第1話「目覚めたら悪役令嬢でした(しかも香水ゲーの世界)」
◆プロローグ
深い深い闇の中で、一つの魂が漂っていた。
蜂蜜色の髪をした少女の魂。かつてエレナ・シルヴァーバーグと呼ばれた存在。
「もう……わたくしなんて、いないほうがいいんですわ」
その声は、闇の中でかすかに響く。
「お母様も、わたくしのせいで……もう、なにもかも……」
愛した母を失った悲しみ。自分のせいで死なせてしまったという罪悪感。
すべてが重すぎて、もう生きていることさえ辛くて。
その魂は、肉体の奥底へとゆっくりと自分を沈めていく。
まるで深い湖の底へと落ちていくように。静かに、静かに。
そして——暗闇の向こうから、別の光がやってきた。
同じように傷つき、同じように孤独だった魂が。
「お願い……今度こそ、幸せになりたい」
二つの魂が、闇の中で出会った瞬間——
◆
頭がずきずきと痛む。まるで長い間眠り続けていたような、重い眠気が体を包んでいる。
私、白石香澄は薄っすらと目を開けた。視界に飛び込んできたのは、見たこともない豪華な天井。金色の装飾がきらきらと輝いて、まるでお城みたい。
……あれ?
そして——なんだろう、この香り?
空気が違う。ただの空気じゃない。石鹸の香り、花の香り、かすかな香木の匂い、それから——悲しみ? 寂しさ?
え? 匂いで感情がわかるって、何それ……?
今まで嗅覚なんてそんなに敏感じゃなかったのに、まるで香りが色とりどりに見えるみたい。これって一体……?
起き上がろうとして、愕然とする。私の腕が細い。すごく細くて、色白で、指先まで美しい。
そしてベッドの向こうには、これまた見たことのない豪華な調度品。
私、死んだはずじゃ……
そうだ。学校でのいじめが酷くて、家に引きこもって、病気になって、そして——
慌てて鏡を見ると、そこに映っていたのは知らない顔。蜂蜜色の縦巻き髪に金色の瞳をした、驚くほど美しい少女。
誰これ……私?
でも、この顔。どこかで見たような……。
その時、断片的に記憶が流れ込んできた。豪華な屋敷、大きな庭、使用人たち、そして——香りの記憶。
母親の優しい声、花の香り、温かい手のひら。
だが同時に、深い悲しみと罪悪感も押し寄せてくる。
(お母様……私のせいで……)
誰の記憶? この感情は一体……?
混乱の中、ゆっくりと思い出す。この顔、この髪、この部屋の装飾。そして流れ込んできた記憶の断片——ノクスレイン王国、シルヴァーバーグ家。
私が最後にプレイしていた香水をテーマにした乙女ゲーム『恋と貴公子と百の香水』と、全部一致している。
まさか……エレナ・シルヴァーバーグ?
ノクスレイン王国の侯爵令嬢エレナ・シルヴァーバーグ。ヒロイン・リュミアに嫌がらせを繰り返し、最後は婚約破棄されて領地に幽閉される運命の、典型的な悪役令嬢!!
転生しちゃったの? しかもゲームの世界の悪役令嬢に!?
◆
ちょっと待って、冷静になりましょう白石香澄。
ベッドの縁に座り、必死に状況を整理する。
転生した。それは間違いない。でも、なぜか時々この身体の持ち主——エレナの記憶が混じってくる。
深い悲しみと、何かに対する強い罪悪感。
この子も、辛いことがあったのかな……
でも今は、目の前の問題に集中しなければ。エレナ・シルヴァーバーグの破滅ルートは確定してる。
このままだと最後は——
絶対に嫌! 今度こそ幸せになるって決めたんだから。
いじめられて、病気になって、誰にも愛されずに死んだ前世。でも今度は違う。
この美しい身体で、素敵な人たちに囲まれて、きっと幸せになれる。
善行ムーブで破滅回避よ! まずは使用人さんたちと仲良くなって……
でも、困った。ゲーム知識はあるけど、貴族の生活なんて全然わからない。
どういう言葉遣いをすればいいの? お食事のマナーは? 使用人さんにはどう接するのが普通?
うわあ、どうしよう……
あ、そうだ! ゲーム世界なら、ステータスとかスキルとか確認できるんじゃない?
「ステータスオープン……ですわ!」
……何も起こらない。いやちょっとまって今私なんて言った?
「えーっと、ステータス? スキル確認ですわ?」
やっぱり何も。そして何、この口調!?
何度やっても、ゲームみたいな画面は出てこない。
あれ? なんで? 転生ものだったら普通……
そうか、これはゲームじゃなくてゲーム世界なんだね。ゲームと同じ世界だけど、システム的な機能は使えないのかも。
「まあ、でも香りの感覚が鋭くなってるし、何かしらのスキルはあるのかな?」
その時、こんこんとドアがノックされた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
震え声。明らかに怯えてる。
「どうぞ」
入ってきたのは、栗色の三つ編みをした私と同年代くらいの女の子。ゲームで見たクラリスだ。
でも、彼女の表情は恐怖に満ちてる。
「あの……お加減はいかがですか?」
まるで怯えた小動物みたいに、私の顔色を窺ってる。
どう答えればいいんだろう? 貴族のお嬢様らしく? でも、どんな言葉遣いが正しいの?
「あ、あの……」
困っていると、突然記憶が浮かんだ。エレナの記憶——クラリスと過ごした日々、使用人への接し方、言葉遣い。
そして、どれだけ我が儘を言って困らせていたか。
うわあ……思わず顔が青くなる。なんて酷いことを……。
ゲームだからって分かってても、やっぱり人を傷つけるのは嫌だ。今度は違う。優しくしなくちゃ。
「クラリス……さん、ありがとう。もう大丈夫ですわ」
自然に言葉が出てくる。エレナの記憶が教えてくれてる。
って、やっぱり語尾に『ですわ』がついてる!? オートでお嬢様口調になっちゃった!?
「……え?」
クラリスの目が大きく見開かれる。
「あの……今、なんと……?」
「クラリスさんありがとうって言ったけど……おかしかったかしら?」
かしら!? なにこの自動変換機能!
「お、お嬢様が……『ありがとう』を……」
そして彼女の目に涙が浮かんだ。まるで奇跡を見たかのような表情で。
「本当に……お嬢様なんですか?」
あ、そうか。ゲームの中だから、安心して素直にお礼が言えるんだ。現実だったら、また裏切られるかもって怖くて、こんなに自然に優しくできないもん。
◆
朝食の準備をしてもらう間、私は屋敷を歩いてみることにした。
どこもかしこも豪華で、まさに貴族のお屋敷って感じ。ゲームで見てた通りだ。
廊下で掃除をしてる女の子——ミラに声をかけてみる。
「おはようございます、ミラさん。掃除お疲れさまですわ。いつもありがとうですの」
ですの!? もう完全にお嬢様モードじゃない!
彼女は雑巾を取り落とし、震え上がった。
「お、お嬢様……?」
「あ……ああ……」
ミラは涙を流しながら、何度も頭を下げる。
…って、攻略脳で考えちゃったけど、やっぱり人が泣いてるのを見ると胸が痛くなる。一体どれほど厳しく当たってたんだろう、元のエレナ。
でもゲームの中だから、安心して謝れる。現実だったら、優しくしたって結局裏切られるかもしれないけど、ここなら大丈夫。
庭に出ると、老庭師のトーマスが作業をしていた。
「おはようですわ、トーマスさん」
トーマスはスコップを落とし、私をじっと見つめる。
「エレナ様……」
「お花、とても美しく咲いていらっしゃいますのね。お母様も、こんな風にお花を愛でていらしたのでしょう?」
いらっしゃいますの!? 花に対して敬語使ってるし!
その瞬間、トーマスの目に大粒の涙が浮かんだ。
「そうです……奥様は、花を心から愛していらっしゃいました。そして、エレナ様のことも……」
私の中で、また深い悲しみが込み上げてくる。これはエレナの感情だ。
母親への愛と、失った悲しみと、そして——
「奥様が戻ってこられたようじゃ……本当のエレナ様が」
トーマスの言葉に、胸の奥が温かくなる。
私は白石香澄だけど、この身体にはエレナのデータも残ってる。ゲームの中だから、安心して二人分の気持ちを大切にできる。
私たち、二人で幸せになるんだ。
◆
夕食の時間。大きなダイニングルームで——って、どうやって座ればいいの? どのフォークを使えば?
パニックになりそうになった瞬間、またエレナの記憶が浮かんだ。椅子の座り方、カトラリーの使い方、父との食事の作法。
ダイニングルームには既に男性が座ってた。初めて見る顔だけど——あ、記憶が浮かんできた。
威厳ある灰金の髪、鋭い琥珀の瞳。この人が父親、ジグムント・シルヴァーバーグだ。
「エレナ」
威厳のある声で名前を呼ばれる。
「はい、お父様」
「体調は問題ないか? 使用人たちが大騒ぎしているようだが」
「もちろん、問題はございませんわ!」
問題ございません!? 自分の父親に敬語!?
隣に控えるのは執事のクライスト。銀髪をオールバックにした、どこか冷たい印象の男性。
その視線が、じっと私を観察してる。
「お嬢様の変化について、屋敷中が……驚愕しております」
クライストの声に、わずかな警戒が混じってる。
「変化って?」
「まるで……生き返ったかのような」
確かに、ある意味生き返ったのかもしれない。エレナも、私も。
「お父様もお忙しいでしょうに、わたくしのことまで気にかけてくださって。ありがとうございますわ」
わたくし!? しかもめちゃくちゃ丁寧!
ジグムントの手が止まった。クライストも、わずかに眉をひそめる。
「……エレナ、本当に大丈夫なのか?」
「はい。今日から、新しいわたくしとして頑張りますわ」
新しいわたくしって何よ! この自動変換システム、どうにかならないの!?
でも…ゲームの中だから、こんな風に素直に感謝の気持ちを伝えられるのかも。現実だったら、家族にだって心を開くのは怖かったから。
クライストの視線が、一層鋭くなった。まるで何かを探るように。
◆
夜、一人の時間。部屋を探索してると、ドレッサーの上に美しい香水瓶を見つけた。
これって……
透明なガラスに繊細な装飾。中身は淡いピンク色の液体。
恐る恐る蓋を開けてみる。
ふわりと立ち上る香り。その瞬間——
記憶が溢れ出した。これはきっとエレナのデータ。
幼い日、母マリアンヌと過ごした穏やかな時間。花の香りに包まれて、優しい声で物語を聞かせてもらった日々。
お母様……
涙が頬を伝う。これはエレナの涙だ。
愛した人を失った悲しみと、自分のせいで母が死んだという罪悪感。
でも同時に、私自身の記憶も蘇る。現代で一人ぼっちだった日々。
いじめられて、誰にも理解されずに死んでいった寂しさ。
二つの記憶が、香りを通して初めて混じり合った。
あなたも、寂しかったんだね……
私はそっと呟く。
「でも、もう大丈夫ですわ。今度は一緒ですもの。二人で幸せになりましょう」
ですもの!? このお嬢様口調、もう止まらない!
香水瓶を胸に抱きながら、私は誓う。エレナの記憶も、私の後悔も、全部背負って新しい人生を歩んでいこう。
ゲームの中だから、安心して愛を信じられる。今度こそ、みんなと幸せになるんだ。
ヒロインのリュミアちゃんとも仲良くなって、素敵な攻略対象の男性たちとも友達になって。
アルベール王子やルシアン王子、ガイルくんにユリウスくん、テオくんにノアくん——みんなゲームで見た通りの人たちがこの世界にいるなんて!
今度こそ、愛に満ちた日々を送るんだ。
外では夜風が窓を揺らし、まるで二つの魂を祝福するような優しい音を奏でていた。
そしてどこからか、かすかに花の香りが漂ってくる。
母マリアンヌの、最後の祈りのように。