告白と葛藤: 揺らぐ矜持、届かぬ想い
王都での華やかな祝宴から数日後。エルドリアスは、執務室の窓から差し込む夕日を眺めていた。その光は、彼の足元に、長く伸びた影を落とす。部屋には、上質な木材と古書の匂いが満ちているが、彼の心は、その落ち着いた香りとは裏腹に、激しく波打っていた。貴族たちの賛辞も、王のねぎらいの言葉も、彼の心を癒やすことはなかった。彼が求めているのは、あの戦場で、泥と血にまみれながらも、確かに隣にいた、あの小さな手の温もりだった。
「(このままでは、駄目だ……)」
エルドリアスは、内なる声に突き動かされるように、立ち上がった。彼の体は、まだ完全に癒えていない傷が疼き、微かな痛みを伴う。だが、その痛みさえも、リアーナへの募る想いに比べれば、取るに足らないものだった。彼は、あの戦場で、彼女がいなければ自分は何度も死んでいたことを知っている。彼女こそが、彼の命を繋ぎ、兵士たちの希望を繋ぎ止めた、真の光なのだ。
そして、その日の夕刻。エルドリアスは、リアーナが働く王都の病院へと足を運んだ。夜勤を終え、疲れ切った顔で宿舎へ向かおうとしていたリアーナの前に、彼は静かに、しかし断固たる表情で立ちはだかった。彼女の全身を包む消毒液の匂いが、彼の鼻腔をくすぐる。それは、戦場の血と硝煙とは違う、生命を守るための匂いだった。
「リアーナ……」 エルドリアスの声は、普段の冷静沈着な響きとは異なり、微かに震えていた。彼の掌は、冷たい汗で湿っていた。
リアーナは、突然の彼の来訪に、思わず息を呑んだ。疲労で霞んでいた視界が、彼の真剣な瞳を捉えてはっきりと開かれる。彼女の心臓は、激しい音を立てて脈打った。この数日、彼の栄光を遠くから見つめることしかできなかった自分が、今、彼の目の前にいる。その事実に、彼女の頬に熱が集中し、皮膚が火照るのを感じた。
「エルドリアス少将……何か、御用でしょうか……?」 彼女の声は、喉の奥に張り付いたかのように掠れていた。
エルドリアスは、一歩、リアーナに近づいた。その距離が、二人の間に流れる空気を、まるで戦場のように張り詰めさせる。 「御用などではない……。ただ、お前に、伝えたいことが、ある」
彼の視線は、真っ直ぐにリアーナの瞳を見つめた。その眼差しは、戦場で彼が見せた、決死の覚悟を宿した光そのものだった。 「リアーナ……お前は、俺の命の恩人だ。だが、それだけではない。お前は、あの地獄のような戦場で、俺の心に光を灯し、生きる意味を与えてくれた」 彼の言葉は、まるで剣のように、リアーナの心の奥深くに突き刺さる。 「お前がいなければ、俺はとっくに絶望に飲まれていた。お前がいなければ、兵士たちは希望を失っていた。お前は……俺にとって、人生に不可欠な存在だ」
エルドリアスは、震える手で、リアーナの頬にそっと触れた。彼の指先から伝わる熱が、彼女の肌を焦がす。 「俺は……お前を、愛している。共に、生きてほしい」
その告白は、リアーナの耳に、雷鳴のように轟いた。彼女の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちる。彼も自分を愛している。その事実が、彼女の心を狂おしいほどの歓喜で満たした。彼の指先が触れる場所が、熱く、甘く、そして同時に、痛みを感じさせる。彼女の鼻腔には、エルドリアスから香る清冽な墨の匂いと、彼の体温からくる暖かさが混じり合い、彼女の理性を揺さぶる。
だが、次の瞬間、彼女の頭の中に、冷徹な現実の壁が立ちはだかった。エルドリアスは王国最強の英雄。貴族であり、未来を嘱望される存在だ。平民の、しかも医療に従事する自分とでは、あまりにも身分が違いすぎる。
「少将……わ、私も……あなたを、愛しています……」 リアーナは、絞り出すような声で答えた。彼女の涙が、エルドリアスの指を濡らす。
「だからこそ……だからこそ、駄目なのです……!」 彼女は、彼の手に触れたまま、その手を振り払うように身を引いた。彼の温もりから離れるその行為が、彼女自身の心を深く傷つける。
「あなたには、王国のために、最高の地位に就き、貴族の娘と結婚し、子を成す義務がある。私は……あなたの人生の、足枷にはなれません……!」 リアーナの声は、嗚咽で震え、その音は、まるで刃物で心を切り裂かれるような痛みを伴っていた。彼女の視界は、涙で歪み、目の前のエルドリアスの顔も、ぼやけて見えた。彼を愛しているからこそ、彼の輝かしい未来を奪いたくない。それが、彼女が導き出した、唯一の答えだった。
「(私なんかが、あなたの隣に立つことなど、許されない……)」 彼女の心臓は、痛みに耐えかねて、激しく収縮と拡張を繰り返す。彼の体温がまだ残る頬が、じくじくと痛んだ。
エルドリアスは、リアーナの言葉に、全身を硬直させた。彼女が自分を愛していると告げた喜びは、その直後の拒絶の言葉によって、鋭利な刃物で引き裂かれるかのように消え去った。彼の耳には、彼女の悲痛な叫びが、まるで遠いこだまのように響き渡る。
「足枷だと? 馬鹿なことを言うな!」 エルドリアスは、怒りにも似た感情を、しかし静かに吐き出した。彼の瞳には、リアーナの葛藤を理解しながらも、それを受け入れられない、強い決意の光が宿っていた。
「俺は、お前がいなければ、あの戦場を生き延びられなかった。あの光景を、誰よりも知っているのは、俺とお前だけだ。お前は、俺の人生にとって、もはや呼吸と同じくらい不可欠な存在だ!」 彼の声は、もはや震えてはいなかった。そこにあるのは、揺るぎない覚悟と、圧倒的なまでの確信だった。
「身分や周囲の反対など、どうでもいい。俺は、王国最強の英雄だ。この地位も、この権限も、全てはお前と生きるために使う!」
エルドリアスは、再びリアーナの手を取り、今度は決して離さないとばかりに、強く握りしめた。彼女の冷たくなった掌に、彼の熱い体温が染み渡っていく。 「俺は、お前との関係を、公にする。全てを乗り越えて、お前を、俺の隣に立たせてみせる。それが、俺の決意だ」
彼の言葉は、王都の静かな夜の闇を切り裂くように響き渡った。それは、英雄の告白であり、同時に、彼の人生を賭けた、壮大な宣戦布告だった。彼の瞳の奥には、もはや迷いはなかった。彼を救い、支え続けたリアーナこそが、彼の人生に不可欠な存在であると確信したエルドリアスは、身分や周囲の反対という厚い壁を、自らの力で打ち砕く覚悟を決めたのだ。