壁を越えて、未来へ
「終戦だ! 魔王軍は、撤退したぞ!!」
遠くから聞こえたその声は、硝煙と血にまみれた戦場に、まるで奇跡のように響き渡った。兵士たちは、その言葉の意味を理解するまで、しばらく呆然としていた。そして、やがて歓喜の叫びが、大地を揺らす咆哮へと変わる。互いに抱き合い、泥だらけの顔で笑い、涙を流す。長きにわたる地獄のような戦役が、ついに終わりを告げたのだ。
エルドリアスは、その光景を静かに見つめていた。彼の五感は、まだ戦場の残滓を捉えている。遠くで燃え盛る炎の熱、微かに残る血と硝煙の匂い、そして仲間たちの安堵の吐息。彼の体は鉛のように重く、回復しきっていない古傷が激しく疼いていた。しかし、彼の心には、これまで感じたことのない、清々しい解放感が満ちていた。彼の耳には、兵士たちの喜びの声が、何よりも甘美な音楽のように響き渡る。
「やったな、少将……俺たち、生きて帰れるんだ……!」 泥だらけの顔の古参兵が、エルドリアスの前に膝をつき、嗚咽を漏らした。 「あんたがいなかったら、とっくに俺たちは……」
エルドリアスは、黙ってその肩を叩いた。彼の瞳は、疲弊しきっていながらも、確かな輝きを宿している。その輝きは、多くの命を救い、絶望を打ち砕いた英雄の証だった。
しかし、彼の視線は、人混みの向こうで、同じように負傷兵の手当てにあたっているリアーナの姿を捉えた。彼女の額には、極度の疲労からくる汗が滲んでいる。だが、その表情は、兵士たちの生還を心から喜ぶ、慈愛に満ちたものだった。彼女の白い治療着は、あちこちが血と土で汚れている。彼女の指先から放たれる回復魔法の光が、最後の負傷兵を癒やし、その光が消えた時、戦場の喧騒の中に、一瞬の静寂が訪れた。
その静寂の中で、二人の視線が交錯した。言葉は要らなかった。戦場の極限状態で、互いの命を預け合い、支え合った日々。エルドリアスは、彼女の純粋な優しさと、決して揺るがない強さに心を奪われた。彼の五感は、彼女の姿を見るだけで、体中に温かい血が巡るのを感じる。それは、戦場の冷酷さとは真逆の、甘く、切ない感情だった。
リアーナもまた、エルドリアスの瞳の奥に、同じ光を見出した。彼の視線は、言葉以上に雄弁だった。彼の傷つきながらも立ち上がり続けた背中、兵士たちを鼓舞する声、そして、自分に向けられる感謝と、それ以上の感情。彼女の耳には、兵士たちの勝利の雄叫びよりも、彼の荒い呼吸音、そして彼の心臓が力強く脈打つ音が、はっきりと聞こえるようだった。彼女の掌には、彼の強靭な筋肉の感触が、まだ鮮やかに残っている。
「リアーナ様も、本当にご苦労様でした!」 「あんたがいなかったら、俺たち、何人死んでたか……感謝します!」
兵士たちがリアーナの元へ駆け寄り、口々に感謝の言葉を述べた。彼女は微笑み、彼らの言葉を静かに受け止めた。彼女もまた、戦役の立役者の一人として、その功績が認められるだろう。
数日後、エルドリアスは英雄として王都に凱旋し、盛大な祝賀を受けた。歓声、花びらが舞う匂い、王の賛辞。彼の体には、再び清廉な軍服が纏われ、その姿はまさに「王国最強の英雄」そのものだった。しかし、彼の心は、どこか満たされない空虚感を抱えていた。戦場の極限状態で共有した、あのリアーナとの「特別な時間」は、この華やかな日常には存在しない。
一方、リアーナもまた、野戦病院での職務を終え、王都の医療機関への栄転が打診されていた。彼女の優れた回復術と、戦場での献身的な働きは高く評価されたのだ。しかし、彼女の心は複雑だった。王都の病院は、清潔で安全で、野戦病院のような危険はない。だが、彼女の五感は、まだエルドリアスの汗の匂い、彼の体の震え、そして彼から放たれる生命の熱を求めていた。
「リアーナ、君の功績は素晴らしい。だが、少将と君では、身分が違いすぎる」 上司の老医師が、優しく、しかし有無を言わせぬ口調で言った。彼の言葉は、現実の厳しさを突きつける。
エルドリアスは王国軍の最高位に位置する英雄であり、貴族。リアーナは、平民の回復術師に過ぎない。戦場という「例外」の空間では、身分や階級は時に意味をなさなかった。命の危険が迫る中で、彼らはただ、一人の人間として、互いを支え合った。だが、平穏な日常に戻れば、その壁はあまりにも大きく、厚い。
エルドリアスの執務室。窓の外には、王都の平和な喧騒が聞こえる。彼の掌には、かつてリアーナの手を握った時の、あの温かい感触がまだ残っていた。彼の耳には、彼女の魔力と共鳴する、微かな「癒し」の音が聞こえるかのようだった。
「(リアーナ……)」 彼がその名を心の中で呼ぶたびに、胸の奥が締め付けられるように痛む。彼は英雄として、王国のために生きる存在。そして、彼女は、多くの命を救う医療の道を歩む者。それぞれの使命が、彼らを遠ざけていく。
リアーナもまた、夜、自室の窓から満月を見上げていた。静寂の中で、彼女の心は彼のことでいっぱいだった。彼女の視界には、戦場で必死に剣を振るうエルドリアスの姿が鮮やかに焼き付いている。彼の甲冑の金属がぶつかる音、彼が痛みに耐える微かな呻き、そして、彼が自分に向けてくれた、あの感謝と安堵の眼差し。
「(少将……私では、あなたの隣には……)」 彼女の指先が、空虚な空間を掴む。そこには、かつて彼の汗ばんだ手に触れたような、確かな温もりはもうない。
戦役は終わった。しかし、二人の心には、戦場が育んだ特別な感情と、それを阻む身分という、新たな戦いが始まろうとしていた。それは、剣や魔法では切り開けない、あまりにも大きな壁だった。