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第5話「害虫騒ぎと寮への避難」後編

 馬車が学園の敷地に入ったとき、私は窓の外をじっと見つめていた。


 改めて思い返してみても、この学園——フレグラントール学園は、本当に規模が大きい。


 魔導、調香、教養、対人応対……多岐にわたる学科が並び、いずれも王都きっての才女たちが集まっている。学問のレベルも高いけれど、実技系の授業も充実していて、実習室や調香室、さらには温室や図書館、中庭まである。


 まるで、ひとつの小さな街みたいだ……!


 学園内には、教員の居住区や男子寮、複数の女子寮まで整備されている。私が今回入寮するのは、その中でも"高等貴族向け"とされるスピカ寮。少人数制で、部屋も基本は一人か二人。特別待遇、というほどではないけれど、確かに静かで落ち着いた雰囲気がある。


 ふふ……新章にふさわしい舞台が整ってるじゃない!


 スピカ寮は、荘厳というよりは——清楚な雰囲気を纏っていた。

 外壁は白く塗られ、レンガ造りのアーチと蔦の絡まる窓辺。屋敷とはまるで違うその佇まいに、私はほんの少しだけ息を呑む。


 学園にはいくつかの女子寮があると聞いていたけれど、どうやらここはその中でも比較的落ち着いた"高等貴族向け"の寮らしい。少人数制で、部屋割りも一人か二人。……こういうの、意外と嫌いじゃない。


 スピカ寮の扉が、静かに開かれる。


 中に一歩足を踏み入れた瞬間、思わずその場に立ち止まってしまった。


 床は上質なカーペットが敷かれ、足音すら吸い込まれていくような静けさ。壁には繊細な花模様のタペストリーが飾られ、明るすぎず、かといって薄暗くもない、柔らかな光が空間を満たしていた。


 空気が、違う。


 漂ってきたのは、ごく控えめに調香された——ミントと白花の香り。清潔感と落ち着き、それにほんの少しの甘さが混ざったような、心を静めるブレンドだ。


 ふわぁ……これは、"帰ってきたくなる"香りじゃない……


 高級感を押しつけるでもなく、華美に飾り立てるでもなく。けれど確かに、整えられている。気品と実用が両立した、"良い寮"の香りがした。


 案内してくれたのは、銀青色の髪を肩で切り揃えた少女だった。


「案内役を仰せつかっております。リュシア=フェンリル、寮長を務めて……ってエレナ?」


 リュシアちゃん!? 寮長だったの? さすがは優等生!


 珍しくビックリ顔のリュシアに、わたしは思わず吹き出し——いえ、咳払いでごまかした。


「ごきげんよう、リュシア様。まさかこちらで再会するとは思いませんでしたわ」


「あなたは屋敷から通われてると聞きましたけど」


「少し屋敷に問題があって、こちらに引っ越すことになりましたの」


「そうだったんだ。来るとは、聞いていませんでしたけれど。……まあ、歓迎します」


 相変わらず無表情だけど、その声の端っこにちょっとだけ柔らかさが混じってる気がするのは、気のせいではない……はず。


 これは……仲良しフラグ、かな!?


 胸を弾ませながら寮の中に入ると、今度は中年の女性が出迎えてくれた。


「あなたがエレナ・シルヴァーバーグ嬢ね。わたくしがこの寮の舎監をしております、ベルナールと申します。今後の生活で困ったことがあれば、何でも言ってちょうだいな」


 落ち着いた物腰の中に、どこか慈母のような雰囲気を纏った方だった。……うん、こういう大人の女性、嫌いじゃない。


「はい、よろしくお願いいたします、ベルナール様」


 ふわりと微笑まれて、ちょっとだけ緊張がほぐれる。


 リュシアちゃんが寮長で、こんな素敵な舎監さんがいて、しかも寮の雰囲気もいい感じ……これはもう、完璧な"新章突入"イベントじゃない!?


 さあ、ここから始まるのは——友情、恋愛、陰謀、そして百合(?)の香り漂う、新たな物語!


 慣れぬ環境に、思わず背筋が伸びる。

 でも、どこかワクワクしている自分もいる。

 まるで"ルート分岐直前"のような緊張感。


 乙女ゲーム的には、今こそが"出会いのタイミング"なのよ!


 部屋の扉の前で、私は胸の前で手を組む。


「ご一緒する子と、仲良くなれますように……」


 そう、祈るような気持ちでノブに手をかけた、そのとき——


「きゃあっ!? も、もう来られたんですかっ!?」


 突然、ドアが内側から勢いよく開いた。


 バランスを崩しかけた私の前に、ひょこりと現れたのは——


 小柄で、黒髪を揺らしながら、まるで子犬のようにきらきらとした瞳で私を見上げている少女だった。 



 勢いよく開いた扉の向こうに現れたのは、小柄な少女だった。


 つややかな黒髪を肩で切り揃え、くりくりと大きな瞳がこちらをまっすぐに見つめている。

 制服はきちんと着こなしているけれど、第一印象は——そう、なんというか……子犬。


「あっ、あなたが……今日から同室のエレナ様ですか!?」


 ぱっと顔を輝かせたかと思えば、両手を胸元でぎゅっと握りしめて、跳ねるように言った。


「わぁ……夢みたいです……! 本当に、お姉様みたいな方が来てくださるなんて……!」


「……お、お姉様?」


 いきなりの距離感に、思わず目を瞬かせてしまった。

 けれど彼女は、私の戸惑いなどおかまいなしに、嬉しそうに頬を染めて続ける。


「えっと、ミリア=ノエルと申しますっ! ご、ご一緒できるなんて本当に光栄です~!」


 少女はぴょこんと頭を下げたのだった。



 ぴょこりとお辞儀するその様子が、あまりにも無防備で。

 気づけば私は、脳内の乙女ゲーセンサーを全開にしていた。


 この展開……見たことある……!


 新生活の寮で、天真爛漫な年下の子と出会って、徐々に心を通わせていく——


 これは"妹キャラとの友情育成ルート"だ!?


 しかも、私を「お姉様」って呼ぶなんて……

 そんなのもう、全ルート開通の予感しかしない~!


「改めて、よろしくお願いしますわね、ミリアさん」


「は、はいっ、お姉様っ!」


 ……今、確かに言ったよね、"お姉様"って!


 ああ、これはもう、完全にフラグ成立だわぁ……!


「あ、あのー……」


「なんですの?」


「私のこと、できればミリア、って呼んで頂けませんか? さんづけより親しい感じがして……」


「ふふっわかりましたわ、ミリア」


「はいっ! お姉さまっ!」


 本当に可愛いルームメイト。これは幸先が良いなと思いながら、私はミリアと楽しくおしゃべりしたのだった。



「ねぇ、お姉様。こっちのベッドが好きですか? それとも、窓側がいいですか?」


「では、そちらはミリアが使ってくださいまし。わたくし、窓から空を見るのも好きなんですの」


 部屋に荷を解きながら、そんなやりとりを交わす私たち。

 まるで昔から一緒にいたかのように、自然に会話が弾む。


 そして、寮備え付けの湯沸かし器とティーセットで、ちょっとしたお茶の時間。


「はぁ……こうして落ち着くと、ようやく実感が湧いてきますわね」


 お茶の香りにほっと息をつきながら、私はミリアの方を見る。

 彼女は、心から楽しそうに笑っていた。


「本当に、ここでお姉様と一緒に過ごせるなんて、嬉しいですっ」


「ふふ……"お姉様"って、ずいぶんと気に入っているようですわね?」


「はいっ、なんだか……言ってるだけで、あったかい気持ちになるんです!」


 ぴょこぴょこと尻尾が見えるかのような仕草に、私は心の中で確信する。


 これはもう、"妹キャラとの絆ルート"確定演出じゃない!?


 将来的には、なにかのイベントで庇って庇われて、絆が深まり……最後は、涙のハグよ!


 ……と、脳内の乙女ゲーム演出がフル稼働していたその時だった。


「屋敷……大変だったって聞きました。虫とか、たくさん出たって……」


 ミリアがそう言って、少し眉を寄せる。


 ……ああ、そういえば、そうだったわね。


 一瞬だけ、あの"甘ったるくて気持ち悪い香り"の記憶が胸の奥でよみがえる。


「でも……ここはきっと楽しいですよ。みんな優しいし、寮のお掃除も毎日ありますし!」


「……そう、ですわね。ええ、これはきっと"運命の導き"ですわ!」


 すぐに気を取り直し、私はいつもの笑顔でカップを掲げる。


「新たな舞台に、新たな出会い。まさに、乙女ゲームの新章スタートでございますわ!」


 ミリアはその言葉に、ぱぁっと顔を明るくして微笑んだ。


 だけどその笑顔の奥に、ふっと揺れた影に、私は気づかなかった。


 彼女がそっと呟いた、小さなひとこと。


「……ほんとうに、いい方でよかった……」



 夜。寮の窓辺に、私はひとり立っていた。


 昼間のにぎわいが嘘のように、学園の敷地は静まり返っている。星の瞬きすら、どこか遠慮がちに思えるほどに穏やかな夜だった。


 スピカ寮のベランダは、思っていた以上に風通しがよくて。ふとした瞬間に、頬を撫でるような風が白いカーテンを揺らす。そこからふわりと入り込んだ夜気が、私の髪をすり抜けていった。


 私は欄干に手をかけ、そっと夜空を見上げる。


 月がきれいだった。まるで絹糸を張ったような静けさの中で、冷たい光を落としている。


「……いい夜ですわね」


 誰に言うでもなく、そんなひとことをこぼした瞬間だった。


 ふ、と。


 鼻先に、微かにひっかかるような香りが流れた。


 ……え?


 ほんの一瞬だった。

 けれど、確かに香った。


 甘いようでいて、どこか薬草じみた、鋭く鼻を撫でる匂い。

 それでいて、なぜか懐かしさのようなものが胸に引っかかった。


 この香り……どこかで、


 眉をひそめる。

 でも、思い出せない。記憶の引き出しの奥にひっかかっているのに、うまく開かない感覚。


 妙に、胸騒ぎがする……


 私はそっとベランダを離れ、カーテンを閉じる。

 もう一度、あの香りを吸い込めば、何かがわかる気がして。

 でも——もう、何も香らなかった。


 部屋に戻りながら、私は静かにベッドの端に腰掛ける。

 柔らかな毛布にくるまりながら、まだぼんやりと、あの香りの残滓を探していた。


「……気のせいかしら。でも……」


 瞼を伏せ、静かに言葉をこぼす。


「忘れないようにしておきますわね」


 そっと、胸に手を当てる。そこにまだ、微かな違和感だけが、灯のように残っていた。



 冷たい魔石灯の光が、仄暗い室内に浮かんでいた。

 壁には無数の線と記号が刻まれた地図。学園周辺の詳細な見取り図だ。

 その中央、ぼんやりと明滅する光点を、誰かが指でなぞる。


「報告がありました。計画は予定通り」


 低い声が、ほとんど吐息のように空気を震わせた。


「観察対象"エレナ・シルヴァーバーグ"。香識反応、未覚醒——だが兆候あり」


 別の声が応じる。

 男とも女ともつかぬその声音は、何かを確信しているかのような、妙な抑揚を孕んでいた。


 壁際の卓上には、幾枚かの羊皮紙と香料瓶。

 そのひとつには、極小の字で《ラフェルトNo.4旧型》と記されている。


「予定より早いが……学園という"閉鎖空間"ならば、観察にはちょうどいい」


 静かに椅子が軋み、誰かが立ち上がる。

 その背後、壁に設置された観測盤には、寮の見取り図と香気検知記録が浮かび上がっていた。


「いずれにせよ、"彼女"はすでに隣にいる。……あとは、反応を待つだけだ」


 まるで芝居の幕が上がるのを待つ観客のように。

 仄暗い部屋の中、誰もがただ、静かに——笑っていた。

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