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CROSS WORLD ―五世界交錯のレキハ―  作者: 数札霜月
第三章前編 第三世界アース 夏休み編
50/103

8:刻印使い畑橋耕介

「それじゃあ、この身元不明の女性っていうのは行方不明になってたっていうレンド達の仲間で間違いないのか?」


「ああ。今確認しているらしいが、警察の方から流れてくる情報を見た限りじゃ、その可能性が高いらしい」


 智宏の質問に、紀藤孝明は顔をしかめながら答える。本人いわく面識あまりなかったらしいが、それでも知り合いに近い人間が死ぬというのは他人事ではないらしい。

 智宏自身苦々しい思いを抱えながら視線を前に向けると、そこにはテレビの画面が昼のワイドショーを映していた。

 移っているニュースの字幕は『住宅地近くで原因不明の爆発!? 事故か事件か?』とある。問題のレンド達の仲間である女性は、昨日の夜、この爆発に巻き込まれて死亡した可能性が高いらしいのだ。


「それにしても一体どういうことだ? 行方不明になったのは三日前の昼ごろ。それなのに死亡したのは昨日の夜ってのは……? どこかに監禁されていて、それが昨日殺されたってことか?」


「俺も良くはわかんねぇ。でもそれにしちゃあ随分派手なやり方だよな」


 ワイドショーを見た限りでは、事件は昨日の夜、ここからでもほど近い河川敷で突然大きな音が響き、驚いた近所の住人が駆け付けたことで事件が発覚したらしい。確かに随分と派手で、ある種挑発的な手段である。


「それにしても、もう一人の人も気の毒だよな。いや、被害に遭ったシャノンって人が気の毒でないわけじゃないんだが……。こっちの人は完全に関係なさそうな人だし……」


「まあ、確かに完全にとばっちりって感じだよな」


 人が一人死んだというだけで大きな事件ではある訳だが、さらに厄介なことに今回の事件の被害者は一人ではない。爆発に巻き込まれ、死亡したとみられる人間がもう一人いるのだ。


「坂町信也か。この人って別に協力者でも何でもないんだよな?」


「ああ。それに関してはこのアパートに戻ってきた異世界人に確認したよ。正真正銘、完全な部外者だそうだ」


 もう一人の被害者は坂町信也、三十一歳。職業は会社員との字幕が画面の下に映し出される。シャノンと言うらしい女性はニュースではいまだ身元不明となっているが、もう一人の被害者の名前は早くから公開されていた。大方遺留品に身元の特定ができる品があったのだろう。

 そんなことを考えていると、画面の向こうでは出演者たちがそれぞれコメントを始めていた。いくつかその内容を聞いてみるが、正直【集積演算(スマートブレイン)】を持っている智宏にとって目新しい意見もなく、また、異世界の存在を知らない彼らのコメントには真相に迫れるだけの決定的な要素が欠けているため、特に有益なものにはならなかった。

 人通りコメントが終わると、テレビの画面は次のニュースを流し始める。


「おい、君たち……。一つ、ずっと聞きたいことがあったんだが」


「はい?」


「なんすか大家さん?」


「どうして君たちは私の部屋に勝手に上がり込んで勝手にテレビを見ているのかね!!」


 振り返った背後から上がった声が、フィギュアの並ぶ部屋の中に響き渡る。

 現在智宏がいるのは、先日訪れたレンド達の滞在場所の一つ、岩戸荘の大野の部屋だった。どうやら現在は隣の部屋の住人である志士谷は不在らしく、大声を出したにもかかわらず苦情のようなものが聞こえてこない。


「ああそういえば言ってなかっすね。おかえりなさい大家さん。向こうの世界はどうでした?」


「今回のこれが楽しめる旅行にでも見えるのかね? 緊急事態だから連絡に使われることを甘んじて受け入れたが、今後こんなことは金輪際ごめんだよ」


 話しには聞いていたが、どうやら大野は今回の事態を伝えるために異世界に行っていたらしい。大野の刻印は制限はあるものの通常の転移魔法より高い頻度で世界を移動できるため、思ったよりも早く帰ってきたようだ。


「そもそもそのテレビはワイドショーなどと言う世俗的なものを映すためには存在していないのだ。もっと高尚で、かつ二次元的なものを映すために――」


「要するにアニメっすよね? まあ、なんだかんだ言いながらも問題のニュースが終わるまで止めようとしなかったあたりとか、大家さんらしくていいと思いますけど」


「うっ、うるさい!! それよりも、まださっきの質問に答えてもらってないぞ!! どうして貴様らはこの部屋で平然と居座っているのだ!!」


「いや、ついさっき智宏がこっちに様子を聞きに来まして。アパートの俺しかいなかったんでいくつか分かってる事情とか話して、んで新情報を求めてテレビを見ようってことになったんですけど」


「そこでなぜ自分の部屋で見るという発想にならんのかね!?」


「いや、俺の部屋のテレビ最近映り悪くて」


「だからと言ってなぜ人の部屋に勝手に上がり込むんだぁああああ!!」


 さっきまでの空気はどこへいったのか、孝明と大野は元気に騒ぎ始める。いくら知り合いの仲間とはいえ、直接の面識が無ければこんなものかもしれない。

 とはいえ、このまま何もせずにいるには少々時間の無駄だ。そもそも智宏がこの部屋に上がり込んだ理由は、連絡員という役割をいやいやながらも引き受けたという大野に、事件に関する情報を聞けるかと考えたからなのだ。


「あの、お取り込み中のところ悪いんですけど、できれば事件についてわかっていることを教えてもらえませんか」


「……むぅ? なんだ? 随分と首を突っ込んでくるじゃないか?」


「いや、僕やミシオもこの世界に来る前にちょっとした事件に巻き込まれてまして、一応用心して情報を仕入れておこうかと……」


 少ない可能性ではあるが、この事件が智宏達が遭遇した第六世界によるものと言う可能性もある。被害者と見られているシャノンという女性とは接点が無いため因果関係は今のところないが、それでも用心に越したことはない。だからこそ智宏だけとはいえ、大事な試験勉強を棚上げにしてこちらに出向いて来たのだ。もっとも、ミシオへの知識のインストールはあらかた済んでいるし、出がけにミシオに問題集の山を笑顔で押し付けてきたので、勉強自体は全く滞っていないのだが。


「そうは言っても、私とてそう多くの情報を握っているわけではないのだがな。奴らとてこの世界の警察と連携で来ているわけではないから、手に入る情報もマスコミ向けのものや野次馬として実際に見たものに限られるようだし……」


「じゃあ、見解としてはどうですか? 確かにおかしな事件ではありますけど、もしかしたらこの世界の理屈で起こった事件って可能性もありますよね?」


「いや、被害者が本当に関係者かどうかはともかく、爆発の方はほぼ間違いなくこの世界のものではないらしい。なんでも、爆発があったにもかかわらず、地面や周囲に焦げたり焼けたりした跡が無かったそうなのでな」


「えっと……、それってつまりどういうことなんだ? いや、そもそも爆発ってガソリンに火がついたりするあれだろう? 焦げ目が無いとかあり得るのか?」


 大野の情報に、そばで聞いていた孝明が疑問の声をあげる。すると大野は一度鼻を鳴らすと、部屋の奥の椅子に座って腕を組み、先ほどよりも偉そうに話し始めた。どことなく人を小馬鹿にしたような雰囲気がある。


「さて、まず不勉強な孝晃君の誤解を解いておきたいんだが、そもそも爆発とは何かね?」


「え? 今言ったようにガソリンとかがドカーンとなるあれじゃないの? 智宏は分かる?」


「空気なんかの急速な膨張、でしょう?」


「……チッ」


 智宏の答えに、大野は少し悔しそうに舌打ちをする。どうやら二人ともわからない状況で偉そうに講釈するつもりだったらしい。


「……その通り。爆発と言うのはそもそも、空気などが急激に膨張する現象のことを言うのだよ。孝明君の言う爆発は、その中でも熱膨張で起こるものだね」


「それでどうしてあんな感じのドッカンになるんだ? 膨張って要するに空気が膨らむってことだろう?」


「君はそれでも高校生なのか? 不勉強にもほどがあるぞ」


「えっと……、そうだな……」


 智宏は何とかうまく説明しようとうまい例えを頭の中で探す。少しだけ刻印を使おうかとも考えたが、幸い使う直前にうまい例えが見つかった。


「例えばさ。ここに人ゴミがあるとする。有名な神社の初詣でもいいし、野球やサッカーの試合の後でもいい。とにかくちょっとやそっとじゃ身動きできないくらいの人ゴミだ」


「おう。イメージできたぞ。ライブの会場とかそんな感じだよな」


「さて、そんな人ゴミの中で、一人の人間がいきなり十倍くらいに太ったとする」


「……君は君で、すごい例えを持ちだすな」


「さてどうなる?」


「え、いや、そうだな。とりあえず迷惑だな」


「なぜ?」


 智宏の質問に孝明は腕を組んで考えこむ。横から注がれる大野の呆れたような視線を無視してしばしその様子を観察していると、少しして孝明は自身の中で答えを導き出した。


「周りにいた人が膨らんだ奴に押しのけられるから。いや、この場合突き飛ばされるって言ったほうがいいか?」


「どっちでも正解だよ。ではもしそうなったら人ゴミはどうなる?」


「そりゃ危ないことになるな。たまに事故なんかであるドミノ倒しになるかもしれんし、突き飛ばされれば人や物にぶつかるかも……、って、ああなるほど。これと同じことが空気で起きる訳か」


 どうやら智宏の説明で理屈を理解したらしく、孝明はしきりにうなずいて礼を口にした。隣にいる大野が視線だけで「よくそれで理解できたな……」などと言っているがこの際気にしない。要はわかればいいのだ。


「まあいい。とにかく爆発と言うのはそういうものだ。空気が膨張したことによって体積が増え、空気が行き場を求めて周囲に拡散する、今の例でいうなら膨らんだ人間によって周りの者が突き飛ばされると、それが衝撃波となって周りを襲うという理屈だ」


「要するに、別にガソリンに火がついてドッカンしなくても空気さえ膨張すれば爆発は起こるってことっすか?」


「まあそういうことなのだが、問題なのは現実的に考えて熱膨張以外にこんな騒ぎになるほど空気が膨張する要因が無いということだ。粉塵爆発だって空気中の粉塵が一斉に燃えることによる空気の熱膨張だし、水蒸気爆発だって液体が体積の大きい水蒸気になることによる熱膨張だ。火のないところで爆発は起きないのが普通なのだよ」


「まあ、薬品の爆発という線もないわけじゃないけどね。でも今回は考えにくいかな。規模が結構大きい上に場所が場所だし……」


「なるほど。それで話が最初に戻るわけか。『この世界の理屈で、熱なしで爆発を起こすことは難しい。だから異世界人の手による犯行だろう』と」


 実際、智宏にも手札としてそれらしい魔術の知識がある。【空圧砲(エア・バスター)】と呼ばれるその魔術は、爆発とは多少性質が違うものの、大量の空気を魔力から作って放出することで相手に空気圧を叩きつける代物だ。多少の違いはあるだろうが十分に爆発の代わりとして機能する。


「一応今回犯行に使われたのではないかと言われているのが、オズの魔術で空気を発生させて使用する気体属性の魔術。まあ、俗にいう風属性の魔術というやつだな。あと、イデアの超能力で念動力(サイコキネシス)なんかの能力を使えば衝撃波のようなものは起こせるらしい」


「あと可能性があるとしたら刻印使いによる犯行か。って言ってもこっちは完全に未知数だからな……」


「二人ってなんだかんだで詳しいよな……」


 二人の話に孝明は感心したような声をあげる。確かに言われてみれば二人の知識は普通に関わっているだけの人間と比べたら深いものだったかもしれない。


「さて、とりあえず私が知っているのはこの程度だな。これ以上はこのメンツで話していてもらちがあかんだろう。情報が少なすぎるし、そもそも本当に被害者がシャノン女史なのかも――」



「いえ。被害者は確かにシャノンさんでした」



「え?」


 背後からした声に驚き、智宏は背後を振り返る。するとそこには背広を着た、二十代半ばと思われる男性が一人、部屋の扉を開けて体を半分こちらに入れるようにして立っていた。


畑橋(ハタバシ)さん!?」


「今、警察の方に行ってきました。被害者は確かにシャノンさんです……」


 それだけ言うと、畑橋と呼ばれた男は入り口付近の壁にもたれかかるようにへたり込む。右手で目元を覆い、蚊の鳴くような声で一言だけ呟く。まるで嘆くように。


「私が刻印さえ発現させていれば、助けられたかもしれないのに……」






 畑橋と呼ばれた男性が落ち着くのには、それから十分ほどの時間を要した。

 部屋の入口にいつまでもへたり込ませているわけにもいかないので部屋の中まで連れて行き、とりあえず座布団の上に座らせてお茶を飲ませる。

 落ち着くまでの間に智宏が見てとった畑橋という男の印象は、いかにも真面目なビジネスマンというものだった。急いできたせいで多少乱れてはいるものの、夏だというのに長袖のスーツに身を包み、弛んではいるがネクタイを締めている。恐らくは普段はもっとぴしっとした着方をしていたのだろう。かけている眼鏡もフレームのデザインが凝っていて、それがまた理知的な印象を与えてくる。

 ただ、わからないのはその手首に巻かれた腕時計だ。この畑橋という男は、本来片手で事足りるはずの腕時計をどういうわけか両手首につけている。どちらもスーツにあったデザインの、いやな言い方をすれば高そうな時計ではあるのだが、わざわざ両手首に巻く理由がよくわからなかった。


「取り乱したところを見せて申し訳ない。どうにか落ち着きました」


 お茶を飲み干してコップを置き、畑橋は丁寧な謝辞を述べる。まだ若干顔色が悪いが、どうにか平静を保てる程度には落ち着いたらしい。

 と、落ち着くと同時に智宏の存在に気がついたのか、ハッとした様子で畑橋はこちらに向き直った。


「そういえばあなたとは初対面でしたね。はじめまして。私は異世界チーム国交対策室(クロス・ワールド)のメンバーの畑橋耕介(ハタバシコウスケ)です」


「吉田智宏です。ってあれ? 今、異世界チーム国交対策室(クロス・ワールド)のメンバーって言いましたか?」


「ええ。協力者ではなく正式なメンバーです。だからオズ人みたいなアース人の存在は報告で聞いていますよ。

もともと、異世界に行く以前は他の仕事についていたのですが、異世界に放り出されている間に無断欠勤で首になってしまいまして……。仕事が無くなって途方に暮れていたところを彼らに雇われたんです」


「そ、そうですか……」


 ただでさえふさぎこんでいるのを無理しているような状況なのに、余計に暗くなりそうな話題を振ってくる畑橋に、智宏は内心で不安を覚える。

 何とかして元気づけなければ、このままではこの人はどこまでも堕ちていく。

 そんな確信をもった智宏はとにかく話題を変更することにする。それもできるだけ自然に、精神がマイナスからプラスに向かうような話題へと。


「そ、そういえば異世界チーム国交対策室(クロス・ワールド)の仕事って大変なんですか? レンドなんかは結構やりがいは感じているみたいですけど」


「ああ。大変と言うなら大変ですね。ただ、忙しさと言う点でいうなら前の仕事の方がひどかった。なにしろ前の会社は人材を使いつぶそうとしているのではないかと思うほどの勤務時間だったからね。今はむしろ楽になった方だよ。そう考えれば転職して正解だったかな」


(おお!)


 畑橋の顔にかすかに明るい色が見え始めたことに、智宏はいっそ歓喜すら覚える。背後で見ているだけの二人も同様だったようで、どちらのものなのか安堵のため息すら聞こえてきた。


「特に私は同僚にも恵まれた。いや、この場合先輩と言ったほうがいいのかな。有能で親切な女性でね。私をこの世界に返してくれて、職を失った私を異世界国交対策室(チーム―クロス・ワールド)に加われるように計らってくれたのも彼女なんだよ。……まあ、そんなシャノンさんも、この事件で亡くなってしまったが……」


 畑橋の最後の一言に、部屋の中の空気が地に堕ちる。まさかの会話の落とし穴だった。それもマントルまで続いていそうなほどの特大の落とし穴だ。ミシオでもここまでの落とし穴は作れまい。


(……これは……、下手に口出しして元気づけようとしても逆効果かもな)


 この時点で智宏は畑橋に対して下手な慰めは意味をなさないと悟った。智宏としてもそれなりに親しかっただろうことは予測していたのだが、顔見知り程度ならともかくそこまで親密な仲だったとなると、他人が下手に元気づけようとするのはむしろ無神経というものだ。


『ところで二人とも。助け船を出す気が無いのならせめてその辺の事情くらい教えておいてくれません? 初めから深い仲の人だと知ってれば多少の配慮もできたのに』


『いや、悪い。ぶっちゃけ俺もこの人とは何度か話したことがあるくらいで、交友関係までは知らないんだ。大家さんも俺に同じでさ』


『そもそも君は、私が彼の女性関係に興味を示すとでも思っているのかね?』


『『いいえ。ちっとも』』


 小声ながらも揃った声で、二人はそう断言して見せる。ことこの場では大野を頼った智宏に非があると考えるべきだろう。


「私も、彼女がいなくなってからできるだけのことはしたんです。心あたりは全部あたって見たし、彼女が帰ってくることを祈り続けた。私は無神論者ですが、幸い私の刻印はまだ発現していませんでしたので……」


「……そういえば、さっきも刻印が発現すれば、みたいな話をしていましたね?」


「ええ……。話には聞いているかもしれませんが、実は私もそこにいる大野さんと同じ刻印使いなんですよ。ただ、私の場合まだ発現していないのですが……」


「どういうことなんです?」


「要するに私のように異世界に行っても何かを願ったりしなかったのだろうよ。刻印とやらは通常、体内にある大量の魔力が強い感情に反応して、願いをかなえようと動くことで発現する。逆に言えば、それほど動揺しなかったり、動揺が過ぎてただ混乱しているだけだと発現しないということだ」


 言われてみれば智宏自身にも思い当たる節があった。智宏は異世界について四日目に、危機的状況に陥ったことで刻印に発現した訳だが、それ以前にも異世界で目覚めたときと、三日目に竜猿人(ダイノロイド)に襲われた時に激しく動揺している。

 しかしながらそのどちらも刻印の発現には至っておらず、三日目の教訓から、思考を意識的に維持するように心がけていた四日目に刻印を発現させた。恐らく前の二回では動揺が激しすぎてある種の思考停止(パニック)状態に陥っていたため、刻印の雛型となる願いを抱けなかったのがその理由だろう。


「私の場合、異世界遭難者が最も動揺しやすい異世界移動の直後はただ混乱していただけですし、その後も特に何かのトラブルにも巻き込まれることなく、発現の機会もありませんでした。そのため私は全属性の魔力を大量に体内に抱え、身体能力の上昇も見られながら、刻印にだけは発現していないんです」


「実際、刻印が発現するほどの動揺を得るとしたら、私のように異世界に放り出されてすぐに発現するか、その後、世界の違いなんかでトラブルに巻き込まれるくらいしかチャンスはないからな。これを逃すとたとえ刻印使いとしての素養があろうといつまでも発現しない可能性もある。普通に暮らしていれば異世界行き以上の衝撃などそうはないからな」


「……それでも、願ってはいたんです」


 大野の言葉を聞きながら、畑橋は悲しげにそう漏らす。


「願ってはいたんです。彼女の帰還を。私を世話してくれた親切な彼女が、記憶のままの彼女が戻ってきてくれることを……。でも、だめだった。心の底から祈っていたはずなのに、私の中の魔力はその願いを叶えてはくれませんでした。結局私は、彼女を見つけることも、彼女を取り返すこともできないまま、こうして彼女の遺体を確認するはめになってしまった」


 そこにある嘆きは、智宏が考えるよりも複雑だろう。願いをかなえる力を持ちながら、彼は自身の願いをかなえることができなかったのだから。


「何が足りなかったんでしょう……? 確かに私は冷静な方ではありますが、それでも今回は本気で願っていたはずなんです。それでも、私に刻印は発現しなかった」


 疑問と共に紡がれる言葉に、いつしか嗚咽が混じる。智宏達にとって身近に起き、しかし究極的には他人事でしかなかったその事件は、この瞬間から確かに三人の心に影を落とすものとなった。


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