第4話「運命の香りと、観察する店員」
放課後のフレグラントール学園から続く道を、私はひとりで歩いていた。
今日は、クラリスが風邪で休み。馬車の手配も忘れていたので、学園から屋敷までの道を歩く羽目になった。けれど、不思議と悪くない気分だった。
こういうのも……主人公っぽくって、よくってよ。
道はやがて王都の西寄りへと続き、人通りもまばらになっていく。貴族が歩くには、少しばかり品のない街並み。小さな雑貨屋、露店、路地裏の猫たち。
それでも私は、そのまま歩みを止めなかった。風に乗って、香りが流れてきたから。
甘くて、静かで、でも芯のある香り。目を閉じると、記憶の奥に触れるような懐かしさがあった。
この香り、知ってる。
でも、思い出せない。どこで嗅いだのか、いつの記憶なのか。気づけば、足が勝手に動いていた。曲がり角をいくつか越え、木漏れ日の差す石畳を踏みしめる。
そして——ひとつの店の前に立っていた。
『ムーア商店』。店構えはくたびれていて、貴族令嬢が立ち寄るような雰囲気ではない。でも、間違いなかった。この扉の向こうに、あの香りがある。
やっぱり……この世界には、運命ってあるのね。
私は、ゆっくりと扉に手をかけた。
え? なにこの……ちょっと埃っぽい空気。
ドレスの裾に埃が絡みそうで、一瞬たじろぐ。でも、香りは確かにここから……。
「ムーア商店の者! ここに在るかしらッ!!」
口から勝手に飛び出たセリフに、少しだけ後悔した。
あ、語尾ッ!! つけすぎた!? 在るかしらって何よ、在るかしらって! 何があるのかさっぱりだわ!
周囲の視線が一斉に集まる。うぅ、なんかすっごく浮いてる……。でも、今さら引けない! だって、あの香りが……この中に!
そのとき、店の奥から現れたひとりの青年が、箒を止めて顔を上げた。
髪がやや長めで、前髪が目にかかっている。無表情で、でもどこか達観しているような顔立ち。……あ、ちょっと好みかも。
「……お客様、どのような香りをお探しで?」
声は低めで落ち着いていて、でもこちらを見つめる視線が、なぜか妙に鋭い。
うわ、この人……ここは雑貨屋なのに、何も言わないで私が香水を探しているって見抜いた!?
あわてて令嬢モードに切り替える。
「ふふ、あなたのような方に理解できるかしらね?」
うっわぁ! なにこのセリフ!? キメすぎた!? でも、演じるしかない。転生悪役令嬢ならば。頑張れ、頑張れ私!
彼を見つめる私の視線と彼の視線が交わる。彼と目が合った瞬間、空気が変わった。言葉もなく、ただの視線だった。けれどその一瞥に——息が詰まった。
えっ、なに、今の……。
すっと背筋が凍る。演技を貫こうとした私の中の台本が、急に白紙になる感覚。
冷静に見られている……じゃない。見透かされている……それに、近い。私が貴族らしさを演じていること。さっきの声も、言葉も、立ち振る舞いも。その全部が、嘘だって——この人、気づいてる。
言葉を出そうとしても、喉がからからだった。それでも、せめて何か、少しでも、私の中の本当を残したくて。
「……ただ、あの香りが……気になって仕方ないのよ」
思わず、本音が漏れた。
あ、やっちゃった。
仮面が少しだけ剥がれた気がする。でも……止まらなかった。
「甘くて、でも静かで……芯のある香りだったの。忘れられないの」
「まるで、昔の……記憶みたいな……」
そう。あの香りは、確かに私の記憶を呼び覚ましたのだ。この人なら、わかってくれるかもしれない。私が、ただの変な客じゃないこと。
そのときだった。
「ちょっと、これ……試してみますか?」
そう言って、彼が棚の奥から、ひとつの香水瓶を取り出した。見るからに古びた瓶。でも、その瞬間、私の鼻腔が震えた。
これだ。
「……これ、だわ」
香りを嗅ぐ前からわかった。確信があった。視線を上げると、彼が静かに言った。
「……お客様、香りの識別、かなり得意なんですね。ここまで分かる人、滅多にいませんよ」
「え? あ……ええ、まあ、子供の頃から鼻だけは利くというか……でも別に、訓練したわけじゃ……」
言いながら、自分の鼻を押さえた。落ち着け、エレナ。いつもの変人令嬢にならないように!
でも、彼は落ち着いていた。
「きっと、"そういう体質"なんですね。ちょっと特別な」
特別な、体質……それって……それってもしかしたら、これが私のスキル?
店員の男の子の視線は優しく、私の考えを肯定してくれているような、そんな気がする。胸の奥が、少しだけあたたかくなる。
「……あなたの名前は?」
聞かずにはいられなかった。気づけば、自然と口からこぼれていた。
「フィンです」
その一言で、何かが決まった気がした。
その瞬間、私の脳内で鐘が鳴った。いや、比喩じゃなくてマジで。カランカランって——あれ、これ、まさか……。
隠しルート……来たわねッ!!
思わず、声に出そうになって、ぎりぎり飲み込んだ。でもテンションは爆上がりだった。
だって! だってだよ!?
私がずっと探してた香りを——あの地味店員が、なぜか完璧に察して出してきたのよ! あれってつまり、選ばれし運命の出会いってやつじゃない!? しかも見て、あの態度! 無愛想! 無関心! 無頓着!
これは……攻略対象にありがちなクール系寡黙男子のパターン!いわゆる実は一番人気ルートってやつ!
まさか……この子が、そういう……!?
やばい。もう"ルート確定演出"にしか見えない。ていうかむしろ、そうじゃないと説明つかない!今まで何人のモブ男に話しかけても、全員「は?」だったのに……この人だけは違う。ちゃんと香りの違いを理解してくれた。
これは……乙女ゲーの隠しキャラってやつよね……!
でも、冷静になって考えてみると——彼の観察眼、尋常じゃない。私が演技してるって、一瞬で見抜いてた。それに、転生者だってことも、ほぼ確信してる感じだった。
普通の店員が、そんなことできる?
もしかして……この人も?
心臓がドキドキしてるのは、恋だけじゃないかもしれない。緊張と、期待と、そして少しの恐怖。
でも——それでも、彼の名前を聞けて良かった。
「フィン」
短くて、覚えやすくて。でもなぜか、とても印象に残る名前。
「わたくし、エレナ・シルヴァーバーグと申しますの。また……お邪魔させていただいてもよろしくて?」
今度は、素直に出た言葉だった。
◆
夕暮れも遅く、一番星が輝き始める時間。屋敷の玄関の扉がそっと開いた。
「……ただいま戻りましたわ。クラリス、お出迎えご苦労様ですわ」
いつもの口調。けれど、どこか違う。私は、急いで玄関に出て、小さく会釈した。
「お帰りなさいませ、エレナ様。ご無事で何よりです」
今日は、私が風邪で休んでいたため、エレナ様はひとりで学園から戻られることになった。途中で何かあったのではと、ずっと胸がざわついていたけれど……
「……あら、そんなに心配そうなお顔。大丈夫よ、何も問題などございませんことよ? それより体調は大丈夫ですの?」
そうおっしゃって、エレナ様はふっと微笑まれた。その表情は、これまでに見たどの笑顔よりも、柔らかくて——まるで、心のどこかにあった重たい何かが、すこしほどけたかのように見えた。
「はい、今日は休ませて頂きましたので」
言葉にしなくても、わかった。エレナ様に、きっと、何か素敵なことがあったのだと。
「……何か、いいことがあったのですね、エレナ様」
そう問いかけると、エレナ様は一瞬だけ驚いた顔をして、
「……ふふ。そうね、あったのかも知れませんわ」
とだけ答え、階段を上がっていかれた。その背中を、私はただ静かに見送った。
良かった。今日は、エレナ様が少しだけ救われた日だったのかもしれない。
空回りかもしれないけれど、いつも頑張っている私のお嬢様に、明日も良いことがありますように。祈りながら、私はエレナ様の後ろ姿に頭を下げたのだった。