第四章 ……異常なほどに
雪は、無色だ。
白紙のようにただ在るだけで、純粋で、静かだ。
記憶の縁をそっと撫でるように、淡く、味のないものだ。
雪は、美しい。
その白が降り立つだけで、空は色を変え、
景色は、ひとときの夢のように輝きはじめる。
雪は、冷たい。
やさしげな姿のまま、刺すような寒さを連れてきて、
その無垢な白で、世界の傷跡さえ覆い隠す。
雪は、やがて融ける。
華やかな幻は終わり、残るのは溜息と、湿った痕跡だけ。
ここで泣いていた約束は、そうしてまた、消えていく。
主は御言葉を地に送られ、そのみことばはすみやかに走る。主は雪を羊毛のように降らせ、霜を灰のようにまき散らす。主は氷の塊をパンくずのように投げられる。その寒さに、だれが耐えられようか。
= = = =
日々はいつも通り、何の変化もない。 起床、授業、休み時間、放課後、帰宅。 その繰り返し。変わらないループだ。
そんな日が続いて、俺はもうあの時の出来事を忘れかけていた。 (……いや、忘れようとしてた、か)
ツンツン、と肩を突かれる。 振り返ると、卉詩だった。
「何考えてるの?すごく集中してたから」
「いや……人生に嘆いてただけだ」 (……別に深い意味はねぇよ。ただ眠いだけだ)
「……亮くんの人生、そんなに最悪なの?」
「お前と大差ない」
「?」 (なんだその、心底訳が分からんって顔は)
「りょおーーー!!!来たよ〜〜〜〜〜!」
(やべっ!) ドタドタという足音と同時に叫び声。俺が慌てて身を起こすと、突進してきたリンダが盛大に空振りした。
「うぅ、頭打った……」
「俺が避けなきゃ、痛いのは俺の方だったな。……ったく、加減しろよ」
「ひどいってば〜〜!亮が避けるのが悪いのよ!」
あの約束から、もう二ヶ月くらい経っただろうか。この間、リンダは相変わらず元気いっぱいで、毎日放課後に俺のところへ押しかけてくる。 (……少なくとも、俺の身体に残ってるアザがそれを証明していた) 俺たちは約束通り、あの時のことには一切触れないでいる。
「あんたもバカだね、亮くんが大人しくそこに座ってて、ぶつからせてくれるわけないじゃない」
「なっ……ぶつかろうとなんかしてないもん!これは情熱的な挨拶なのよ!」
(……やれやれ、また始まった) 二人の口論がまた始まった。
「亮!これ見ろよ!」 文豪が、ガサガサと袋を揺らしながら、のっそりと教室に入ってきた。 (……何だその、やけにドヤ顔なのは)
「わ、それ揚げバナナじゃん!いい匂い〜!」リンダの目がキランと輝く。
「揚げバナナ、実物見るの初めてかも……」卉詩も感慨深げだ。
「ふふん、今じゃ食堂もこういうのを売るようになったんだぜ。まあ、ちょっと高いけどな。食いたきゃ食っていいぞ」
「ええっ、いいの?そんなに高いのに」卉詩が驚きの声を上げる。
「おう。まあ、俺に一つ貸しってことで」文豪は気前よく言った。 その言葉で、空気が微妙に気まずくなった。
「じゃ、お言葉に甘えまーす!はい、亮、あげる」リンダはまったく遠慮せず、ガバッと三枚も引ったくって俺に渡してきた。
「おい!なんでそんな取るんだよ、数枚しか買ってねぇのに!」
「だって文豪くんが取っていいって言ったじゃん」リンダはふふん、と鼻で笑う。
(……で、結局卉詩がアイツを慰める流れか) 今や卉詩が文豪を慰める役になっている。
俺は手の中の揚げバナナを見る。確かに、ものすごく香ばしい匂いだ。 「……うまい」 (なんだこれ、めちゃくちゃ美味い。独特な香りがある)
俺は夢中でかぶりつき、あっという間に三枚を平らげた。
「卉詩は食わないのか?」隣でまだ文豪を慰めている卉詩に声をかける。
「……私はいいかな。最近、ちょっと太ってきた気がするし」
リンダがじーっと彼女の全身を上から下まで眺め回した。 「あんた、これで太ってるって言うの!?」 そして、また二人の取っ組み合いが始まった。 (……ほんと、飽きねぇな、こいつら)
= = = =
放課後、俺と一緒に帰路につくのは、いつも通りリンダ。そして、彼女の手には三袋の揚げバナナ。 (……こいつ、マジで三袋も買ったのか)
「……よくそんな金あったな」
「しょうがないよ〜。だって、うちの亮くんがすっごく気に入ったんだもん」
「あはは……」返す言葉もなかった。
帰り道、俺たちはいつものように喋り続けた。勉強のこと、友達のこと、食べ物のこと、ご近所さんのこと……。 毎日毎日、飽きもせず、同じことの繰り返しだ。
途中、俺たちは香婆さん(シャンばあさん)のところに寄った。彼女は島で有名な「料理人」で、どんな食材も彼女の手にかかれば絶品になると言われている。
「お婆さ〜ん!来たよ〜!」リンダが持ち前のデカい声で呼びかける。
「おや、来たのかい。ほら、入ってお座り」お婆さんが家からゆっくりと出てきた。何か秘訣でもあるのか、七十歳を超えてるっていうのに、杖もなしでやけにシャンとしている。
「あのね、お婆さん!これ、揚げバナナ!よかったら食べてみて」 (……ったく、全部俺のためじゃなかったのかよ)
「ほほう……どれ、一口」 噂によれば、このお婆さんは昔から島一番の腕利きで、どんな食材だろうと、閃きさえあれば極上の料理を生み出せるらしい。 ただ、島の資源が乏しくなるにつれて、二十年も前にとっくに引退したそうだ。それでも腕は健在で、何度か俺たちの料理にアドバイスをくれたこともある。だから、俺もその噂は信じていた。
香婆さんは、いつもの温和な笑顔のまま、リンダから揚げバナナを受け取った。
「ほう……食堂の新しいもんかね?どれ……」
彼女はすぐには食べず、いつもの食材を吟味するように、まず揚げバナナを鼻先に持って行って、クン、と静かに匂いを嗅いだ。
その瞬間。 俺は、お婆さんの顔の笑顔が……ふと固まったのに気づいた。温和だった目元に、一瞬だけ困惑のようなものがよぎったが、それはすぐに消えた。 (……ん?今の顔...)
「どう、お婆さん?いい匂いでしょ?」リンダがキョトンとした顔で、興奮した様子で顔を近づける。こいつ、まったく気づいてない。
お婆さんはその表情を奥にしまい込んだ。彼女は小さく一口かじり、とてもゆっくり、丁寧に咀嚼する。リンダは隣でまだ今日の学校での出来事を興奮気味に話しているが、俺はお婆さんの顔から視線を外すことができなかった。
お婆さんの咀嚼が止まる。彼女は手の中の半分の揚げバナナを見つめ、その表情は……険しかった。俺が今までに見たこともないような、真剣な顔だ。
「……婆さん?」俺は探るように声をかけた。
彼女は顔を上げたが、俺じゃない。リンダの目を、じっと見つめていた。 「リンダ……」 「なぁに?」 「この揚げバナナは……誰が作ったんだい?」
「え?食堂だよ!」リンダはお婆さんの剣幕に少し驚いて、声が小さくなる。「友達が教えてくれた、食堂の新作だって……ど、どうしたの?美味しくない?」
「……うまいよ」香婆さんはゆっくりと言った。「うますぎるんだ」
「え?」リンダは首を傾げ、訳が分からないという顔をしている。 (……まあ、正直、俺にも何が何だか)
「ワシはこの島で七十と余年、生きてきた……」彼女は薄くタコのできた指で、バナナに残った油を捻る。「島で絞めたココナッツ油も、獣の油も、どんな味か、目をつぶっても忘れんよ……。だが、これは違う」
「まさか、内陸から来た油とか……?」俺は言った。食堂ならそういうルートがあってもおかしくない。
「それも違うね」お婆さんの答えは簡潔だった。
「何十年も前、息子がクアラルンプールから油を送ってきたことがある。本土の機械で作った油は、どうも味が『死んでる』。単調で、こんな香りはしない」
彼女は食べかけの揚げバナナを俺たちの前に突き出した。俺とリンダは顔を見合わせる。お互いの目に戸惑いが浮かんでいるのが分かった。
「この油は……」 「香りが良すぎる」 「……異常なほどにな」




