皇帝陛下を推す侯爵令嬢、今日も第一皇子を巻き込んで推し活中です〜皇帝陛下の誕生日を全力で祝いたい〜
ある朝。スターライル侯爵家の朝食の席で、シャーロット・スターライルは突然、手にしていたスプーンを置いた。
「……大変です」
向かいに座っていたアシェルが顔を上げる。朝からシャーロットに呼び出されていたが、日常茶飯事なので誰も不思議に思わない。
「今度は何?」
「大変なのです、アシェル様」
「だから何が?」
シャーロットは真剣な顔で告げた。
「皇帝陛下のお誕生日が、近づいております」
「……それが?」
「お誕生日です」
「うん」
「推しの」
「うん」
「お誕生日です」
「三回言わなくても分かるよ」
シャーロットは胸の前で両手を握った。
「推しのお誕生日を、何もしないで過ごすなど…」
そこで一度、言葉を切る。
「……そんなことが許されるのでしょうか?」
「別に許されると思うけど」
「アシェル様」
「何?」
「推し活とは、推しの幸せを願い、応援する活動です」
「うん」
「ならば、お誕生日をお祝いするのは当然ではありませんか?」
「…まあ、それはそうかも」
アシェルは少し考えた。
「父上も喜ぶと思うよ」
「ですよね!」
シャーロットの顔がぱっと明るくなる。
「では、何を贈りましょう?」
「僕に聞かれても困るよ」
「推しへの贈り物は、難しいのです」
「そうなの?」
「はい」
シャーロットは指を一本立てた。
「高価すぎるものはいけません」
「どうして?」
「相手に気を遣わせます」
もう一本、指を立てる。
「大きすぎるものもいけません」
「どうして?」
「置き場所に困ります」
さらに一本、指を立てる。
「実用性がなさすぎるものもいけません」
「どうして?」
「推しが使えないからです」
「……なるほど」
「そして何より」
シャーロットは真剣な顔で言った。
「自分の身の丈に合っていること」
アシェルは少し意外そうな顔をした。
「シャーロットって、意外と現実的だよね」
「推し活は長く続けることが大切ですから」
シャーロットは胸を張った。
「一度のお祝いで無理をしてしまったら、その後が続きません」
「確かに」
「ですから、私は決めているのです」
「何を?」
「推しは推せる範囲で推す」
シャーロットはにっこり笑った。
「生活を犠牲にしてはいけません」
「…それはいい考えだね」
アシェルは素直に感心した。シャーロットは十歳。けれど時々、妙に人生経験豊富なことを言う。もちろん、その理由をアシェルは知らない。前世で一度人生を終えたことも。その人生の中で、何度も「好きなものに元気をもらう」という経験をしてきたことも。シャーロットは、それを誰にも話すつもりはなかった。
「では!」
シャーロットは立ち上がった。
「お誕生日計画を立てましょう!」
「……計画?」
「はい!」
「まさか、僕も参加するの?」
「もちろんです」
「やっぱり……」
アシェルは遠い目をした。すると、背後から声がする。
「お嬢様、お誕生日と伺いましたが」
エミリーだった。
「はい!」
「皇帝陛下のお誕生日でございますね?」
「そうです!」
「でしたら、私もお手伝いいたします」
「ありがとうございます!」
シャーロットは嬉しそうに頷いた。
「エミリーには、贈り物の製作を手伝ってください」
「承知しました」
「アシェル様には…」
「待って」
アシェルが手を上げる。
「嫌な予感がする…僕には?」
「私と一緒に作ります」
「やっぱり!」
「今回は、手作りにしたいのです」
「手作り?」
「はい」
シャーロットの考えは決まっていた。皇帝は帝国で最も高い地位にいる。宝石も、高価な品も、珍しいものも、きっと簡単に手に入る。ならば、十歳の侯爵令嬢である自分が贈れるものは限られている。
「だからこそ、心を込めて作りたいのです」
シャーロットは微笑んだ。
「高価ではなくても、陛下に喜んでいただけるものを」
「……それなら、いいかもね」
アシェルも頷いた。そのとき…。
「お話中、失礼いたします」
ルイスが入ってきた。
「何をされているのですか?」
「陛下のお誕生日のお祝いを考えているのです」
「なるほど」
ルイスは少し考えた。
「私も何か用意すべきでしょうか?」
「もちろんです!」
シャーロットが答える。
「ですが、ルイス様の場合は…」
「はい」
「団長様への推し活と両立してください」
「承知しました」
「そちらの予算を使いすぎてはいけません」
「はい」
「ご自分の生活を優先してください」
「…はい」
ルイスは神妙な顔で頷いた。
「推し活の道は、奥が深いですね」
「はい」
そこへトリスタンがやって来た。
「皆様、お楽しみのところ失礼いたします」
「トリスタン!」
「皇帝陛下のお誕生日のお話ですかな?」
「そうなのです!」
「それは素晴らしいことでございます」
トリスタンは優しく微笑む。
「ですが、お一つ申し上げてもよろしいでしょうか」
「はい」
「陛下は、おそらく皆様が思っている以上に、贈り物を受け取っております」
「……ですよね」
シャーロットは少し考えた。
「では、やはり特別なものが必要でしょうか?」
「いいえ」
トリスタンは首を横に振った。
「むしろ、特別でなくてもよろしいのではないでしょうか」
「特別でなくても?」
「心のこもったものであれば、十分かと」
シャーロットは目を輝かせた。
「……それです!」
「何が?」
アシェルが聞く。
「高価ではない」
シャーロットは指を折る。
「大きくない」
「うん」
「実用的」
「うん」
「そして、心がこもっている」
「うん」
シャーロットは満面の笑みを浮かべた。
「手作りのお菓子にしましょう!」
「お菓子?」
「はい!」
「父上に?」
「はい!」
アシェルは少し笑った。
「父上、甘いもの好きだからね」
「それなら決まりです!」
しかし次の瞬間、シャーロットは何かを思い出したように、ぴたりと止まった。
「…でも」
「どうしたの?」
「陛下は皇帝陛下です」
「うん」
「皇帝陛下のお誕生日に、ただお菓子を贈るだけでは……」
シャーロットの瞳に、再び火が灯る。
「少し寂しい気がします」
「……嫌な予感がする」
アシェルが呟いた。
「ならば…」
シャーロットは拳を握る。
「お菓子を、特別なお菓子にしましょう!」
「どう特別にするの?」
「陛下の紋章を入れます!」
「それくらいならいいけど……」
「そして、お祝いのカードを添えます!」
「うん」
「さらに!」
「まだあるの?」
「陛下がお仕事の合間に召し上がれるよう、日持ちするものにしましょう!」
アシェルは頷いた。
「それなら、父上も喜ぶと思う」
「ですよね!」
シャーロットは嬉しそうに笑った。こうして皇帝陛下の誕生日を祝うための、ささやかな計画が始まった。このとき誰も予想していなかった。たった一箱のお菓子が、皇帝陛下だけでなく、王宮全体を巻き込む騒動になることを。そして何より…。
「アシェル様」
「何?」
「明日から、一緒に試作品を作りましょう」
「……僕も?」
「もちろんです」
「僕、第一皇子なんだけど」
「存じております」
「侯爵令嬢のお菓子作りを手伝うの、第一皇子の仕事じゃないよね?」
「でも」
シャーロットは笑顔で言った。
「私たちは、お友達でしょう?」
「……」
アシェルは一瞬黙り、やがて諦めたように笑った。
「分かったよ」
「ありがとうございます!」
「ただし、僕にも一つ条件がある」
「何でしょう?」
「今度は僕の分のお菓子も作って」
「もちろんです」
「約束だよ」
「はい!」
こうして二人は、皇帝陛下の誕生日へ向けて動き始めた。ただしその裏で、シャーロットには一つだけ、大きな問題が残っていた。
ー皇帝陛下は、どんなお菓子が一番お好きなのだろう?ー
推しの好みを知りたい。けれど直接聞くのは少し恥ずかしい。シャーロットは悩んだ末…。
「……これは、情報収集が必要ですね」
と呟いた。シャーロットの呟きに、アシェルが嫌な顔をする。
「何を調べるつもり?」
シャーロットは静かに笑った。
「推しの好きなものを」
皇帝陛下の誕生日まで、あと七日。シャーロットにとっては、重大な一週間が始まった。シャーロットの推し活は、静かに、しかし確実に加速し始めていた。
「まずは、陛下のお好きなものを調べます」
朝食後、シャーロットは大きな紙を机の上に広げた。その隣にはアシェル、エミリー、ルイス、そしてトリスタン。まるで作戦会議である。
「そこまで大げさにする?」
アシェルが呟く。
「お誕生日ですよ?」
「父上の?」
「はい」
「普通に『おめでとう』って言えばいいんじゃない?」
「それでは推し活として不十分です」
「……そういうものなの?」
「そういうものです」
シャーロットは力強く頷いた。
「ただし、絶対に無理はしません」
紙の一番上に大きく『身の丈に合った推し活』と書く。
「予算は?」
「私のお小遣いから出します」
「全部?」
「はい」
「使い切るのは?」
「禁止です」
「ちゃんとしてる……」
アシェルは少し感心した。
「では、情報収集を開始します!」
シャーロットはペンを握った。
「第一項目。好きな食べ物」
「それなら、私が存じ上げております」
トリスタンが手を挙げた。
「陛下は甘いものがお好きでございます」
「やっぱり!」
シャーロットは素早く書き込む。
「特に?」
「焼き菓子などを好まれますな」
「焼き菓子……」
シャーロットの目が輝いた。
「候補に入れます」
「第二項目。好きな飲み物」
「紅茶だね」
アシェルが答える。
「父上は執務中、よく飲んでいるよ」
「種類は?」
「そこまでは知らないな」
「トリスタン?」
「陛下は香りの強すぎないものを好まれます」
「なるほど」
シャーロットはまた書き込む。
「第三項目。好きな色」
「黒」
アシェルが即答した。
「正装、ほとんど黒だから」
「それは好きな色なのでしょうか?」
「……確かに」
「好きだから着ているとは限りませんね」
シャーロットは首を傾げた。前世の知識があるとはいえ、この世界の皇帝については知らないことばかりだ。何しろ前世では存在しなかった人物なのだから。ただ顔だけは、どうしようもなく好みだった。
「では、第四項目」
シャーロットは少し考えた。
「好きな時間」
「時間?」
アシェルが首を傾げる。
「はい」
「何それ?」
「推しがどんな時間を過ごすのが好きなのか、ということです」
シャーロットは前世を思い出していた。推していた俳優が雑誌のインタビューで語っていたこと。休日に何をしているのか、好きな場所、好きな食べ物、仕事が終わった後に何をしているのか。そんな些細な情報を知るだけで、なぜか嬉しかった。
「好きなものを知ることは、相手を知ることですから」
「……なるほど」
アシェルが少し考える。
「父上は……」
そして、ふっと笑った。
「庭かな」
「庭?」
「仕事が忙しいときでも、夕方になると庭を歩いてる」
「まあっ……!」
シャーロットは大きく目を見開いた。
「素敵です!」
「そう?」
「はい!」
その項目も書き加える。しかし、そこでシャーロットはペンを止めた。
「…なるほど」
「どうしたの?」
「陛下への贈り物が決まりました」
「もう?」
「はい」
シャーロットは紙に大きく『庭で楽しめるもの』と書いた。
「庭で?」
「はい」
アシェルが紙を見る。
「何を贈るの?」
「焼き菓子と紅茶」
「それ、庭じゃなくてもいいよね?」
「そして…」
シャーロットはさらに書き足す。
「小さなティーセットです」
「ティーセット?」
「陛下がお庭でお茶を召し上がるときに使えるものを」
「……でも、高くならない?」
「そこが問題です」
シャーロットは腕を組んだ。
「皇帝陛下ですから、普通のティーセットならもっと良いものをお持ちでしょう」
「そうだね」
「ならば、高価さで勝負してはいけません」
「勝負なの?」
「推しへの贈り物は、勝ち負けではありません」
「自分で言ったよね?」
「はい」
シャーロットは真顔だった。
「ですから、価値の方向を変えます」
「方向?」
「世界に一つだけのものにするのです」
エミリーが目を輝かせた。
「手作りでございますか?」
「はい!」
「でしたら、陶器はいかがでしょう」
「陶器?」
「王都の工房で、簡単な絵付けを体験できる場所がございます」
シャーロットは立ち上がった。
「それです!」
「お嬢様が描かれるのですか?」
「はい!」
アシェルが不安そうな顔をする。
「シャーロット、絵は得意なの?」
「……普通です」
「普通なんだ」
「でも、心は込められます」
「それならいいか」
ルイスが真剣な顔で尋ねた。
「私も参加してよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
「では、私も団長への贈り物を考えます」
「ルイス様は、陛下への贈り物より団長様のことを考えていませんか?」
「はい」
「即答ですね」
全員が笑った。シャーロットも笑う。けれどそのとき、彼女の頭にふと一つの考えが浮かんだ。
「……そういえば」
「何?」
「前世では、お誕生日に『メッセージカード』を贈る文化がありました」
「前世?メッセージカード?」
アシェルが聞き返す。
「はい」
シャーロットは前世とは何かをスルーして、アシェルに説明する。
「高価な贈り物ではなくても、短い言葉を添えるのです」
「それならいいね」
「はい」
シャーロットは紙を一枚取り出した。
「陛下への感謝を、言葉にします」
「どんなことを書くの?」
「……それは」
シャーロットは少し考えた。推しへの気持ち。前世なら、便箋いっぱいに書けたかもしれない。好きなところ、尊敬しているところ、元気をもらったこと、これからも健康でいてほしいという願い。けれど、この世界でのシャーロットは十歳の侯爵令嬢。皇帝に対して、あまりにも熱烈な手紙を書くわけにはいかない。
「……簡潔にします」
「どんなふうに?」
「『お誕生日おめでとうございます。これからもお元気で、帝国をお導きください』」
「うん」
「そして最後に…」
シャーロットは少し微笑んだ。
「『いつも応援しております』と」
「それなら父上も喜ぶと思う」
「はい」
シャーロットはその言葉を書き留めた。すると…。
「お嬢様」
エミリーが何かを思いついたように言う。
「せっかくですから、カードに陛下の肖像を…」
「エミリー」
アシェルが止める。
「それはやめよう」
「なぜです?」
「シャーロットが暴走するから」
「暴走しません!」
シャーロットが抗議する。
「…………たぶん」
「今、付け足したよね?」
笑い声が広がる。その後、シャーロットたちは必要な材料を書き出した。小さな陶器、焼き菓子の材料、紅茶、カード、そして包装用の布。どれも高価ではない。シャーロット自身が無理なく用意できる範囲だ。
「よし」
シャーロットは満足そうに頷いた。
「完璧です」
「本当に?」
「はい」
「父上が喜ぶかな」
「喜んでいただけると嬉しいです」
シャーロットは少しだけ不安そうに笑った。
「でも、一番大切なのは」
小さな手で、計画書を丁寧に折りたたむ。
「陛下が幸せな誕生日を過ごされることです」
贈り物を喜ばせることではない。自分が褒められることでもない。ただ推しが笑ってくれれば、それでいい。
「では、明日から製作開始です!」
「………また僕も?」
「もちろんです」
「分かったよ」
アシェルは苦笑した。こうして小さな誕生日計画は、順調に始まった。ただし、シャーロットはまだ知らなかった。この日、彼女たちが選んだ「世界に一つだけの贈り物」が、思いがけない人物の目に留まることになるとは。そして、その人物の一言によって「小さな誕生日祝い」だったはずの計画が、王宮を巻き込む一大イベントへ変わってしまうことを。
皇帝陛下の誕生日まで、あと六日。スターライル侯爵家の厨房では、朝から甘い香りが漂っていた。
「……これは、なかなか難しいですね」
シャーロットは、小さな手を腰に当てて、目の前の焼き菓子を見つめていた。机の上には、丸いクッキーが並んでいる。どれも一見すると普通の焼き菓子。ただし…。
「こちらが一号」
「はい」
「こちらが二号」
「はい」
「こちらが三号です」
「全部、少し焦げてるね」
アシェルの冷静な指摘が飛んだ。
「……」
シャーロットは黙って三枚のクッキーを見比べる。
「違います」
「何が?」
「これは香ばしく焼けたのです」
「三枚とも?」
「はい」
「全部同じ場所が黒いけど」
「………」
シャーロットは静かにクッキーを一枚つまんだ。そして黒い部分を食べてみる。
「……苦い」
「だよね」
アシェルが笑う。
「お嬢様」
エミリーが穏やかに声をかける。
「火加減を少し弱くいたしましょう」
「お願いします」
「それと、こちらの生地はもう少し薄く」
「なるほど」
エミリーは手際よく作業を進めていく。その姿を見ながら、シャーロットは感心した。
「エミリーは何でもできますね」
「ありがとうございます」
「護衛もできて、お菓子も作れて、裁縫もできる」
「メイドでございますから」
「では、いつか推しができたら、その方のお誕生日にも……」
「はい」
エミリーが少し照れたように笑った。
「ぜひ、頑張りたいと思います」
「推しができるのが楽しみですね!」
「はい」
その横では、ルイスが妙に真剣な顔をしていた。
「シャーロット嬢」
「はい?」
「これは団長への贈り物にも応用できますか?」
「もちろんです」
「では、私も練習します」
「……ルイス様」
「何でしょう?」
「その前に、クッキーを焼く必要があります」
「承知しました」
ルイスは生地を受け取った。そして…。
「こうでしょうか」
ぐっと力を込めすぎて生地が潰れた。
「……」
「……」
「……」
全員が沈黙する。
「ルイス」
アシェルが呆れた声を出した。
「それ、剣術じゃないから」
「力加減が難しいですね」
「君、帝国でも有数の騎士だよね?」
「はい」
「なのにクッキーで苦戦するんだ………」
シャーロットは笑いながら首を振った。
「大丈夫です。推し活に大切なのは、技術だけではありません」
「では何でしょう?」
「心です!」
ルイスは深く頷いた。
「分かりました」
「でも…」
シャーロットは少し考える。
「食べ物なので、心だけでなく衛生も大切です」
「……はい」
アシェルが吹き出した。
「シャーロット、時々ものすごく現実的だよね」
「当然です」
シャーロットは真顔だった。
「推しに贈るものだからこそ、きちんとしたものを贈らなければなりません」
その言葉に、エミリーも頷く。
「お嬢様らしいお考えです」
「推しには幸せでいていただきたいですから」
シャーロットは笑った。そして、次の作業へ移る。焼き菓子作り、カード、包装、そして…。
「こちらが本日の本命です」
シャーロットが箱を開けた。中に入っていたのは、小さな白い陶器のカップ。まだ何の模様もない。
「これに陛下の紋章を描きます」
「上手く描ける?」
「……練習しました」
シャーロットは自信ありげに胸を張った。その隣には、練習用の紙が何枚も積まれている。帝国の紋章を何度も描いた跡が残っている。
「すごいね」
アシェルが感心する。
「これ、全部シャーロットが描いたの?」
「はい」
「前よりずっと上手くなってる」
「練習しましたから」
シャーロットは嬉しそうだった。そして筆を手に取る。
「では…」
慎重に筆を動かす。一画、二画、三画…アシェルも息を止めて見守る。エミリーも静かに見つめる。ルイスはなぜか剣を構えるときより真剣な顔をしている。
「…………完成です」
小さなカップの表面に、可愛らしい紋章が描かれた。
「おお……」
アシェルが声を漏らす。
「素敵です」
エミリーも微笑む。
「見事です」
ルイスまで頷いた。シャーロットは満足そうにカップを眺める。
「これなら、陛下にも喜んでいただけるでしょうか」
「きっと喜ぶよ」
アシェルが答えた。そのとき厨房の入口から、聞き慣れない声がした。
「何をしているのです?」
「……!」
全員が振り返った。そこに立っていたのは…。
「レオニス、なんでここに?」
皇帝の第二皇子、レオニスだった。アシェルも弟の登場に驚いた。普段は空き時間が合わず、アシェルやシャーロットとは顔を合わせることが少ない。
「兄上に相談があり探していたら、こちらに案内されて」
「ご機嫌麗しゅうございます、殿下」
シャーロットが礼をする。
「こちらこそ。……ところで」
レオニスの視線が、机の上へ移る。焼き菓子、カード、そして小さな陶器。
「これは?」
「陛下へのお誕生日の贈り物です」
「父上への?」
「はい」
シャーロットは胸を張った。
「身の丈に合った、ささやかな贈り物です」
「……ささやか?」
レオニスは陶器を手に取った。紋章が描かれている。よく見ると、紋章の下に小さな文字があった。シャーロットが書いたものだ。
ーいつもありがとうございますー
「これは……」
「私が描きました」
レオニスは少し黙った。そして、ふっと笑った。
「父上は喜ぶだろうな」
「本当ですか?」
「ええ」
その一言に、シャーロットの顔が輝く。
「よかった……!」
「だけど…」
レオニスはカップを机に戻した。
「これだけですか?」
「……え?」
「父上の誕生日です。王宮では毎年、臣下から大量の贈り物が届く」
「はい」
「今年も盛大な祝宴が予定されている」
「祝宴……?」
シャーロットの目が丸くなる。
「ええ。祝宴について兄上に相談があって探していたんです」
「陛下のお誕生日に?」
「皇帝ですから、当然かと」
レオニスが笑う。
「今年は特に大きな祝宴になる予定です」
シャーロットはしばらく黙った。そして…。
「………そうですか」
小さな声で呟いた。
「どうかしましたか?」
「いえ」
シャーロットは笑った。
「素敵な誕生日になりそうですね」
けれどその笑顔の奥で、前世の記憶がふと蘇った。誕生日、たくさんの人、大勢の祝福、華やかな贈り物、それは確かに素敵なことだ。でもシャーロットが本当にしたいのは、ただ推しに「おめでとうございます」と、自分の言葉で伝えることだった。そのとき…。
「そうだ、シャーロット嬢」
レオニスが何気なく言った。
「もしよければ、その贈り物…」
「はい?」
「誕生日当日の祝宴で、父上に渡してみてはどうだ?」
「……!」
シャーロットの瞳が大きく開く。
「祝宴で……?」
「ええ」
「皆様の前で?」
「そうなりますね」
「…………」
アシェルが隣で嫌な予感を覚えた。
「レオニス、お前……」
「ダメでしたか?」
「ダメではないが……シャーロット?」
シャーロットは小さな陶器を見つめる。そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……それは」
「うん?」
「推し活として…」
シャーロットの瞳が、キラリと輝く。
「かなり大きなイベントなのではありませんか?」
アシェルは頭を抱えた。
「やっぱりそうなるよね…」
小さな贈り物だったはずの計画は。少しずつ、大きな舞台へ向かい始めていた。
皇帝陛下の誕生日まで、あと五日。シャーロットは悩んでいた。それはもう、ものすごく悩んでいた。
「……祝宴で渡すべきでしょうか」
スターライル侯爵家の応接室。テーブルの上には、先ほど作った小さな陶器のカップと、試作品の焼き菓子。その周囲には、シャーロット、アシェル、エミリー、ルイス、トリスタンが集まっている。
「別に、いいんじゃない?」
アシェルが言った。
「父上も喜ぶと思うよ」
「ですが……」
シャーロットは腕を組んだ。
「祝宴には、多くの貴族の方々がいらっしゃいます」
「そうだね」
「その場で私が陛下に贈り物をすると…」
「すると?」
「目立ちます」
「……まあ、そうだね」
シャーロットは真剣な顔で頷いた。
「推し活は、節度が大切なのです」
「そこはいつも言ってるね」
「はい」
「じゃあ、どうして悩んでるの?」
「それは…」
シャーロットはカップを見つめた。小さな陶器、自分で描いた皇帝の紋章、決して上手とは言えない。でも、何度も練習した。焼き菓子も、自分で試行錯誤した。カードも書いた。そこには、シャーロットの気持ちが詰まっている。
「……せっかくなら、陛下に直接お渡ししたいのです」
アシェルが微笑む。
「じゃあ、そうすればいいよ」
「でも、目立ちます」
「それくらい、父上は気にしないと思うけど」
「私が気にするのです」
「ああ……」
アシェルは納得した。
「シャーロット、推しの前では意外と恥ずかしがり屋なんだね」
「……」
シャーロットの頬が少し赤くなる。
「推しだからこそです」
「なるほど」
そこへトリスタンが口を開いた。
「お嬢様」
「はい」
「一つ、よろしいでしょうか」
「お願いします」
「贈り物を渡すことと、目立つことは、必ずしも同じではございません」
「……?」
「お渡しする方法を工夫されてはいかがでしょう」
「方法……」
「例えば、祝宴の正式な贈呈とは別に…」
トリスタンは穏やかに微笑んだ。
「陛下がお一人になられる時間に、お渡しすることも可能でございます」
「なるほど」
シャーロットの顔が明るくなる。
「それなら…」
「いや、ダメだ」
だが、アシェルが首を横に振った。
「父上の誕生日だよ?」
「はい」
「せっかくなら、直接お祝いを言ってあげた方がいいんじゃない?」
「……」
「シャーロットが恥ずかしいなら、僕も一緒に行くよ」
「アシェル様が?」
「うん」
「……」
シャーロットはしばらく考えた。
「では」
「うん」
「ご一緒してください」
「分かった」
その瞬間、ルイスが即座に立ち上がった。
「では、私も護衛として同行いたします」
「いや、ルイスはいいよ」
アシェルが即答する。
「なぜです?」
「父上の誕生日に、第一皇子と侯爵令嬢と護衛騎士がぞろぞろ行ったら、余計に目立つから」
「……なるほど」
ルイスは納得した。
「では、私は遠くから見守ります」
「それも目立たない?」
「気配を消せます」
「そういう問題じゃないんだけど」
エミリーが笑いをこらえている。
「皆様、本当に仲がよろしいですね」
「そうでしょうか?」
シャーロットが首を傾げる。
「はい」
「では、エミリーも一緒に…」
「私は厨房と包装の最終確認をいたします」
「残念です」
「お気持ちだけで十分でございます」
こうして誕生日当日は、アシェルとシャーロットの二人で贈り物を渡すことになった。問題は、もう一つ。
「……焼き菓子です」
シャーロットは試作品を並べた。先日の失敗作とは違い、今度は綺麗に焼けている。小さな丸い焼き菓子の中央には、帝国の紋章を模した模様まで入っていた。
「すごい」
アシェルが目を輝かせる。
「これなら大丈夫そうだね」
「はい!」
「一つ食べてもいい?」
「どうぞ」
アシェルが一枚つまむ。美味しそうな香りと見た目に誘われて、ぱくっと口に入れる。
「……!」
シャーロットがじっと見つめる。
「どうですか?」
「おいしい」
「本当ですか?」
「うん」
「甘すぎませんか?」
「大丈夫」
「硬くないですか?」
「大丈夫」
「香りは?」
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「何回聞くの?」
「大切なことですから」
シャーロットは安心したように笑った。
「よかったです」
そこへルイスも一枚取る。
「私もいただいてよろしいでしょうか」
「どうぞ」
ぱくっと食べるルイスを、シャーロットは凝視する。
「…美味です」
「ありがとうございます」
「これなら団長にも…」
「ルイス様」
「はい」
「それは陛下のお祝い用です」
「……失礼しました」
ルイスは名残惜しそうに皿を見る。
「別に一枚くらいなら許してくれるよ、ねえシャーロット」
「はい」
アシェルが言う。
「殿下、ありがとうございます」
「僕が許可することなのかな……」
そこへエミリーが箱を持ってきた。
「お嬢様、包装が完成いたしました」
「見せてください!」
箱は小さく上品だった。派手ではない。白い布に、帝国の紋章を思わせる刺繍が施されている。
「素敵です!」
「ありがとうございます」
「エミリーは本当に器用ですね」
「お嬢様が『身の丈に合ったもの』とおっしゃいましたので、できるだけ華美にならないようにいたしました」
「完璧です!」
シャーロットは満足そうに頷く。そこへ…。
「そういえば」
アシェルが箱を見ながら言った。
「父上って、誕生日に何をもらうんだろう?気にした事なかったな」
「……」
シャーロットは固まった。
「どうかした?」
「いえ」
「?」
「今、気づきました」
「何に?」
「私たちの贈り物が、他の皆様と比べて……」
シャーロットは青ざめた。
「ものすごく小さいのでは?」
「……」
アシェルも箱を見る。確かに小さい。高価でもない。宝石もない。珍しいものでもない。
「でも、いいんじゃない?」
「本当に?」
「うん」
「なぜです?」
「だって」
アシェルは笑った。
「父上にとっては、君からもらうことに意味があると思うから」
「……」
「少なくとも、僕はそう思うよ」
シャーロットは少し驚いた。
「アシェル様……」
「何?」
「良いことをおっしゃいますね」
「何それ」
「ありがとうございます」
シャーロットは箱をそっと抱えた。
「これで大丈夫です」
「うん」
「私の推し活は、誰かと競うものではありません」
「そうだね」
「他の方がどんな贈り物をされても関係ありません」
シャーロットは微笑んだ。
「私は、私にできることをするだけです」
「それでいいと思う」
その言葉を聞いて、トリスタンが静かに頷いた。
「お嬢様らしいお考えでございます。…陛下も、きっとお喜びになるでしょう」
その夜、シャーロットは一人でカードを書いていた。何度も書き直して。最後に、一枚だけ残した。そこには…。
『お誕生日おめでとうございます。いつも帝国のためにありがとうございます。これからもお元気でお過ごしください。ささやかですが、心を込めてお贈りいたします。
ーシャーロット・スターライルー』
シャーロットはそれを眺める。
「……これでいい」
派手ではない。けれどこれが、今の自分にできる精一杯だった。
そして翌日。誕生日まで、あと四日。シャーロットたちは最後の準備に入った。ところがその日の午後、王宮から一通の知らせが届く。
「お嬢様」
エミリーが封書を持ってきた。
「王宮からでございます」
「私に?」
「はい」
シャーロットは不思議そうに封を開けた。そして…。
「……え?」
目を丸くする。書かれていたのは…。
『皇帝陛下のお誕生日祝宴にて、シャーロット・スターライル嬢より陛下への贈り物を、特別に紹介することとなりました』
シャーロットは固まった。
「……アシェル様」
「何?」
「これ」
一緒にいたアシェルに手紙を差し出す。アシェルが渡された手紙を読み、そして…。
「…………」
こちらも固まった。
「……なんで?」
シャーロットは震える声で呟いた。
「私は……」
拳を握る。
「目立ちたくなかったのですが……!」
その瞬間、アシェルが天を仰いだ。
「父上の誕生日なのに、どうして毎回こうなるの……?」
そして王宮のどこかでは、皇帝がシャーロットの焦りなど何も知らずに執務を続けていた。シャーロットの「ささやかな推し活」は、いよいよ後戻りできないところまで来ていた。
皇帝陛下の誕生日まで、あと四日。スターライル侯爵家の応接室には、重苦しい空気が漂っていた。
「……なぜですか?」
シャーロットは、王宮から届いた手紙を両手で握りしめていた。
「僕に聞かれても分からないよ」
向かいに座るアシェルも、困った顔をしている。
「だって私は、目立たないようにするつもりだったのです」
「うん」
「高価なものも用意していません」
「うん」
「大きな贈り物でもありません」
「うん」
「それなのに、どうして祝宴で紹介されるのですか?」
「だから僕にも分からないって」
シャーロットは頭を抱えた。
「推し活の基本は、ひっそり、楽しく、無理をせず…」
「今回は全部逆方向に進んでるね」
「そんな……」
そこへトリスタンが静かに入ってきた。
「お嬢様」
「トリスタン……」
「ご安心ください」
「何かご存じなのですか?」
「はい」
トリスタンは少し微笑んだ。
「先ほど、王宮から事情を伺ってまいりました」
「それで?」
「皇帝陛下が、今年の誕生日には『若い世代からの贈り物も紹介してほしい』と仰ったそうです」
「……陛下が?」
「はい」
シャーロットは目を瞬いた。
「では、陛下が私の贈り物をご存じなのですか?」
「おそらく」
「……!」
顔が赤くなる。
「推しに……」
シャーロットは胸元を押さえた。
「推しに、私の贈り物が知られている……」
「シャーロット」
アシェルが声をかける。
「大丈夫?」
「大丈夫ではありません」
「だよね」
「心の準備ができておりません」
シャーロットは深呼吸した。前世でも、推していた俳優を生で見たときは緊張した。テレビ画面の向こうにいる存在だったからこそ、実際に目の前にすると何を話せばいいのか分からなくなった。今世では、さらに大変だ。相手は皇帝。しかも、自分の推し。
「……どうしましょう」
「普通に渡せばいいんじゃない?」
「アシェル様は簡単におっしゃいますね」
「じゃあ、僕が代わりに渡そうか?」
「それは駄目です!」
シャーロットが即答する。
「なぜ?」
「推しへの贈り物を、他人に渡してもらうなんて……」
シャーロットは首を横に振った。
「それでは推し活として悔いが残ります」
「そういうものなんだ」
「はい」
その様子を見て、エミリーが微笑んだ。
「お嬢様」
「はい?」
「でしたら、練習されてはいかがでしょう」
「練習?」
「陛下にお渡しする際のお言葉を」
「……!」
シャーロットは目を輝かせた。
「それです!」
すぐに立ち上がる。
「アシェル様。陛下役をお願いします」
「僕が?」
「はい」
「……分かった」
アシェルは仕方なく立ち上がった。
「僕が父上だと思って」
「はい」
シャーロットは箱を両手で持った。そして一歩進む。
「皇帝陛下」
「うん」
「お誕生日…」
止まる。
「………」
「どうしたの?」
「無理です」
「まだ何も言ってないよ?」
「陛下のお顔を思い浮かべたら、緊張してしまいました」
「僕、父上の顔に似てる?」
「全然違います」
「ひどい」
アシェルが笑う。
「じゃあ、もう一回」
「はい」
深呼吸。そして前に一歩。
「皇帝陛下、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう」
「こちらは、私からの贈り物です」
「嬉しいよ」
「どうぞお受け取りください」
「うん」
「……」
「……」
「完璧です!」
シャーロットが胸を張った。
「では、本番もこれでいきます」
「うん」
「ただし」
「何?」
「陛下が実際に笑顔になられた場合は、対応できないかもしれません」
「どうして?」
「推しの笑顔は、心臓に悪いのです」
「そんな理由ある?」
アシェルは笑った。そして少しだけ優しい顔になる。
「大丈夫だよ」
「?」
「君ならちゃんとできる」
シャーロットは少し驚いた。
「……ありがとうございます」
その日の午後、二人は王宮へ向かった。目的は誕生日当日の動線確認。どこから入場し、どこで待機し、どのタイミングで贈り物を渡すのか。ところが…。
「こちらが、当日の会場です」
案内役の侍従が扉を開ける。
「……!」
シャーロットは目を見開いた。広い、とにかく広い。大広間には、すでに祝宴用の装飾が施されていた。天井から吊るされた大きなシャンデリア。長いテーブル、皇帝のために用意された席。そして、壁一面に飾られた帝国の紋章。
「……すごい」
シャーロットが思わず呟く。
「毎年こんな感じなんだよ」
アシェルが言う。
「陛下は本当に……」
シャーロットは感心していた。だが、そのとき…。
「おや?」
聞き慣れた声がした。
「アシェルか」
「父上?」
振り返るとそこには、皇帝が立っていた。仕事の途中なのだろう、黒を基調とした正装、落ち着いた佇まい。そしてシャーロットが前世からずっと憧れてきたような、渋く穏やかな笑顔。
「……」
シャーロットは固まった。推し…推しがいる。目の前に。
「シャーロット嬢も一緒か」
「……」
「シャーロット?」
アシェルが小声で呼ぶ。
「……はっ!」
我に返ったシャーロットは、慌てて礼をする。
「ご、ご機嫌麗しゅうございます、皇帝陛下!」
「うむ。どうした? 随分と緊張しているようだが」
「い、いえ!」
シャーロットは必死に平静を装う。
「大丈夫です!」
「そうか?」
「はい!」
皇帝は微笑んだ。
「ならばよい」
その瞬間シャーロットの脳内に、前世で見た映画のワンシーンが蘇った。
ー似ているー
やっぱり似ている、あの俳優に。しかも実物の方が圧倒的に破壊力がある。
(落ち着いて、シャーロット)
自分に言い聞かせる。
(私は侯爵令嬢、相手は皇帝陛下。そして私は推し活をしているだけ。ただし、推しが目の前にいる)
「……」
「シャーロット嬢?」
「はい!」
皇帝が少し不思議そうに見る。
「何か言いたそうだが?」
「いえ!」
シャーロットは首を横に振る。
「お誕生日を……楽しみにしております!」
「……」
皇帝は一瞬目を丸くした。そして…。
「そうか」
柔らかく笑った。
「私も楽しみにしておこう」
「……!」
シャーロットは俯いた。これ以上は危険だった。心臓が…推し活史上最大級に、忙しく動いている。その隣でアシェルは思った。
(…父上、絶対分かってないよね)
そして皇帝の視線が、シャーロットの持っている小さな箱に止まった。
「それは?」
「……!」
シャーロットは箱を抱え直す。
「こ、これは……!」
誕生日まであと四日、まだ渡すつもりではなかった。なのに推し本人が、目の前にいる。皇帝は穏やかに尋ねた。
「私へのものか?」
「……」
シャーロットは一度だけ、アシェルを見る。アシェルは頷いた。
「…はい」
シャーロットは箱を両手で抱えた。
「陛下への贈り物です」
皇帝は微笑み、そして…。
「そうか。ありがとう、シャーロット嬢」
たったそれだけの言葉だった。けれどシャーロットにとってはそれだけで、今年の誕生日が特別なものになった。ただし、このとき皇帝が口にした次の一言が、シャーロットの計画を、さらに大きく変えることになる。
「ところで、その贈り物だが…」
皇帝は少し楽しそうに笑った。
「誕生日当日、皆の前で受け取ってもよいか?」
「…………」
シャーロットは固まった。アシェルも固まった。そして…。
「…………はい」
小さな声で答えた。その顔は、真っ赤だった。
皇帝陛下の誕生日当日。王宮は、朝からいつもとは違う華やかな空気に包まれていた。廊下には色とりどりの花が飾られ、祝宴が開かれる大広間では、すでに大勢の貴族たちが集まり始めている。そしてその一角で、シャーロット・スターライルは小さく深呼吸していた。
「…落ち着きましょう」
自分に言い聞かせる。手には、白い布で包まれた小さな箱。中には、手作りの焼き菓子。そして、シャーロットが絵付けした小さなティーカップ。さらに、一枚のカード。たったそれだけ。けれどシャーロットにとっては、大切な贈り物だった。
「緊張してる?」
隣に立つアシェルが尋ねる。
「……少しだけ」
「昨日より顔が固いよ」
「本日は陛下のお誕生日ですから」
「昨日も父上に会ってたじゃない」
「昨日は予行演習でした」
「今日は本番だから?」
「はい」
シャーロットは頷いた。
「しかも、皆様の前でお渡しするのです」
「父上が望んだんだから、気にしなくていいよ」
「でも……」
「シャーロット」
アシェルは笑った。
「大丈夫」
「……はい」
そこへ、エミリーがやってきた。
「お嬢様」
「はい」
「包装に問題ございません」
「ありがとうございます」
「焼き菓子も完璧です」
「よかった……」
「ただし」
エミリーが少し笑う。
「ルイス様が先ほどから、お菓子を一枚だけ欲しそうに見ております」
「……」
シャーロットが振り返る。少し離れた場所で、ルイスが箱を見ている。
「ルイス様」
「はい」
「陛下への贈り物です」
「承知しております」
「食べてはいけません」
「……承知しております」
アシェルが吹き出した。
「顔に『一枚だけなら』って書いてあるよ」
「そのようなつもりは」
「あるよね?」
「……少々」
シャーロットも笑った。そして…。
「ルイス様」
「はい」
「後で別に作りましょう。この包装を今、崩すわけにはいきませんから」
「ありがとうございます!」
ルイスの表情が一気に明るくなった。その姿を見て、シャーロットは思った。推し活とは、自分だけが楽しむものではない。好きな人を応援する気持ちが、周囲にも少しずつ広がっていく。それも悪くない。
「さて」
大広間の扉が開く。
「陛下のお出ましです」
侍従の声が響いた。全員が姿勢を正す。皇帝が入場する。シャーロットの心臓が跳ねた。黒を基調とした正装、落ち着いた立ち姿、堂々とした雰囲気。そして…。
「……」
シャーロットは思わず見惚れた。前世で推していた俳優に似た顔。けれど今目の前にいるのは、スクリーンの中の人物ではない。この国を背負っている、本物の皇帝。だからこそ、シャーロットは心から思った。
(どうか、これからもお元気でいてください)
それだけでいい。皇帝が玉座に座り、祝辞が続く。大勢の貴族たちから贈り物が届けられていく。宝石、美術品、高級な酒、珍しい工芸品。どれも豪華だった。シャーロットは少しだけ不安になる。自分の贈り物は、本当にこれでよかったのだろうか。すると…。
「次は……」
侍従が名を呼んだ。
「スターライル侯爵家、シャーロット・スターライル嬢」
シャーロットの肩が跳ねる。
「……!」
「行っておいで。ちゃんと側にいるから」
アシェルが小声で言う。
「はい」
シャーロットは一歩前へ出た。大勢の視線が集まる。緊張する。足が少し震える。それでも、ゆっくりと皇帝の前まで歩いていく。
「陛下」
「シャーロット嬢」
皇帝が優しく微笑んだ。その瞬間、シャーロットの緊張が少しだけ消えた。
「お誕生日、おめでとうございます」
「ああ。ありがとう」
「こちらは、私からの贈り物です」
両手で箱を差し出す。
「どうぞ、お受け取りください」
皇帝は箱を受け取った。
「これは…」
「焼き菓子と、ティーカップです」
「ほう」
「私が作りました」
皇帝が少し驚く。
「君が?」
「はい」
「これは嬉しいな」
皇帝は箱を大切そうに見つめた。
「ありがとう」
そして…。
「大切に使わせてもらおう」
「……!」
シャーロットは目を輝かせた。
「はい!」
これ以上言葉が出てこなかった。けれど、それで十分だった。皇帝は箱を侍従に渡す。そしてシャーロットへ向かって言った。
「シャーロット嬢」
「はい」
「昨日、君は『誕生日を楽しみにしている』と言ってくれたな」
「はい」
「私も、君のような若い者に祝ってもらえるのは嬉しい」
「……」
「ありがとう」
シャーロットは深く頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございます」
そして席へ戻る。隣に座ったアシェルが小さく親指を立てた。
「完璧だったよ」
「……緊張しました」
「でも、ちゃんと言えたね」
「はい」
シャーロットは胸に手を当てる。心臓はまだ速い。けれど幸せだった。やがて祝宴が進み、しばらくして皇帝が一口、焼き菓子を口にした。
「……」
その表情を、シャーロットは遠くからじっと見ている。アシェルも気づいた。
「そんなに見なくてもいいんじゃない?」
「大切な瞬間です」
「そう?」
「はい」
皇帝は焼き菓子をもう一つ手に取った。そして、小さく呟く。
「美味いな」
小さく呟きだったが、その言葉をシャーロットは聞き逃さなかった。
「……!」
拳を握る。
「成功です」
「よかったね」
「はい!」
エミリーも微笑んだ。ルイスも小さく頷く。トリスタンは静かに目を細めた。その後、皇帝は庭へ出た。手には、シャーロットが贈ったティーカップ。小さなカップに紅茶を注ぎ、庭を眺めている。シャーロットは少し離れたところから、その姿を見ていた。自分が贈ったものを、本当に使ってくれている。それだけで胸がいっぱいになる。
「……よかった」
シャーロットが呟く。
「何が?」
アシェルが隣に立つ。
「陛下が、楽しそうです」
「うん」
「それだけで、私は満足です」
シャーロットは微笑んだ。アシェルも笑った。
「じゃあ、今年の推し活は大成功だね」
「はい!」
シャーロットは元気よく答えた。そこへ…。
「シャーロット嬢」
皇帝が振り返った。
「はい!」
「来年も、期待してよいのか?」
「……!」
シャーロットの目が大きくなる。
「もちろんです!」
「それは楽しみだ」
皇帝が笑う。シャーロットも笑った。来年、また推せる。また祝える。それだけで十分だった。皇帝が祝宴の場へ戻るのを見送り、シャーロットは持ち歩いている日記を開いた。
『今日は陛下のお誕生日、手作りの焼き菓子とティーカップを贈った。陛下が喜んでくださった。推しの幸せを願うことが、私の幸せでもある』
ペンを置く。シャーロットは満足そうに笑った。ところが…。
「……あっ!」
ふと思い出す。大切な約束を忘れてしまう所だったと、シャーロットは日記を閉じた。
「アシェル様」
「何?」
「今日、約束しましたよね」
「何を?」
「私たちのお菓子作り」
「ああ」
「アシェル様の分も作ると」
「……」
「忘れていませんよね?」
「……忘れてた」
「では明日、作りましょう」
「分かった」
こうして皇帝陛下の誕生日は、無事に終わった。派手な贈り物ではなかった。高価なものでもなかった。けれど一人の少女が、自分にできる範囲で心を込めて贈った、小さな誕生日プレゼント。それは確かに、皇帝の心に残った。
そしてシャーロットの推し活仲間も、少しずつ増えていた。エミリーは、まだ推しを探している。ルイスは、今日も第一騎士団団長を静かに応援している。アシェルは、相変わらずシャーロットに巻き込まれている。そしてトリスタンは、そんな二人を優しく見守っている。シャーロットは明日も、自分の生活を大切にしながら、推せる範囲で推していく。そして…。
「アシェル様、次は何を作りましょうか?」
「……次?」
「はい」
「父上の誕生日、終わったばかりだよ?」
「来年の準備です」
「早すぎるよ!」
皇宮に、第一皇子の悲鳴が響いた。皇帝陛下を推す侯爵令嬢の推し活は、今日も平和である。




