表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/42

第1話「目覚めたら悪役令嬢でした(しかも香水ゲーの世界)」

 ◆プロローグ


 深い深い闇の中で、一つの魂が漂っていた。


 蜂蜜色の髪をした少女の魂。かつてエレナ・シルヴァーバーグと呼ばれた存在。


「もう……わたくしなんて、いないほうがいいんですわ」


 その声は、闇の中でかすかに響く。


「お母様も、わたくしのせいで……もう、なにもかも……」


 愛した母を失った悲しみ。自分のせいで死なせてしまったという罪悪感。


 すべてが重すぎて、もう生きていることさえ辛くて。


 その魂は、肉体の奥底へとゆっくりと自分を沈めていく。


 まるで深い湖の底へと落ちていくように。静かに、静かに。


 そして——暗闇の向こうから、別の光がやってきた。


 同じように傷つき、同じように孤独だった魂が。


「お願い……今度こそ、幸せになりたい」


 二つの魂が、闇の中で出会った瞬間——



 頭がずきずきと痛む。まるで長い間眠り続けていたような、重い眠気が体を包んでいる。


 私、白石香澄は薄っすらと目を開けた。視界に飛び込んできたのは、見たこともない豪華な天井。金色の装飾がきらきらと輝いて、まるでお城みたい。


 ……あれ?


 そして——なんだろう、この香り?


 空気が違う。ただの空気じゃない。石鹸の香り、花の香り、かすかな香木の匂い、それから——悲しみ? 寂しさ?


 え? 匂いで感情がわかるって、何それ……?


 今まで嗅覚なんてそんなに敏感じゃなかったのに、まるで香りが色とりどりに見えるみたい。これって一体……?


 起き上がろうとして、愕然とする。私の腕が細い。すごく細くて、色白で、指先まで美しい。


 そしてベッドの向こうには、これまた見たことのない豪華な調度品。


 私、死んだはずじゃ……


 そうだ。学校でのいじめが酷くて、家に引きこもって、病気になって、そして——


 慌てて鏡を見ると、そこに映っていたのは知らない顔。蜂蜜色の縦巻き髪に金色の瞳をした、驚くほど美しい少女。


 誰これ……私?


 でも、この顔。どこかで見たような……。


 その時、断片的に記憶が流れ込んできた。豪華な屋敷、大きな庭、使用人たち、そして——香りの記憶。


 母親の優しい声、花の香り、温かい手のひら。


 だが同時に、深い悲しみと罪悪感も押し寄せてくる。


(お母様……私のせいで……)


 誰の記憶? この感情は一体……?


 混乱の中、ゆっくりと思い出す。この顔、この髪、この部屋の装飾。そして流れ込んできた記憶の断片——ノクスレイン王国、シルヴァーバーグ家。


 私が最後にプレイしていた香水をテーマにした乙女ゲーム『恋と貴公子と百の香水』と、全部一致している。


 まさか……エレナ・シルヴァーバーグ?


 ノクスレイン王国の侯爵令嬢エレナ・シルヴァーバーグ。ヒロイン・リュミアに嫌がらせを繰り返し、最後は婚約破棄されて領地に幽閉される運命の、典型的な悪役令嬢!!


 転生しちゃったの? しかもゲームの世界の悪役令嬢に!?



 ちょっと待って、冷静になりましょう白石香澄。

 ベッドの縁に座り、必死に状況を整理する。


 転生した。それは間違いない。でも、なぜか時々この身体の持ち主——エレナの記憶が混じってくる。


 深い悲しみと、何かに対する強い罪悪感。

 この子も、辛いことがあったのかな……


 でも今は、目の前の問題に集中しなければ。エレナ・シルヴァーバーグの破滅ルートは確定してる。


 このままだと最後は——

 絶対に嫌! 今度こそ幸せになるって決めたんだから。


 いじめられて、病気になって、誰にも愛されずに死んだ前世。でも今度は違う。


 この美しい身体で、素敵な人たちに囲まれて、きっと幸せになれる。


 善行ムーブで破滅回避よ! まずは使用人さんたちと仲良くなって……


 でも、困った。ゲーム知識はあるけど、貴族の生活なんて全然わからない。


 どういう言葉遣いをすればいいの? お食事のマナーは? 使用人さんにはどう接するのが普通?


 うわあ、どうしよう……


 あ、そうだ! ゲーム世界なら、ステータスとかスキルとか確認できるんじゃない?


「ステータスオープン……ですわ!」


 ……何も起こらない。いやちょっとまって今私なんて言った?


「えーっと、ステータス? スキル確認ですわ?」


 やっぱり何も。そして何、この口調!?


 何度やっても、ゲームみたいな画面は出てこない。


 あれ? なんで? 転生ものだったら普通……


 そうか、これはゲームじゃなくてゲーム世界なんだね。ゲームと同じ世界だけど、システム的な機能は使えないのかも。


「まあ、でも香りの感覚が鋭くなってるし、何かしらのスキルはあるのかな?」


 その時、こんこんとドアがノックされた。


「お嬢様、お目覚めでしょうか」


 震え声。明らかに怯えてる。


「どうぞ」


 入ってきたのは、栗色の三つ編みをした私と同年代くらいの女の子。ゲームで見たクラリスだ。


 でも、彼女の表情は恐怖に満ちてる。


「あの……お加減はいかがですか?」


 まるで怯えた小動物みたいに、私の顔色を窺ってる。


 どう答えればいいんだろう? 貴族のお嬢様らしく? でも、どんな言葉遣いが正しいの?


「あ、あの……」


 困っていると、突然記憶が浮かんだ。エレナの記憶——クラリスと過ごした日々、使用人への接し方、言葉遣い。


 そして、どれだけ我が儘を言って困らせていたか。


 うわあ……思わず顔が青くなる。なんて酷いことを……。


 ゲームだからって分かってても、やっぱり人を傷つけるのは嫌だ。今度は違う。優しくしなくちゃ。


「クラリス……さん、ありがとう。もう大丈夫ですわ」


 自然に言葉が出てくる。エレナの記憶が教えてくれてる。


 って、やっぱり語尾に『ですわ』がついてる!? オートでお嬢様口調になっちゃった!?


「……え?」


 クラリスの目が大きく見開かれる。


「あの……今、なんと……?」


「クラリスさんありがとうって言ったけど……おかしかったかしら?」


 かしら!? なにこの自動変換機能!


「お、お嬢様が……『ありがとう』を……」


 そして彼女の目に涙が浮かんだ。まるで奇跡を見たかのような表情で。


「本当に……お嬢様なんですか?」


 あ、そうか。ゲームの中だから、安心して素直にお礼が言えるんだ。現実だったら、また裏切られるかもって怖くて、こんなに自然に優しくできないもん。



 朝食の準備をしてもらう間、私は屋敷を歩いてみることにした。


 どこもかしこも豪華で、まさに貴族のお屋敷って感じ。ゲームで見てた通りだ。


 廊下で掃除をしてる女の子——ミラに声をかけてみる。


「おはようございます、ミラさん。掃除お疲れさまですわ。いつもありがとうですの」


 ですの!? もう完全にお嬢様モードじゃない!


 彼女は雑巾を取り落とし、震え上がった。


「お、お嬢様……?」


「あ……ああ……」


 ミラは涙を流しながら、何度も頭を下げる。


 …って、攻略脳で考えちゃったけど、やっぱり人が泣いてるのを見ると胸が痛くなる。一体どれほど厳しく当たってたんだろう、元のエレナ。


 でもゲームの中だから、安心して謝れる。現実だったら、優しくしたって結局裏切られるかもしれないけど、ここなら大丈夫。


 庭に出ると、老庭師のトーマスが作業をしていた。


「おはようですわ、トーマスさん」


 トーマスはスコップを落とし、私をじっと見つめる。


「エレナ様……」


「お花、とても美しく咲いていらっしゃいますのね。お母様も、こんな風にお花を愛でていらしたのでしょう?」


 いらっしゃいますの!? 花に対して敬語使ってるし!


 その瞬間、トーマスの目に大粒の涙が浮かんだ。


「そうです……奥様は、花を心から愛していらっしゃいました。そして、エレナ様のことも……」


 私の中で、また深い悲しみが込み上げてくる。これはエレナの感情だ。


 母親への愛と、失った悲しみと、そして——


「奥様が戻ってこられたようじゃ……本当のエレナ様が」


 トーマスの言葉に、胸の奥が温かくなる。


 私は白石香澄だけど、この身体にはエレナのデータも残ってる。ゲームの中だから、安心して二人分の気持ちを大切にできる。


 私たち、二人で幸せになるんだ。



 夕食の時間。大きなダイニングルームで——って、どうやって座ればいいの? どのフォークを使えば?


 パニックになりそうになった瞬間、またエレナの記憶が浮かんだ。椅子の座り方、カトラリーの使い方、父との食事の作法。


 ダイニングルームには既に男性が座ってた。初めて見る顔だけど——あ、記憶が浮かんできた。


 威厳ある灰金の髪、鋭い琥珀の瞳。この人が父親、ジグムント・シルヴァーバーグだ。


「エレナ」


 威厳のある声で名前を呼ばれる。


「はい、お父様」


「体調は問題ないか? 使用人たちが大騒ぎしているようだが」


「もちろん、問題はございませんわ!」


 問題ございません!? 自分の父親に敬語!?


 隣に控えるのは執事のクライスト。銀髪をオールバックにした、どこか冷たい印象の男性。


 その視線が、じっと私を観察してる。


「お嬢様の変化について、屋敷中が……驚愕しております」


 クライストの声に、わずかな警戒が混じってる。


「変化って?」


「まるで……生き返ったかのような」


 確かに、ある意味生き返ったのかもしれない。エレナも、私も。


「お父様もお忙しいでしょうに、わたくしのことまで気にかけてくださって。ありがとうございますわ」


 わたくし!? しかもめちゃくちゃ丁寧!


 ジグムントの手が止まった。クライストも、わずかに眉をひそめる。


「……エレナ、本当に大丈夫なのか?」


「はい。今日から、新しいわたくしとして頑張りますわ」


 新しいわたくしって何よ! この自動変換システム、どうにかならないの!?


 でも…ゲームの中だから、こんな風に素直に感謝の気持ちを伝えられるのかも。現実だったら、家族にだって心を開くのは怖かったから。


 クライストの視線が、一層鋭くなった。まるで何かを探るように。



 夜、一人の時間。部屋を探索してると、ドレッサーの上に美しい香水瓶を見つけた。


 これって……


 透明なガラスに繊細な装飾。中身は淡いピンク色の液体。


 恐る恐る蓋を開けてみる。


 ふわりと立ち上る香り。その瞬間——

 記憶が溢れ出した。これはきっとエレナのデータ。


 幼い日、母マリアンヌと過ごした穏やかな時間。花の香りに包まれて、優しい声で物語を聞かせてもらった日々。


 お母様……


 涙が頬を伝う。これはエレナの涙だ。


 愛した人を失った悲しみと、自分のせいで母が死んだという罪悪感。


 でも同時に、私自身の記憶も蘇る。現代で一人ぼっちだった日々。


 いじめられて、誰にも理解されずに死んでいった寂しさ。


 二つの記憶が、香りを通して初めて混じり合った。


 あなたも、寂しかったんだね……

 私はそっと呟く。


「でも、もう大丈夫ですわ。今度は一緒ですもの。二人で幸せになりましょう」


 ですもの!? このお嬢様口調、もう止まらない!


 香水瓶を胸に抱きながら、私は誓う。エレナの記憶も、私の後悔も、全部背負って新しい人生を歩んでいこう。


 ゲームの中だから、安心して愛を信じられる。今度こそ、みんなと幸せになるんだ。


 ヒロインのリュミアちゃんとも仲良くなって、素敵な攻略対象の男性たちとも友達になって。


 アルベール王子やルシアン王子、ガイルくんにユリウスくん、テオくんにノアくん——みんなゲームで見た通りの人たちがこの世界にいるなんて!


 今度こそ、愛に満ちた日々を送るんだ。


 外では夜風が窓を揺らし、まるで二つの魂を祝福するような優しい音を奏でていた。


 そしてどこからか、かすかに花の香りが漂ってくる。


 母マリアンヌの、最後の祈りのように。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ