3話
心なしか教室全体がそわそわしている気がした。私と違って、大抵の人は魔術戦闘の授業が好きだ。授業の準備もせずに落ち着かない様子で話をしているクラスメイトも少なくない。
私は彼らを横目に鞄から教科書とノートを取り出し、羽ペン用のインク壺の残量を確認する。準備はばっちりだ。
授業開始の鐘が鳴ると同時に、教室の扉が勢いよく開かれた。背の高い、インク壺をそのままひっくり返したんじゃないかと思うくらい真っ黒な髪の男性が、大股で教壇へ向かう。
準備を終えていなかったクラスメイトたちが慌てて席に戻り、机の上を整える。大抵は鐘が鳴ってから数分しないと先生は来ない。すぐに来る先生の時は生徒たちも先に準備を終えるけれど、今日は初めての先生だから油断していた子が多い。
初回から怒り出すと面倒だな、という考えが頭をよぎった。
先生は手に持った革張りのバインダーを教壇の上に放り投げるように置き、機敏な動きで黒板に何かを書き始めた。
……どうやら〈盾〉の術式を黒板に書いているみたいだ。暗号化も圧縮もされていない、そのまんまの術式。いくつかパターンがあるけれど、市場でも出回っている最も一般的な術式の一つだ。
すぐに授業が始まるわけではないことを知った生徒たちも、やがて怪訝そうな顔つきに変わっていく。〈盾〉の術式なんて基礎の時にさんざん習ったもので、今更復習したいものではない。もしかして、初回の授業は基礎の反復になるのだろうか、そんな風に思っている生徒が多そうだ。
教室に満ちる残念がる空気を知ってか知らずか、先生は板書を続ける。〈盾〉の次には〈魔力の矢〉、こちらも基礎中の基礎の術式で、基礎でさんざん習ったのも同じだった。
やがて、術式を書き終えた先生がチョークを放り投げるように置き、機敏な動作でこちらを向きなおる。
「諸君、私の授業では一分一秒を無駄にすることは許さん。授業の準備は私が来る前、鐘の鳴る前に済ませておくように」
やや早口で、はっきりとした口調で話す先生に、何人か心当たりがあったのであろう生徒たちが気圧されたように俯いた。先生は教室中を睨みつけるように見回し、追い打ちをかけるように言葉を続ける。
「今日の授業では〈盾〉と〈魔力の矢〉、これらの基礎魔術についての理解を深めてもらう。実践は一切ない、私の話を聞くだけだ」
何人かの口から溜息が漏れた。怖そうな先生だったし、睨まれるんじゃないかと心配してしまったけれど、先生は何も見えなかったかのように振る舞った。こちらの反応に逐一感情を示すような人ではないみたいだ。
生徒の一人がうんざりした態度を隠しもせずに手を挙げた。運動や実践が好きな、座学の苦手な子。先生に対しても物怖じせずに口出しするその個性は、この先生に対しても平等に発揮されるらしかった。
「なんだ」
「あの、それらの基礎魔術については基礎の授業でも習いました。今更必要だとは思えません」
ようするに、別の授業をやってほしいという要望だった。先生が怒りだして基礎の復習が説教に変わるんじゃないかと心配だったけれど、その心配も杞憂だった。
先生は発言した生徒から視線を外し、教室全体に目を向ける。
「お前たちの懸念については理解できる。ただし、この授業内容は基礎を教えた先生と授業内容の擦り合わせを行った上で決定している。過去の復習でもない、魔術戦闘を実践するにあたって重要な内容だから真面目に聞くように」
説明を聞いてもなお、残念そうな様子を隠さない生徒たちがほとんどだ。教室には新しい先生を警戒する空気と、授業内容が期待外れだったことに失望した空気が充満する。先生が感情的に怒鳴り出すようなタイプではないとわかったからか、生徒たちの間でひそひそ声が遠慮なく広がっていく。
「それでも今日話す内容について自分は理解しているという者がいるなら、遠慮はいらん。私の代わりにここに立って授業を行え」
その一言で、教室は静まり返った。先ほど発言した子も気まずそうに視線を逸らす。
「術式を理解し、魔術を発動することができればその魔術を使える、などということにはならない。これらの基礎魔術がなぜ基礎魔術として使われ続けるのか、その理由まで正しく理解しなければ魔術戦闘の上達はない」
先生は教壇の上をゆっくりと往復し、板書した術式を何度か指示棒で叩きながら言葉を続ける。
「毎年、自分たちは理解していると驕り、ろくに話を聞かずに単位を落とす愚か者がいる」
教壇の真ん中まで来たところで、足を止めてこちらを振り返り、教卓の上に叩くように手を置いた。
「自信を持つのは結構なことだ。魔術師なら自分に自信くらい持てなければ話にならん。だが、傲慢となると別だ。自分の実力を見誤り、成長の機会を自ら潰すような愚か者は魔術師になどならなくていい」
強い口調で、はっきりと宣言した。
ここに通う生徒たちは貴族の子も多い。立場を気にしてあまり強く叱責しない先生も珍しくないため、こういった先生は珍しいどころか、ここまでの先生は初めてだった。
「それでも自分は理解していると思う者は、遠慮することはない。この教室から立ち去りたまえ。安心しろ、理解しているのだから出席にはしてやる」
そう言って、教卓に置いたバインダーを手に取り、ペンを握る。これから出欠確認を行うのだとわかったけれど、それが始まる前に手を挙げた生徒がいた。
先生は一瞬怪訝そうな顔を見せ、その生徒に席を立つように促した。手を挙げた生徒――セラは立ち上がり「退席します」と短く言って教室を出ていく。
自分から口を開くことは滅多にない。成績は良いけれど静かで目立たない子という印象だったから、ここで手を挙げてまで退席を選ぶことは意外だった。
教室を出る寸前、先生から引き止められてセラが振り返る。
「まだ出欠をとっていないから、名乗ってから行きなさい。それから、本来授業時間ではあるから校舎外には出ないように、空いた時間は自習か自主練に充てなさい」
先生が今度こそ怒り出すんじゃないかとはらはらしていたけれど、どうやら先ほどの言葉通り、退席した人は出席扱いにしてくれるみたいだった。怖そうな先生だったけれど、そこは言葉通りなのはちょっと好感を持てた。
セラは自分の名前だけを答え、軽く一礼して教室を後にする。
あの子が優秀なのはみんな知っているし、多分あの子なら大丈夫なんだろうとは思った。そして、セラと同じように振る舞える人は、他にはいなかった。




