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智識神の封印書庫  作者: 文月沙華
少年と猫

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8話

 その日、アシェルはテーブルと本棚の隙間に挟まれ、足を抱えて蹲っていた。


 灯りをつけない部屋の中、埃っぽく薄暗い室内に、カーテンの隙間から陽の光が細く差し込んでいた。


 嫌なことがあって一人になりたい時、ここで過ごすのがアシェルの習慣だった。

 教会に付設された薬草工房、シスターが薬の調合なんかを行うための部屋だけど、滅多に使われない部屋だし、使われるとしても時間はだいたい決まっている。鍵も簡単に持ち出せるし、一人で過ごすにはもってこいだった。

 アシェルは、この部屋のひんやりとした澄んだ空気と薬草の匂いが好きだった。母親のことを思い出せるからだ。


 どれくらいの間そうしていたんだろう。ふと顔をあげたところで、日が落ちかけていることに気付いた。カーテンから差し込む光は赤く染まり、それに気づいた途端、肌寒さを感じて身震いする。


 そろそろ夕食の時間だ。


 長い時間を一人で過ごして落ち着いたつもりだったけれど、この後の夕食のことを思うとまた憂鬱な気分になった。


「落ち着きましたか、アシェル?」


 突然、頭上から降ってきた声にぎょっとする。声のした方向——自分のすぐ隣にあったテーブルに視線を向けると、そこで院長が本を読んでいた。


 声をかけられるまで全く気付かなかった。いつからいたんだろう?


「なんでいるんですか」


 ばつが悪くなって、拗ねたような声が出てしまった。それを自覚して、より恥ずかしくなってくる。


「テオと喧嘩したそうですね」


 名前を出されて心臓が跳ねる。テオは同じ孤児院にいる子供の一人で、アシェルとは特に仲が良い――と、思っていた。


 事の発端は、テオがアシェルの父親の仕事を知ってしまったことだった。絵本の中の英雄の話になり、それを読んで父親のことを思いだしたアシェルは自分の父親が傭兵だったことを話したのだ。

 アシェルにとってはなんでもないことだった。けれど、テオにとっては違ったのだろう。

 テオは急に機嫌を損ね、


「傭兵なんてろくでもない」


 と吐き捨てたのだった。

 絵本の中の英雄と父親を同一視していたアシェルには、どうしてそんな風に言われるのかわからなかったし、テオのそんな様子は初めて見たからその時はただただ困惑していた。


 機嫌を損ねたテオがその場を去ってようやく、アシェルの中には悲しみと怒りの感情が湧いてきた。そのまま、やり場のない感情をどうすべきかわからず、アシェルの足は自然と薬草工房に向いていた。


 ただ、しばらくここで過ごして落ち着いたからか、テオの名前を聞いて浮かんでくる感情の中に怒りはなかった。


「テオの両親は」


 アシェルがまた俯いたのを見て、院長が口を開いた。一拍置いて、こちらが聞く姿勢になったのを待って話し始める。


「五年前の戦争でした。当時、あの子とご両親が住んでいた村はハルツァ領とグレイデン領の領境にありました。ハルツァ領で蜂起が起きたことは知っていますね?」


 さすがに知っていた。


 たしか、ハルツァ領で領主の息子が父親を相手に戦争を仕掛けた……って話だったはずだ。父親が悪いことをしていたから、それを止めるためだったって聞いたことがある。

 アシェルの顔を見て、院長は一度頷いてから続けた。


「難しい話は省きますが……ハルツァ領の領主の息子が“お父さんはひどいことをしている”と言って戦いを始めたんです。その際に隣にあるグレイデン領の手を借りましたが、それに対して領主は傭兵を追加で雇って兵力を上乗せしたのです」


 院長は本を開いたままだったが、その瞳は手元の本ではなくどこか遠いところを見ていた。かぶりを振って溜息をつく。


「急遽雇われた傭兵たちは素行も悪く、領主の不手際もあって報酬の支払いが滞ったと聞いています。十分な報酬が得られないと思った傭兵たちは、自分たちが戦った戦場で略奪を働きました」

「略奪?」


 院長は残念そうに目を閉じて頷く。


「人から無理やりに奪うことです。食べ物やお金——を奪って、自分たちが受け取るはずだった報酬の代わりにするんです」

「そんなこと!」


 許されるはずがない。そんなことをする人間がいるはずがないと思った。

 けれど、院長が嘘を言っているようにも思えず、何も言えなくなって黙り込んでしまう。


「テオが傭兵を嫌っているのは、あの子の両親がその略奪に巻き込まれて亡くなったからです」


 アシェルが言葉を飲み込んだのを見て、院長はさらに続けた。


 信じられない話で、理解が追い付いていなかった。当時、まだ子供だったアシェルにとって、自分たちのご飯やお金のために人から奪う大人がいる――それだけならまだ理解できたことだった。


 けれど、傭兵として雇われた人たちがそれを行うなんてことは信じられなかった。アシェルの中で普通の人たちと犯罪者たちは明確に別の存在として区別されており、自分の父親が属していた傭兵という人々は、当たり前に前者に含まれていた。


 また俯いてしまったアシェルを見て、院長は口を閉ざしてじっと待った。

 どれくらいの間そうしていただろうか。いつの間にか、部屋の中はさらに暗くなっていた。

 俯いていた顔をあげると、院長は変わらずアシェルを見つめていた。叱られているような居心地の悪さを感じていたが、目が合うと院長は優しく微笑んだ。


「以前も話したことがありますが、あなたの両親は尊敬できる立派な方でした。二人とも、私にとって胸を張って誇れる友人です」


 父は傭兵、母は医者——以前聞いた話を思い出す。

 父親のことはほとんど覚えていないが、母のことは覚えていた。患者と向き合う真剣な顔と、薬品で少し荒れた手。街でも評判の医者だったそうだけれど、亡くなった後になって本当に最低限の治療費しか受け取っていなかったことを知った。医者にかかるお金のない人に対しては、ほとんどタダ同然で治療を施していたらしい。


 この孤児院に来る前にも母に連れられて院長と会ったことがあったらしいけれど、それは覚えていなかった。アシェルにとって、院長とは五歳の頃に孤児院で出会ったのが最初の記憶だった。


 父と母は院長の誇る友人。改めてそれを言われるだけで、不安な気持ちが和らいでいくのを感じた。


「傭兵に悪い印象を持つ人は珍しくありません。それらは彼ら自身の行いの結果生まれたものですから、仕方のないことでもあります。けれど、だからといってすべての傭兵が悪い行いをするわけでもありません」

「でも、テオは……」


 アシェルの焦った声を聞いて、院長はゆっくりと頷いた。


「ですから、あの子は誤解をしているだけです。自分の辛い境遇が原因で、傭兵という職業のことを正しく理解することができないでいます。けれど安心してください。その誤解は私が解いておきましたから」


 テオは誤解をしている。


 そして、院長がそれを解いてくれた。


 頭の中で、それらの言葉をゆっくりと繰り返した。


「だから、あの子の誤解を責めてはいけませんよ」


 院長に手を引かれてゆっくりと立ち上がる。随分長いこと冷たい床に座っていたせいか、脚とお尻が少し痛かった。


 アシェルの足取りは重かった。ずっと座っていたからというのもあるけれど、テオと顔を合わせるのがまだ怖いのも大きい。

 でも――アシェルは自分を支えてくれる院長をちらりと見上げた。


「さぁ夕食の時間です。あの子ともいつも通り話せますから、一緒に食堂に行きましょう」


 院長に促されて前を歩く。

 肩に添えられたしわのある手が頼もしく、温かかったのを覚えている。

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