6:疑念
「まさかその匂いをさせたままで居るつもりじゃないだろうね?」
村に帰ってすぐにかけられたのは、当然と言えば当然なそんな言葉だった。
考えてみれば、智宏達はドレンナの実という恐ろしくくさい果実の皮と行動を共にしていたのである。智宏達にしてみれば鼻が既に麻痺し始めていたことと、危機的状況に追い込まれて失念していたが、そのにおいは確実に智宏達に染み付いており、特に直接持っていたミシオ自身と彼女を背負ってきた智宏は全身からは致命的に酷いにおいがした。どうやらブラインと最初に会ったとき顔をしかめているように見えたのは気のせいではなかったらしい。
その結果として、智宏、レンド、ハクレン、ミシオの四人は全員体を洗うよう命じられることとなった。
幸いなことにこの世界にも入浴の習慣はあり、それを男女で分ける習慣も存在した。結果としてミシオはハクレンの妻であるリンファに村の奥の洞窟の中にある女性用の浴場に連れて行かれ、そこでにおいを落とすこととなった。
聞くところによると洞窟の中には神殿などの村の公共施設が集中しているらしく、その一つに女性用の浴場があるらしい。よその村から来たその村の代表者を泊めるためのスペースもあるらしく、一部は大使館のような役割も果たしているのかもしれない。
さて、ここまではいい。ここで問題となるのは女性ではなく男性である。具体的に言えば場所だ。女性用の浴場が洞窟の中なら男性用はどこなのかということだ。
答えは村の中心の水場の周り。衆人監視のド真ん中だった。
智宏と同じく臭いが染み付いたハクレンが、恥ずかしげもなく裸になって、水場に貯められた水を汲み、手拭いを濡らして体を拭き始めたのを見て、智宏はまたもカルチャーショックを受けることになった。恐ろしいことにこの世界では男の羞恥心など鼻で笑われるらしい。
もちろん智宏にこんな真似ができるわけがなく、同じようにこの習慣になじめていないレンドと共にハクレン宅に水を運び込み、そこで体を洗うことにする。
「いててて……」
魔獣につけられた傷に注意して、濡らした手拭いで体を拭く。傷自体はハクレンが応急処置をしてくれたが、本格的な治療はこの後と言うことらしい。包帯のようなものを巻かれ、その場所を濡らさないようにとだけ言われた。智宏個人としては早く治療してもらいたかったのだが、この世界ではこの程度の傷はまだ浅いと判断されるらしく、臭いを落とすことの方を優先された。
(医学的にそれでいいんだろうか……? 後で手遅れっていうのは勘弁だぞ……)
異世界の医学に不安を覚え、できるだけ早く済ませようと考えながらふと後ろを見ると、そこには自分と同じように体を洗うレンドの姿があった。彼の方は軽い打撲くらいで大きな怪我はないらしい。
『あのレンドって人……、何か、隠してる』
先ほどミシオに言われたことを思い出す。隠しているとはどういう意味か?
もちろん智宏だってレンドに自分のすべてを話したわけではない。彼と話したことは自分の世界と自分の簡単なプロフィールくらいで、話していないことのほうが多いくらいだ。
だが話していないということと、隠しているということでは話が変わってくる。それはつまり言うべきことを意図的に言わないようにしているということになるのだ。
(でも、一体何を隠しているって言うんだ? お互いこんな状態で隠すようなことってあるのか? そもそもお互い違う世界の人間だっていうのに……。だめだ。判断材料が少なすぎる)
それにそもそも隠し事が重要なことだとは限らないのだ。実際はレンドがミシオに対して抱いた下心を隠して、それを見破られたというオチが待っている可能性もある。
そもそもあの少女がなにをもってレンドが隠し事をしていると判断したのかも謎だ。その判断材料が分からない状態で一方的にレンドを疑うのも得策とは言えないだろう。
(でも……)
再び背後のレンドを見る。レンドは自分と同じく体に染みついた臭いと格闘している。
(……こいつは自分の世界で何をしていたんだ?)
考えてみれば、智宏はレンドの世界のことについては聞いたことがあるが、レンドのプロフィールについては聞いたことが無い。その程度で疑うのも馬鹿らしいと言えば馬鹿らしいが、それでも謎であることには違いない。
試しに今判明しているレンドについての情報を頭の中でまとめてみる。レンブランド・リード、通称レンド。性格は割といいかげん。寝坊グセあり。年上なのは間違いないが、敬語を使うことをためらうタイプ。現在この世界にいる6人の異世界人の一人。何番目にこの世界に来たのかは分からないが、この世界における異世界人の先輩。魔術の世界の人。魔術で使っているのを見たことがあるのは、基礎魔術という彼の世界では常識に近い【方位磁針】ともう一つ。
「ってそう言えばさ、レンド。お前あの魔獣に使ってた鎖の魔術はなんだ? 見たとこ戦闘用っぽいけど、お前の世界って戦闘用魔術って違法じゃなかったっけ?」
「んん? 何だよ突然?」
「いや、単純に疑問で……」
「あれは戦闘用魔術じゃないよ。【蛇式縛鎖】って言う生活魔術さ」
「生活魔術? あれが?」
「ああ。高等教育で習ったりする魔術で、難易度はお前に教えた【方位磁針】より大分高いがな」
そう言うとレンドは手元にドーナツ状のデザインの魔方陣を浮かべ、件の【蛇式縛鎖】を発動させる。魔方陣から半透明の鎖が地面に垂れ下がり、次の瞬間には蛇のようにグネグネと動き出した。見れば、レンドが中心の穴の部分に次々と曲線を描いている。その曲線が消えると同時に鎖が曲線と同じ形をとるところを見ると、中心に描く線によって鎖を操作しているらしい。
「手元の魔方陣である程度操作できるんだ。魔力を魔方陣の特定箇所に流し込むことでこんなふうに動かせるし、軽い人間くらいなら持ち上げられる。あの魔獣は力が強すぎたけどな。んでもって、」
見ると鎖が急激に魔方陣の中に吸い込まれていく。智宏は何となく家にあったメジャーを思い出した。魔法陣はすべての鎖を吸い込むと霞のように霧散していく。こちらは先ほどの【方位磁針】のときも見せてくれた、イメージによる魔術の終了手順だった。
「こんな感じに巻き取ることも可能だ。一般的家庭でも使われてる便利魔術だよ。もちろん人間の捕縛にも使えなくわないが、そういう目的に使うならもうちょっとパワーのあるバージョンがあるから、そっちを使うのが普通だな」
「……すごいな。すごい便利そうだ! 頼む。この次はその魔術を教えてくれ」
あまりのすごさに当初の目的を忘れて飛びついた。生活魔術とはいえ智宏の理想に近い魔術である。物騒でない割にかなり便利なのだ。
「へ? まあ、魔術は術式と操作法を覚えれば理論なしでも使えるから何から教えてもかまわないけど。でも、魔術のまの字も知らない人間にはこの術式を覚えるのは大変だと思うぞ?」
そう言いながら「ほれ」っといって魔方陣を智宏に見せてきた。確かにそこには○ンパンマンもどきとは比べ物にならないほどの複雑な魔方陣が広がっていた。ドーナツの輪の部分にビッシリと見たこともない文字が刻まれている。確かにこれは難しいかもしれない。
「まあ、今日みたいなことがあると教えといたほうがいいかもとは思うけどな。せっかく魔術が使えるんだ。身を守るのに役立ちそうな魔術もいくつか教えておいてもいいぜ」
「そうしてくれると助かる。……正直何かないと不安でさ」
たとえ戦闘用の魔術でなくても役に立つのなら覚えておく価値はあるだろうという考えだ。あのような危機的状況にいつ出くわすか分からないという恐怖が既に染み付いているのを自覚するが、存在する危険を自覚していないよりはいいだろう。
「まあ、後いざという時にできることといえば神祈ることくらいだからな。『神様、私にこの危機を乗り越える力をください』ってなかんじで」
「そう言うときって『神様私をお救いください』じゃないのか?」
奇妙な祈り方にふと疑問を覚える。それでは神に祈る意味が無いような気がした。それでもレンドはそれが普通だとでも言うように首をふった。
「それだと他力本願で自分じゃ何にもしなくなるだろ? 『乗り越える力をください』なら自分が頑張らなきゃいけない分生きる努力ができるんだよ」
「そんなもんかね……?」
よくわからない感覚だが理屈は通っているようなので納得しておくことにした。異世界の価値観が自分の物と同じなはずが無いことはある程度体験済みだ。まして神様という単語から考えると宗教的思想かもしれない。それを否定する勇気は智宏にはなかった。
「まあ、今度やばい状況に陥ったら願ってみろよ。それより早く体洗っちまおうぜ。お前に関しては傷の手当てもしなくちゃいけないんだしさ」
「あ、ああ」
返事をして体を洗い始め、すぐに自分の中にあった疑いが薄れているのを自覚する。
(やっぱり何かの間違いじゃないか?)
そう思ってしまうほど、そこにいたのは今までと何も変わらないレンドの姿だった。