10:夜の始まり
暗い海の中を沈んでいく。
それが、ミシオの意識が感じた感覚だった。
丸で光の届かない深海に向かって沈んでいくような感覚。それ自体には不思議と苦痛はなかった。呼吸も水圧も問題を感じることはない。まるで海の一部になったような奇妙な感覚。
ただ、周りに魚の一匹もいない、暗い水中にミシオ一人しかいないと言うのが少しさびしかった。
ふと、はるか上、恐らくは水面があるであろう場所から明かりがさしこむ。暗い海の中で唯一深海まで照らすような明るさを持つその光は、気付くと光ではない、別の形をとっていた。
最初に現れたのは両親、幼いころになくなったため、目元などがあいまいで良く見えない。
次に現れたのは祖父。両親が泡となって消えてしまった後に現れたそれは、ミシオに小さく笑いかけた後同じように泡となって消えてしまった。
そこに来てようやくミシオは悟る。今見ているのは自分の走馬灯なのだ。おそらく今自分は死に向かっているのだろうと。
そしてその原因も思い出す。自分を殺した青年の、苦痛と悲しみに彩られた表情も。
怒りは湧いて来ない。彼の行為の理由は大体予測できる。それによって生まれる感情は怒りではなく、こうなることを防げなかったことに対する悲しみだけだ。結局自分は平穏の中で生きていてほしかった人すら、自分の問題に巻き込んでしまった。
と、そこまで考えたとき急に目の前の光が熱を帯びた。体が急に熱を取り戻し、同時に目の前の光が再び誰かを形作る。この局面でまだ出てくる人間がいることに驚きながら、ミシオはその姿を確認した。
誰だかはハッキリとは分からなかった。だがその姿は今までの三人と違いはっきりとした実態を持っているように感じる。加えてその様子も、こちらを見ているだけではなく、まるでこちらに手を伸ばしているように感じられた。
(誰……? 見覚えが……、ある)
そう感じ、ミシオはノロノロと手を伸ばす。戸惑いを抱えながら、それでもゆっくりと手を近づけていくと、相手の手が、待ち切れないとばかりにミシオの手を掴んだ。
その瞬間、大きな波が砕ける音とともにミシオの意識は覚醒した。
「あ……れ……?」
目を覚ましたミシオはしばし自分の置かれている状況が理解できず、横になったまま呆然としていた。目の前には自分の寝ていた大きな岩場。ゴツゴツとしながらもある程度平らなその場所は、昔海で遊んでいたころによく集まっていた思い出の場所だ。
「……ん」
起き上がり、右手に若干のしびれを覚える。どうやら右肩に左手を置き、それを枕にして眠っていたらしい。どうやらミシオは左手と左足を前に投げ出すようにして横倒しに寝ていたようだ。奇妙な寝像だったが、今自分が置かれている状況を考えるとあまり問題にはならない気がした。
「なん、で? 私……?」
ゆっくりと記憶をたどっても、最後に思い出すのはカイルの悲痛な表情だ。それを思い出すだけで巻きこんだ申し訳なさで胸がいっぱいになるが、あの状態がどうして今のこの状況に繋がるのかがよく分からない。
と、そこまで考えたところでミシオは、自分が着ている改造した学校指定の水着に一つの異変が起きていることに気が付いた。
「……え?」
自分の胸元、本来名前を記入する場所にはさっきまではありえない光景が広がっていた。
眼に飛び込んできたのは薄めたような赤色。鼻をつくのは弱いながらも明確な鉄の臭い
胸元に広がるそれは、通常ではありえない血痕だった。
「なに……、これ……?」
少女の思考が一気に混乱で満たされる。自分がここにいる理由だけならともかく、いくら何でも血痕の理由までは到底想像できなかった。
魚の血、という可能性が頭をよぎる。それならいつも捌くときによく見ているし、別段珍しくもない。だがミシオには、水着に付着したそれが、もっと別の危険な事実の証に思えてならなかった。
「よう、お目覚めかい?」
混乱した思考を踏みにじるように、クチャクチャというガムをかむ不快な音が声と共に耳に入ってくる。
僅かに遅れてその意味を理解したミシオは、ほとんど条件反射に近い思考回路で飛び退き、声のした背後に向きなおった。予想通り、できることなら見ないで済ませたい親戚の顔がそこにあった。
「エイガ……!!」
「ご挨拶だな。こっちは年上だぜ? 『さん』くらいつけろよ」
「……」
エイガの軽口を無視して、ミシオは横目で海までの距離を測る。見たところエイガとの距離よりも海までの距離の方が短い。海に飛び込めばミシオの独壇場であることを考えれば、逃げきることは不可能ではないだろう。
「おいおい、会ったとたんに逃げる算段かよぉ? 久しぶりに会ったのにずいぶんつれないじゃないの?」
「……」
「だんまりか。まあ当然だよなぁ。俺、結構酷いことしてるしぃ?」
そう言うとエイガはニヤァっと背筋に不快な寒気が走るような笑いを浮かべた。不快な害虫を背中に流し込まれたような猛烈な不快感に耐えられなくなり、すぐにでもここを離れようと決意する。
「っておいおい待てって。あんまこっちの話を聞かないと後悔するぞ」
「しない。絶対」
「おお、おお、言い切ったねぇ。その血塗れの理由も知らないで」
「……!!」
何かを知っているような口ぶりに、ミシオの心臓が跳ね上がる。この血がいったい何のものなのか、猛烈ないやな予感がミシオを襲ってくる。
「何を、知ってるの?」
「何でも知ってるぜぇ。お前がこの十日間どこにいたのかとか――」
「っ!! まさか――」
その言葉を聞いた瞬間、ミシオ自身考えていたことが的中したことを悟り、同時に怒りを湧きださせる。だがその怒りは次にエイガが口にした言葉によって粉々に砕け散った。
「――俺の後ろに誰が、どんな状態で転がっているかとか、な」
「……え?」
言って、エイガは一歩、その身を横にずらす。その向こうにあったのは、黒いはずのウェットスーツを赤く染め、体重を岩の一つに預けるカイルの姿だった。
「カイル!!」
慌てて彼のもとへと駆け寄り、その生死を確認する。意識はなく、腹にある傷からはおびただしい量の血が流れてはいるが、どうやらかろうじて生きているらしい。ミシオは頭の手拭いを解くと、止血のために腹に巻きつける。ウェットスーツの隙間からは、鋭い刃物で切りつけたような傷が三本見えた。
「さすがにもう意識はないかぁ? さっきまではまだかろうじて意識があったんだが……。それにしても便利だなそいつの能力。海水だけじゃなく血液まで操って止血ができるなんて。確か液体を操作できる能力だったっけか? 形は違えど通念能力者に分類される俺たちとしては憧れるものがあるよなぁ」
「……どうして」
「んん?」
「どうしてこんな、酷いこと!!」
「酷いこと、ねぇ? ……ウックックック、アァッハッハッハ!!」
最初は噴き出すように、しかしどんどん声を上げてエイガは笑う。その笑い方が、ミシオにはどうしようもなく嫌な予感を抱かせた。考えてみればエイガが今まで何の考えもなくミシオの前に現れたことなどないのだ。彼が来るときは、必ずミシオにダメージを与える方法を携えてやって来る。
「酷いこと!! ああ、酷いこと、ねぇ。ウックックック!! ああ、そうだ。本当にそいつは酷い!! ……でも、」
腕を広げ、わざとらしい手振りをつけてエイガは笑う。そしてその後に急に笑うのをやめ、残酷な笑みを浮かべながら決定的な一言を口にした。
「それをやったのはお前じゃないか」
「…………え?」
放たれた言葉の意味が分からず、ミシオの思考が一瞬停止する。だが、次の瞬間にはエイガの言葉を質の悪い嘘だと判断した。実際エイガは嘘をつくのがうまい。これもミシオが傷付くのを見るための残酷な嘘だろう、と。
「おいおい、信じてないって顔だな。根拠はなんだ? 自分はそんなことしないっていう自信か? それとも凶器の有無か?」
「……両方」
そう、実際それが明確な根拠でもあった。自身への自信もそうだが、特にミシオにはカイルにあれだけのけがを負わせられるような凶器がないというのは決定的だ。漁に使う道具はあるが、一番危険な銛を使っても、あそこまでの切り傷は与えられないだろう。第一銛自体、海の中でなくしてしまっている。ミシオにはカイルを傷つける動機はおろか方法すらない。
だが、そこまでのことが分かっていてもエイガは嘘をつくのをやめない。
「おいおいおいおい、何それ? マジで言ってんの? もしかしてあれ? 無自覚に覚醒してましたってやつ? かぁっくいい!!」
「なに、言ってるの!?」
「俺たちの話をしてるんだよ。俺たちに凶器なんて必要ないって話をな」
「必要……、ない?」
意味の分からない発言の数々にミシオは混乱を隠しきれない。本当なら大急ぎでカイルを医者のいる暦波町に運ばねばならないと言うのに、エイガの話が気になってしょうがない。まるでここで聞き逃すことが致命的なまでに危険な話であるかのような予感がどこからともなく不気味に湧きあがってくる。
「お前もいい加減自覚してるんだろう? それとも見せた方が早いか?」
「何を――」
「――おれたちがとっくに、人間超えた存在だってことをだよ!!」
瞬間、エイガの体から魔力が吹き荒れる。それは見覚えのある黒い霧のような魔力。ミシオが異世界で押し付けられた、違法な実験の完成系。それが目の前で自身の敵対している相手から噴き上がっていた。
「魔力属性は妖属性。こいつは『とある条件下で生物が死ぬときに発生する特殊な魔力』なんだそうだ」
その霧を纏い、エイガは霧の正体を口にする。その表情は明らかに楽しそうで、同時に目の前にいるものを獲物としか見ていない残酷な獣のものだった。
「この霧は生物が死ぬときに、その生物の生前への未練によって変質することで生まれるんだとよ。そして俺達は、こいつを体内で生み出すことによって、霧以上の効果を発揮できるようになっている」
「霧、以上……?」
思考がマヒしかけ、追いつめられるような心境の中で、ミシオは無意識に聞き返す。必死で目をそらしていた事象にどんどん焦点があっていくような感覚に全身から冷や汗が流れ出る。
「生物が死ぬときに生まれるこの霧は、俺達の体で生み出されるようになった今でも、その生物の生前の姿を覚えている! 故にこの霧はただの霧の状態でも筋肉に近い役割を果たすし、こうして集めて密度を上げてやれば――」
言葉に従い、霧がエイガの腕で密度を増す。さらにそれだけではとどまらず、だんだんとはっきりした形を取り始め、色も黒から薄い緑に変わり始めた。そしてその形は筋肉を再現するように盛りあがる。
「――おれたちの意思一つで、生前の姿を、取り戻す!!」
現れたのは鱗だらけの腕だった。その太さはゴリラよりも太く、その五本の指の先には鋭いかぎ状の爪が輝いている。その腕に、ミシオは見覚えがあった。
「……竜猿人!!」
そしてエイガは、その正体を見せつけるように全身を魔力で包みこみ、腕と同じ別生物のそれへと姿を変える。
顔の部分以外を変貌させたそれは、異世界で出会った人に近い、けれど決して人とは交わらない生物だった。恐竜が進化した猿人。時に人を襲い、引き裂き、喰い殺す猛獣の姿がそこにあった。
「これがこの力の本当の使い方、【妖装】だ。ついでに言えば、あいつ等はこの能力を持った人間のことを『悪魔憑き』なんて呼んでやがったよ。実験に使ってたこの生き物が、異世界の人間には悪魔みたいに扱われてたからってさ。さて、おまえは何の生き物だ? 化け物らしく正体を見せてみろよ」
「……あ」
「それとも正体も知らないのか? なら少なくとも爪のある生き物だろうぜ。っそうじゃなくちゃそんな傷はつけられない」
「……ああ」
言われ、ようやくミシオは見ないようにしていた疑問を自覚する。
異世界の研究所から逃げだすとき、彼女は拘束衣によって身動きを奪われていたはずなのだ。なのに、逃げだす直前に目覚めたときには拘束衣の袖はズタズタに切り裂かれていた。いくら霧によって身体能力が上がっていたとしても、刃物もないのにあんな結果を出せるはずがない。
つまり、ミシオにはあったのだ。分厚い拘束衣の生地も、拘束するベルトも、そして何より人間一人を引き裂けるだけの鋭い爪が。
(でも、そんなはず……!!)
自分が何にショックを受けているかも気がつかぬまま、ミシオはカイルの腹の傷に視線を戻す。そこにあるのは何かで切り付けられたような三本の傷。まるで爪か何かで切り付けられたような傷跡だった。
(私が、斬りつけた? エイガの言う【妖装】で?)
呼吸がうまくできず、ミシオのひざから力が抜ける。立て続けに起きたショッキングな出来事が、見ないようにしていた自身の体の変質が、そして何より、ずっと耐えてきた反動が一斉に心を追い詰める。
「いいねぇ、その表情!! さっき見たカイルに殺されかけてたときの顔も最高だったが、今の表情は過去最高だ!!」
そんなミシオを見て、エイガは歓喜に打ち震える。手に入れたかったものをようやく手に入れたとでも言うように愉悦を顔に浮かべ、ゆっくりと右手を持ち上げると、岩の上に崩れ落ち、目を見開いて浅い呼吸を繰り返すミシオに、エイガはゆっくりと近づいて来る。
「……あ、ハァ……、ハァ……、ハァ……、うっ、ハァ……、ハァ……」
「じゃあなミシオ。長いこと楽しませてはもらったよ。礼を言うぜ」
そう言って巨大化した腕を振りかぶる。逃げなければという考えが浮かぶのに、気力も手足もそれに応じない。
だがそれはが振り下ろされる直前、付近の森から響いた轟音がその動きを阻んだ。
「な、なんだ!?」
反射的に音の発生源を確認する。場所は岩場から少し離れた森の中。そこからどういう訳か、何かが爆発でもしたように煙が上がっている。
そして気が付いた瞬間、粉塵を突き破り、額に刻印を輝かせた少年が背後に魔方陣を展開しながら突っ込んでくるのが見えた。
「ミシオォオオオオ!!」
走る少年は叫びと共に、目の前に魔方陣を展開し、打ち出した炎弾をエイガに直撃させた。
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