1話
殴ればこちらも痛い。
些細なことから友達に手を上げたテオは、他の多くの人間よりも早くそのことを学んだ。違いがあるとすれば、テオは自分の手の痛みを理由に止まることはないところにある。
今もそうだ。無心で拳を振り上げながら、テオは思う。確かに拳は痛いけれど、止めようとは思えない。殴れば殴るほど気が晴れる。テオが他人を殴らないのは両親や院長から社会性を教わった結果でしかなく、相手が可哀そうだとか、そんなどうでもいいことは関係がなかった。
お人好しの弟や慈悲深い妹じゃあるまいし、テオの中にある明確な好悪のうち、悪に属する相手に対する遠慮などというものは微塵も存在していない。ただ、社会的なリスクから手を止めることはあるが、それも自分が特別苛立っている時であれば何の役にも立たないのだと、相手の身体に拳を沈めながら考える。
多少は人間らしくなったつもりだったけど、自分は相変わらずのようだ。心の中で院長に謝罪し、再び腕を振り上げたところで、それを掴むやつがいた。
「やりすぎでしょ、テオ」
誰かと思えば、お人良しな弟――アシェルだった。反対を押し切って傭兵になった挙句、事件に巻き込まれて腹を刺されたらしい馬鹿な弟。コイツが孤児院を出て行って以来だから、会うのは数か月ぶりだろうか。
「お前か」
以前よりも腕の力が強くなっている気がする。背も微かに伸びただろうか?
「その人、なにしたの?」
言われて、先ほどまで殴り倒していた男を見る。顔は腫れあがり、鼻血も出ていた。殴る前は元気に喚き散らしていたのに随分おとなしくなったものだ。殴られる前と後で、同じ人間だと思うやつはいないだろう。
「別に。ウチの客にちょっかいかけてたから、叩き出したとこだよ」
胸倉を掴んでいた手を離し、男を放っておいて店内に戻る。アシェルは路地に倒れ伏した男を気にかける素振りを見せたが、何も言わずに後をついてきた。
店内に入ると、先ほどの男に絡まれていた女性客が「ありがとねテオくん」と礼を言ってくれる。軽く手を振ってそれに返事をし、アシェルに席を勧めて自分はカウンターの中に戻った。
拳についた血を石鹸で洗い流しながらアシェルの話を聞く。
「何しに来たんだ」
「ミレナのこと聞いた?」
聞いたかと聞かれれば、何も聞いていない。それが伝わったのだろう、こちらから促さなくてもアシェルは続きを話し出す。
「学校でちょっとトラブルがあったらしくて、しばらく謹慎なんだってさ。僕も怪我のせいでしばらく休むし、良い機会だから久しぶりに三人で会わないかと思って」
腹を刺されたり謹慎になったりが良い機会かは疑問の余地があったが、三人で会うというのは悪くない。
「謹慎って、アイツ何したんだ。外出れるのか?」
「孤児院には顔を出してたよ」
何をしたかはアシェルも聞いていないらしい。金を積まれても規則を破りそうにない妹が何をやらかしたのかは興味をそそられる。そういう意味でも会いたくなってきた。
カウンター横の壁にかけられたカレンダーに目を向ける。アシェルは怪我の療養中、ミレナは謹慎となると、あまり日を空けるわけにもいかないだろう。
「お前たちはいつがいいんだ」
「テオが問題なければ、三日後にでもって話してた」
三日後……。特に用事はないが、普通に営業日だ。
「いいじゃない。個室貸してあげるから店で集まったら?」
二人の話を聞いていたらしい、店長が店の奥から顔を覗かせていた。
いつも二日酔いしてるんじゃないかってくらいだるそうな女性。話し方や所作からかなり年上じゃないかと睨んでいるが、見た目は若々しくて老いを感じさせないその様子から、一部の客からは親しみを込めて魔女と呼ばれている。
ちなみに寿命を延ばすような魔術にはろくなものがなく、バレれば司法が放っておかない。以前、このあだ名を本気にして衛兵が突入してきたことがあって以来、店長を魔女呼びすることは禁じられていた。誰も守っていないが。
「個室、いいのか?」
「もちろん。キミはいつも良く働いてくれるからね」
この店の個室は、大抵は人に聞かれたくない話をしたいやつが、そこそこのお金を払って借りる場所だ。貴族や金持ちの商人が使うこともあり、表の店内と比べると内装も豪華なものになっている。
子供三人が借りてミルクで乾杯するにはあまりにも場違いだ。
「ありがとうございます」
そんなことを知ってか知らずか、呑気にお礼を言うアシェルを見てテオは息をついた。
腹を刺されたらしい弟分の元気そうな姿を見て、テオの苛立ちはいつの間にか治まっていた。妹分が謹慎という新しい火種もあるものの、アシェルの話を聞いている限りではそちらもそう大事ではなさそうだ。




