第9話「野外実習の告知と出発前夜」
夏の空気は、どこか浮き立つような熱を帯びてる。
寮の窓から見える中庭の木々も、昨日より少しだけ青さを増してる気がする。今日の朝礼は、学園全体がざわざわしてて、生徒たちの足音や囁き声がいつもより弾んでた。
教室に漂うのは、緊張と期待が混じった独特の空気。
生徒たちが整列する中、教師が壇上に立って、厳かに告げる。
「――本日より一週間後、フレグラントール学園恒例の"野外実習"を実施します」
教室の空気が一瞬でざわめきに包まれる。
私――いえ、白石香澄としての理性は、胸の奥で小さくガッツポーズを決めてた。
(きた……! ついに野外実習イベント!)
教師は続ける。
「実習は王都近郊の森にて行います。チームごとに行動し、自然観察、野外炊事、そして――協力して課題を達成することが求められます」
完璧だ。ゲームの第2章とまったく同じ設定じゃん。
しかも私、エレナとして図書館で過去の実習記録まで調べてた。森での共同生活、星空の下での語らい、そして学校に戻ってからの打ち上げパーティー――攻略対象たちとの距離が一気に縮まる黄金イベント。
脳裏に浮かぶのは、次々に解放されるイベントCGの数々。特に最終日の告白シーンは神がかってた。
(やったぁ……これ絶対に、好感度爆上がりチャンスじゃん! フラグ管理、頑張らなきゃ!)
ざわめく生徒たちの間で、私は誰にも見えない心のガッツポーズを決めた。
最前列のリュシアちゃんは無表情で話を聞いてたけど、隣でひそひそと囁くミリアが、私の腕をちょこんとつついた。
「お姉様、楽しみですわね……!」
「ええ、もちろんですわ」
でもミリアの表情に、一瞬だけ何か複雑なものが見えた気がする。
……思えば、このときにはもう始まっていたのだ。
いや、もっと前から。
◆
午後の講堂は、高い天井に全学年の声が響いてざわざわしてた。
ステンドグラスから差し込む光の中、生徒たちは学年ごとに整列して立っている。私たちは2年生のエリアで、リュシアちゃんと並んで立ってた。少し離れた1年生のエリアでは、ミリアが私たちの方を見て小さく手を振ってる。
全学年の生徒が集まって、天井の高い空間に声が響く。壇上では上級生が教師に何かを耳打ちしてから下がって、教師が発表台に立った。
手にした紙を見下ろす教師の指先が、微かに震えてる気がする。
でも、きっと気のせいよね。
「さて――野外実習のグループを発表する。名前を呼ばれた者同士で班を組むように」
生徒たちの間に、どよめきが走る。
私も胸がどきどきしてた。だって――ここからが、乙女ゲーム本番だもん。
(お願い、攻略対象と同じ班になって……!)
「……エレナ=シルヴァーバーグ、リュシア=カトレア、ミリア=ノエル――」
ここまで聞いた瞬間、心の中でガッツポーズ。
仲良しトリオで同じ班なんて、完全に百合ルート補強じゃん!
「――ガイル・クローヴァー、ユリウス・グランツ、テオ・ルミナス、ノア・サーヴァント」
……そして、男子攻略対象オールスター。
(きた……! これはもう、間違いなく大型イベントの主役班だよ! 攻略ルート確定じゃん!)
でも、ちょっと待って。
このメンバー、偶然にしては優秀すぎない? リュシアちゃんは学年トップクラスだし、男子たちもそれぞれ特技持ちで有名だし……
一瞬、不安がよぎる。でもすぐに首を振った。考えすぎだよね、きっと。細かい設定が違うのは、よくあることだもん。
クラス中が一瞬静まり返って、次の瞬間には視線が集まる。
"あの奇行姫の班"と"攻略対象たちの班"が合体したんだから、当然だよね。
ガイルくん(攻略対象A)は頼もしげに腕を組んで、ユリウスくん(攻略対象B)は不安そうに視線を泳がせて、テオくん(攻略対象C)はただ静かに頷いて、ノアくん(攻略対象D)は机の上のノートを見つめたまま目を合わせてくれない。
あれ? でもユリウスくんの視線、私じゃなくて窓の向こうを見てない?
その様子をちらりと見て、心の中で思う。
(この空気……ゲームで見たイベント絵に、ほぼ一致してる! ちょっと違うけど、まあ大丈夫でしょ)
そして隣のリュシアちゃんはというと――
「……ふぅん」
小さく息を吐いて、ほんの僅かに眉をひそめる。
私は思わず背筋を伸ばす。
――うん、これは確実に百合フラグ進行中だ。リュシアちゃんの独占欲、完全にゲーム通りじゃん!
◆
その日の放課後、寮スピカの部屋には、ゆったりとした時間が流れてた。
窓から差し込む夕陽が床に金色の長方形を作って、そこに私とミリア、そしてリュシアちゃんが座り込んでる。
部屋にはラベンダーとローズマリーのサシェの香りが漂ってて、なんだか心が落ち着く。
「お姉様、これで持ち物は大丈夫ですわね?」
ミリアは机の上に並んだ布袋や水筒を、一つひとつ丁寧に確認してる。
彼女の黒髪が揺れて、スミレ色の瞳が夕陽に透けて柔らかく光った。
「ええ、問題ありませんわ。……もっとも、わたくしの役割はきっと、みんなを優雅に導くことですけれどね」
「ふふっ、さすがお姉様ですわ!」
思わず胸を張る私に、ミリアは嬉しそうに笑った。
――完全に日常イベント、百合フラグ進行中だ。
ふと、窓際に座ってたリュシアちゃんが、私を横目で見た。
彼女の周りに、微かに氷のような冷たい空気が漂ってる気がする。
「……そそっかしいから、気をつけてよ」
「まぁ、リュシアさん。心配してくださいますの?」
「あなたって、いつも心配になるの」
視線を逸らして呟くその仕草が、あまりにも可愛らしい。
思わず心の中で「イベントCG、いただきました!」って叫んじゃう。
窓から入る風は夏の香りを運んでくる。
ハーブの香りに、干したシーツの匂い、遠くの花壇の甘い香気が混じって――部屋中に暖かい空気が流れてた。
ゲームの世界だって分かってるのに、胸の奥がほんのり温かくなる。
「リュシアさん、ミリア。……一週間後が、楽しみですわね」
夕陽に染まった部屋で、私たちは小さな未来を夢見るように笑った。
でも、ミリアの笑顔の端に、また一瞬だけ陰りが見えた気がした。まるで何かを隠してるみたいに。
◆
夜の寮スピカは、昼間のざわめきが嘘のように静かだった。
カーテンの隙間から月の光が細く差し込んで、ランプの淡い灯りが部屋を満たす。
窓辺のハーブサシェから漂う香りは、昼間よりもはっきりと甘く感じられた。
ベッドに腰かけて膝を抱えながら、私――白石香澄は今日一日のことを思い返す。
野外実習の告知、班分け、リュシアちゃんとミリアとの準備。
そして、男子たちの視線や反応も、なんとなく心に残ってる。
(……これぞ完全に、大型イベントだよね。でも、ちょっとだけゲームと違うところもあったような……)
そう思うと、思わず笑みがこぼれた。
だって、これは乙女ゲームの世界。
そう信じてるからこそ、私はこんなに大胆に、明るく、振る舞える。
細かい違いなんて、きっと気のせいだもん。
「ふふ……次はどんなスチルが来るんだろ。森での共同生活から、最終日の告白イベントまで……攻略チャンスがいっぱいだよね」
誰も聞いてないのをいいことに、小さく呟いてみる。
まるでプレイヤーとキャラクターが混ざったような感覚。
でも、窓から入る夜風の香りは――あまりにも、生々しかった。
ゲーム画面の向こうじゃない、確実にこの肌に触れてる風。鼻の奥に染み込んでくる、草花の匂い。
そして、その風が運んでくるのは、森の香り。
まだ行ったことのない、野外実習の場所の匂い。
一瞬、胸がざわつく。まるで、何かが変わろうとしてるみたいに。
(……でも、大丈夫。これはゲームなんだから。私の知ってる展開になるはず)
そう自分に言い聞かせてみる。
でも思い出すのは、夕方のリュシアちゃんの言葉。
『そそっかしいこと、しないでよ』
少し迷うような表情で、心配そうに呟いてくれたあの声。
リュシアちゃん、ありがとう。
私は毛布に身を沈めて、月明かりに照らされた天井を見つめた。
(――今度こそ、幸せに生きるんだ。でも、何で急に不安になるんだろう)
香りに包まれた夜は、甘い余韻と微かな予感の中で静かに更けていった。