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第一章 俺の幼馴染

「ママ、父さんは……?」

 声をかけた瞬間、嫌な予感がした。なんていうか、空気が変だったんだ。

「お父さん……ねぇ」

 ママは微動だにせず、俺の顔をじっと見つめ――

 次の瞬間、ニヤリと笑って、

 ……ビンタが飛んできた。

「は……?」

 何が起きたか分からなかった。ただ、じんと熱を持つ頬の痛みだけが、現実だった。

 ドンッ、と机にぶつかる。そのせいで、机の上にあったプラスチックの果物ナイフが床に落ちた。

(痛っ……何が……)

 身を守るため、俺は後ずさりを始めた。

「息子よ、愚かな息子……!全部、お前のせいだ!」

「ママ……どうしたんだよ……!」

 ママの形相を見て、背筋が凍る。

「ぜんぶ、お前の……せい」

 ママは床のナイフを拾い上げ、それを俺に向けると、まっすぐにこちらへ突進してきた。

「ああっ!」

「亮!大丈夫!?」

 卉詩フイシーの声だ。ハッと我に返ると、そこはいつもの教室だった。

 周りのクラスメイトたちが、遠巻きにこっちを見ている。

(……夢か)

「だ、大丈夫……」まだ乱れた息を整えながら言った。

「また、嫌な夢?」

 卉詩が心配そうに俺の顔を覗き込む。

「あいつ、マジで懲りねぇな」

「もうやめなよ、彼もわざとじゃないんだから。それに、みんなも彼の家の事情、知ってるでしょ」卉詩が大声で庇ってくれた。

 シン――と、辺りは静まり返る。

「……」

 気まずい沈黙の中、先生が廊下から入ってきた。ちょうどその時、チャイムが鳴る。

「はい、みんな、もう授業だぞ。教科書を出して」

 クラスメイトたちは、そそくさと自分の席に戻っていった。

「さっきは、助かった」俺は前の席に座る卉詩に小声で礼を言った。

「ううん〜」

 窓の外の空を見つめる……いつの間にか、拳を固く握りしめていた。

 ≡ ≡ ≡ ≡

 放課後のチャイムが鳴り、校門の向かいにある電柱に寄りかかって、いつものやつを待っていた。

「またね〜」

「明日ね〜〜」クラスメイトに別れを告げると、そいつ――リンダは、こっちを見つけて駆け寄ってきた。

「行こっ」彼女はにぱっと笑う。

「で、今日はどこ行くわけ?図書館?海辺?それともウチに…」

「内陸に」

「え?なんで?」

「買い出し」

「そっか、もう家の食べ物も少ないもんね……じゃあ行こっ」

 俺たちは埠頭まで歩く。そこには父さんの会社の船があった。

 ……とは言っても、父さんはもういないし、会社も船を回収しなかったので、今に至るまで残っているだけだ。

「内陸に行くの、久しぶりだね」リンダはつま先立ちで船に向かって言った。

 資金も技術者もいないせいで、この船は見た目にもうボロボロだ。まだ動くかどうかも怪しい。

 ヒュッ……と、岸辺を強い風が吹き抜けた。

 空を見上げると、灰色の雲が層をなして、こちらへ向かってきている。

「……出航は無理そうだな」

「えええ〜〜、そんな。そしたら亮は、食べるものなくなっちゃうじゃん」

「一晩くらい、どうってことない」どうせ初めてじゃない。

「だ〜め、絶対だめ!そんなことしたらお腹壊しちゃうもん」

「じゃなきゃ……私の家で食べる?」

「お前の母さんに迷惑だろ」

「大丈夫だって〜。後で母にちゃんと言っとくから」

「ん……先に帰ってシャワー浴びてから考える……」言いかけると、リンダの様子が少し恥ずかしそうになっているのに気づいた。

「そうだ、あのさ……」

「どうした、お前も一緒に浴びたいのか?」

「なっ……」

「だ、誰があんたと一緒にお風呂なんか入りたいのよ、このド変態!」彼女はそう言うと、ぷいっと顔を背けた。

「今朝のお前の行動を考えれば、それを言う資格はないな」彼女をちらりと見た。

「だ〜か〜ら〜、今朝のことは悪かったってば、ごめんなさい!」

「今朝は私、どうかしちゃってたの。あなたの前であんなこと……」

「もう二度とあんなことしないって約束するから、ね?」

 彼女の顔は、耳まで真っ赤に染まっている。

「本当か?」

「うん!」そう言うと、彼女は小指を立てて、俺に差し出してきた。

(……ったく、しょうがねぇな)

 自分の小指を立てて、彼女と指切りをした。

「……これでいいのか?何も約束してないぞ」

「もちろん。ただ、一つ手伝ってもらうから」

「何をだ?」

「あとでね……」言い終わらないうちに、彼女は俺の耳元にぐっと近づいて囁いた。「――絶対に、家に来てよね」

 ぞくっ、と耳元がくすぐったい。素早く彼女から少し距離を取った。

「じゃあ、先に一人で帰っててね!」彼女はにぱっと笑うと、一人で家へと走っていった。

 俺はその場に呆然と立ち尽くし、数秒考え込んだ。

「あいつ、今ので約束を破ったことになるよな……」

 ≡ ≡ ≡ ≡

 バケツをひっくり返したような土砂降りの中、俺はリンダの家のドアを叩いた。

「はーい!」ドアの向こうから、慌ただしい足音が聞こえ、ドアを開けて迎えてくれたのは彼女の母親――ツァイさんだった。

「あらあら、亮くんじゃないの。ずぶ濡れね……さ、入って」

「はい」俺は靴を脱ぎ、リンダが俺のために準備してくれた室内履きに履き替えた。

 ここでは、地元の人々は室内履きを履く習慣がないようだ。

 だが、俺はこの習慣を持ち続けている。子供の頃、父さんが教えてくれたからだ。

 食堂へ歩いていくと、リンダが昼食を準備しているのが見えた。でも彼女は、なんか俺に気づいていない。

「お昼飯の準備なんて、珍しいな」俺はわざと尋ねてみた。

「当たり前でしょ。料理は生活に必須のスキルなんだから」

「そのスキルってのは、そんなに心を込める必要があるのか」

「これってママが教えてくれたんじゃない。料理だけじゃなくて、何をするにも心を込めなくちゃって」

(……こいつ、俺を蔡さんと間違えてやがる)

 その時、蔡さんは隣でくすくすと笑っていた。成り行きを楽しんでいる、悪魔の笑みだ。

「何のために?」蔡さんは悪戯っぽく話を続けた。

「ママ、さっきから何言ってるの?もちろん、私の可愛い鈴木亮のためじゃない」

「彼との未来のために、私、頑張るって決めたの」

「そのせいで誰かを傷つけても、たとえ全ての代償を払ってでも、彼と一緒にいたいの」

(ヤッベ……俺の存在感、まさかゼロだったのか?)

「なんで?」俺は尋ねた。

「ん……同情、かな。だって亮は、昔あんなことがあったから……」

 同情、か……。てっきり、ただ単に俺をからかいたいだけだと思ってた。

 蔡さんは彼女の話を聞き終えると、ほっと息をついた。

「そうか、それならいいわ」

「だって、亮は私のだ……」彼女はとても小さな声で言ったので、聞き取れなかった。

妃鶴フェイフーは本当に面白いわね。どう、彼女の話を聞いて何か感想は?」

 感想、か……。

「え?さっきから何言ってるの?誰か来たの……」彼女は振り返ると、ピシリと固まった。

「あ、痛っ……」よそ見をしていたせいで、人差し指を切ってしまった。

「あら、大丈夫?」

「なんで……」そう言うと、彼女は振り返り、俺を睨みつけた。その目は、見る見るうちに潤んでいく。

 その後、彼女は俺のそばを駆け抜け、二階の部屋に駆け込んで閉じこもってしまった。

(マジかよ……完全に照れてやがる)

「ごめんね、あの子時々こうなのよ。照れ屋さんだから、あはははは」蔡さんの笑い声は、実に魔性的だ。

「そうですか。じゃあ、お邪魔しました」俺は玄関の方へ向かった。

 蔡さんはそれを聞くと、顔ににやりと笑みを浮かべた。

「妃鶴〜、亮くんが帰るって!」蔡さんは階段の方に向かって叫んだ。

「か、帰るなら帰ればいいじゃない、誰が気にするもんですか」

「あの子にご飯作ってあげるって言ってたじゃない。本当にこのままでいいの?」

「あっ!」リンダは何かを思い出したように、慌てて部屋から飛び出してきた。階段で転びそうになりながら。

「ちょっと待って」彼女は飛び出してきて、靴を履こうとしている俺を呼び止めた。

 振り返り、息を切らしている彼女を見る。さっきは料理にばかり気を取られていたが、今になってようやく彼女の服装に気づいた。

 丈の長い、白いシャツ一枚。

「……なんでズボン履いてないんだ」

「な、何よ、分かってないわね!これって『下衣失踪かいしっそう』ファッションって言うの。本でしか見たことないけど……」最後の部分を小声で言った。

(いや、そういう問題じゃねぇだろ……)

 俺が彼女の下半身に目をやると、彼女は慌てて手で隠そうとする。隠せてないが。

「な、どこ見てるのよ?このエロ狼!」

 その時、蔡さんは隣で隠れてくすくす笑っている。

「それで、何の用だ」

「他に何があるっていうの、もちろんご飯でしょ」

 俺は声を出さず、ただ視線を隣にいる蔡さんに向けた。

 蔡さんは俺の視線に気づき、何かを察したようだ。

「あらあら〜、妃鶴、そういう風に人にお願いするのはダメよ」

 は?

「はぁ?なんで彼にお願いしてることになってるのよ」

「とにかく、そういうのはダメ。もう一度ちゃんと言いなさい」

「わ、私……」リンダはうつむいた。「納得いかない」という心の声が、顔全体から駄々洩れている。

 ――なんだか雰囲気が、ますますまずいことに。

「亮……」彼女の声は少し震えていた。

「ん?」

「ここでご飯、食べてから、帰ってもらえませんか……」彼女はうつもいたまま言った。

「……わかった」この雰囲気を早く終わらせるため、俺は再び室内履きを履き、立ち上がった。

「謝罪は?」蔡さんが突然言った。

(この人、悪魔か……!?)

「うっ……」

「おばさん、そこまでしなくても……」これは本当に彼女に酷だし、俺もなんだか申し訳ない……。

「ごめんなさい。さっきは、あんな言い方して」彼女は白いシャツの裾をぎゅっと掴んだ。

「許して……くれる?」そう言うと、彼女は顔を上げて俺を見た。目の縁には、涙が数滴光っていた。

「い、いいんだよ。というか、俺が悪かったんだ」

「あなたは悪くない……全部私のせいで……あなたに迷惑かけちゃって……」眼差しは、とても真剣だった。

(おいおい、なんでこうなるんだ。これじゃどう返せばいいんだよ……)

「あはは、とりあえず飯にしよう」そう言うと、俺は彼女の手を引いて食堂へ向かった。

 食堂では、俺たちはそれぞれ自分のご飯を食べ、誰も口を開かなかった。

 気まずい。さっきあんなことがあったんだ、当然だ。

「あのさ!……さっきは、本当にありがとう」彼女は食べる手を止め、小声で言った。

「……別に。あの場面には、俺も長居したくなかったしな」何しろ、あいつは泣きそうだったんだ。

 泣きそうな女の子を相手にするのは、一番苦手だ。

「さっき……何か聞こえた?」

「何かって、何がだ?」

「さっき私がキッチンで……なんでもない」

 ――キッチンで言った告白まがいの言葉のことだろうな……。

 蔡さんは俺たちの会話が途切れたのを見ると、何気なく尋ねてきた。

「そうだ、亮くん。前から気になってたんだけど、どうしてご両親についてここに来たの?」

 どうして……。

「あの頃、両親が二人ともここに来ることになって、僕を日本に残していくと、面倒を見る人がいなかったからです」

 まだ日本にいた頃は、楽しかった……のだろうか。あまり覚えていない。あそこには友達もいたような気がする。別れる時、そいつはひどく泣いていた。

 今思うと、懐かしいな……。

 確か父さんは、どこか大企業の社員で、急にここへ引っ越すことになったんだ。

「じゃあ、お父さんはどうしてあんなことに?」蔡さんは追及した。

「ママ……」リンダは止めようとしたが、俺が遮った。

「たぶん……全部、僕のせいです……」

 以前マレーシアに来た時、ここに島があるのを見て、どういうわけか、この島をどうしても見てみたくなった。

 父さんが亡くなった日は、ちょうど俺の誕生日だった。父さんにプレゼントは何がいいかと聞かれ、ここを見に来たいと言い出した。父さんはすぐに連れて出発して、それで……

「母さんも、きっとそのせいで俺を嫌ってるんだと思います……」

「亮……」リンダの声には、同情の色が混じっていた。

 ……。

「ごちそうさまでした」そう言うと、俺は自発的に食器を洗い場へ持っていった。

 この習慣は、リンダの家に来始めた頃からだ。もう、ここを自分の家のように思っているのかもしれない……。

 蔡さんは自分の分を食べ終えると、食器を俺に渡し、自分は休憩しに行った。

 ――どうやら俺は、 彼女の中ではもう食洗機らしいな。

 リンダは食べ終えると、俺と一緒に皿を洗いに来た。

「亮、さっきはごめんね。母はああいう話を聞くのが本当に好きだから、それで……」リンダは寄りかかってきて言った。

「いいんだよ、お前が謝ることじゃない」

 リンダはずっと謝ってばかりだ。正直、もうどう接すればいいか分からなくなってきた。

 父親の影響で、リンダは昔から人助けが大好きだった。時には空回りして大騒ぎになることもあるが、一生懸命なのは変わらない。

 だが、その習慣を植え付けたその人は、彼女たち母娘を捨てた。リンダが物心つく前に、一人でこの国を去ったのだ。奇妙な話だが、リンダはもうそのことを気にしていないようだった。

「あ……」リンダは水に触れると、さっと手を引っ込めた。

「皿は置いとけ。俺が洗ってやる」

「だめ。自分で食べたお皿は、自分で洗わなきゃ」そう言うと、彼女は自分の皿を洗い続けた。

「痛っ……」だが、すぐにまた傷に触れてしまった。

「……ったく」

 俺は彼女の手から皿を取り上げ、流し台に入れると、彼女の手を引いて食卓へ連れて行った。

「まず座って休んでろ」

「え!?」彼女は驚いて俺を見た。

 俺は手慣れた様子で戸棚のドアを開ける。普通なら、いざという時のために、中には救急箱が備え付けてあるはずだ。

「おかしいな、確かここに置いてあったはずなのに……」 今回は、中には何もなかった。

「どうしたの?」

「ここの救急箱は?」

「救急箱……ああ、うちにはそんなものないわよ」

 俺の記憶違いか……。

「普通は一つくらい備えてあるだろ」

「今じゃ救急箱なんて贅沢品よ。いろんな所で品切れなんだから」

 そういえば……確かにそうだ。

 この物資不足の時代、救急箱でさえも貴重品だ。

 周りを見渡し、戸棚の上の布切れを見つけた。比較的きれいなものを取り、少し水に濡らして固く絞ると、リンダの指にそっと巻き付けてやった。

「……これでよし」

「え?あ、うん……」彼女の目は大きく見開かれ、口はわずかに開いたまま、一瞬、何を言うべきか忘れてしまったようだ。

「どうした?」

「ううん……」

 皿洗いを続け、彼女は後ろでそれを見ていた。

 皿を洗い終えてすぐ、雨が止んだ。

「雨、止んだね。今から行く?」

「やめておこう。もう遅いし、明日また行けばいい」俺が言うと、彼女は少しがっかりしたように見えた。

「そっか〜」

 彼女は窓の外へ顔を向け、何かを考えているようだ。俺は再び帰る準備をした。

「それじゃ、俺……」

「うん。今日は、家に泊まっていきなよ」

「……は?」

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