第2話「学園デビューと、"奇行の姫君"誕生」
翌朝、ドレッサーの鏡に映る蜂蜜色の髪を見つめながら、私は深くため息をつく。
指先がひとりでにリボンを結び、襟元を整えていく。エレナの記憶が身体に染み付いてるんだね。便利といえば便利だけど——
「まあ、あのお嬢様口調の件は、もう諦めることにしましたの」
はい、また出た。自動変換システム。
「エレナの身体なんですもの。こういうものだと受け入れるしかありませんわね」
昨日一日でたっぷり体験したおかげで、もはや慣れてしまった。それより今日は待ちに待った学園デビュー! ゲーム『恋と貴公子と百の香水』の舞台、フレグラントール学園だ。
「さあ、本格的な乙女ゲーライフの始まりですわ!」
鏡の中の私が、やる気に満ちて見える。破滅フラグ回避のためにも、今日から本格的にヒロインムーブしなくちゃ。
廊下の向こうから、クラリスの足音が聞こえる。軽やかで、どこか弾んでるような音。
「お嬢様、馬車の準備が整いましたわ」
「ありがとう、クラリスさん。心配をおかけしてごめんなさいね」
クラリスの瞳がまた潤む。
昨日から涙腺が緩みっぱなしだけど、大丈夫かしら。この子、実はちょろい……いえ、純粋すぎて心配になる。優しすぎる人って、騙されやすかったりするのよね。現代でもそういう子いたし。
玄関先で待つ馬車は、朝日を受けて金色に輝いてる。御者のおじいさんが振り返り、深いしわに囲まれた目元を細める。
「エレナお嬢様、今日もご機嫌麗しゅうございますな」
「おはようございます。今日もよろしくお願いしますわ」
おじいさんの目が丸くなる。
この驚いた顔…ゲームの中とはいえ、やっぱり人が喜んでくれるのは嬉しいよね。現実じゃないから安心して、素直にお礼が言える。
◆
フレグラントール学園は、ゲーム画面で見てたよりも遥かに精巧で美しかった。
さすがは乙女ゲーム! グラフィックのクオリティが半端ない。白亜の尖塔が本当にそびえ立ってるし、庭園の花々も一つ一つがリアルに揺れてる。まるで実写映像みたい。
そして何より——香りのシステムがすごい。ほのかなバラの香りに混じって、ラベンダー、ジャスミン、そして名前の分からない甘い香りが層をなって漂ってる。
これが噂の「五感ゲーム」ってやつかな? 嗅覚まで再現するなんて、技術の進歩はすごいよね。
馬車から降り立つと、周囲の視線が一斉に集まった。ひそひそと囁く声が風に乗って聞こえてくる。
「あれがエレナ・シルヴァーバーグよ」
「例の高飛車な……」
「近づかない方がいいって聞いたけれど」
なるほど、悪役令嬢としての初期設定だね。でも大丈夫! 善行ムーブで破滅フラグを回避してみせる。
校門で荷物を降ろしてくれた使用人さんに、私は自然に頭を下げる。
「ありがとうございました。お疲れさまでした」
その瞬間、周囲が静まり返った。
「え……今、お辞儀を?」
「使用人に? エレナが?」
「ありえない……」
使用人さんも青ざめ、慌てて深々と頭を下げて足早に去っていく。
あれ、思った以上に反応が大きいよね。
でもこれで注目を集めることはできたみたい。ゲームなら、こういう話題性って有利になるはず。
…そう、これはゲーム。だから安心して、思うように行動できる。
◆
廊下を歩けば歩くほど、視線の重さを感じる。教室に入ると、その重さは更に増した。
私の席は窓際の後ろから三番目。主人公ポジションとしては定番の席だね。
席に着く途中、掃除用具を抱えた下級生の女の子とぶつかりそうになる。
「あ、ごめんなさい。大丈夫?」
女の子は震え上がり、慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません!」
「いえいえ、こちらこそ前をよく見てませんでした。お怪我はありませんか?」
教室の空気が凍りついた。
同級生たちの視線が痛いほど刺さってくる。
「エレナが……下級生に謝った……?」
「それも丁寧語で……」
「何かの呪いにでもかかったの?」
…って、また攻略脳で考えてしまったけど、でも実際、困ってる人を見ると放っておけないんだよね。ゲームの中だから、現実みたいに後で裏切られる心配もないし、安心して優しくできる。
席に着くと、隣の女子生徒が恐る恐る声をかけてきた。
「あの……エレナ様? 本当にお加減は……」
「おはようございます! 今日はよろしくお願いしますわ」
その子は椅子から転げ落ちそうになる。
しばらくして、教室のざわめきが聞こえてきた。
「ねえ、見た? エレナが使用人にお辞儀してたのよ」
「下級生にも謝ってたし……まるで別人みたい」
「あの高飛車なエレナが? 信じられない」
「でも確かに変よね。まるで……」
「奇行?」
「そうそう、奇行よ。まさに奇行の姫君じゃない?」
くすくすと笑い声が漏れる。
「奇行姫エレナ、なんてどうかしら」
「それいいわね。今度からそう呼びましょう」
奇行姫…まあ、最初は誤解されても仕方ないよね。
これはゲームだし、きっと時間が経てば理解してもらえるはず。現実だったらこんなに楽観的になれないけど、ゲームなら大丈夫。
◆
授業開始のベルが鳴る直前、教室の扉がゆっくりと開いた。
入ってきたのは——息を呑むほど美しい少女。
銀青色のボブカットが朝の光に揺れ、淡藤色の瞳が教室を静かに見渡してる。凛とした佇まいには、近づきがたい威厳が宿ってた。そして彼女の周りには、かすかに冷たい花の香りが漂ってる。スズランにミントを混ぜたような、清涼でどこか寂しい香り。
「あ……」
心臓が跳ね上がった。
ヒロインキャラ登場!
この美しさ、この気品…間違いなくメインヒロインだ!
このゲームのメインヒロイン、リュミア・カトレア。誰にでも優しいテンプレの乙女ゲーヒロイン。この子にだけは優しくしなくちゃ破滅まっしぐらだったような気がする。
でも雰囲気が全然違うよね。ゲームのリュミアちゃんはもっと人懐っこくて、親しみやすい印象だったはず。この子からは、まるで氷の壁を纏ってるような冷たさを感じる。クールビューティー系のヒロインタイプかな?
彼女は教室を見回すと、私の視線に気づいた。淡藤色の瞳が、じっと私を見つめる。その瞳の奥に、一瞬だけ鋭い光が宿った。
これは…敵対フラグ? それともツンデレフラグ?
彼女は表情を変えることなく、私の斜め前の席へと歩いていく。その足音は、なぜかとても静かだった。
「リュシア=フェンリルが来たわね」
クラスメイトが小声でささやく。微妙に複雑な響きがあった。
リュシア=フェンリル…
あれ? 名前が違うけど私の記憶違いだったのかな?でも明らかにヒロインポジション。ということは、彼女と仲良くなることが攻略の鍵になりそう。幸い悪役令嬢とヒロインの百合ルートも最近の乙女ゲームでは定番だし、狙い目かも!
◆
最初の授業は「香料学基礎」。
まさにこの世界らしい授業だ。香りゲームならではのシステムだね。
先生がいくつもの小瓶を机に並べ、一つずつ香りの特徴を説明していく。私の鼻には、それぞれの香りが驚くほどはっきりと届いてくる。ゲームの香りシステム、本当にリアル!
「では、この香りの名前が分かる方はいらっしゃいますか?」
先生が手にした小瓶から、甘くほろ苦い香りが教室に広がる。
瞬間的に、名前が頭に浮かんだ。
あれ? なんで香りの名前がすぐ分かったんだろう。ゲームのエレナはこんな能力なかったはずなのに…転生の影響かな?
「ベルガモット柑橘系第三種ですわ」
教室がざわめく。
「正解です、エレナさん。素晴らしい嗅覚ですね」
やった!
周りのざわめきを聞いてると、なんだか嬉しくなってくる。ゲームの世界だからって分かってても、認められるのは素直に嬉しいんだね。
リュシアちゃんが振り返って私を見つめてる。今度はその瞳に、明らかな困惑の色が浮かんでた。
授業が終わると、彼女がゆっくりと近づいてきた。清涼な香りがより濃く漂ってくる。
「あなた……本当にエレナ・シルヴァーバーグなの?」
「はい、そうですけれど……」
「……変ね」
そう呟くと、彼女は踵を返して去っていく。
これは間違いなくフラグだ!
…って、すぐにゲーム的に考えちゃう癖、どうにかならないかな。でもリュシアちゃんの困惑した表情、なんだか可愛くて。ゲームの中だから、こんな風に素直に「可愛い」って思えるのかも。
◆
学園の門を出る時、生徒たちのひそひそ話が聞こえてきた。
「今日の奇行姫、見た?」
「朝から晩まで、すごかったわよね」
「使用人にお辞儀に、下級生に謝罪でしょう?」
「香料学では完璧に答えるし……本当に何があったのかしら」
「奇行の姫君エレナ、明日は何をしでかすのかしらね」
奇行姫…奇行の姫君…。
まあ、あだ名としてはちょっと微妙だけど、注目を集めるのには成功したみたい。
そう、これはゲーム。ゲームなら、こういう話題性だって最終的にはプラスになるはず。現実だったら、こんなに前向きに考えられないけど。
帰りの馬車に揺られながら、私は一日を振り返る。
初日としては上々の成果だ! 話題になって、ヒロインとも接触できた。転生のせいか、香りに関する感覚も鋭くなってるし。
ゲームって分かってても、みんなとても人間らしくて…つい普通に接してしまう。でも、それでいいんだよね。これはゲームなんだから、安心して自分らしくいられる。
明日からは攻略対象たちとの出会いイベントが始まるはず。ガイルくん、ユリウスくん、テオくん、ノアくん——みんなにちゃんと好印象を与えられるといいな。
リュシアちゃんとも、もっと仲良くなれたらいいな。
「明日も頑張りますわ!」
馬車は夕日に照らされて、家路を急いでいく。
窓の外に流れる景色を眺めながら、私は心に誓った。
絶対に破滅フラグを回避して、今度こそハッピーエンドを掴んでみせる。