22話
立ち上がったミレナに対し、エルネスは再び声をかける。もはや杭も回しておらず、戦いの意志がないことはミレナにもはっきりと伝わった。エルネスからすれば始めから勝敗は決まっており、戦うだけ無駄な意味のないやり取りでしかない。
「諦めはついたかい?」
潤んだ瞳がエルネスを見据える。エルネスの期待を裏切り、ミレナははっきりと首を横に振った。正面に向き直る頃には、その瞳は鋭さを増し、戦い始めの意志の強さを取り戻している。
エルネスは呆れ混じりに腕を左右に広げて首を振る。ミレナがここまでする理由がエルネスには本当に理解できなかった。
「君にとって信仰を守ることはそれほど大切なのか」
再びワイヤーを握る手に力を込める。まだ戦いは続くようだと悟り、再び勢いをつけて回し始めた。
ちらりと背後を振り返る。誰かが禁書庫が開いていることに気付いたら面倒だ。そろそろ終わらせなければならない。
「大切です」
はっきりと宣言した。自分の現状を顧みない迷いも偽りもない言葉に、エルネスは眉を潜める。
ミレナが再び上級魔術の準備をしているのはわかっていた。魔力の高まりを感じるし、なにより諦めないのであれば他に勝つ手段はない。上級魔術の威力は圧倒的で、防御が間に合わなければ致命傷は避けられない。
であれば杭なり魔術なりで妨害するのが定石だが、エルネスはそうしなかった。決着を急がなければならない理由があるにも関わらず、なぜそうしなかったのかはエルネス自身にもわからない。
「君はシェラトゥの信徒ではないと言っていたね。たまたまこの学校に推薦を貰ったというだけで、シェラトゥを含む七神すべての信徒だ。
それで、その七神様は君に何をしてくれた。君が辛い時、苦しい時に助けてくれるのか。行先を照らしてくれたことが一度でもあったのか。強大な力を持ち世界を創造したとされる神々が、君のために何をしてくれるっていうんだ」
智識神シェラトゥの信徒たちは、他の教団と比べて特に信仰心というものに疎い傾向にある。だから、ミレナのようなタイプは生徒たちの中でも珍しい。
シェラトゥの教義は信徒に多くを求めない。彼らは日々を知識の収集と魔術の研鑽に努め、祈りを捧げる習慣すら持たない者だって珍しくないのだ。
そんな教団に長く関わってきたエルネスからすれば、ミレナの動機は全く理解に苦しむものだった。
「信仰はそんなものじゃありませんよ」
静かな、けれど揺るぎない声だった。一度目を閉じ、まるで幼い子供に諭すように続ける。
「私はこれまで神々の教えを守って生きてきました。私が辛い時、苦しい時に私を支えてくれたのは私の中にある神々への信仰です。神が私に何もしてくれなくとも、私は自らの信仰によって救われてきました。信仰は見返りを求めるものではなく、ただ救われるものなのです」
ゆっくりと目を開けた。エルネスの射貫くような視線が心に深く突き刺さる。自らの信仰を振り返ることは、ミレナにとっては短い祈りとなり、不思議と怖さを拭いとる。
二人の表情を見て、追い詰められているのがミレナだとは誰も思わないだろう。
「なら、その信仰ごと打ち砕いてあげるよ」
先に動いたのはミレナだった。〈ヴァルディアの遺槍〉を右手に構えると、それを合図にして倒れたままのアーシャが〈魔力の矢〉を放つ。それらをワイヤーで撃ち落とすエルネス目掛けて躊躇いなく遺槍を投げた。
エルネスの正面に再び防御壁が現れ、ミレナの投げた槍を受け止め砕ける。同時にミレナが駆けだしたのを、エルネスは見逃さなかった。エルネスに負けがあるとすればミレナの魔術だけだ。だから、そちらにさえ注意していれば負けはない。
そう考えてミレナを目で追うエルネスの視界が灰色で塗りつぶされる。
咄嗟に精霊を見上げ、エルネスは舌打ちした。精霊の半透明な身体ではミレナの行動を完全には隠せない。落ち着いて、左右どちらから飛び出してくるか見ていればいい。
右か左か、警戒するエルネスの視線の先、ミレナの影は真っ直ぐにつき進み、高く跳躍した。真正面に。
思わず乾いた笑いが出る。敬虔で勤勉な神の信徒。これが?
精霊の身体をすり抜け、左右の手に握りしめた遺槍を振りかざしたその姿を見て、将来の魔術師候補だと思う者はいないだろう。跳躍して距離を詰めたミレナは右手を振り上げ、エルネスが慌てて張り直した防御壁目掛けて容赦なく遺槍を叩きつけた。
閃光と轟音、それらに晒されてもエルネスは冷静だった。防御壁は一度で破られる。しかし、手札はそれだけじゃない。甘かったねと内心でほくそ笑み、準備しておいた〈拒絶〉を発動させる。
魔術師であれば接近戦への対策は基本中の基本だ。この魔術は自身を中心に衝撃波を放ち、付近にいる人や物をまとめて弾き飛ばす中級魔術。遺槍を二本まとめて扱えるのにはこちらも驚かされたけど、吹き飛ばしてしまえばこちらのものだ。
閃光が晴れる。吹き飛ばされて体勢を崩したはずのミレナは、空中で壁面に着地して今まさに二本目の遺槍を投擲するところだった。
その足元にある壁は灰色のカーテン――アーシャの精霊。
「嘘だろ」
自分の頬が引き攣るのを自覚する。大人しく謙虚な教え子に、初めて本当の意味で警戒心を抱く。それが遅すぎることは本人が一番わかっていた。
遺槍がミレナの手を離れ、エルネスの身体を貫いた。
* * *
ミレナの頬を大粒の雫が伝う。赤く染まった上等な服に両手が添えられ、仄かな灯りが傷口を覆う。遺槍はエルネスの脇腹を深く抉り、流れ落ちた鮮血が灰色の床を鮮やかに彩る。
対してエルネスの顔は晴れやかだった。今の彼には身体から生が流れ出る感覚すら心地良い。深刻な様子のミレナとアーシャを見て、何がおかしいのかまた笑みが浮かぶ。
「「先生!」」
二人の呼びかけが重なる。先生。
禁書庫を破らせ、止めに来た生徒と戦う人間が先生。
その事実には笑えない。
「そんなに泣くことないだろ。どう考えても僕の自業自得だ」
生徒相手にやり返されて、腹を刺されているのがダサすぎる。泣くところじゃなくて笑うところだ。
リーヴェンが見たらなんて言うかな。説教されるか、呆れられるか、アイツは笑いはしないだろうけど。
「ごめんなさい、私……ごめんなさい」
涙の止まらないミレナを見て、つい溜息が出そうになる。どうしてこの子は、こうなのだろうか。
過ちを犯す友人を止め、それを唆した教師を諫め、この子は間違いなく自分に出来る限りのことをしてみせた。それで自分を責めるなんておかしな話だ。
「僕は君のこと嫌いなんだ」
出血が少なくなり、ミレナたちの顔に焦りが浮かぶ。傷が塞がっているからか、それとも流れ尽くしたからなのか、判断できる知識も経験も持ち合わせてはいない。
「君には才能があるんだから、もっと自信を持ちなよ」
そうでないと、僕みたいなやつが惨めすぎる。
意識が遠のくのに任せて、心地の良い虚脱感に沈んでいく。
「リーヴェンを呼びなさい」
辛うじてそれだけ口にして、エルネスはすべてを手放して眠りに落ちた。
遠くからアイツの声が聞こえた気がした。




