再来する影: 鋼鉄と癒やしの誓い
エルドリアスとリアーナが築き上げてきた、希望に満ちた日々。身分を問わない士官学校からは、若者たちの溌剌とした声が響き、新しい病院からは、癒やされた人々の安堵の吐息が漏れていた。王国は、あの忌まわしい戦火の傷跡を乗り越え、ようやく穏やかな繁栄を享受し始めていた。エルドリアスは国の守護者として、リアーナは男爵として、そして人々の命を救う医療者として、それぞれの道を歩みながら、互いを支え、その愛は王国を照らす光となっていた。彼らの手には、共に紡ぐ未来の温もりが、確かに感じられていた。
だが、その平穏は、あまりにも唐突に、そして容赦なく打ち破られた。
ある晴れた日の午後、王都に響き渡ったのは、戦役以来、誰もが聞くことを恐れていた、重く、腹の底に響くような警鐘の音だった。それは、かつて魔族の群れが国境を蹂躏した際に鳴り響いた、あの忌まわしい音色だった。王都中が、一瞬にして静まり返り、次いで、どよめきと悲鳴が混じった、ざわめきに包まれた。人々は空を見上げ、遥か東の空に、黒い煙が立ち上るのを見た。それは、故郷を失った者たちの、焼け焦げる村の匂いを連想させた。
「魔族だ……! 魔族が、再び攻めてきた!」
報せは早馬によって次々と届けられた。国境の防衛線が突破され、魔族の大群が、以前よりもはるかに大規模な勢いで押し寄せているという。その力は、以前の戦役で王国が痛感した脅威を、さらに上回るかのようだった。その猛攻は、王国軍の防衛網を紙切れのように引き裂き、瞬く間に進軍しているという。民衆の顔から、一瞬にして血の気が引いた。彼らの目には、過去の地獄が鮮やかに蘇る。
エルドリアスは、王宮の広間で報せを聞いた。彼の顔から表情が消え、その瞳の奥に、かつての戦場で見た、冷たい炎が宿った。彼は自らの甲冑に手を伸ばし、その冷たい金属の感触を確かめる。彼が築き上げた、このわずかな平和が、またも踏みにじられようとしている。そして、民衆の不安と恐怖が、彼の肌を刺すように感じられた。
国王は、エルドリアスに縋るような視線を向けた。 「エルドリアス少将……どうか、再び、王国の盾となってくれぬか……!」 その声は、重く、疲弊していた。王国は、まだ完全に傷が癒えていない。この新たな脅威に、立ち向かえるのは、彼しかいない。
エルドリアスは、応じた。彼の瞳には迷いがなかった。 「はっ。国王陛下。このエルドリアス、命ある限り、王国をお守りいたします」 しかし、彼の心には、これまでとは異なる重い感情が去来していた。彼には、守るべきものが増えたのだ。リアーナが築き上げた新しい病院、士官学校で学び始めた若者たち、そして、何よりも愛するリアーナ自身がいた。彼の掌に、リアーナの温かい手が蘇る。
その夜、リアーナはエルドリアスの隣に静かに座っていた。彼女もまた、報せの全てを知っていた。病院には、国境から運び込まれた負傷兵がひしめき、その呻き声が、彼女の耳に届いていた。彼らの体から漂う血と硝煙の匂いは、過去の記憶を鮮明に呼び覚ます。
「エルドリアス様……」 リアーナの声は、微かに震えていた。彼女の心には、再び地獄のような戦場へと赴くことへの恐怖がなかったわけではない。しかし、それ以上に、エルドリアスの隣に立つという、揺るぎない覚悟があった。
エルドリアスは、何も言わず、ただリアーナの手を強く握りしめた。彼の瞳は、彼女の透き通るような瞳を真っ直ぐに見つめる。彼の視線に、言葉では語り尽くせない思いが込められていた。
「……行こう。リアーナ」 彼の声は、静かだったが、その奥には、鋼のような決意と、深い愛情が宿っていた。 「ええ、エルドリアス様。共に」 リアーナは、力強く頷いた。彼女の掌から、温かい魔力がエルドリアスの手に伝わっていく。彼女の心は、もう迷わない。彼と共に、再び戦場へと赴くことを決めたのだ。人々の命を救う、それが彼女の使命。そして、彼の隣に立つことが、彼女の選んだ道だった。
翌朝、夜明け前の薄闇の中、王都の城門には、エルドリアスとリアーナの姿があった。 エルドリアスは、黒い甲冑を纏い、その腰には愛剣が揺れる。その姿は、まさしく「王国最強の英雄」そのものだった。彼の背中は、遠い未来へと続く道を切り開くかのように、力強く見えた。 リアーナは、清潔な白衣を身につけ、その傍らに立っていた。彼女の瞳には、戦場への覚悟と、しかし決して失われることのない、慈愛の光が宿っている。彼女の指先は、すでに、癒やしの魔力を帯びているかのようだった。
城門には、彼らを見送るために集まった民衆の群れがいた。彼らの顔には、恐怖と不安が色濃く浮かんでいたが、エルドリアスとリアーナの姿を見た瞬間、その表情に一筋の希望の光が灯った。 「エルドリアス様! リアーナ様! どうか、ご無事で!」 「我らが英雄と聖女に、どうか御加護を!」 彼らの声は、不安と期待が入り混じった、祈りにも似た叫びとなって夜明け前の空に響き渡る。彼らの目には、再び戦場へと向かう二人の背中が、王国の未来を背負う光景として焼き付いた。
エルドリアスとリアーナは、言葉もなく、民衆に向かって深く頭を下げた。彼らの五感には、民衆の不安と信頼、そして温かい声援が、肌を震わせるように伝わってくる。そして、二人は、固く手を取り合い、夜明けの東へと続く道を、再び歩み始めた。王国の命運をかけた、新たな戦いの幕が、今、静かに開かれようとしていた。彼らの進む道には、まだ見ぬ闇が横たわっている。だが、彼らの絆と愛は、いかなる困難も乗り越える、揺るぎない光となるだろう。