とある愛のない政略結婚をした仮面夫婦の秘め事
とある社交の場でその人を一目見た時、どうしようもなく心奪われた。
しかしその人は、誰をも寄せ付けない孤高の人だという噂も聞いていた。
(無理……)
そんな人が私のことを好きになってくれはずはない。この恋は身を結ぶこともなく、徒花のように虚しく枯れ果てるのだろう。
悲嘆に暮れる私に、幼い頃から付き従っている側仕えが、真顔のまま辛辣な言葉を投げつけてくる。
「うじうじして面倒臭い方ですね」
とても主人に向かって言う台詞ではない。しかし、この側仕えは子供の頃からの付き合いであるため気安く、同時に私の行動に対して率直な意見を求めると、悪いことは悪いと忌憚なく伝えてくれる数少ない人間だ。
私に信用されていることを知っているため、思い切り睨んでも、ものともしない。
「そんな貴方様に朗報です。次に行われる仮面舞踏会には、かの方も出席されるという情報を入手しております」
有能な側仕えは、有益な情報を私に提示する。態度が多少悪くても、それを補って有り余る能力を、私は評価していた。
そうして私は、当日に向けて側仕えからのアドバイスを受けながら、仮面舞踏会に備えることになった。
⭐︎
そして迎えた仮面舞踏会の夜。
この仮面舞踏会は仮面だけではなく、仮装も許されている。つまり遊び心を加えた、少し砕けた会だということだ。
青い蝶を模した精巧な仮面、それに合わせた青いドレス。
側仕えと入念に相談をして、私は、決して私であると見破られないはずの完璧な変装をして、会場に踏み込んだ。
着飾った男女は全て仮面を被っており、通常の格式ばった舞踏会と比べて、随分と濃密で淫靡な雰囲気だ。
ここには血眼になって相手を探している独身の貴族と、一夜の火遊びを求める既婚者が混在しており、皆、獲物を狙う狩人のような空気を醸し出しているため、少し怖い。
漂うギラギラした雰囲気に気圧されつつも、私はそわそわと周囲を見渡す。そして。
(あの人だ!)
溢れんばかりの私の恋心は、変装している愛しい人を一目で見つけ出す。
(なんて格好いい……)
巷で人気の歌劇の仮面の怪人を模した姿が、とても似合っていて素敵だった。
仮面から覗く鋭利な眼差し。すっと伸びた背筋と長い足。堂々とした立ち振る舞い。全てが私の心を打ち抜く。ああ、この瞳にその姿が永遠に焼き付いてしまえばいいのに。
その凛々しい姿に、見ているだけで、胸がきゅうっと苦しくなる。
切なる想いに痛む胸に手を当てて固まっていると、その人はちらとこちらに目を向けた。
見惚れている視線に気付かれてしまったらしく、その人は大股で、こちらに近づいて来た。
(こっちに来る……!)
こちらから声をかけるつもりだったのに、完全に予想外だ。心の準備ができていない私の体は、ますます緊張して強張ってしまう。
私の目の前で立ち止まったその人は、口元に微笑を浮かべ、固まっている私に手を差し出し、こう言った。
「どうか私と踊っていただけませんか。素敵なお方」
トゥンクトゥンクと鼓動が高鳴る。
「よ、喜んで」
まるで生娘のように声が上擦ってしまったのが恥ずかしい。重ねた手は、きっと震えていたことだろう。
程なくして弦楽四重奏のしっとりした音楽が静かに流れ始める。
密かに想いを寄せている人にリードされ、私はステップを踏んでくるくる踊る。慣れておらず動きが少しぎごちない部分もあったけれどーーそれは夢のような時間だった。
(夢ならどうか醒めないで)
しかし音楽は無情にも終わった。名残惜しい気持ちが勝って、私は手を離せずにいる。
そんな私の気持ちを察したのだろうか、その人は、私の耳元でそっと囁いた。
「会場の外に客間が用意されています。二人で抜け出しませんか?」
耳朶に息が吹きかかり、体がぞくりと震えた。けれど、どうして私がその誘惑に抗えようか。私は小さく頷いた。
⭐︎
この国では一般的に、舞踏会の主催者側は、舞踏会の夜を過ごす要人のために客間をいくつか開放することになっている。
そういう用途のために準備されたと考えると生々しい。今までの自分なら「なんて破廉恥な」と憤っていたところだが、今はこの絶好の機会を逃したくなかった。
けれど、悲しいかな。客室に足を踏み入れてみたものの、緊張して体が動かない。そんな初心な私を見かねたのか、
「さあ、こちらへ」
と手を取って、寝台へと導いてくれた。
寝台の縁に二人で腰掛ける。私は俯いたまま、膝の上で握りしめた手を見つめている。心臓が口から飛び出しそうなほどバクバク鳴っている。
そんな私の手に、重なる手。体重がかかり、ギシ、と寝台が軋む音がした。
「大丈夫。優しくします」
嗚呼、なんて頼もしい人なんだろう。
この人に身を委ねていれば大丈夫だと思い、私は力を抜いた。
その日の夜、私たちは結ばれた。
今日、この日を忘れないために、暦に「初めて結ばれた記念日」と刻むことを決意した。
⭐︎
あの日の夜を思い出すと、恥ずかしさと愛しさで頬が熱くなる。
けれど私にも分別は残っていた。口づけは結婚の約束をした男女が行うもので、おいそれとするものではない。だから、あの時、口づけはけじめとして拒んだのだ。
あの、めくるめく甘美な夜から七ヶ月経ったある日。
「お前に合わせたい方がいる」
と父に呼び出された応接室で私を待っていたのは、愛しいあの人だった。
(ああ……なんて……)
私はすぐに父の意図を理解した。
これは政略結婚のお膳立てだ。私は結婚適齢期を幾分か過ぎた独身者であり、周囲から「早くお相手を」とせっつかれていた。恐らく相手も同じ境遇だろう。
つまり、これは家のための婚約にすぎない。
ーーけれど。
私は意を決して、口を開いた。
「ああ、愛しい人。貴方の瞳は朝の澄み切った湖のよう。貴方の気高い姿は、女神を凌駕する尊さだ。貴方の全てが私の心を惹きつけてやまない。恋の盗人よ、貴方はなんて罪深い方なのだろうか。ーー我が最愛の人、イレーネよ。どうか私と結婚してくれないか」
私は「彼女」の前に跪き、うやうやしくその手を取り、甲に口づけを落とした。あの日、仮面の怪人の仮装をしていたイレーネは、今は美しい淑女の姿で優雅に微笑んだ。
「勿論、お受けいたしますわ。そもそも私たちは既に、政略結婚するように周囲に固められています」
その言葉、そして態度から、彼女もこの結婚に異論はないと知れた。
(ああ、何という僥倖。私は彼女に永久の愛を誓おう)
そして、結婚が決まったのなら。
(キスをしたい)
そう、結婚が決まった男女は、口づけをしても良いのである。
もちろん、手の甲ではなく。
あの艶やかな唇に触れたいと思うけれど、自分からキスなんてそんな大胆なこと、どうすればいいのか分からない。
もじもじしていると、ふっとイレーネは微笑むなり首を傾け、私の唇にそっと口づけを落としてくれた。
私の心に歓喜の温もりが広がっていく。
(ああ……)
私は再び心に誓った。今日のこの日を忘れないために、暦に「初めてのキス記念日」と刻むことを。
ーー唇が離れると、彼女は軽く目を伏せる。
「ですが一つだけ、お願いがございます」
「何だろうか」
愛しい人の望みなら、何でも叶えてあげたい。私が彼女を食い入るように見つめていると、
「私たちは、仮面夫婦ということにしませんか?」
とイレーネは唇に人差し指を当てて言った。
私はその意味を考えーー彼女の意図を汲んだ。
「すまない。君に接する時の私の姿を衆人に晒せば、威厳がなくなってしまうということだな」
彼女の前では、きゅんきゅんしてしまって、ついお花畑な言動をしてしまう私のことを心配してくれているのだろう。
これでも私は氷の君と呼ばれる人間で、立場上、臣下が敬意と畏れを抱くよう振る舞う必要がある。
「ええ。心苦しいのですが……私たちは愛のない仮面夫婦として振る舞うのが得策かと」
「そうか、それは仕方ないな……」
私には立場がある。誰にも舐められず、侮られないよう、孤高の存在でい続けなければならない。
そんな私のことを考えてくれるイレーネは、やはりこの世で最も素晴らしい女神の如き女性である。
⭐︎
そうして今。
私たちは愛のない仮面夫婦と言われ、私は近しい人間以外に対しては、威厳を保つことに成功している。
妻とは、人目のあるところでは決して、いちゃつかないよう、二人で取り決めた。
では、どうやって意思疎通をしているのかといえば。
我々の可愛い子供たちが、我々の仲を「快く」取り持ってくれるのである。
ーー最近、一番の下の娘が「けっ」という虫ケラでも見るような視線で見てくることと、下から二番目の息子が「面倒くせぇ」という顔をしてくることだけが、目下の悩みの種である。
おわり
「とある政略結婚した仮面夫婦の娘マリアベルによる切実なる告白」もあわせてお読みいただけましたら幸いです!




