覚では、こういうことはうるさい人間もいるので、できることならあまり表沙汰にしない方がいいとも感じる話だ。
「まあ、特に話したくないならそれでもいいけど。話したくなったら言ってくれ。ちなみに懺悔も受け付けるから
話題を変えよう。今日一年に転入生が来るのを知ってるかい?」
「……ああ」
話題は変わるどころか深まった。どうやら聖人も智宏の様子からそのことを察したらしく、その眼に興味の色を見せる。
「あれ、もしかしてトモの落ち着かない理由ってこれ? もしかしてトモその転入生のこと知ってるの? 来る途中で食パンくわえてぶつかったとか?」
「古典的だな。違うよ。第一そのお約束ってクラスメイトじゃなきゃ成り立たないんじゃないか?」
言われて「ああ、そうか」と、とぼけた相槌を打つ友人をしり目に、智宏はしばし嘆息する。
智宏とて、彼女がこの学校は入れるようありとあらゆる手を尽くしてきた身だ。滅多に使わないコネを使い、異世界で手にした異能をフル活用し、とんでもない詰め込み教育で彼女をこの学校に編入させた。だが、いざ編入してみると別の不安もあることもまた事実だ。特にこことは全く違う環境で育ってきた少女が、うまくこの学校になじめるのかどうかが不安でしょうがない。
(勝負は最初の自己紹介。その後の質問攻めってところかな……。自己紹介はともかく、今日は始業式もあるから質問を受けるのはたぶんその後だ。始業式でもう一度辻褄合わせをしておいた方がいいかもな……)
そう内心で決意を固めると、智宏はホームルームの始まる数分後まで友人をはぐらかすことに腐心することにした。
紙に文字を書く感覚と黒板に文字を書く感覚はどうにも別物と思えてしょうがない。それは、黒板というものが紙と違って地面に垂直に立って存在しているせいかもしれないし、チョークとそれを使って文字を書く感触がペンのそれと違っているからかもしれない。どちらだったとしても文字を書く感覚に違和感を覚えることには変わりない。
(……大丈夫。文字に間違いはない)
目の前に書き終わった『浜島美潮』という文字の羅列を見ながら、ミシオは内心でそう確認する。
本来の、異世界であるイデアの文字でなら自分の名前を書くのにここまでの注意を払うことはないが、いかんせん今書いているのは異世界の文字をこの世界の文字に置き換えた見慣れないものである。イデアの文字と同じ意味と読みを持つ漢字を当てはめたこの名前は、しかし異世界の存在を知らない人間にとっては間違える方がおかしい代物だ。実際智宏にも怪しまれるから絶対に間違えるなと口を酸っぱくして言われている。
(……うん。名前は書けた。あとは名前を言って、挨拶するだけ……!!)
名前を書くのに使ったチョークを置きながらそう確認すると、ミシオは背後へと向きなおる。そこにいるのは今日からクラスメートになる暮村学園高等部一年B組の生徒たちだ。好機や期待、そのほかさまざまな感情の入り混じった視線を真っ向から受け止め、ミシオはあいさつを決めるべく学園指定のセーラー服のスカートを折り曲げて、教壇の上に礼儀正しく正座をした。
「今日からこちらでお世話になります、ハマシマミシオです。皆さんどうかよろしくお願いします」
セリフだけはまるで違和感なく言ってのけ、ミシオはそのまま三つ指をついて深々と頭を下げる。そうすることで視線がクラスメイト達から外れ、それゆえミシオは気付かなかった。クラスメイト達の自分を見る視線がそれまでと別のものになってしまっているということに。
最初の挨拶について智宏から言われていることはあまりにも簡単だ。『自分の名前を黒板に書いて挨拶するだけでいい』である。これは、智宏がその後にあるであろうミシオへの質問の方を危険と見ていたことによるものであり、同時に転校生の挨拶などほとんど常識だと思っていたことに起因する。
だがそもそもの話、ミシオが通っていたイデアの暦波町の学校では転校生に会うことなどなかったし、そういった常識を吹き込む本や映像などもイデアでは未発達だった。そもそもミシオはここ数年山篭りに近い生活を送っていて、そう言ったマスメディアとはほとんど接点はなかったのだ。
そして、その結果がこれである。彼女としては精いっぱい礼儀正しくあいさつした結果だ。
クラスメイトや担任教師が唖然とする中、ミシオは自身の挨拶に何の疑いも持たず、用意された席へと進んでいく。彼女の中には自分が早速やらかしてしまったという自覚は無い。
こうして智宏の完璧に見えたミシオ学校デビュー計画は、最初の段階で崩れていくこととなった。
体育館に男の低い声がマイクを通じて響き渡る。新学期につきものの夏を開けての挨拶や新学期の抱負、そう言ったどこの学校でもつきものの始業式のおける校長の挨拶だ。
暮村学園は幼稚園と小学校、そして中学高校を一纏めにした小中高一貫校だ。学園のトップは学園長である暮村珊瑚である訳だが、それとは別に幼稚園と小学校、そして中高等部に合計三人ずつ園長や校長といった役職が存在する。そのため他の学校と変わらず暮村学園にも校長という役職は存在しているし、こうした行事は中等部と高等部で一緒にやることが多い。
現在、体育館で校長の話を聞く人間はおおよそ八百人。中等部三十人×五クラスと、高等部四十人×四クラスである。もちろんクラスの人数にはそれぞれでズレがあるし、少ないながらも休んでいる人間がいるため正確な人数は知るところではないが、それでもかなりの数の人間が校長の退屈な話を静かに聞いている。
とはいえ、もちろん十代の学生たちが大人の退屈な話を真面目に聞いているかと言えばそうではない。校風の問題もあっておしゃべりをしている人間こそいないが、頭の中では別のことを考えている人間がほとんどだ。
だが、たとえ八百人の人間がいたとしても、その中で通念能力を使って会話しているような人間は二人しかいなかった。
『それじゃあ、とりあえずあいさつの方は何も問題なく済ませられてんだな?』
『うん。黒板に書いた自分の名前も間違えなかったし、後はあいさつするだけだったから』
ミシオのその証言に、智宏はひとまず胸をなでおろす。別に名前を書いて挨拶するだけの行為に心配しなければいけない要素などないのだが、それでも本人からちゃんとできたのだという証言を受けるとやはり安心できるものがあった。実際は本人が自覚していないだけでミシオの挨拶は恐ろしく奇妙なものになっていたのだが、本人が自覚していないものを智宏に報告できるわけがない。
現在智宏達が行っているのは声によらない、通念能力という異世界イデアの人間が持つ超能力による会話だ。当然、始業式の現場でばれないようにするため、それぞれのクラスの列に並びながらこっそりと会話している。
本来ミシオの持つ通念能力は送信に関しては強力なものの、受信に関しては相手の体に触れていなければ読むことができないという制約をもっていた。だがこの夏、異世界からこの第三世界アースにわたり、この学園に通うために猛勉強していたミシオは、その過程で自身の能力を成長させ、智宏相手のときに限り遠くからでもその心を読めるようになっている。智宏が【直通回線】と名付けたこの運用法は、こうしてこっそりと声を使わずに打ち合わせを行うにはうってつけの方法だった。
『それじゃあ確認するぞ。ミシオ――』
『シオ』
『え? あ、いや――』
『シオ!』
『わかったよ。シオ、自分のプロフィールを言ってみろ』
『うん』
ミシオの静かな強要に、照れくささを感じながらも智宏が折れる。
最近ミシオは、以前智宏がたまたま呼んでしまった呼び方を、智宏に対して求めるようになっていた。どうやら彼女はあだ名で呼ばれることをある種の親しさの証のように感じているらしい。
『ハマシマミシオ。この世界の文字で書くと浜島美潮。歳は十五歳。誕生日はこの世界の換算で九月九日。血液型はA型」
転校するに当たり、智宏と一緒になって決めていたアースでのプロフィールをミシオは次々と語り始める。イデアの生まれであるミシオはこの世界の人間とはプロフィールに大きな差がある。名前は音として名乗る分には問題なかったものの文字で書くとまったく別の文字になるし、歳の数え方は同じだったものの誕生日は暦から違うため、この世界の暦に照らし合わせて換算し直した。血液型に関しては完全に適当である。異世界人であるミシオにはアースの人間と同じ成分の血が流れているとも限らなかったし、イデアでの血液型の呼称はこちらとはまるで違うため参考にならなかったのだ。
『この学園に編入してきた経緯は?』
『えっと、唯一の保護者だったおじいちゃんが死んで、遠い親戚のトモヒロの家に引き取られてきた。トモヒロとの関係はトモヒロの父方の親戚』
『オーケー。ちなみに親戚とはいえ、僕らは最近までお互いの存在を知らなかったって設定も忘れるなよ? こっちもそれで口裏を合わせておくから』
そう確認した後、智宏は続いてミシオが前に住んでいた場所の設定の確認に移る。
異世界とはいえイデアとアースはパラレルワールドの関係にあると推測されている。そのためなのか、大まかな大陸の形や、気候その他の地理的条件などは一致する点が多いのだ。幸いにもミシオの住んでいたイデアの『天来』という国はアースにおける日本と非常によく似た場所と形の国で、設定を決めるときもアースの日本地図に、よく似た立地条件の場所を見つけて設定することができていた。現地の様子はとりあえずミシオが実際に住んでいた魚寝村や暦波町の様子を名前をごまかして転用することで決めてある。
『とりあえずこんなところか……。後何か困った質問とかあったら【直通回線】でこっちに連絡してきてくれ』
『うん。でも、できるだけ自分で考えて答えるようにする』
『そうか? まあ、そういうなら任せるけど、くれぐれも変なこと言って怪しまれるようなことはないようにしろよ?』
実際には言われていたことの穴を突く形で非常識を露呈しているのも知らず、智宏はミシオに対してそう注意する。通念能力でミシオが返事をするのを感じながら、ようやく智宏は体育館の舞台上、次に話しをする人物に視線を戻した。
そして気付く。自分も自分でかなり肝心なことを失念していたという事実に。
『あ、やべ……』
『どうしたの?』
『文化祭のことすっかり忘れてた』
『文化祭?』
ミシオが内心に浮かべた瞬間、舞台上からマイクを掴む音が拡大されて体育館に響く。音をたてた張本人、これから話をする人物はミシオと同じく学園の制服であるセーラー服の夏服を纏った女子生徒だった。とはいえ髪型はショートカットで、顔立ちもどことなく凛々しい、中性的なものであるため、制服が男ものならば男子生徒に見えていたかもしれない。
「えー、皆さん。お久しぶりです。生徒会からのお知らせです」
何ということのない普通の切り出し。だがミシオは、周囲の生徒達が先ほどと違い舞台に立つ女子生徒に集中しているのを感じていた。同時に、智宏が自分に向けて説明の意思を向けてくるのを感じ取る。
『生徒会長の最上火観子先輩だ。この学校の三年生で、そして――』
「本日より一ヶ月後の文化祭に向けて、特別企画『暮村学園・旧校舎の七不思議イベント』の準備期間に入りたいと思います!!」
瞬間、周囲の生徒達がいっせいに声を上げる。先ほどまで退屈そうに校長の話を聞いていたとは思えない盛り上がり方だ。ミシオが驚いていると、トモヒロが話の続きをこちらに送ってくる。
『今年の文化祭の目玉企画。取り壊し直前の旧校舎を丸ごと使った大掛かりなイベントを提案、実現して、圧倒的な支持を得ている先輩だよ』
九月一日、待ちに待って、万全の準備を整えて臨んだはずの新学期初日は、しかしいつの間にか生じていたその予想外に押し流され、後戻りのできない方向へと進み始めていた。
次回の更新は朝の八時です。
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