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『アマールス』を聞く男

作者: 中山俊文

 月山は仰向けに寝転んだまま、重々しく響き渡る雷の音を聞いていた。稲光で窓がひっきりなしに明滅する。窓枠の限られた視界の中にさえ稲妻が走り、間髪をいれずに破裂音が炸裂する。月山は雷に曝されている風景全体を見ようと起き上がって窓に近づいた。累々と雲に覆われた夜空が怒ったように瞬き、そのたびに山の稜線がくっきりと浮き上がり、またすぐもとの闇に戻る。それを追うように雷鳴があたりを震わせる。

 突然、視界の届く限りがまぶしいくらいに輝き、空が裂けたような凄まじい音が真備の町に襲い掛かった。その閃光の中ですべてのものが真昼の色を現し、小田川の中州の緑も水の流れも一瞬あざやかに蘇った。照らし出された中州に弥生が立っている。月山の背筋が凍った。さらに確かめようと、激しい胸騒ぎを抑えて月山は次の閃光を待った。何本もの稲妻が同時に走ったかと思うと大音が耳を聾し、地上は白昼をも欺く明るさに輝いた。月山は弥生がいると思ったあたりに瞳を凝らした。白いものが動いた。人が、激しい雷に身をすくめたように見えた。短い残像を残してあたりは闇に戻った。弥生が真夜中の激しい雷雨の中に一人でいると思うと、月山は矢も盾もたまらず家を飛び出した。降りしきる雨の中、川岸までの百メートルばかりを裸足で走った。激しい降雨があったにもかかわらず川はまだ増水していない。川岸に繋ぎっぱなしになっていた小舟の綱を解いて飛び乗った。船底に溜まった水と月山の重みで小舟は舷まで沈み込んでゆらりとした。月山は竿で川底を突きながら小舟を進めた。小舟は下流に流されながら三十メートルばかり先の中州の浅瀬に船底をこすって動かなくなった。月山は舟から降りてあたりを見回した。中州のどこにも人影など無い。空はひっきりなしに白く光り、そのたびに重なり合った雲が恐ろしい形相を見せ、威嚇するように雷鳴が轟く。前方にポスターのような大きな白い紙が、背の高い雑草に引っ掛かって雨に打たれている。白く見えたのはこれだったのか。月山は、弥生がいなかったので少し落ち着きを取り戻して、小舟に戻ろうとした。その瞬間、鋭い破裂音が月山の鼓膜を破り、目を焼く閃光が月山もろとも中州に突き刺さった。そしてすぐにあたりはもとの暗闇に戻った。


 翌朝、小田川はこの地域に降った雨を集めて土色の水を波打たせながら流れていた。八高橋を渡って通学する小学生たちが、増水して狭くなった中州に男が裸足で倒れているのを見つけた。

 救急隊が駆けつけたが、男はすでに死んでいた。頭髪とズボンの裾の一部が焦げていることから、死因は昨夜の落雷に打たれたものと推測された。しかし、激しい雷雨の夜中に男が何故こんなところにいたのか誰にも想像がつかなかった。

 死んだ男が、近くで祖父母と暮らしている池田月山であることはすぐに判明した。老夫婦も、夜中の激しい雷雨を知っており、その雨音と雷鳴で眠れなかったそうだが、月山が出て行ったのは気がついていなかった。


 池田月山がっさん、三十才になるこの男の風変わりな名前は山好きの父親が憧れの山の名をとってつけた。子供のころ月山は変な名前だといって笑われるので嫌でしかたがなかったが、高校生のときある女生徒に美しい名前だといわれてから、嫌ではなくなった。


 山陽本線が岡山、倉敷のあたりにさしかかると平野が開け、その奥に低い山並みが続いている。その合間を縫うように川や田畑や道路があり、町々が散らばっている。月山が生まれ育ったのは、そのような町のひとつ真備というところであった。真備の西の端、むかし山陽道の宿場町として賑わった矢掛との町境に近く、東西に流れる小田川の南側の集落に、月山が祖父母と暮らす家はあった。そのあたりは、川と国道を挟んで南北両側から山が迫っていて、新緑の季節になると山も川辺も若葉の萌え色に染まる。特に川の中州に茂った木々の新緑は、それらを縁取る水流に映えて見るものの目を奪わずにはおかない。月山はこの時期の真備が好きだった。

 月山の部屋の窓からは、川向こうに国道とまばらな家々が見え、それらのうしろにあまり高くない山が連なっている。月山はそれらが織り成す風景を眺めながら孤独な青春時代を送ったのであった。


 両親はともに学校の教師で、父親は小学校に永く務め、校長を最後に退職した。母親は、中学校に勤めていたが、長女が三才になったころ、同僚の教師と恋仲になり月山を孕んだ。相手にも妻子があって、両方の家庭は崩壊の危機に直面した。同僚の教師の方は離婚して遠くの学校に転勤していった。しかし、月山の父親は妻の不義の子を自分の長男として育てる決心をして家庭を崩壊から救った。その後二人の子供ができて、一応家庭は平穏に見えていた。

 四人の兄弟は月山の出生の秘密を知らないまま成長した。しかし、あるとき血液型の矛盾から、月山は自分の出生に疑問を持つようになる。家族の中で月山だけがひょろりと背が高かった。父親は真面目で公正な人物で、四人の子を分け隔てなく愛した。

 月山が高校生になったころ、母親はすでに四十半ばになっていたが、十二才も若い教師と恋に落ちた。夫の寛大さがもう一度発揮されることはなかった。父親は子供を四人とも自分が引き取る条件で母親と離婚した。離婚に至るまでの両親の険悪なやり取りの中で、月山は自分の出生の秘密をはっきりと知ることになる。

 母親は家を出たが、教職は投げ出さずに同じ町で一人暮らしを始めた。若々しい雰囲気をいつまでも失わない彼女の生き生きとした明るさが、生徒にも教師仲間にも好かれていたのだ。ただ、恋多き女であることは知れ渡っていった。スキャンダルは公然と囁かれるようになって、結局その恋の相手とこの地を去っていった。

 既に就職していた長女は、ごたごたした家を嫌い、アパートを借りて一人暮らしを始める。まもなく男と同棲するようになって、父親と兄弟たちのいる家には寄り付かなくなった。

 残った三人の兄弟は父親と暮らしていたが、心にわだかまりを宿している月山は、ことあるごとに父親と衝突するようになり、近くに住む祖父母が見かねて引き取った。月山が高校生の時である。祖父は母屋と棟続きになった倉を改造して月山の部屋にした。

 そのころから、月山は音楽にのめりこんでいった。自分の部屋で音量をいっぱいに上げて音楽を聞くのが生活の大きな部分となった。月山の音楽の好みは、あまり通俗的とはいえないものに偏っていった。特にチェコの作曲家ヤナーチェクの、人間の運命を題材にした作品に強く惹かれるのであった。

 高校の成績は良い方で、現役で国立大学に合格した。大学には祖父の家から通った。サークル活動などはせず、アルバイトで稼いだ金でせっせとCDを買い集めては、ひとり部屋にこもってそれを聞いた。月山の部屋には買いためたCDが棚いっぱいに整然と並べられていった。

 月山は、母親から恋多き部分を受け継いでいて、中学、高校と何人もの同級生たちに恋をした。しかし、月山には母親と違って内向的で惰弱なところがあり、また人生に対して懐疑的であった。そのためどの恋も、素直な意思の疎通が出来ず、うまくいかなかった。年令とともに消極的になった月山は、大学時代を通じて異性への憧れをすべて内に押し込めてしまった。母親の快活な積極性を受け継がなかったのが月山の不幸であった。内にこもって一人で悩む性格は、実の父親から受け継いだものであったのか、それとも母親の奔放な生き方が月山の心に陰を作ったのであろうか。


 大学は出たものの、哲学や思想史などを専攻した月山にとって、一般の就職口は見つかりにくかった。たいした就職活動もしなかった月山は、小さな町工場の事務員として、高校出と変わらない条件で勤めることになった。就職したのが岡山市の南の端にある工場だったので、その近くに小さなアパートを借りた。それは西日の当たる六畳一間に、小さな炊事場と便所がついた質素なものであったが、月山は七年近くそこに住むことになる。

 工場で月山は、他の従業員と仕事以外ほとんど口を聞くことは無かった。十五人ほどの従業員のほとんどが五十才以上で、その中に三人ほど高校を出たばかりの者が混じっていたが、世代的にも話題の上からも月山と話が合う者はいなかった。

 しかし、事務所に出て経理の仕事をしていた社長の妻弥生とだけはよく話をした。学生時代には音楽サークルに入っていて、盛んに演奏会にも行ったという弥生との会話は、若者同士のようにはずむこともあった。月山は、音楽について熱っぽく語り、弥生はそれをいかにも興味深いといった風に聞いた。月山にとってそれは心和む時間であり、弥生にとっても、それは学生時代に帰ったような楽しいひとときとなったのである。

 弥生は、四十を越していたが、飾り気のない上品さを備えていた。弥生夫婦の一人息子は、東京の私学に行っていた。

 社長は仕事で出かけることが多かったが、社長が一日事務所にいるようなときは、弥生と話すこともできず、月山は憂うつであった。しかし、社長にしてみれば、自分には興味のわかない話題で妻と月山が意気投合しているのを見るのは愉快なことではなかった。


 弥生が、月山が感動したという音楽を聞きたいといったことがある。月山は、自分のアパートに来たら聞かせられるのだがといった。しかし、そんなことはありえないということはわかっていた。

しかし、それから間もない日曜日の午後、ありえないと思っていたことが、突然現実となったのである。買い物の帰りだといって、弥生はスニーカー姿で月山のアパートの戸を叩いた。部屋に上がると、一緒に食べようといって、スーパーの袋からシュークリームを出して小さなテーブルに並べ、自分から炊事場に立って手際よく茶を入れた。

 月山は、ぜひ聞いて欲しいといってヤナーチェクの『アマールス』のCDをかけ、音量を上げた。弥生の心に、久しく聞いていなかったクラシック音楽の響きが染み込んでいった。二人は、曲が続いている三十分ほどの間、言葉も交わさず耳を傾けた。曲が終わると、月山はその題材となっている悲しくも美しい物語を弥生に話しだした。

 

 不義の子である司祭のアマールスは、祈りの中で、自分の死がいつ訪れるのか問いかける。天使が、

「おまえが祭壇のランプに油を入れ忘れるときに、死はやってくるだろう」と答える。

 彼は孤独にこつこつと仕事をし、歳月が過ぎる。ある晩、教会で祈っていた恋人たちのあとについて森に行き、男が女の胸に頭を持たせかけているのを見守る。大気にはライラックの芳香が満ち溢れている。彼はまったく知らない母親のことを考える。翌朝、他の司祭たちはランプが燃えていないことに気付く。アマールスは墓地で死んでいた―(*)


 弥生はいま聞いたばかりの音楽を思い返してみた。ヤナーチェクの名は知っていたが、彼の作品を意識して聞いたのは初めてであった。新鮮な響きのロマンティックな音楽だと思った。

月山はもう一曲聞いてもらいたいといってCDを取り出したが弥生は、それは次の機会にといって、そそくさと帰り支度を始めると、あっけなく帰っていってしまった。

 傍から見れば二人の親密さを示すこの日の出来事も、月山の心を満たすものとはならなかった。月山は、弥生が訪ねてきたことに幸せを感じるよりも、それが断ち切られたような空しさをいつまでも体中に残した。

 その後も、弥生と話す機会があるたびに、そのあとで月山の心を襲う寂しさは深くなっていくばかりであった。


 一年も過ぎたころ『アマールス』がプログラムに含まれている演奏会が岡山であることを知った月山は、もちろん聞きに行くことにした。ところが、それを自分ひとりの楽しみにとどめることができず、弥生を誘うことを思いついてしまった。月山は何日も迷ったあげく、口篭もり、額に汗を滲ませながらおずおずと誘いの言葉をかけた。弥生は初め戸惑いの表情を見せたが、案外あっさりと行くといった。月山は自分が誘ったのだから弥生のチケット代も払うと主張したが、弥生はそれを固辞した。

 月山は、その日が来るまでの間、弥生が演奏会に行けなくなるような不都合が起こりそうな気がして不安であった。

 しかしその日は無事やって来た。弥生は岡山にいるという大学時代の友達と会うといって、午後工場を早引きして出かけていった。月山は普段どおりの勤務を終えてから出かけ、二人は演奏会場の隣り合った指定席で落ち合った。弥生はいかにも友達と楽しい時を過ごしたことを買い物の包みに漂わせていた。

 音楽会は合唱と独唱を伴ったチェコのオーケストラの演奏会で、地方では珍しい公演である。『アマールス』は二曲目に演奏された。月山にとってこの曲を演奏会場で聞くなどということは、生涯で二度と無い機会である。しかも憧れの人と肩を並べて聞いているのだ。それにもかかわらず月山は、弥生が少しでも身じろぎすると退屈しているのではないかと気になり、またプログラムが進むにつれて、弥生とのときが刻々と終わりに近づいているという思いが纏わりついて離れなかった。月山が肝心の『アマールス』に集中できないでいる間に演奏は終わってしまった。

 帰り道で弥生は、二十年ぶりという音楽会に感激したといい、新婚時代に夫を誘って行った音楽会が夫の無関心でつまらなかったなどといつもより饒舌であった。そのときの会話から、弥生は『アマールス』よりも、その日演奏された他の二曲、『モルダウ』や『新世界より』を気に入ったことがわかった。

 月山の夢のような日はこうして終わった。しかし月山の心に残ったのは、わけもなく満たされない気持ちと、弥生との一抹の疎外感であった。


 弥生は大学時代の女友人に誘われたといって出かけたのだが、社長に問い詰められて音楽会は月山と一緒であったことを白状した。普段から弥生と楽しそうに話しているのを苦々しく思っていた社長の月山への不満が爆発した。

 月山は一週間後に突然解雇された。この不景気に大学出は要らないという理由でのリストラである。その巻き添えのように、六十過ぎの工員二人も解雇された。夫が月山を解雇するといったとき、弥生はそこまでしなくてもと思ったが、特に反対もしなかった。

 月山は、アパートを引き払う日、工場の近くの公衆電話から、世話になった礼にCDを贈りたいからといって、弥生を近くの喫茶店に誘い出した。弥生は月山と顔を合わせることに躊躇したが、銀行に行く用事を作って工場を出た。

 弥生は月山の顔を見ると、訊かれもしないのに工場の経営の苦しさをいって、リストラの弁解をした。月山はそれを聞き流してから、弥生に一枚のCDを渡した。『アマールス』である。月山は、あの日聞いたオーケストラによる『新世界より』のCDの方が喜ばれそうだと思ったが、敢えてそうしなかった。弥生はそれを受取るとタイトルに目をやってから、思いがけない贈り物で嬉しいと礼をいった。そして、健康に気をつけてがんばってほしいとありきたりの言葉をかけると、銀行が閉まるからといってすぐに席を立った。運ばれてきたコーヒーにも手をつけなかった。

 弥生は、あまりにもそっけなく振る舞ったことを少し悔やみながらも、何かから解放された気持ちで工場に帰っていった。


 真備の祖父の家に戻った月山は、すべてが終わったことはわかっていたのだが、弥生のことばかり頭に浮かぶのをどうしようもなかった。そして、それがまったく空しいことを思っては、底知れぬ孤独感に襲われるのであった。部屋にこもって、感傷的な音楽を聞くだけの生活は、月山から様々な意欲を奪っていった。新しい仕事を探す気持ちはなく、夢想に浸る以外何をする気力も湧いてこないのだ。祖父母は、このような月山を心配して見ていたが、年老いて世間と疎遠になり始めていた彼らには、月山にしてやれることは無かった。

 月山は毎晩のように、部屋の明かりを消して大音響で音楽をかけた。窓の外は夜が更けると暗い。まばらな街灯と、思い出したように国道を通る車のライト以外何も見えない。山の稜線のあたりに目をやると、高圧線鉄塔の赤い灯が毎晩同じ位置にじっとしている。


 その夜、真備の空には薄雲が広がっていたが、東方に月が出ると、雲を通した月明かりに小田川の川面は淡く光っていた。月山は部屋の明かりを消して『アマールス』を聞いた。聞きながら弥生が目の前に現れることを夢想しているうちに、うとうとしていった。しばらくして月山は、大きな雨音に目を覚まされた。夜半過ぎから激しい雷雨になったのだ。

 月山は仰向けに寝転んだまま、重々しく響き渡る雷の音を聞いていた。稲光で窓がひっきりなしに明滅する。窓枠の限られた視界の中にさえ稲妻が走り、間髪をいれずに破裂音が炸裂する。月山は雷に曝されている風景全体を見ようと起き上がって窓に近づいた・・・・(了)


(*)泰流社刊「ヤナーチェク 人と作品」(イーアン・ホースブルグ著、和田 亘/加藤弘和 共訳)の八十六頁より引用。なお、引用にあたって、字数の都合で一部短縮および言葉の変更をした。


この短編をお読みくださった方は、ぜひヤナーチェク作曲のカンタータ『アマールス』を聞いてください。きっとその美しい音楽と私の物語が重なって不思議な感銘をもたらすことと思います。

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