5:追跡
「どういう神経してんだあいつは……!」
ミシオを追って屋上に上ってすぐ、智宏は驚愕とともにその言葉をはきだした。
屋上に上ったとき、智宏はほぼ間違いなく追い詰めたと思った。
だが、ミシオはアクション映画顔負けの鮮やかさで、ビルの屋上から隣のビルの屋上にダイブしたのだ。
「そこまでするか普通!?」
苦いセリフを吐きだしながらそれでもミシオを追って智宏も跳ぶ。気功術によって強化された体は、地上十メートルはあるビルの隙間を軽々と飛び越えた。
「おっかねぇ!!」
だが、それでも恐怖が無いわけではない。当たり前だ。下を見ればビルとビルの隙間から地面が覗き、そしてまかり間違ってそこに落ちようものなら怪我で済むかもわからないのだ。つくづく躊躇いなく跳べてしまったミシオの神経が信じられなかった。
だが、ミシオの逃走はその程度では止まらない。
ビルからビルへ飛び移った智宏を見ることもなく、彼女は屋上のはしの手すりに飛び乗ると、そこを足場に次のビルへと飛び移った。着地してすぐ柵をつかみ、バランスをとると、今度はビルの淵沿いに右のビルに向かって疾走し、それを助走にして三度飛び移って見せる。そうして飛び移った先でさらに柵をつかむと、今度は無駄のない動きでそれを乗り越えた。
その足取りには迷いがまるで見られない。選ぶコースも無理のない確実に飛び越えられる安全なルートばかりだ。
恐らく他の人間ではこうはいかないだろう。運動能力的にはある程度の身軽さがあれば可能かもしれないが、ビルを飛び移る度胸と、ルートを選ぶ判断からは明らかに普通なら持っているはずのない経験を感じる。
(明らかにこのルートを使い慣れている……。でも何でだ?)
人が通れないような道を的確に選び、恐怖を無視して走りぬける。まるで逃げることに慣れているような動きだ。
彼女が事前に手袋をはめたこともその予想に拍車をかける。事前にそんなものまで準備しているなどただ事ではない。
(……絶対おかしい。これじゃあ、ますます逃がすわけにはいかないじゃないか!!)
即座に決断を下し、ミシオの通ったルートから外れる。彼女がいる斜め向かいビルをまっすぐに目指し、柵を足場に空中に飛び出した。飛び越えるには距離がありすぎる距離。ミシオでさえ隣のビルを経由する形で跳び移ったそれへの道を、智宏は異世界の技術でカバーする。
(術式展開――【多目的鎖】!!)
智宏の手の先で魔方陣が展開され、そこから一本の鎖が飛び出す。鎖は目指すビルの柵に絡みつくと、出てきた魔法陣に吸い込まれる形で智宏をその屋上に引き込んだ。ビルの高さが一段低くなっているのも幸いし、ただの身体能力だけで飛んでいるミシオには跳べない距離を、魔術と気功術の併用で跳び越える。その結果として二人の距離は短縮され、さらに、
「追い詰めた!!」
「っ!!」
ミシオの逃げ場をうまく封殺することに成功した。
ここはビルの屋上だ。ここから逃げるには他のビルの屋上に逃げるか、建物内部に逃げ込むしかない。だが、ビルはミシオに対峙する智宏から見て左右にあり、ミシオがどちらかのビルに飛び移ろうと思えば【多目的鎖】で確実に捕まえられる。それはビルへの出入り口でも同じで、智宏の背後などもってのほかだ。残るルートはビルのないミシオの背後、先ほどの商店街しかないが、そこには飛び移れるような場所はない。
普通なら観念するべき状況。
だが、ここでもミシオは智宏の上を行く。
ミシオは最後のルート、商店街方向の空中に向かって飛び出したのだ。
「んなぁ!?」
ミシオの行った行為の危険性をすぐさま認識し、智宏がビルの柵を飛び越える。するとその向こうでミシオが、街灯のポールを空中で捕らえてそれに巻きつくようにしがみつき、その勢いでポールを中心に回転しながら滑り降りていくのが見えた。
「サーカスでやれぇええええ!!」
あまりに人間離れした動きに思わず突っ込む。
魔術や気功術、さらには刻印という常識外の力を持つ智宏から見てもそれは非常識な光景だった。そもそもミシオは、まだ身体能力を上昇させるあの黒い霧すら使っていないのだ。
「無茶苦茶だ! くそ!」
ミシオを見失うのを避けるためにビルの上を移動し、対岸に手ごろな路地が無いせいかそのまま商店街を走るミシオと並走するように移動する。ミシオが下りてくるのを見つけた何人かの一般人に見つかったが、もはや気にしている余裕もない。子供に指をさされても気にしない。
ようやく【多目的鎖】を用いて路地に降りたのは、ミシオが対岸の路地に逃げ込むのと同時だった。降りた場所のおかげで人に魔術を見られることこそなかったが、さっきまでよりミシオとの距離が空いてしまっている。
「逃がすか!!」
間髪置かずに走りだし、ミシオの入った路地に飛び込む。
だが、路地に入ってミシオを発見し、途中にあったビールの空箱の山をよけてその先に出ようとしたとき、急に足を何かにとられた。
「なぁ!?」
驚いても状況は変わらなかった。
バランスを崩した智宏の体は地面に投げ出され、それに追い打ちをかけるように崩れたビールの空き箱の山が殺到した。
「ハァ……、ハァ……、振り切った、かな……」
背後でビールの箱が派手に崩れる音を聞いた後も走り続けていたミシオは、迫ってくる気配が完全に消えたことでようやく足を止めた。路地の壁にもたれて上がっていた息を整える。
「ハァ……、ハァ……、危なかった。これからは智宏達にも、気をつけないと」
驚くべき運動能力で智宏を翻弄していたミシオだったが、本人にしてみればかなりギリギリの状況だった。
まさか自分の独壇場とも言える場所であそこまで追いつめられるとは思わなかったのだ。そうでなければあの高さから降りるのにあんな一か八かの手に出たりはしない。異世界で手にした黒い霧の力を使うという手もあったが、魔力である霧を使うと振り切った後も智宏に位置がバレてしまう。それを考えれば今行ったのは間違いなく全力の逃走だった。
(……とにかく、いったん家に戻った方がいいかも。レンドもこの近くを探してるかもしれないし、今見つかったら……)
心の中で抱いた思いを無理やり押し込める。彼らの性格だ、そうなることは分かり切っている。そして自分がそうなったとき耐えられないかもしれないことも。
「……行こう」
そう言葉にして、ミシオは路地から出る。だが目の前に知った顔を見つけてしまった。
「……シオちゃん」
「……カイル」
目の前にいたのは村に住む青年だ。年はミシオの五つ上。漁師という職業柄
肌が日に焼け、体も筋肉質で大きい。
「帰ってきたのか……」
「……うん」
カイルとミシオは小さい頃からよく遊んでいた中だ。正確には同年代の子供が村にいなかったため、年上のカイルたちのグループに混ぜてもらっていたと言ったほうがいい。現にそのグループの三人は、三人とも年上で、だからこそ兄弟のいないミシオにとって三人は年上の兄弟のような存在だった。
その中でも特にカイルはよく自分の面倒を見てくれていた。村のなかでも数人しかいない能力者同士だったというのも大きいかもしれない。
だがそれも三年前までの話だ。
「なんで……」
「……?」
「なんで帰って来たんだよ!!」
「……!!」
カイルのそのセリフに、ミシオは思わず息をのむ。聞きようによってはあまりにもひどいセリフ。そして、彼の本意を知ってなお、聞きたくはなかったセリフだ。
「……、ごめん、もう行く」
「待てよ!!」
言葉から逃れるべく立ち去ろうとしたミシオの肩をカイルの手が掴む。だが、その力はためらいを表すように弱く、口調も半ば悲鳴のようだった。
「……なんで帰って来たんだよ」
「……あそこで、やらなきゃならないから」
「なんで! まだそんなことを」
「あと、三十五日なの」
できるだけカイルの言葉を見ないように、ミシオは己の言葉を紡ぐ。そうしなければ今の自分を保てる気がしなかった。あと三十五日。たったそれだけの日数が、今のミシオには途方もなく長く感じられる。
そして、それはカイルも分かっているのだろう。
「今までは何とかやってこれたかもしれないけど、これから先もそうだと思うのか?」
「何とか、する」
「あいつ等がこれから先、今までと同じ程度ですますとは思えない。下手したらお前――!」
「――ミナセは元気?」
カイルの言葉を遮るように、ミシオは三人のうちの一人の名を口にした。思っていたとおり、カイルの体が凍りつく。
ミナセは三人のうち、唯一の女性だ。活発で気立てがよく、そしてカイルと仲が良かった。ミシオは小さい頃からこの二人の仲の良さは別格だと思っていたし、その考えに違わず半年前、二人は結婚した。
「カイトは家を出て都会に行くんだよね?」
ごり押しのように最後の一人、彼の弟の名前を出す。その効果はてきめんだ。カイルそれだけで何も言えなくなり、肩に置いていた手を力なくおろしてしまった。
「あんまり私と、話さない方がいいよ」
そう言うとミシオはカイルが何かを言う前にその場を逃げ出した。どこに『目』があるかわからない以上長居はできない。
「……ごめん」
歩きながらミシオは酷い自己嫌悪を感じる。これではほとんど脅しのようなものだ。カイルの言葉に耐えられず、思わず嫌いな人間が使う方法を使ってしまった。
(あと、三十五日。それだけ乗り切れれば)
そう考えながらも、ミシオは自分が酷い誘惑に駆られていることを自覚する。異世界などに行き、その世界の人々に出会わなければ、こんな誘惑は生じなかっただろう。
そこでミシオはその原因の一端、先ほどビール箱に襲わせた少年のことを思い出した。彼らがこれで諦めるとは思えない。もし彼らに自分の事情を知られてしまったら、もうこの誘惑にあらがうことはできないかもしれない。
「……あと、三十五日」
それでも少女は無理やり自分を鼓舞し、家への道を急いだ。
「……やられた」
ミシオにまかれ、自分が転んだ原因を探った智宏は、崩れたビール箱の中にそれを見つけてそう呟いた。
見つけたのは壁を走るパイプと、箱の一つ、そしてそれらをつなぐ透明な糸。
「……これは、釣り糸か?」
智宏の父親は趣味で釣りによく行っている。昔は家族で良くそれにつきあったのだが、目の前のそれはそのとき使っていた釣り糸によく似ていた。
「……なるほど、ここは海の近くだし、魚寝村はもろに漁村だ。釣り糸くらい腐るほどあるな」
どうやら智宏が引っかかったのはかなり単純なトラップだったらしい。パイプと箱に糸を取り付け、それで足を引っかける。しかも引っかかると積んである箱の山の、土台の役割を果たしている箱が引っ張られるため、山が崩れて引っかかった相手に追撃まで加える。箱の中が空だったから良かったが、そうでなければかなり危険なトラップだ。
「……でもこれ、よくあんな短時間で仕掛けられたな」
こんなものを仕掛けられたとしたら、智宏がミシオから目を離したビルを降りる瞬間しかない。そんな短時間で重りに糸を結び、それをトラップとして仕掛けるなど不可能だ。
となるとこの釣り糸と重りは元からミシオが結んだ状態でもっていたとみていいだろう。そもそも長さが半端だし、この場で仕掛けるだけなら糸だけでいい。仕掛けるだけならあの短時間でもなんとかできる。
だが、それはつまりこの釣り糸と重りが、最初からトラップとして用意されていたものということになるのだ。
「……だけどそうなると、またおかしな所が増えるな」
理由不明の逃走、壁を登り、ビルからビルに飛び移る身軽さと技術、トラップの種を所持し、それを仕掛ける素早さ、そしてないより、それらに慣れているような様子。
エデンにいたときからずれた少女だとは思っていたが、この世界で見る彼女は明らかに異常だった。世界観に合っていない、と言ってもいいかもしれない。
『……ト…ヒロ、…モヒロ、トモヒロちゃん聞いてるの! 返事をしないと怒りますよ!』
「ん?」
分析を終えて再び追跡すべきかを思案していると、ポケットの中から不気味な声が聞こえた。取り出して見るとレンドにもらった通信機から声が聞こえる。 気味の悪い裏声の女喋りでなければそれはレンドの声だった。
無視したい気持ちを抑えて、指示された場所に魔力を流し込む。
『ああ、トモヒロちゃん? もぅ、やっと出たのね! ワタシ心配で心配で――』
「現在この電話は持ち主が出る気のない状態にあります。耳を貫く爆発音の後に自分の鼓膜が無事であることを確認して、速やかに電話をお切りください」
『待てぇえええい!!』
すぐさま女喋りをやめて叫ぶレンドに、智宏は舌打ちして展開していた【銃炎弾】の魔方陣をかき消した。
『っておいトモヒロ! 一応こっちは心配して連絡してんのにその対応はあんまりじゃないか?』
「嘘つけ、そうだったらもっとまともな切り出し方をするわ! ……で? 何の用だ?」
「いや、そろそろ捕まえたかと思って」
「いや、逃げられた」
「はぁっ!?」
驚きの声を上げるレンドに今までの経緯をざっと説明する。すべてを話し終えた後でレンドがあげた声は驚きとあきれにあふれる声だった。
「……マジかよ。っていうかトモヒロ? お前魔術の使用とか人に見られてないだろうな? 変な形で異世界の存在を広められても困るんだけど?」
「ああ、それは大丈夫だと思う。魔術は全部人気のないところで使ったし、刻印は見られたかもしれないけど、あの距離で理解できるとも思えん。ミシオもあの黒い霧は使ってなかったしな」
「ならいいけど……」
それにこの世界には能力の存在がある。事と次第によっては見ていた人間が勝手に何かの能力と勘違いしてくれる可能性もあるのだ。流石に限度はあるだろうが、安心材料ではある。
「で? トモヒロはこれからどうするんだ? とりあえずミシオちゃんはこの前の奴らに攫われてた訳じゃないって分かったし、いったん戻るか?」
「いや、そのことなんだけど、僕はこのままミシオを探してみようと思うんだ。ダメかな?」
「いや、それはいいけど、あてか何かあるのか?」
「無いな」
「無いのかよ!」
「ある訳ないだろう? 僕をどこの世界の住人だと思ってんだ」
レンドと会話しながら、智宏はとりあえず崩れたビール箱を片手で積み直す。心情的に流石にこのまま放置していくわけにもいかなかった。
「おい、トモヒロ? 当然のようにあてがないとか言ってるけど、じゃあどうやって探す気なんだよ? 言っとくけどこの街結構でかいからあてもなく探しても無駄だと思うぞ?」
「あては無いけど手掛かりはあるんだよ」
「なんだよ手掛かりって?」
「一つは制服。さっきのミシオ、制服姿だっただろ? ならあの制服を使ってる学校を探せばとりあえず学校は特定できる」
「なるほど。でもそれなら俺の方でもう手配してるぜ?」
「そりゃ丁度いい。これに関してはそっちに頼もうと思ってたからな」
どうやら智宏と別れた後にそのあたりの手配を済ませたらしい。普段の言動に反してそういうところはさすがだった。
「じゃあ僕はもう一つの方の手がかりを追ってみるかな」
「もう一つ?」
「ああ。なあレンド、ビルの壁やら屋上やら、普通通り道にならないところが通り道になって、そこになにも痕跡が残らないと思うか?」
「っていうか残るのか?」
「ああ。壁なんかは如実だな。なにしろ、パイプや看板なんて人間の体重が乗ることを想定して設置されてないから、ネジがゆるんだり、歪んだりしてる」
実際ここまで来る間にそれらしい痕跡はたくさんあった。壁の他にも頻繁に掴まれる柵のペンキがはげていたり、隅にたまった砂の上に足跡が残っていたりしたのだ。そしてそんなところに移動の痕跡を残す人間が何人もいるとは思えない。
「特に壁の痕跡は重要だな。壁に痕跡が残ってるってことはそこから上り下りしてるってことだ。もしそうなら――」
「――その近くにミシオちゃんがよく立ち寄っている?」
「そういうことだ」
何しろ、そんな道を道として使う人間はミシオしかいないのだ。痕跡の主は必然的にミシオと言うことになる。
「でもよ。そんなものを町中探して見つけるくらいなら素直に聞きこみをした方が早くないか? 町中探してそんなわずかな痕跡を見つけるなんてそれこそ効率的じゃないぜ?」
「いや、ミシオは滅茶苦茶な道を選んでるように見えてかなり堅実に道を選んでる節があった。逆に言えばミシオが通ったり、とび越えたりできるならそこはミシオが使う道になってる可能性がある。なら探す範囲も見つけた道の延長だ。まあ、聞きこみの方が堅実ってのは賛成だけど、それはそっちがやった方が効率いいだろう」
そう言って智宏はさっきまで走っていたビルの屋上を見る。先ほど走っているときに見つけた手がかりがどこまで続いているかは分からないが、このまま引き下がる気にはなれなかった。
「わかった。聞きこみと学校の方はこっちで何とかしよう。取り合えあえず通信機の使い方だけ教えとくから、何かあったら連絡しろ」
「よろしく頼むよ」
話しながら智宏はミシオが逃げたとみられる方角を見つめる。まだ彼女との追いかけっこは始まったばかりだ。
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